2008年10月 9日 (木)

番外・テレビ出演宣伝

特報!というか宣伝

私、ハリー教授こと阿南東也(あなみはるや)が、地上波全国ネットで、「本業で」テレビ出演します。1015日水曜日、TBS,毎日放送系夜9時からの新番組、関口宏さん司会「水曜ノンフィクション」、の第一回パイロット2時間特番に、恐らく編集で登場は数分になってしまうでしょうが、とにかく出てきます。シンディのニューアルバムは”Bring Ya to the Brink”でしたが、世界が核戦争の破滅のふち(brink)に追いやられそうになった事件についてチョッと語っています。いつもこの場を借りてこんなことを書いている奴はいったいどんな奴なのか興味のある方、お暇の方はぜひどうぞ。

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2008年9月 5日 (金)

All Summer Long

Rock N Roll Jesus Little Deuce Coupe/All Summer Long

 ビーチボーイズにもこういうアルバムがありましたね。

もう9月、日付的には夏は終わった感じですが。

夏は長い休みもあって、開放的になれる、一番せいか、音楽を楽しめる季節かもしれません。その夏のBGM、それがその時期に一番ヒットしていてラジオでいっぱいかかっていたものか、きわめて個人的に好きだったものかにかかわらず、その夏のテーマ曲、BGMみたいなものがあるはずです。

僕にとっての08年の夏は、その名もずばり、この曲でした。キッドロックの久しぶりのニューシングル。夏を過ぎてもまだまだアメリカのチャート上位に食い込んでいそうです。

ひと夏のテーマを超えて、今年度アナミー賞最優秀楽曲を既に狙える位置にある!

826日のベストヒット、カウントダウンUSA7位に入っていたということで丸々かかりました。

実は小生、番組にこの曲のリクエストをしつこく出していたので、採用されたのだと思っています。克也さん、杉田さん、川岸さん、番場さん、ありがとうございました!

この曲は遊び心いっぱい、クラシックロックファンの心をくすぐります。

サビの部分ではレイナード・スキナード「スィートホーム・アラバマ」のイントロのギターのリフ、間奏のピアノソロのフレーズ、歌詞の一部も出てきたりします。

Second Helping

そして曲全体に流れるのはウォーレン・ジヴォンの78年の中ヒット「ロンドンの狼男」”Werewolves of London”のピアノのフレーズがサンプリングされています。Genius: The Best of Warren Zevon

レイナード・スキナードのことは書いたことがあるので、このウォーレン・ジヴォンという人に関する徒然を。あまり知られていない人でしょうから。

70年代後半のシンガーソングライター、ウエストコーストのブームの一翼を担った人。リンダ・ロンシュタット周辺の音楽版「カリフォルニア・マフィア」(この言い方には政治版がある)の一人といっていいでしょう。

ただし、イーグルスやリンダに代表される西海岸のさわやかなイメージとは異なり、彼の極、アルバムは暗く、皮肉に満ちていました。

曲に登場するのは麻薬中毒者、気の狂った兵士、大量殺人犯、強欲弁護士、そして狼男みたいな妖怪。

詞に描かれる皮肉な世界観、ちょっとやる気のなさそうな歌い方など、ランディ・ニューマンに近い感じでした。

それでも、才能は注目される。

リンダはヒット曲もカバーばかりで、アルバムカットでは西海岸の無名作曲家の曲を積極的に取り上げ、多くを世に送り出しました。J.D.サウザー、カーラ・ボノフ、アンドリュー・ゴールド、エリック・カズ、他諸々。ウォーレンもそんな中の一人でした。

60年代から無名グループで音楽活動を始め、ぜんぜん売れませんでしたが、そんな時代の彼の作品”He Quit Me, Man”が映画「真夜中のカウボーイ」のサウンドトラックに使われて少し注目されました。

Warren Zevon

その程度の中途半端な音楽活動に嫌気が差したのか、70年代初めにはスペインに移住していましたが、彼を埋もれさせておくのは惜しいと考えたのが、「カリフォルニア・マフィア」の総元締めジャクソン・ブラウン。彼をロサンゼルスに呼び戻し、アルバムのプロデュースを買って出ます。76年にセルフタイトルのアルバム Warren Zevon が作られました。

Heart Like a Wheel

このアルバムに収録された「風にさらわれた恋」”Hasten Down the Wind”をリンダが取り上げ、アルバムタイトルにもして、このアルバムからトップ10ヒットが2曲出てリンダもスターの仲間入りをし、ウォーレンにも俄然注目が集まるようになりました。そのアルバムには他にも「カルメリータ」「モハメッドのラジオ」というウォーレンの曲が収録されました。

The Very Best of Linda Ronstadt

その次の、リンダの最大ヒットアルバムとなる78年の”Simple Dreams”には「私はついてない」”Poor Poor Pitiful Me”というウォーレンの曲が収められ、三枚目のシングルカット曲に選ばれ、トップ40ヒットになりました。それとまったく同じ時期に、やはりジャクソン・ブラウンのプロデュースによるウォーレンの二枚目のアルバム”Excitable Boy”も発表され、その中から「ロンドンの狼男」がシングルカットされ、やはりトップ40に入りました。

Excitable Boy

映画「サタデーナイトフィーヴァー」の全盛期で、ウォーレンはアルバムのプロモーションのためのライヴの最中に、ジョン・トラヴォルタのダンスの真似をしてずっこけて骨折してそのあとのライヴのスケジュールがキャンセルになった、なんてあほなエピソードも残してしまいました。

でもウォーレンが商業的に成功したのはこれが最初で最後となってしまいました。その後、麻薬中毒になってしまい、作品を発表するペースも落ちてしまいますが、90年代末まで活動し、REMなどからリスペクトを受けレコーディングのバックにメンバーが参加するなどの交流がありました。

ウォーレン・ジヴォンでもう一つ思い出すのは、1991年の映画、ケヴィン・クライン、ダニー・グローヴァー、スティーヴ・マーティンなどが出演し、”Grand Canyon”邦題「わが街」。犯罪と荒廃にむしばまれた大都会ロサンゼルスに生きる6人の男女の生活が描かれ、最後に登場人物全員が導かれるようにグランドキャニオンに集まり、大自然の中での自分たちの存在の小ささを再認識する、そういった映画でした。

その中で主演のケヴィン・クライン演じるうだつの上がらない男が、交通渋滞に巻き込まれている最中に、カーラジオからウォーレンの”Lawyers, Guns and Money”「弁護士と銃と金」という曲が流れてきて、ケヴィンがハンドルを握りながら一緒に口ずさむ、というシーンが出てきます。

この曲はシングルヒットは全然していない、知る人ぞ知る程度のアルバムカット曲。それでも西海岸のロック局を聴いている人は普通の人でも歌えちゃうのだなあ、と思わせるシーンでした。

ウォーレン・ジヴォン、20038月、肺癌のため帰らぬ人となりました。享年56

まあとにかく、「ロンドンの狼男」と「スィートホーム・アラバマ」のフレーズがぴったりと合ってしまうことを発見したキッドロックのセンスに脱帽!

わが街 [DVD]

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2008年8月20日 (水)

Still The One

シャナイヤ・トゥエインではありません。

前回も書いたように、私が東京ローカルの小林克也番組を聴ける機会があと半年で奪われてしまうかもしれないので、できるだけラジオ番組からネタを拾っていきたいと思います。

816日(プレスリーの命日でマドンナの誕生日でしたねえ)オンエアのDJ KOBYの、アメリカ大統領選挙と音楽AKA音楽の民主党大会、特集。

私の本職の専門に近いこともあり、ちょっとフォローをしておきます。

音楽界は圧倒的に民主党支持が多い。

ザ・ヴェリー・ベスト・オブ・シェリル・クロウ

民主党大会に参加予定のアーティストとしてシェリル・クロウが挙げられていましたが、もう一人、絶対に党大会に参加する、マイナーな人を紹介したいと思います。

というか、この人は音楽活動は細々と続けている程度、ミュージシャンとしての参加という位置づけではないでしょう。

しかし、70年代には名を馳せた人です。

ジョン・ホール。

70年代にオーリンズというグループのリーダーとして活躍した人です。

Let There Be Music / Waking & Dreaming

代表的なヒット曲もいくつかあり、今でもよくコンピレに選曲される75年の”Dance with Me”とか。この曲はジャズ・ギターのアール・クルーのカバーでもおなじみだと思います。あと79年の”Love Takes Time”とか(これも、マライヤではありません)。ソングライターとしてもシールズ&クロフツなどに曲を提供していました。

