« 2007年7月 | トップページ | 2007年9月 »

2007年8月30日 (木)

Goodbye Yellow Brick Road

夏は過ぎようとしていますが。 

人並みにお盆には帰省しました。ほんの45日だったけれど久しぶりの関東での長居だったので、普段は聴けない小林克也番組のいくつかを堪能してまいりました。

金曜の夕方に着いたので、ファンフラはエンディングのみでした。

土曜の朝の新番組ははじめて聴きました。

時間が短くなって音楽専門になって、かつその直前の番組がいかにもNHKの深夜早朝番組みたいな内容だったので、引き締まった感じがしましたし、選曲は90年代のJポップが中心で、聴取対象年齢を以前より下げたような印象を持ちました。リクエストはキッス「デトロイト・ロック・シティ」でしたが。キッスについてはいずれまたネタにしましょう。

「ビートルズから始まる」も久々に聴きましたが、「サージェント・ペパーズ・・・」の製作の裏側でポールがいかにワンマンに振舞っていたかという話がやたら残ってしまいました。

で、今回は、久々にラジオからとったネタを。テレビもちょっと絡んでいますが。

Goodbye Yellow Brick Road

819日の「ポップミュージックマスター」の訳詞コーナーで扱われたエルトン・ジョンのGoodbye Yellow Brick Road「黄昏のレンガ路」。

エルトンに関しては8月7日のベストヒットのタイムマシーンで、31年前の76年の夏の大ヒットだった、キキ・ディーとのデュエット「恋のデュエット」”Don’t Go Breakin’ my Heart”が最近の復活映像で、太ったエルトンと、年齢には逆らえないキキの登場で見ることもできました。これの原曲のプロモビデオでエルトンとキキが軽くチュ!をする場面があって、子供だった僕はその印象が強く、後にエルトンはモーホーであると分かってもなかなか信じられなかった思い出もあります。

Greatest Hits, Vol. 2

今でも活躍中のエルトンですが、この74年から77年あたりが全盛期だったといえます。

今みたいに地味な黒縁眼鏡ではなく、顔の半分以上ある大きさで、フレームに何色もの星がちりばめられたトンボ眼鏡で、ギンギラのラメの衣装を着ていたころ。

同名の、当時アナログLP二枚組で発表されたアルバム「黄昏のレンガ路」は、エルトンにとって、ビートルズにとっての「サージェント・ペパーズ・・・」、ビーチボーイズにとっての「ペットサウンズ」、スティービーにとっての「キー・オヴ・ライフ」にあたるような位置づけ、つまり長く活動し名盤をいっぱい出しているアーティストのディスコグラフィの中で最高傑作に位置付けられる。

訳された表題曲, yellow brick roadは「たそがれのレンガ道」ではなく、イギリスの上流階級を象徴するものだったのですね。

そう、イギリスは物凄い階級社会。貴族制度も残っているし、世襲永世貴族議員なんてのもいる。階層によって話す英語も微妙に違うし、ものの食べ方も違ってくる。

「あばよ、『社会の犬』が吼える金色のレンガ道、ペントハウスにはもう飽き飽き、

 僕の本当の人生は金色のレンガ道の彼方にあるってわかった。梟やヒキガエルが啼く林の中に戻っていく。。。」

バーニー・トーピンは、これはただ都会に出てきて幻滅した若者の歌だ、といっていますが、周囲では、それ以前のアルバムでかなりの成功を収めたエルトンとバーニーが、成功とは何だ?この生活の変化は自分たちが求めていたものなのか?と疑問を持ち始めたことの現われだ、このアルバムはそのような試行錯誤も含まれているからこそ名盤なのだ、と解釈されることが多いようです。

エルトンとバーニー、もともとはバート・バカラック、ハル・ディヴィッドみたいなソングライターコンビを目指して意気投合し、すごく相性(いろいろな意味で)がよくていい曲が次々できると革新しましたが、肝心のシンガーがいなかったので、ピアノがうまく声もそこそこ通ったエルトンが歌うことにしたそうです。

偶然始めたシンガーが、70年代最大のアーティストに化けてしまった。

まず、シンガーソングライターがブームだったアメリカから火がつきました。このブームに乗ったイギリス人はエルトンとキャット・スティーヴンスくらいだった。逆にイギリスはTレックスとかデヴィッド・ボウイとかグラムロックが全盛で、イギリスに売り込むために、さっきも出てきたようなギンギラギンのトンボメガネや衣装を着け、このアルバムにも収録されている “Saturday Nights Are Alright for Fighting”(「土曜の夜は僕の生きがい」凄く誤解を招く邦題だったと思いますが、知れ渡ってしまいました)なんか、ロックっぽい曲もやるようになった。