DANCE WITH ME - The Best of Orleans

最大のヒットは、76年の”Still the One”でした(こう並べてみると、タイトルは平凡なものばかり)。

ホールはメリーランド州の生まれ。ニューヨークを中心に東海岸で活躍したグループですが、当時全盛だったウエストコースとロックの波に乗っていました。

そしてホールは、グループ活動と並行してソロ活動も精力的で、更にはその西海岸の連中との社会、政治運動にも熱心に参加します。

ハイライトは、79年、核兵器廃絶、原子力発電反対を訴えるためのNo Nukes。会場はマディソン・スクエア・ガーデンでしたが、中心はドゥービー・ブラザーズ、ジャクソン・ブラウン、ポコ、クロスビー・スティルズ&ナッシュ、ボニー・レイット、ニコレット・ラーソンなどの西海岸の人たち、これに、ブルース・スプリングスティーン、ジェームス・テイラー、カーリー・サイモン、トム・ペティその他大勢が加わり、ウッドストック以来の最大の音楽イベントと言われました。

これにホールはソロの「パワー」と「プルトニウムは永遠だ」という二曲を演奏して参加していました。

このように、ミュージシャンの全盛期から政治社会問題に強い関心を持っていた人でした。

そのさっきの最大のヒット曲”Still the One”が再び脚光を浴びたのは前回の2004年大統領選挙の時。ブッシュ大統領が再選へのキャンペーンソングとしてその曲を使おうとしたんです。

「君はいまだに信頼できる、たった一人のひと、

 君はいまだに僕を飽きずにいさせる、たった一人のひと。。。」

再選に向けてのスローガンとしてはぴったりの内容の歌詞だったわけで、ブッシュ陣営が使いたがったのもよくわかるのですが。

作者のホールはこれを許可せず、ブッシュ陣営もキャンペーンの途中でこの曲を使用リストから外しました。

そしてその次の議会選挙の06年、ホール自身がニューヨーク州第19選挙区から、対立党の民主党から立候補、見事当選を果たしました。

自ら政治家に転身して議員一期生、やはりエネルギーに関する問題で最も活躍したようです。

その政治が本職となった彼、音楽もそこそこ続けていると書きましたが、例えばジャクソン・ブラウンがニューヨークでライブをした際にはゲスト出演して何曲か一緒に演ったようです。

下院議員ジョン・ホールは、superdelegate 特別代議員、すなわち、党大会で大統領候補に投票するために予備選挙で選出された一般の代議員とは別に、連邦議員や州知事など、現職の政治家が大統領候補選出に特別票を投じられる、その立場で党大会に参加するはずです。

でも演奏はしないんでしょうね。シェリル・クロウが来るなら一緒にステージに上がる可能性無きにしも非ずですが。

今年はご存知のように民主党の予備選挙は稀に見る接戦、対立候補に敬意を表し、代議員獲得数で次点だったヒラリー・クリントンも大統領候補の投票対象として残されることが決まりました。

ホールは、同じニューヨーク選出、06年には再選を目指したヒラリー上院議員とキャンペーンで一緒になったこともよくあり、エネルギー問題での立場が同じであることからも、ヒラリーに票を入れるのではないでしょうか。

さて、目を転じて共和党側。

DJ Koby内でもあったように、かつて1984年にレーガン大統領はブルース・スプリングスティーンに “Born in the USA”の使用を断られたり、今年のマケインは “Johnny B. Goode”の使用をチャック・ベリーから断られたり、また「当選後はホワイトハウスではABBAの音楽を流したい」発言に対しても元メンバーたちが懸念を表明しているようです。更には、既に何度か出てきたジャクソン・ブラウンまでも、マケイン陣営が彼のヒット曲”Running on Empty”を使用するのを差し止めたそうです。

Running on Empty

踏んだり蹴ったり。

では、共和党側を断らない音楽とは何でしょう?

Ultimate Survivor

「ロッキー3」のテーマ、Survivor “Eye of the Tiger”.これは予備選以前では本命視されながらも早期撤退した前ニューヨーク市長ジュリアーニ氏も、そしてマケインも使っていました。これは断られていないんでしょうね。

あと、ディクシー・チックスの対極にいたトビー・キースも断らないんじゃないかな。

Osmondmania! Osmond Family Greatest Hits

それから、オズモンズ。

あの家はモルモン教徒一家なんですね。

共和党の予備選挙で善戦したロムニー前マサチューセッツ州知事がモルモン教徒だったように、モルモン教徒は保守的で共和党の地盤のイメージが強い。

04年大統領選挙の直前に、モルモン教の総本山のユタ州の大学に、ブッシュの天敵、マイケル・ムーアが講演に行くことになり、その日に至るまでの顛末、町民の反対運動、そのまた反対運動、の様子をドキュメンタリーした「マイケル・ムーアのアホでマヌケな大統領選」という映画がありました。DVDでぜひどうぞ。

かつては一夫多妻制をとっていて迫害を受けていたものの、清廉なイメージもある。婚前交渉も認められない。

「マリー・オズモンドのLPレコードをターンテーブルに乗せようとしたら、なかなか穴がはまらなくて。無理やりはめたら、血が滲み出てきた」なんて、卑猥で、笑っていいんだか悪いんだかわからないジョークも昔ありました。

オズモンズ、レーガン大統領の就任式では大活躍でした。マケインも使ってはいかが?ABBAあたりがお好きなら丁度いいのでは?

いや、マケインは共和党内でも中道やや左で党内の保守派とはうまく行っていないようだから、逆にオズモンズあたりには嫌われているのかな?

さて、11月にはどちらが勝つでしょう。

予想はしません。結果が出てからその理由を説明するのが学者の仕事ですから(と、狡い逃げをする)。

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2008年8月 7日 (木)

Video Kills a Radio Star

The Age of Plastic

  何をいまさらこの曲を、という感じですが。

 またこの曲を思い出してしまう出来事がありました。

 MTVの開局第一発目を飾ったあの曲。

 音楽と映像が融合する時代の幕開けを象徴したような曲でありました。

 それからおよそ四半世紀、音楽にビデオが付いてくるのは当たり前、でも、ラジオという昔ながらのメディアは残っている。

 それでも、様々な技術が発達し、同じ機能を果たすはずのメディアも複数の方向に枝分かれし、その中で競合が生じ、適者生存、広く受け入れられたものは興隆し、それに失敗したものは消えていく。

 「せっかくのハイビジョンなのにブルーレイ使ってないの?もったいない。ヤザワ、ブルーレイ使ってます」

 次世代DVDの規格争いでHD-DVD方式が敗北を認めて撤退し、ソニーが中心に推進したブルーレイ方式が標準規格化して、これからの目玉として注目されるに至った、というのは記憶に新しい。

 旧型(?)の4.7GBのメディアに十分満足している私の目には、次世代DVDを巡る争いは醜く映り、泥仕合になって消費者から見捨てられて両方とも潰れてしまえ、と思っていたのですが。そうはならないようです。

 しかし、ブルーレイといっても、これから高画質映像の配信、保存方法がディスクだけに一元化されず、多様化してくるとの予想があり、うかうかもしていられないようです。

 現在、音楽CDソフトが有料配信のために苦戦しているように。

 そして今週、マイナーなニュースですが、私にとってはショックな情報が飛び込んできました。これも一つのメディアの消滅です。

 通信衛星ラジオ放送 モバHo! が来年3月でサービスを全面停止してしまうという。

 スカパー!のラジオ版といったところでしたか。「ラジオ局を持ち運ぼう」をキャッチフレーズに、テレビ放送も若干扱っていましたが、ラジオに限っていえば、目的や音楽のジャンルに特化したチャンネルが50くらい、USENのように固定した場所ではなくモバイルで持ち運べる、日本全国どこでも同じ放送が聴ける、が売りのサービスでした。

 開始が200410月。

 私はこれの受信機能を持つ携帯電話に買い換えて以来14ヶ月お付き合い。

 しかし、その受信契約に踏み切ったひとつの大きな理由であった「小林克也チャンネル」がその3ヵ月後、077月に消滅してしまった。

 そして今回の決定。

 開始からわずか5年での完全撤退。

 当初は加入契約者数200万人を目指していたのが、現時点で10万人に留まってしまっているという。小生はその希少な10万人のうちの一人というわけですな。

 伸び悩んだ最大の原因は、ワンセグとの競合であったという。

もうケータイの標準装備機能となりつつあるワンセグ。

駅のフォームに腰掛けてテレビを見ている人の姿が珍しくなくなりました。

 僕自身は、あんな小さな画面でテレビを見て面白いのかなあと思っていて、ケータイには備え付けてはありませんが、それでもどこにでも持ち歩いているB5ノートパソコンには入れてあって、移動中、出張中でも見られるようにしてあります。

 そのワンセグの強みは、無料であること。それに対して受信料が発生するモバHoは圧倒されてしまったという。

 それに、「ラジオ局を持ち歩こう」といって、ドライヴ中のBGMとしての需要を見込んでいたようだが、それもCDオーディオシステムや、iPodから無線でカーオーディオに飛ばせる機能が搭載されていれば、それに取って代わる要素も持っていなかった、ということなのだろう。

 しかし、ちょっと待ってくれ。

 何かがなくなる際に必ずある議論であるが、たとえ少数であるにせよ、それに特別な価値を見出して利用しているユーザーが必ずいる。

 モバHoとワンセグが競合したのは、アウトドアでの暇潰し(?)映像メディア視聴という点のみであり、提供していたコンテンツはまったく別物であったはずである。

 かく言う私は、TFMJ-Waveが名古屋にいながら聴けることが最大の利用目的であった。そういった、自分が住んでいる地域の地上波では聴けない局が聴けることを喜んで利用していたユーザーは少なくないのではないだろうか。

 克也さんが名古屋を去った後、この連載のネタ探しに七転八倒している私としては、東京ローカルの番組が聴けるこのサービスは救いの神だったのだ(その割にはあまりネタにしていなかったような気もするが)。

 それがまた元の木阿弥に戻ってしまう。

 「小林克也チャンネル」が無くなったあたりから雲行きが怪しくなっていたのをなんとなく感じていたのですが。

 メディアに限らず、マクロの市場原理で淘汰される消費財の特殊機能に依存していた少数派が切り捨てられるのは世の常とはわかりつつ。

 映像メディア=Videoが、また、音声メディア=Radio を殺した。

 来年の春まで、USENを含めて、ほかに東京のラジオ局が聴取できるサービスがないか、いろいろ探っていくしかないようだ。

 その前に来年3月までのDJ Koby’Radio Showと「ポップ・ミュージック・マスター」は聞き逃さないようにしよう。

 克也さん、大橋さん、首都圏以外からリクエストが来ていたら、できるだけ採用してやってくださ100_0001いね。

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2008年7月16日 (水)

When Will I See You Again?

ライブリポートに戻ります。

今回はスリー・ディグリーズ。

うわあ、我ながら古いー。

ひょっとしたら、私の母親よりほんのちょっと若いくらいかもしれない。

そんなオバサン三人組。

1970年代に一世を風靡したフィラデルフィア・ソウルの看板、当時は「三人娘」。

モータウンにとってのスプリームスに匹敵する存在だったといえます。

克也さんもフィリー・サウンドには色々と思い入れをお持ちのようで。

少し前になりますが、5月のDJ KOBYでその薀蓄を語られていますから、それをチラチラと眺めつつみていきましょう。

例によって食事つきの小さなライヴハウスです。

現在のメンバーは、(ステージで並んでいた順、左から)ヴァレリー・ホリディ、ヘレン・スコット、シンシア・ギャリソンの三人。1963年結成時からのオリジナルメンバーは一人もいません。最古参は67年からのヘレンですが、66年から76年に中抜けして、丁度最盛期を逃しています。最盛期から現在までその座を守り続けているのは67年加入のヴァレリーのみ。シンシアは新加入です。

フィラデルフィアの作品を中心としながらも、モータウン、ディスコの定番も取り入れて、70年代のソウル、ディスコをみんなで懐かしむパーティ、そんな感じでした。年齢を20歳サバを読むような、胸の開いたドレスで三人の登場。

1、 I Love Music

克也さんが仰っていたとおり、ファンには言わずもがなですが、70年代のフィラデルフィア・ソウルにはケネス・ギャンブル&レオン・ハフというコンビのキーパーソンがいました。ニューヨークで量産されるソウルに疑問を持ちフィラデルフィアにやってきてフィラデルフィア・インターナショナル・レコードを立ち上げ経営し、自らもプロデューサー、作者となり、傘下アーティストに歌わせてヒット曲を量産する。

The Essential O'Jays

 スリー・ディグリーズは女性の看板ですが、その男性版の代表格がO’JAYsではなかったでしょうか。もともとオハイオ州出身(O’JayとはオハイオのDJ,そう名乗っていた有名なDJがいてそこから名前を頂いたらしい)、エドワード・ルバート(「カサノヴァ」のヒットがあるジェラルド・ルバート、やはりR&Bシンガーだったショーン・ルバートのお父さん。この二人の子供に先立たれている)を中心に結成され、フィラデルフィアに移って大成功した。これはオージェイズの全盛からやや後期の76年のヒット曲で、フィラデルフィア・ソウルそのものの全盛期にはコーラス、ストリングスが美しいバラードが多かったギャンブル&ハフ作品でしたが、70年代後半になるとディスコを相当意識するようになり、この曲もディスコブームに乗って大ヒットしました。それを女性コーラスの看板スリー・ディグリーズが。。。今にして思えばこのショーの全体像を象徴していたような幕開けでした。

2、 Take Good Care of Myself

3、 Woman in Love

この二曲あたりは、後に出てくる「天使のささやき」「荒野のならず者」に次いで、ファンにはよく知られている彼女らのレパートリーです。

4、 Marvin Gaye Medley

Your Precious Love~Sexual Healing~What’s Going On?~Mercy Mercy Me~

Let’s Get It On

ここでモータウンというか、マーヴィン・ゲイへのリスペクトを表したパートで、60年代のタミ・テレルとのデュエットの名曲、70年代の代表曲、非業の死の直前の「セクシャル…」まで。

The Marvin Gaye Collection

それが終わったら、バンドメンバーの紹介、そして、聴衆に向って「独身の女の人いる?だったらドラムのXXがお嫁さん募集中よ。独身の男の人いる?だったらシンシアがお婿さん募集中よ。独身でも既婚でも、男はみんな『エッチ!(日本語で)』」とMCがあって

5、 Dirty Ol’ Man

そう、「荒野のならず者」という邦題で日本のディスコで大ヒットした曲で、確かに西部劇を連想させる壮大さはあるのですが、内容は全然関係ありません。直訳すれば、「このスケベジジイ!」ですね。彼女らを日本で有名にした73年のヒット。

6、 「にがい涙」

  克也さんも仰っていましたが。

  後でも書くことになると思いますが、スリー・ディグリーズはアメリカで人気が落ちたあとも日本では高い人気を保ち、日本のファン向けに日本語で録音もしちゃって、シングルでちょっとヒットした演歌みたいな曲もあるんです。筒美京平さん作曲。  

7、 Philly Medley

  The Love I Lost~Ain't No Stoppin’ Us Now~If You Don’t Know Me By Now~ Together

   小生が勝手にPhilly メドレーと名付けましたが、中にHarold Melvin & the Bluenotesのヒット曲が二つ入っています。フィリー・サウンドの男性側のもう一翼を担った人たち。”The Love I Lost”74年の、そしてシンプリー・レッドのカバーでもお馴染みの”If You Don’t Know Me…”73年の、ともにギャンブル&ハフのペンによる。

    間に挟まった”Ain’t No…”79年の McFadden & Whiteheadのディスコヒット。マクファデン&ホワイトヘッドは、ギャンブル&ハフに次いでフィリー・サウンドを担ったソングライターコンビでした。ギャンブル&ハフが美しい軽めのナンバーが中心だったのに対し、このマクファデン&ホワイトヘッドは骨太、やや暗め、社会的なメッセージもこめた、モータウンのノーマン・ホィットフィールドあたりに影響を受けたような曲を書いています。オージェイズ”Backstabbers「裏切り者のテーマ」、ハロルド・メルヴィン&ブルーノーツ”Wake Up Everybody”など。この “Ain’t No…”も本当はハロルド・メルヴィン&ブルーノーツに演らせるつもりで書いたけれど、渋いバリトンヴォーカルのテディ・ペンダーグラスが辞めちゃったから(ハロルド…は、アメリカ版「内山田洋とクールファイヴ」「敏いとうとハッピー&ブルー」だったんです(笑)。グループ名に冠されているリーダーが最も有名なメンバーでも、リードヴォーカルでもなかった)、曲の良さが出ないので自分たちで歌った、という。

The Best of Harold Melvin and the Bluenotes Ain't No Stoppin' Us Now: Best of the Pie Years Greatest Hits

   Togetherは、まだフィラデルフィア・インターナショナルを立ち上げる前の67年、ギャンブル&ハフがイントルーダーズに提供した曲。82年にブラウン・アイド・ソウル(ラテン系アメリカ人が演るR&B)のティエラというグループがカバーして再ヒットしました。この曲、大好きなんです。意外なところで突然聴けて嬉しかった。