エルトンとバーニーは、私生活ではどうあれ、曲作りではいわゆる共同作業はせず、完全分業のよう。バーニーが一方的に詞を持ってきてそれにエルトンが曲をつける。エルトンいわく「でも歌詞の内容についてインタビューで訊かれるのは僕だけ。”Take Me to the Pilot”『パイロットに連れて行って』なんて、いまだに意味がわかんないまま歌ってる」。

Nigel_olson_classics それでも名盤「黄昏のレンガ路」は、エルトンとスタッフ、バンドメンバーが十日以上一つ屋根の下で家族のように昼夜を共にして作った。バンドのメンバーには、紆余曲折はありましたが今でも一緒にやっている、ギターのデイヴィー・ジョンストン、ソロシンガーとしてもヒット曲もあるドラムのナイジェル・オルソンなんかがいました。

アルバム全体として流れを聴くのが一番いいですが、他にも珠玉の名曲がいっぱい入っています。

ビルボード1位に輝いた「ベニ―とジェッツ」。これはもともとの録音ではピアノだけの単調なリズムだけの曲だったのを、プロデューサーのガス・ダッジョンのアイディアで、大観衆の歓声口笛をダミーで挿入して擬似ライヴにしてしまったのが大成功。この曲は、非黒人アーティストの曲としてはプレスリー以来はじめてのソウルチャートでの1位をも記録し、エルトンはこの曲で白人アーティストが、ジャンルを融合させた新しいマーケットを開発する可能性を示した、といわれました。

Elton_john_candle_in_the_wind 御存知”Candle in the Wind”「風の中の灯のように」。原曲はマリリン・モンローに捧げた内容、しかし歌詞を換えてダイアナ妃への追悼歌として「ホワイト・クリスマス」を抜いて世界で最も売れたレコードの記録を塗り替えました。

ところがこの原曲は当時、「ベニーとジェッツ」のB面で、お馴染みのピアノ弾き語りヴァージョンとは程遠い、ギターのストロークが効いたミディアムテンポの曲でした。

しかしエルトンにはこれをピアノだけでやるアイディアはかなり早くからあったようです。

さっきの77年の「恋のデュエット」(これは二人の気分転換だったのか、エルトンとバーニーは偽名で作詞作曲をクレジットしていました)の後の70年代後半、エルトンはスランプの時期に入ります。長年のプロデューサーだったガスや、バーニーとも別れて仕事をするようになりました。エルトンは後に「あの時期バーニーはアリス・クーパーのアルバムを手伝っていて仕方なかったんだ。仲違いしたわけじゃなかったよ」なんて言っていましたが、実は仕事のパートナー以上の「特殊な関係」だった二人、何かあったと考えるのが普通でしょうね。A Single Man

  America_america そのスランプの真ん中、78年に「シングルマン」という全然売れなかったアルバムを発表、アメリカ(グループの名前です)の「名前のない馬」の名演でも知られるパーカッショニストのレイ・クーパーと二人だけというシンプルな編成で、「シングルマン・プラス・レイ・クーパー」と銘打った世界ツアーを敢行します。このあたり、エルトンの「特殊な関係」のパートナーが替わった、と見るべきでしょうか。

このツアーで、当時は冷戦真っ只中で西側のアーティストが行くこと自体珍しかった、ソ連でのライヴが実現しました。

Elton_john_to_russia_with_elton その模様を収めたDVDが最近発売になりました。

それを観ると、そのシンプルな編成のためもあるでしょうが、”Candle in the Wind”が後によく知られるようになるピアノ弾き語りヴァージョンの原型のような形で聴けます。

小学校の高学年時、道徳だかなんだかの時間に先生から「尊敬する人は誰?」と訊かれて「エルトン・ジョンです」と胸を張って答えた。しかし先生も他の級友の誰も知らなくて、「誰?それ?」と白い目をされた、そんな屈折した少年時代を送って、今こんな文章を書いている私が居ます。

その少年時代のヒーロー、太ってもまだ最前線、今年も東京だけだけど日本に来てくれる。どうしようかな?

| | コメント (2) | トラックバック (3)

2007年8月16日 (木)

Pop Muzik

一発屋。

 英語ではOne-Hit Wonders.

  日本にもいっぱいいますね。最近「メモリー・グラス」の堀江淳さんをCMで久々にお見かけしました。

ロックの世界では、誰を思い浮かべますか?

Knack_get_the_knack  「マイ・シャローナ」のナック?

 いえいえ。

 「マイ・シャローナ」は79年夏のテーマ曲。ビルボードのシングルで6週連続ナンバー1、その年の年間ナンバー1でもありました。

 しかし彼らには、二枚目のシングル、「グッド・ガールズ・ドント」というのが11位にまで上ったヒットになっていて、他にもトップ40に入った曲が一つ、ホット100に入った曲が一つあります。厳密には一発屋とはいえません。

Hanson_middle_of_nowhere_  最近だと、ハンソン?