8        Disco Inferno

そろそろ佳境に入りダンスパーティの様相を呈し、聴衆に立ち上がれと促します。曲はサタデーナイトフィーヴァーのサントラにも入っていて大ヒットした。ディスコの定番。映画「タワーリング・インフェルノ」にインスパイアされた、ディスコを火事の高層ビルに例えた曲。オリジナルを演っていたのはトランプス。彼らもフィラデルフィアのグループだったのですが、結局彼ららしくないこのディスコナンバーが代表曲となってしまいました。

The Best of the Trammps

9        Love Train~TSOP

ギャンブル&ハフにとっても、オージェイズにとっても代表作の一つでしょう。73年のナンバー1ヒット。電車で世界中の町、国を繋いで愛を広める。

そして、フィリー・サウンドといえば、ダリル・ホールも参加したかったけど適わなかった、これら多くのヒット曲全てのバックを勤めたオーケストラがあり、彼ら自身もMFSB(Mother Fucker Son of a Bitch? Mothers Fathers Sisters Brothers? 笑)と名乗ってインスト・レコードを何枚か出しています。そしてこのTSOP, The Sound of Philadelphia が、当時のソウル専門テレビ番組「ソウルトレイン」のテーマにも使われ、ナンバー1ヒットになりました。スリー・ディグリーズも曲終わりのコーラスで参加していました。TSOPのリフを延々と続け、彼女たちはいったん舞台裏に引っ込み、また出てきます。

Love Is the Message: The Best of MFSB

10    When Will I See You Again

そしてアンコールは、彼女たちの代表曲「天使のささやき」。コーラスが綺麗な曲です。日本では、70年代から80年代にかけて赤坂局が毎年やっていた「東京音楽祭」の、第74年度最優秀楽曲賞を受賞し、彼女らの日本での人気を不動のものにし、その後アメリカ、世界各地で火が付いた、という曲です。美しい天使のコーラスは健在?

この曲でまた引っ込んで、また出てきて、アンコール2曲目でやったのはなんと

11    Boogie Wonderland

  アース、ウィンド&ファイアのあの曲でした。もう30年たてばなんでも一緒なのか?

この曲はレコードでは、やはり女性三人組のエモーションズがフィーチャーされていて重要な部分を歌っていたので、スリー・ディグリーズとしても歌いやすかったのでしょう。無理やり総立ちにさせて躍らせて、ディスコパーティーは終わりました。

ベスト・オブ・エモーションズ

「今度はいつ会えるの?」って、また秋に来日するみたいです。いかがですか。

Three_degrees

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2008年7月 4日 (金)

I Go Crazy

このコラム、ここから消えてしまったバックナンバーを集めて保存している「小林克也のRADIOBAKA・期限切れ遺失物移管所」ですが。

 お蔭様で、毎日、それなりのアクセス数を頂いております。色々な話題に触れているせいでしょう。何かのキーワードを検索にかけると何かしら引っかかることが多いようで。それでそのページだけを訪れて去っていくイチゲンさんたちばかりのようです。

ちょっと前まで「バラク・オバマ」と検索したらかなり上の方に出てきた時期がありそれでアクセスしてくださった方も多かったのですが、もはや時の人。オバマに関して書いてあるサイトも腐るほどあり、もう全然ですね。

必要な情報だけピンポイントで得られればいいというのはネット検索の本質で、長い文章を読むのは面倒でしょうが、読んだら読んだで、面白い、勉強になる、と好評ですので、お時間があればぜひよろしく。

 その「遺失物移管所」のアクセスが6月頭前後に急増しました。

 原因は「ボー・ディドリー」を検索する人が急に増えたこと。

 62日、80歳の生涯を閉じました。

 以前、U2の「ディザイア」がベストヒットでかかったことで、その曲のリズムの発明者であるボー・ディドリーの特集記事を書き、そのリズムを使ったヒット曲のリストがあるもんだから重宝されて、あの「2ちゃんねる」に初めてリンクが貼られたり。

 たとえば今だったらKTタンストールなんかがすごくリスペクトしている人。彼が編み出したビートがその後のロックに与えた影響は計り知れない、とはその記事に書いた通り。

 大往生でした。合掌。

 さて、これも書こう書こうと思っていてついつい遅れてしまった話題ですが、これまた先頃亡くなったアーティストについての徒然を。

 その人は、ポール・デーヴィス。422日逝去。享年60歳。

 地味な人ですが。70年代のヒットチャートファンには忘れられない人なんです。

 60年代末期から活動を始め、カントリーとポップを行ったり来たりしていた人。

 一躍ブレイクしたのが1977年。

Sweet Life: His Greatest Hit Singles

 “I Go Crazy”という、初めてのトップ10ヒットが生まれました。

 地味な曲調ですが、カントリーとはいえない、ゆったりしたスローテンポ、ピアノが全篇に流れるようなバラード。

 ところがこの曲、ビルボード誌のHOT 100のチャートに入って、トップ10に入るまで半年もかかったんです。

 そしてそれを含めて、HOT100内に78年まで40週間留まり、これはその時点での新記録だと騒がれました。それ以前は50年代のエンターテイメントスター、ジョニー・マティスの”Wonderful, Wonderful”という曲が39週入っていたというのが記録で、20年ぶりくらいの記録更新だったんです。だからヒットチャートファンには好まれるわけです。

Non-Stop Erotic Cabaret

 ちなみにこの記録は、83年にソフトセルの”Tainted Love”「汚れなき愛」(意味が全く正反対の誤訳邦題)が43週間Hot 100内チャートインするまで保持されます。

Greatest Hits

 現在では2000年代に入ってからの、リーアン・ライムズ “How Do I Live?”69週間チャートインしていたというのが最長記録になっています。

 集計方法が違ってきていますから、単純に並べることはできないんですけれどね。7080年代前半はシングルレコードの売り上げ枚数が加味されていた度合いが大きかったのですが、現在ではそのシングルという概念そのものが絶滅危惧種扱いですからね。時が経つに連れラジオのエアプレイ回数により比重が置かれるようになっています。

 さて、ポール・デーヴィスに話を戻しますが。

 もう一つ、この”I Go Crazy”が日本のポップスファンの間で神話を持つようになった要素は、そのヒットしていた最中に、日本でのレコード発売がなかった、ということ。

 当時このレコードは Bang Recordsという弱小レーベルから出ており、これが日本のレコード会社のいずれとも契約がなかったため、日本でのレコードが出なかった。輸入盤で入手するしかなかったんです。

 78年当時、輸入盤専門店として「タワーレコード」日本第一号店が渋谷宇田川町、NHK近くにできたばかり、その少し近くに「シスコ」という小さなお店があり、渋谷が洋楽ファンの「聖地」とされていた頃で、輸入盤そのものが安価だったとしてもまだ珍しかった時代でした。

Greatest Hits

 そんな時、自慢するわけではありませんが、僕はどこで買ったかは忘れましたが、その “I Go Crazy”が入っている”Singer of Songs, Teller of Tales”というLPを持っていました。灰色に白抜きで、お爺さんみたいな長髪長髭の彼の横顔が描かれていたジャケットでした。

 そんなわけで「幻の名曲」だったわけです。

 ところが、そんな”I Go Crazy”がある切っ掛けで日本発売され、ブームさえ起こしてしまいます。

 翌々年の80年くらい、現参議院議員、前長野県知事さんのあの人の処女作「なんとなくクリスタル」の中で”I Go Crazy”が取り上げられたこと。

 文学作品としては駄作だったと思いますが、当時のお洒落な恋愛パターンを描いていたあの小説。あのお方はその手のお洒落音楽がかなりお好きで、そのムード作りのBGMの一つとして”I Go Crazy”が取り上げられました。

 既にその頃にはバングレーベルは日本のCBSソニーと契約があり、そのお爺さんみたいなジャケットではお洒落ブームに乗れないということで夜景か何かの絵に差し替えられて発売されました。切っ掛けはどうあれ、お蔵入りの幻の名曲がやっと日の目を見たわけです。

 その後すぐ、バングレーベルは倒産し、ポールは、最近だったらサンタナなんかを復活させているやり手クライヴ・デーヴィスが社長のアリスタレコードに移籍します。

 82年、”Cool Night”, “65 Love Affair”など、明るめのポップス調でトップ10ヒットを連発します。 

 この”65 Love Affair”という曲も、もともとはポールの青春の年代に合わせて”55 Love Affair”というのが原題だったのですが、例によってクライヴ・デーヴィスが「古すぎる」といちゃもんをつけてきたので10年遅らせた、とのこと。

クール・ナイト

 ちょうどベストヒットUSAの創成期にあたりますが、この人がビデオなど作るわけがない。ベストヒットのカウントダウンではこれらの曲のバックには、今度はカラー写真で笑っている、しかし白髪混じり長髪長鬚、鼻毛もはっきり見えそうなドアップ写真のジャケットが動画なしで使われていました。ちなみに、日本発売の際、このジャケットもお洒落な絵に差し替えられました。

 彼は生涯一度も曲のビデオクリップは作らず、映像はわずかなテレビ出演の機会のものが残っているだけのようです。YouTubeでお探しください。

 それ以上に、彼は雑誌インタビューのようなものもほとんど残さなかったようです。孤高の人だったのですね。

 その後、ヒット曲は出なくなりますが、カントリーに戻り地道に活動はしていました。オズモンズのマリー・オズモンドとのデュエットもありました。

 晩年は故郷のミシシッピに戻り、そこで息を引き取りました。

 同様に、奇しくも同じミシシッピ生まれ1973年に”Show and Tell”という全米ナンバー1ヒットを持つサザン・ソウルのアル・ウィルソンも、ポールが逝った翌日の423日に68年の生涯を閉じています。

 ボー・ディドリーのような大物の陰で、渋く地味ながらもある種の人たちにとっては忘れられない人たちも人知れず去っていった、2008年の初夏でした。

 改めて合掌。

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2008年6月15日 (日)

Heat of the Moment (part 2)

また一ヶ月後れのライヴリポート。

 今回はエイジアASIAです。

 これも登場は二回目、と言いますか、一年の前回はジョン・ウェットンとジェフリー・ダウンズが、二人の若いサポートミュージシャンを従えて、こぢんまりとしたライヴハウスで演ったものでした。その折に、先ずジョンとジェフが、自分たちの音楽性が合うことを再確認して意気投合してユニットを結成、「ルビコン」という新作CDも発表した、と書きましたが、その時既にスティーヴ・ハウ、カール・パーマーを加えた、デビュー、全盛期のラインアップでの再結成ツアーが計画されていて、それはその半年後の一年前に実現され、その時既に一度目の来日ツアーが実現していました。

Phoenix

 その後彼らは新作のレコーディングに入り、このオリジナルラインアップとしては1983年、2枚目の ALPHA 以来25年ぶりとなる”Phoenix”「不死鳥」を発表、それを引っさげての再来日列島縦断ツアーとなりました。

 この四人が揃うとやっぱりすごい。ASIA(一枚目)からALPHAに繋がった産業ロックの音に重厚さを加えた音を作ってきた。アルバムジャケットデザインは、不死鳥というより、東洋的な感じで、最近中国で体の形が崩れていない状態の化石が発見され、恐竜から鳥類への進化の証拠となった羽毛恐竜の「中華竜鳥」のレプリカのイメージだなあと思ってしいました。

Astra

 ちなみにその後のエイジアは、先ずスティーヴが脱退し、ウェットンも抜け、それからグレッグ・レイクなど色々プログレの周辺の人たちが出たり入ったりして、90年代にはダウンズ一人になってジョン・ペインを従えてエイジアの名前を守り続けた(更にちなみにそのペインは現在も ASIA feat. John Payne として90年代のエイジアを別の流れで引き継いで活動しており、これも本家対傍流の南北朝状態になっている)のですが、その間 ASTRA, AQUA, AURORA, ARIA, ARENA, AURA, ARCHIVAと、CDタイトルはエイジアにちなんでAに始まってAに終わる単語に拘り続けていました。AporiA (疑念) AmnesiA(健忘症)ArachnophobiA(蜘蛛恐怖症)なんて候補に挙がらなかったのかな。

Alpha  公演日はなんと日曜日だったので、夕方4時半開場5時開演という、まだ陽の光が輝く中でのスタートでした。洒落ていたわけではないでしょうが、一曲目は

Daylight (ALPHA

でした。 

2 Only Time Will Tell (ASIA

でかいドラ、ゴングが付いているカールのドラムの背後には大きなバックスクリーンがあり、コンサートの間中、演奏中のメンバーをクロースアップし、電光を絡めたりして演出をしていましたが、この曲のバックでは、ゴドレイ&クリーム製作の、メンバーが移っているテレビの台の間を器械体操する例のビデオクリップがシンクロされました。

Asia

3 Wildest Dreams (ASIA

ここではそのスクリーンにその「中華竜鳥」のCDジャケットが大写しにされ、スティーヴがニューアルバムの宣伝、それからの曲だよ、ってことで、

4 Never Again (PHOENIX

ジェフリーが、さて、今晩はいくつか特別企画があるよ、我々のエイジア以前の曲もやる、とのMCがあり、先ず最初は

Fragile

5 Roundabout

スティーヴのいた初期のイエスの、72年のヒット曲。コンセプトアルバム作りが中心だったプログレの王道を行っていた彼らにしては珍しいシングルヒット、それでも名曲の誉れが高い。ジョン・アンダーソンのしゃがれた高い声ではなく、ウェットンの低音の野太い声で歌われると拍子抜けしますが。スティーヴも白髪でガリガリになって、少し腕が落ちたかな、アウトロのアコースティックギターでちょっとミスりました。

6Time Again (ASIA)

7 Voice of America(ASTRA)

8 Smile has Left Your Eyes (ALPHA)

彼らにとってたった4曲のトップ40ヒットの最後、最高位37位。またバックにビデオが流れました。彼らがフランス短編映画に音楽を入れている設定で、仲たがいして別れた夫婦の娘が悲しんで、夫の下から連れ去ろうとする母親の車を一人で飛び出し、橋から落ちて死んでしまう悲劇。しかしその娘の実物が彼らの録音スタジオのドアに立っていて、微笑を取り戻す、というストーリー。その短編映画部分が流されました。

9 Ride Easy (AURORA)

10 Open Your Eyes (ALPHA)

The Essential Emerson, Lake & Palmer

11 Fanfare of a Common Man

今度はスティーヴがカールを紹介し、エマーソン、レイク&パーマーのこの曲をやりました。「展覧会の絵」とならぶ、クラシック調プログレインストの名曲でした。もちろんポイントはキーボード、シンセサイザーですが、ジェフリーは例によって2,3台のコンピューターで制御されたキーボードの壁に三法を囲まれて縦横無尽に演奏していましたから、現在の技術でできる最高のカバー、という感じでした。カールの長いドラムソロでも、お得意のスティック空中回転キャッチを何度も披露してました。

11 Without You (ASIA)

12 An Extraordinary Life (Phoenix)

また中華竜鳥のジャケットが大写しになって、ニューアルバムからもう一曲。

In the Court of the Crimson King

13 Court of the Crimson King

 ジェフリーがジョンを紹介し、ジョンが居たキング・クリンゾンの「クリムゾン・キングの宮殿」を演りました。これは本人のヴォーカルでしたから、全く違和感がありませんでした。

The Age of Plastic

14 Video Kills a Radio Star

 ジョンがジェフリーを紹介し、バグルスの、あの曲、を演ってくれました。MTV放送開始の記念すべき第一曲目を飾った、音楽と映像が融合する時代を予見した象徴的な曲。しかしやっぱり、ジェフは一番ポップだ。ポップだと悪口を叩かれるエイジアの一連の曲と並べてもその上を行くポップさ、しかもこれもジョンのヴォーカルでちょっと違和感を感じました。しかしこれが一番受けていた感じ。

15 the Heat Goes On (ALPHA)

16 Heat of the Moment (ASIA)

 そして終わりに近づいてもう一発の盛り上げ、HEAT繋がりの二曲を続けて。最後の”…Moment”では、あの有名な16分割画面がどんどん変わっていくビデオがバックでシンクロしながら流れ、観客総立ちの中、一旦引っ込みます。

17 Don’t Cry (ALPHA)

18 Soul Survivor (ASIA)

 再び登場してのアンコールは、もう一曲のトップ10ヒットと、ファーストの中でも一番いいとの評価の高い曲でまた総立ちで締めくくり。

 25年ぶりに集った、80年代スーパーグループの代表格、まだまだこのまま活動を続けるようです。

 さすが日曜日。7時過ぎに全過程が終了、8時前に帰宅でき、「篤姫」を冒頭から観ることができました。

 ジェフとジョンのサイン入りのベスト盤のジャケットです。

Asia_definite_collection

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2008年6月 2日 (月)

1973

 

 ちょっと体調を崩してしまったり本業(って何?)で忙しかったりで間を空けてしまいました。ネタがなかったわけではありません。ちょっと貯まってしまいましたので、吐き出していこうと思います。時期が外れてしまうことをご海容ください。

 そこで果てしなく続くライブレポート。

 今回は五月初めのジェームス・ブラントです。

 彼を見たのも二回目。前回は小さなライブハウスのオールスタンディング。今回は地元でも知られている大人数収容の会場。

 前回の二年前から大きくなって帰ってきた訳ですが、結果的な感想から申しまして、その大きくなったというのはいい意味も悪い意味も含んでいるわけで、彼はよりアイドルになった、その代償として、以前持っていたメッセージ性がやや薄れた、そんな印象を持ちました。