 MMM-BOP97年の夏のテーマ。それでも彼らにもWhere is the Love?のフォローアップがありましたし、最近もベストヒットに出てきたように、大人になった彼らも別の音楽性を志向してがんばっています。

 今流行の、日本のレコード会社が編集したコンピレシリーズのひとつに、「ザ・一発屋」というのがあります。そのラインナップの一部を見てみますと、

マイ・シャローナ(ザ・ナック)

君はトゥー・シャイ(カジャグーグー)

ネヴァー・エンディング・ストーリーのテーマ(リマール)

ハート悲しく(マーティ・バリン)

エボニー・アイズ(ボブ・ウェルチ)

ジョージー・ガール(シーカーズ)

いつも心に太陽を(ルル)

ビリー・ジョーの唄(ボビー・ジェントリー)

孤独の影(ジョー・サウス)

ザッツ・ザ・ウェイ(K.C.&サンシャイン・バンド)

愛のディスコティック(タバレス)

今夜はブギ・ウギ・ウギ(テイスト・オブ・ハニー)

ダンシング・アメリカン(シェリル・ラッド)

U・キャント・タッチ・ジス(M.C.ハマー)

彼女はサイエンス(トーマス・ドルビー)

僕はこんなに(ネイキッド・アイズ)

ラヴ・ミサイルF-1-11(ジグ・ジグ・スパトニック)

ニュー・ヨーロピアンズ(ウルトラヴォックス)

セ・ラ・ヴィ(ロビー・ネヴィル)

ロック・ユア・ベイビー(ジョージ・マックレー)

ベティ・デイビスの瞳(キム・カーンズ)

これらすべては、他にもう一曲以上、中ヒット以上の曲を持っているアーティストです。

まあ結局は、日本のファンにどう思われているかということなのでしょう。一発、でっかいヒットがあってそれがやたら印象に残っていて、あとは消えてしまったようなアーティストだという。

 しかし、ヒットチャートファンがいう一発屋とは、そんなものではありません。本当に、ヒットチャートに記録された曲が一曲のみ、それで消えてしまった人のことを言います。

 しかもその一曲が、1位を何週も続けるとかいう大ヒットだったらなお潔い。

 そういうつわものが、何人かいるんですね。

 まず、ヒットチャートマニアの中で真の孤高の一発屋とされているのが、M_pop_muzikM」。

 「えむ」と読む,アルファベット一文字のアーティスト。同時に、ナンバー1ヒットをもているもっとも短い名前のアーティストという記録も持っています。

 本名は確かロビン・スコットというイギリス人で、「鏡」のミラーの頭文字だ、と言っていたような記憶があります。

 79年の大ヒット”Pop Muzik”  “music”という綴りを捩っていたので、日本語邦題も「ポップ・ミューヂック」としゃれていました。

 今、名古屋ローカルかもしれませんが、テレビCMでも流れています。

 電子楽器のピコピコの音を駆使した、当時流行り始めのテクノ・ポップの初めての大ヒット曲といえます。

 当時、タモリのラジオにもプロモで出演して、タモリが「ネクラ、ネアカ」を流行らせ始めていた時期だったんですけど、Mを評して「あいつは暗い」。

 このM、「ポップ・ミューヂック」で見事1位を獲得、しかし二度とヒットチャートに戻ってきませんでした。

Falco_greatest_hits  一部の音楽ファンは、Mはファルコと名前を変えて、86年に「ロック・ミー・アマデウス」を1位にして返り咲いた、などという説を唱えているんですが、それは源義経がチンギスハーンになったと言っているのと同じくらいあてになりませんね。ドクター・ボンベイじゃあるまいし。二曲とも御存知の方は、雰囲気が似ているのを察して、ニヤッとしてください。

 こういうのを、本物の一発屋と言っているのです。

 そして、もう一人、一位を取って二度とその名前では戻ってこなかったアーティストがいて、それが724日のベストヒットのリクエストでかかった、ヴァンゲリスなんです。

Vangelis_the_best_of  「炎のランナー」のテーマ、スクリーンを見ながらのピアノ演奏、よかったですね。

 ところが彼がMに比べて記録にケチがつくのは、彼はイエスのメンバーと親交が深く、ジョン・アンダーソンと、ジョン&ヴァンゲリス名義でホット100に入った曲が2曲あること。

 そして何よりも、彼はヒットチャートとは関係なく、「ブレードランナー」とか、テレビドキュメンタリーの、カール・セーガン博士の「コスモス」とか、美しく壮大なサウンドトラックをいっぱい手がけていること。

 ヒットチャートでは図れない大きな貢献をしているということです。

 それでも、ヒットチャートとは一つの統計であり、こういうオタクな楽しみ方もできる、という例でした。

 サイト開設二周年、おめでとうございます。

 ちょっと間を空けてしまい、時期が外れたネタで失礼しました。

 本業で、何百枚も答案を読まなければいけない時期だったもので。

 これからも無理のない程度にがんばらせていただきます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年7月 | トップページ | 2007年9月 »