Back to Bedlam

 大きくなったといっても、その二年前のデビューアルバム Back to Bedlamが大成功し、現在はニューアルバム All the Lost Soulsが出たばかり。まだそれほど引き出しが多くあるとはいえません。当然のことながらその二枚からの選曲が全てを占めることになりました。

 ファーストアルバムのジャケットにあったような、エキゾティックな影絵を連想させる模様が施された黄色く薄暗いカーテンの裏から,静かなアコースティックギターのストロークと彼の歌が聞こえてきて、曲にドラム他の楽器が絡む瞬間にカーテンがバサッと落とされ、ギターを持った彼とバンドメンバーが見えて、キャーッ。

1 Give Me Some Love (二枚目、以下Souls)

2  Billy (一枚目、以下 Bedlam

3  High (Bedlam)

    シングルカットされて、サビの部分での「ハ~イ」という彼のはいトーンが耳に残る曲ですね。

All the Lost Souls

4 I Really Want You (Souls)

5 Carry You Home (Souls)

6 I'll Take Everything (Souls)

  この中盤あたりではニューアルバムの曲をまとめて。前作は、例えば70年代だったらブレッドのデヴィッド・ゲイツのような、高い声で甘いバラードを歌う男性シンガーという印象が強かったですが、新作では、UKソウルで活躍中の人と共作するなど、畑違いの人とのコラボが割りと多く、楽曲にバラエティを持たせようとしているように思えます。

7        Goodbye My Lover (Bedlam)

    この曲は、「ビューティフル」の次にみんなで歌える曲。大合唱でした。

8        No Bravery (Bedlam)

前回見た時には、この曲のバックに、彼が経験したボスニア紛争の様子がスクリーンに映し出されたのですが、今回はそういう演出は見られませんでした。

9 Annie (Souls)

10    Coz I Luv You (Bedlam)

この曲の最中に、ステージ向かって左手から客席に下りてきて、ぐるっと客席を駆け足で一周し、右手からあがっていきました。こういうライヴに慣れていないせいか、このあたり、全く同じことをしてすごくアイドルアイドルしていたダニエル・パウターと同じ印象を持ってしまいました。

11    You're Beautiful (Bedlam)

  出てきましたね。やっぱりまだまだ、彼といえばこれです。レコードよりも長く長く、盛り上げてお決まりの大合唱。この世界的大ヒットを、彼自身で乗り越えられる日が来るか?

12 Shine On (Souls)

13 Out of My Mind (Bedlam)

14 Wisemen (Bedlam)

15 So Long Jimmy (Bedlam) –

  彼も今のところ、人名をタイトルにした曲が多いですが、「さよならジミー」とは、ライブの最後にやることを狙ったものとしか思えない。いったん全員引っ込んで、

16 One of The Brightest Stars (Souls)

17 Same Mistake (Souls)

18 1973 (Souls)

  今ヒット中の1973は、アンコールの最後の最後に出てきました。彼が70年代の街並みを歩きながら歌う、あのビデオクリップが映し出されながら。前作の大ヒット以来、彼の環境は一変しましたが、その中でより70年代の音楽への傾倒が強くなり、この頃の曲ばかり聴いていたそうです。ソングライターたちが一瞬を一瞬として捉え音楽に表現していた時代、アルバムが、一曲一曲がばらばらではなく一つのアルバムとして作られていた時代、その時代に慕情を抱いて作った曲。

 僕はシンガーソングライターブームのピークは72年だったと思っていますが、カーペンターズの全盛期、後に70年代最大のアーティストとなるエルトン・ジョンがブレイクし、西海岸サウンド、ディスコがぼちぼち出てきた73年、最も70年代らしい年だったのかもしれません。

 繰り返しになりますが、ボスニア平和履行軍に従軍した経験から来るメッセージ性、曲のナィーヴさが薄れた分、音楽性が多様になった。そんな、ファーストからセカンドへの変化を象徴するような、大きくはなったけれども少しアイドルになった、そんな印象のコンサートでした。これが長い目で見て吉と出るのか否は、いまだ定かではありませんが。

 「ビューティフル」の頃は、新世代シンガーソングライターのちょっとしたブームで、彼はその先頭に立っていた観がありました。その彼もニューアルバムを発表、同時にギャヴィン・デグロウ、ダニエル・パウターらも新作を発表してきましたが、どのように受け入れられるでしょうか。

 会場でグッヅを購入した先着何名かが貰えた、直筆サインです。

 ライブレポートはまだまだ続く・・・ 

James_blunt_autograph

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2008年5月 5日 (月)

Heart of Rock'n Roll~Take Me Back to Chicago(part 2)

もたもたしてたらシカゴネタも御大に先を越されてしまいましたが(*)、めげずに行ってみましょう。

 さて、前回の続き。20分間の休憩、セット換えを終え、シカゴの登場。 

 ヒューイ・ルイス&ニューズ同様、ホーンセクションが重要な役割を占めるグループ。しかし流石に、70年代初頭のブラスロックブームの時からその先頭に立っていた大ベテラン。ヒューイのバックのホーンセクションはステージ向って左手の奥にいたのですが、シカゴのブラスセクション、トロンボーンのジェームス・パンコウ、トランペットのリー・ローネイン、サックスのウォルター・パラザイダーは右手前面に並びます。この三人は、バンド結成以来40年、この位置を守り続けている。そのことに敬意を表して、健康に気をつけている話をするくらい、許してあげましょうよ。

Chicago Transit Authority

彼らの原点、デビューアルバム”Chicago Transit Authority”「シカゴ運輸局」(本当はグループ名もこうなる筈であり、セルフタイトルのつもりだった)からインストのかっこいい

Introduction

2 Questions 67 and 68のメドレーから。

“Questions…”は、最初の来日の時から、ピーター・セテラもずっとやっている、「幻の日本語バージョン」が披露されました。「オネガイ、オシエテオクレヨ…」ピーター・セテラが歌ったソノシートがあるとかないとか…

来日時に毎回歌っていても、憶え切れないのでしょうね。曲が終わった後、スタッフが出てきてロバート・ラムのキーボードの前とジェイソン・シェフの前から大きなカンペを剥がしていきました。

ピーターがシカゴに在籍していたのが18年、それにジェイソンが取って代わって22年、ジェイソンの方が長くなってしまいました。彼自身もヒット曲を書き、存在感もあります。

Chicago

3 Make Me Smile「僕らに微笑を」~

4        Color My World 「僕らの世界をバラ色に」

 ここもメドレーで。考えてみるとブラスロック時代のシカゴの曲の邦題には、エルトン・ジョンの次に「僕の…」何とかが多かったなあ。2枚目”Chicago” からの代表曲。

 “Color…”は数あるシカゴの曲の中でも最も素朴でシンプル。ピアノ、ドラム、ベース、ヴォーカル、フルートしか要りません。他は全員引っ込み、ヴォーカルをとるロバート・ラムもピアノはビル・チャンプリンに任せて前に出てきます。ベースのジェイソンも座ってしまいます。曲終わりのフルート・ソロは、ロバートが引っ込み、替わりにローネインが出てきて披露しました。

 ここでまた全員出てきて、パンコウがちょっとしたMC”I have a question for you(皆さんに質問があります)”と言って「イマナンジデスカ?」そして

5        Does Anybody Really Know What Time It Is?”

へ。「一体現実を把握している者はいるだろうか?」という大仰な邦題が付いていました。確かに深読みすればそういう内容に聞こえなくもないんですけど、正しくはパンコウの言ったとおり「今、何時何分か正確に分かってるやつなんかいるか?」が正しいですね。

 ここで飄々とヒューイが再登場し、見事にリードヴォーカルをとりました。そのまま、

6        I'm a Man

 ビッグバンドカバーやクリスマスアルバムなどの企画物を除いて、他人の曲のカバーを殆どやらないシカゴですが、これはTransit Authorityで録音したスペンサー・デーヴィス・グループのカバー。最近クラプトンとのコラボで新曲を発表して顕在ぶりを示したスティーヴ・ウィンウッドが16歳のときに作って歌った、とてもそんなに若かったとは思えない声のハリと黒っぽいノリで歌い上げた名曲。ピーターがいた時代には同じくスペンサー・デーヴィス・グループのもう一つの名曲”Gimme Some Lovin’”をライヴでよくやっていたようですが。

 この”I’m a Man”、とにかく誰でも参加できる曲なんです。マラカスでもパーカッションでも、リズム打楽器はいくらあってもいい、サビのコーラス、というかチャントに近い、も大合唱で、音程を外していても別に気づかれない、と言うわけで、ヒューイに引き続いてニューズの面々も全員再登場、思い思いの楽器を叩いて、叫んで、カーニバル状態でした。

 大人数の半分、ロバート・ラムも引っ込んで、ムードががらりと変わり、ギターのキース・ハウランドも座ってしまいます。

Chicago X

7        If You Leave Me Now「愛ある別れ」 

X10枚目)から、76年、グループとしてはじめてのナンバー1ヒット、しかし今にして思えば転機になってしまった。ピーターの高音ヴォーカルとアコースティック12弦ギターのソロが印象的なバラード。それ以降の80年代の彼らの路線の布石となってしまった。しかし悪い曲じゃない。ジェフのヴォーカルもキースの12弦も、オリジナルそっくりに決まります。

Chicago VII Hot Streets

8        Call on Me「君は僕のすべて」 

9        Alive Again

 またメドレーに戻り、VII7枚目)からのヒット曲と、「タキシードを破った」初代ギタリストのテリー・キャスが銃暴発事故で急逝し、初めてのメンバーチェインジ、初めてのプロデューサーの交代(ブラスロックが得意だったジェームス・ウィリアム・グルシオからビリー・ジョエルなんかを手がけたフィル・ラモーンへ)、アルバムに初めてタイトルをつけて、初めてシカゴのレタリングロゴではなく自分たちの写真をジャケットにした初物尽くし、78年の”Hot Street”から。メディアム・テンポの二曲をうまく繋げた感じ。

 ここでまたパンコウのMCが入り、「40年もやって、色々なことがあった。その中でも印象に残っていることの一つは、長いキャリアの中で最も売れたアルバムを出すのに、17枚もかかったことだよ」と、

Chicago 17

10    Hard Habit to Break「忘れえぬ君に」 

11    You're the Inspiration

その84年の「17」からの2曲の大ヒットをメドレーで。これは彼らにとって第二期黄金時代というか、デヴィッド・フォスター、ビル・チャンプリンの得意路線、日本で言うAOR風お洒落バラード。これらが最も売れた、しかしこのような路線に走ったことに、今では多少の悔恨もあるという。この公演では、その「17」より新しい曲は演奏されませんでした(他の場所では演ったみたいですが)。

12    Beginnings

またファーストアルバムに戻り、ロバート・ラムも降りてきて12弦ギターを持ちます。これは僕が彼らの中で一番好きな曲かもしれません。彼らの「始まり」を飾った、12弦のストロークのイントロ、ブラスの絡み、綺麗なメロディで8分近く続く。そろそろ終盤戦か。 

Chicago VI

13    Just You 'N' Me 「君とふたりで」

73年のVI(6)から。上の”…Inspiration”はこの曲と歌詞がよく似ています。でもまだバラードとはいえないミディアムテンポの曲。ギンギンのブラスロックで売っていた当時としては軟弱に聞こえたかもしれません。

Chicago V

14    Saturday in the Park

これも彼らの数多い代表曲の中の一つ、74日の歌、政治的メッセージも強かった72年のV(5)から。

15    Feelin' Stronger Every Day 「愛の絆」

 これもお馴染みの曲ですが、ここまでオリジナルのレコードではピーター・セテラが歌っていたパートはジェイソンが歌っていたのですが、ここではギターのキースがリードヴォーカルを取りました。彼もキーが高かったですね。

Chicago 16

16 Hard to Say I'm Sorry「素直になれなくて」 Get Away

 最後は、81年の「16」から、テリー・キャス逝去の後のスランプの時期から、デヴィッド・フォスターをプロデューサーに、新メンバーにビル・チャンプリンを迎えて、AOR路線で見事に復活した、賛否両論、だけど美しい代表曲でしめくくり。

 いったん引っ込みますが、再び登場、アンコールは

25 or 6 to 4 「長い夜」

 これがまだ残っていました。ブラスロック時代の誰でも知ってる代表曲。2枚目から。ピーターが去って新たなスタートとなった「18」でも改めて新バージョンで録音した、「それだけ彼らにとって大切な曲。午前4時に256分前。総立ち、大盛り上がりで閉めました。カーテンコールでは、メンバー全員が並んで、児玉清さんの「アタックチャンス!」のポーズで決めました(知ってるのかな?)。

 私が大きな会場のコンサートをあまり好きではない理由の一つに、ガードマンがさっと並んで、終わってもステージに近づくことができず、強請り物ができないことです。ところが人呼んでハイエナのハリー教授、転んでもタダでは起きません。客席側で操作していたミキサーさんと言葉を交わして、見事セットリストをゲットしました。さすが、お馴染みの曲がずらり、殆ど省略語か、一つか二つの単語でみんな分かってしまうのがすごい。

 ちなみにシカゴ、アメリカに帰ったあと、この夏のダブルヘッドライナーのパートナーは、ドゥービー・ブラザーズと決まっています。”Taking It to the Street”あたりを二グループ混じってジャムするのかな。この組み合わせでも観て見たいですね。

 あ、”Take Me Back to Chicago”「シカゴへ帰りたい」って、XI11枚目にはいっているマイナーヒット、彼らのテーマ曲じゃないかと私が勝手に思っている曲です。

Img_0146  

*5月「小林時々日記」より

ベスト・ヒットUSAのスタジオにシカゴの二人がやってきた。
普通何かの宣伝でミュージシャンは出てくれるのだが彼等は何もなし。
ウドーさんのおかげ!
「義理と人情」もロックなのか?
リー・ローネイン(トランペット)も
ジェイムス・パンコー(トロンボーン)も60才台に入ってしまった。
レコード・デビュー40周年
41年前彼等はラスベガスのホテルでショーをやるかっこいいバンドだった。
オリジナルはやんない、有名曲のカバー・バンド。
全員タキシードを着て。
そのうちギターの故テリー・キャスが一人暴走を始めた。
タキシードを破って着る。
表裏逆に着る。
この一人の反逆は他のメンバーに伝染し始めた。
タキシードも着なくなった。髪を伸ばし始めた。
やがてホテルから睨まれ、やめてしまった。
その年の夏、ビートルズの「サージェント・ペパーズ」のアルバムが出た。
全員衝撃を受けた。
そしてバンドの向う方向がはっきりした。
あれから40年が過ぎ、
シカゴはグループとしてはビーチボーイズに次ぐ影響力のバンドとなった。
実に30年振りの世界ツアーがヒューイ・ルイスを従え日本にきている。
リーもジェイムスも毎日楽器の練習をする。
何しろ楽器が楽器だ、「ラッパの口」の筋肉を作っておかなければ。
それに肺活量も必要。
そりゃーなあ、若い頃は無茶やったよ。
セックス&ドラッグ&ロックンロール、
こんなに長くやるなんて思ってなかった。
今はミュージシャンの心境じゃないよ、
オレ達格闘技のファイターみたいだよ、
ジムで体鍛えるし、食べる物も気を使う。
それに病気、今、シカゴの第一関心事は「健康」なんだよ。
あーヤダヤダヤダ、シカゴからそんなハナシききたくなかったなあ。


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2008年4月24日 (木)

Heart of Rock'n Roll~Take Me Back to Chicago (Part 1)

何回連続でコンサートリポをやっているんでしょう?やっぱり書きやすいんでしょうね。

 今回も話題のシカゴとヒューイ・ルイス&ニューズのダブルヘッドライナーです。

 ダブルヘッドライナー形式、大流行で、いろいろな組み合わせでやられているようです。

 ちょっと前に単独来日していたナイトレンジャーは今度はファイヤーハウスと一緒に回ります。

 前回のネタだったボズ+TOTOもそうですね。

 以前に何回か取り上げた、DVDでも観られるスティクスREOスピードワゴン。最近はこれにデフ・レパードが入ったり入らなかったりしているようですが、これもそのまま日本で観てみたい組み合わせですね。

 組み合わせが成立するにはいろいろな事情があるのでしょうが、ボズ+TOTOみたいに、関係や音楽的共通性が多く見つけられるパターンだと、観る楽しみも倍増します。

 ここのところ毎年、シカゴはパートナーを換えつつ大きな全米ツアーをやっています。

 他にパートナーになったのは、アース・ウィンド&ファイア(EW&F)、アメリカ、リトル・リヴァー・バンドなどなど。

 シカゴ・ヴイエス・アース・ウィンド&ファイアー 「ライヴ・アット・ザ・グリーク・シアター」

EW&Fとの競演はLAでの公演をDVDで見ることができます。これは上の組み合わせの中でも最も良かったものではないかと思います。

 組み合わせ的にも、実は最も共通点があった二組ではなかったでしょうか。

 共にシカゴ(街の名前です。当然)が拠点。

 EW&Fのモーリス・ホワイトとシカゴのロバート・ラムはシカゴ大学の同窓生。

 共にブラスセクションが前面に出される音作りが特徴。

 シカゴのビル・チャンプリンはEW&Fのヒット曲 “After the Love has Gone”の作者。

 EW&Fは常にシカゴを意識していたという。78年、ビートルズの曲だけで繋ぐ、ピーター・フランプトン、ビージーズ三兄弟主演、RSOグループのマネジメントによる映画『サージェント・ペパーズ』の中で”Got to Get You into My Life゛を演奏するために出演する話は、実は最初はシカゴに行ったのだが断られたためEW&Fになったのだそうだ。そこでEW&Fは、もしシカゴがその曲を演奏するとしたらどうなるだろうか、ということを念頭にアレンジしたんだそうです。映画は大きくコケましたがEW&Fの登場場面と彼らのその曲は異彩を放っていた。

 そんなわけで、この2グループの競演はすごかったです。

 2バンドが同時に出てくるオープニングとクロージングは圧巻です。

 EW&F”In the Stone””Never, never my darlin, never will you be alone…”というコーラスと、シカゴの“Introduction””We can make it happen, yeah, we can make it happen”というコーラスを同時に掛け合いで演ってしまったり。この二つの曲がピタっとあってしまうなんて想像もできませんでした。

 それぞれのパートでも、リードヴォーカルの交換で、ビル・チャンプリンがEW&Fをバックに”After the Love…”を歌ったり、フィリップ・ベイリーがシカゴをバックに”If You Leave Me Now”「愛ある別れ」を歌ったり。このDVD70年代、80年代が好きな人には涙ものです。

 アメリカとは、ロバート・ラムが、アメリカのジェリー・ベックリー、ビーチボーイズの今は亡きカール・ウィルソンと共に Beckley-Lamm-Wilsonというユニットを組み”Like a Brother”というCDを発表したことがあります。でもその程度でしょうか。

 リトル・リヴァー・バンドと今回のヒューイ・ルイス&ニューズに関しては、そのような関連性が全く思い浮かびません。強いて言えば共にシカゴほどではないにせよ、やはりブラスとコーラスを重視しているグループ、といったところでしょうか。

 まあいずれにせよ、70年代、80年代に活躍していたグループの中から、スケジュールを睨みながら色々選んでいる、ということで、深く考える必要はないのでしょう。それを四の五のここまで引っ張る私は本当にロクな者ではない。

 さて、当日のコンサート。まずはヒューイ・ルイス&ニューズの登場です。

 ちなみに上記のダブルヘッドライナー全て、シカゴが後に登場しています。

 またEW&Fとの話に戻りますが、オープニングで必ず、どちらが先に演るかコイン投げで決めよう、とやって、2004年の48回の公演で、全て同じ結果が出てEW&Fが先になった、ということになっています。これはいくらなんでも嘘ですよね。コイン投げ約50回で全て同じ結果が出る確率は2の50乗分の1。天文学的数字になってしまう。そりゃそうでしょう。ただでさえ大人数のバンド二つなんですからセット換えの問題もあるし、順番は予め決めておかなければ。

 

SPORTS(紙ジャケット仕様) さて、真っ暗の中から心臓の鼓動が聞こえてきて、黒いシャツのヒューイが登場、やっぱり

 Heart of Rock & Roll

から始まりました。84年、彼らの人気を決定的にした金字塔アルバム”Sports”のオープニング曲。それ以来、彼らのライヴの第一曲目の座を一度も降りていないようです。ニュー・ヨークから始まって、アメリカ中の都市の名前が歌詞に出てきますが、肝心の「シカゴ」は出てこないんですよねえ。原曲は最後にクリーヴランド、デトロイト、と叫んでフェイドアウトしますが、デトロイトの替わりに「ナゴヤ!」と叫んで掴みにします。

 そのまま次の曲のイントロが始まり、「これは新しい曲だよ」と言いつつ、

Plan B

2 So Little Kindness

 新しい曲といっても、2001年の “Plan B”というCDに収められていた曲。7年前でも、それ以来はオリジナルアルバムが出ていないわけだから…

3 I Want a New Drug

4 Small World

 この2曲は完全にメドレー形式で。”Drug””Sports”からの2曲目のヒットで、同じ年に出てきたレイ・パーカーJrの「ゴーストバスターズ」は これの盗作だと騒がれ、リズムは確かに同じに聞こえるが、この”Drug”自体、リズムはM”Pop Muzik”から頂いている、などとちらほら。

Small World/Sports

 “Small…”の方は、88年のアルバムのタイトル曲。歯切れのいいキーボードから始まって、うまく繋がりました。

FORE!(紙ジャケット仕様)

5 Doin’ It All for My Baby

 “Sports”に続く、ノリにノッていた時期の86年の “Fore”から。こういう曲を聴くと、彼らはサンフランシスコ出身ながらウエストコーストロックの影響は少なく、ルーツは南部のメンフィスやニュー・オーリンズあたりのR&B、それにスワンプロックではないかと感じます。ブラス、特にサックスがブルージーですね。

6 The Power of Love

 ご存知、85年の映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のサントラから。映画の中でもマーティ・マクフライ役のマイケル・J・フォックスが学園祭の出演目指してバンドコンテストで演奏しますが、「ハイ、止めて、五月蝿いだけ、次!」と不合格を食らう。その審査員ですまして座っていたのがヒューイ自身だった。懐かしいですね。

7 Jacob’s Ladder

“Fore”から。87年の彼らの来日に前座で付いてきたブルース・ホーンズビーの曲ですね。

 ここでブラスセクションは引っ込み、バックの四人も楽器から離れマイクの前に横一列に並んで、「ここらでアカペラはどうだい?」と、

8 It's All Right

これはカーティス・メイフィールドやジェリー・バトラーがいたインプレッションズというグループがオリジナルで、ドゥーワップのスタンダードの一つです。やっぱりそういうところがルーツなんですね。かなり初期から彼らのライヴで一息つくときの定番になっていて、見事にオリジナルそっくりに決めます。

 そういえば、彼らがベストヒットUSAに初出演したとき、いきなり、やはりアカペラの定番で、山下達郎やティモシー・シュミットも演っているタイムスの”So Much In Love”をいきなり歌いだしたんですよね。

 彼らのコーラスワークは必ずしも綺麗だとは思わないのですが、音を外さない範囲でのある程度の荒さが、逆に60年代の南部R&Bの雰囲気を出していると感じます。

 またすぐ楽器の配置に戻って、終盤に突入します。

9 Heart and Soul

 “Sports”からの最初のヒット曲。オリジナルは”Kiss You All Over”のエグザイル(日本の同名グループとは関係ありません。もちろん)です。

10 But It's Alright

94年にR&B中心のカバーアルバム “Four Chorus and Several Years Ago”を出しますがその中から、スタックス・ソウルのエディ・フロイドの曲。ウィルソン・ピケットを髣髴とさせる曲です。

 ここまで、競演のシカゴへのエール交換が全くなかったのですが、この曲のホーンに“Does Anybody Really Know What Time It Is?”のフレーズを紛れ込ませていました。

11 We're Not Here for a Long Time (We're Here for a Good Time)

 「一番新しい」”Plan B”からの曲で、「アリガトーゴザイマシタ,ニホンゴカンタン」といったん袖に引っ込みます。

 アンコールに応えて再び登場

12 Back in Time

 さっきの映画「バック…」のエンディングテーマ。ここからシカゴの若い(といっても私と同い年らしい)ギター、キース・ハウランドが加わってきました。

13 Bad Is Bad

ここからビル・チャンプリンも登場、珍しくギターを持って出てきました。

  この曲は”Sports”に収録されている、レコードではドゥーワップっぽいアレンジですが、ライヴではよりアップテンポに、ヒューイのハーモニカも入ってサザンロックっぽくやります。ビルもリードヴォーカルを部分的にとりました。

 そして最後の最後

ベイ・エリアの風(紙ジャケット仕様)

14 Workin’ for a Living

 彼らがブレイクした82年の “Picture This”から労働者の歌。トレードマークのヒューイのハーモニカとブラスの大盛り上がりで、第一部の完全終了。セット換えのため休憩に入ります。

 彼らもベテランですがメンバーチェインジが殆どない、ヒューイと少年時代から付き合っている人たちばかり、そのチームワークのよさが改めて伝わってきました。

 考えてみれば、”Do You Believe in Love?””Stuck with You”,”If This is It”なんていう代表曲が聴けなかった(場所によっては演ったかもしれない)のですが、その分、彼らのルーツが前面に出ていたような選曲だったと思います。

 なんとシカゴのパートに全然届かず、こんなに長くなってしまいました。

 休憩時間明けの話はまた次回に。すぐ書きます。

バック・トゥ・ザ・フューチャー ― オリジナル・サウンドトラック

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