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2008年7月16日 (水)

When Will I See You Again?

ライブリポートに戻ります。

今回はスリー・ディグリーズ。

うわあ、我ながら古いー。

ひょっとしたら、私の母親よりほんのちょっと若いくらいかもしれない。

そんなオバサン三人組。

1970年代に一世を風靡したフィラデルフィア・ソウルの看板、当時は「三人娘」。

モータウンにとってのスプリームスに匹敵する存在だったといえます。

克也さんもフィリー・サウンドには色々と思い入れをお持ちのようで。

少し前になりますが、5月のDJ KOBYでその薀蓄を語られていますから、それをチラチラと眺めつつみていきましょう。

例によって食事つきの小さなライヴハウスです。

現在のメンバーは、(ステージで並んでいた順、左から)ヴァレリー・ホリディ、ヘレン・スコット、シンシア・ギャリソンの三人。1963年結成時からのオリジナルメンバーは一人もいません。最古参は67年からのヘレンですが、66年から76年に中抜けして、丁度最盛期を逃しています。最盛期から現在までその座を守り続けているのは67年加入のヴァレリーのみ。シンシアは新加入です。

フィラデルフィアの作品を中心としながらも、モータウン、ディスコの定番も取り入れて、70年代のソウル、ディスコをみんなで懐かしむパーティ、そんな感じでした。年齢を20歳サバを読むような、胸の開いたドレスで三人の登場。

1、 I Love Music

克也さんが仰っていたとおり、ファンには言わずもがなですが、70年代のフィラデルフィア・ソウルにはケネス・ギャンブル&レオン・ハフというコンビのキーパーソンがいました。ニューヨークで量産されるソウルに疑問を持ちフィラデルフィアにやってきてフィラデルフィア・インターナショナル・レコードを立ち上げ経営し、自らもプロデューサー、作者となり、傘下アーティストに歌わせてヒット曲を量産する。

The Essential O'Jays

 スリー・ディグリーズは女性の看板ですが、その男性版の代表格がO’JAYsではなかったでしょうか。もともとオハイオ州出身(O’JayとはオハイオのDJ,そう名乗っていた有名なDJがいてそこから名前を頂いたらしい)、エドワード・ルバート(「カサノヴァ」のヒットがあるジェラルド・ルバート、やはりR&Bシンガーだったショーン・ルバートのお父さん。この二人の子供に先立たれている)を中心に結成され、フィラデルフィアに移って大成功した。これはオージェイズの全盛からやや後期の76年のヒット曲で、フィラデルフィア・ソウルそのものの全盛期にはコーラス、ストリングスが美しいバラードが多かったギャンブル&ハフ作品でしたが、70年代後半になるとディスコを相当意識するようになり、この曲もディスコブームに乗って大ヒットしました。それを女性コーラスの看板スリー・ディグリーズが。。。今にして思えばこのショーの全体像を象徴していたような幕開けでした。

2、 Take Good Care of Myself

3、 Woman in Love

この二曲あたりは、後に出てくる「天使のささやき」「荒野のならず者」に次いで、ファンにはよく知られている彼女らのレパートリーです。

4、 Marvin Gaye Medley

Your Precious Love~Sexual Healing~What’s Going On?~Mercy Mercy Me~

Let’s Get It On

ここでモータウンというか、マーヴィン・ゲイへのリスペクトを表したパートで、60年代のタミ・テレルとのデュエットの名曲、70年代の代表曲、非業の死の直前の「セクシャル…」まで。

The Marvin Gaye Collection

それが終わったら、バンドメンバーの紹介、そして、聴衆に向って「独身の女の人いる?だったらドラムのXXがお嫁さん募集中よ。独身の男の人いる?だったらシンシアがお婿さん募集中よ。独身でも既婚でも、男はみんな『エッチ!(日本語で)』」とMCがあって

5、 Dirty Ol’ Man

そう、「荒野のならず者」という邦題で日本のディスコで大ヒットした曲で、確かに西部劇を連想させる壮大さはあるのですが、内容は全然関係ありません。直訳すれば、「このスケベジジイ!」ですね。彼女らを日本で有名にした73年のヒット。

6、 「にがい涙」

  克也さんも仰っていましたが。

  後でも書くことになると思いますが、スリー・ディグリーズはアメリカで人気が落ちたあとも日本では高い人気を保ち、日本のファン向けに日本語で録音もしちゃって、シングルでちょっとヒットした演歌みたいな曲もあるんです。筒美京平さん作曲。  

7、 Philly Medley

  The Love I Lost~Ain't No Stoppin’ Us Now~If You Don’t Know Me By Now~ Together

   小生が勝手にPhilly メドレーと名付けましたが、中にHarold Melvin & the Bluenotesのヒット曲が二つ入っています。フィリー・サウンドの男性側のもう一翼を担った人たち。”The Love I Lost”74年の、そしてシンプリー・レッドのカバーでもお馴染みの”If You Don’t Know Me…”73年の、ともにギャンブル&ハフのペンによる。

    間に挟まった”Ain’t No…”79年の McFadden & Whiteheadのディスコヒット。マクファデン&ホワイトヘッドは、ギャンブル&ハフに次いでフィリー・サウンドを担ったソングライターコンビでした。ギャンブル&ハフが美しい軽めのナンバーが中心だったのに対し、このマクファデン&ホワイトヘッドは骨太、やや暗め、社会的なメッセージもこめた、モータウンのノーマン・ホィットフィールドあたりに影響を受けたような曲を書いています。オージェイズ”Backstabbers「裏切り者のテーマ」、ハロルド・メルヴィン&ブルーノーツ”Wake Up Everybody”など。この “Ain’t No…”も本当はハロルド・メルヴィン&ブルーノーツに演らせるつもりで書いたけれど、渋いバリトンヴォーカルのテディ・ペンダーグラスが辞めちゃったから(ハロルド…は、アメリカ版「内山田洋とクールファイヴ」「敏いとうとハッピー&ブルー」だったんです(笑)。グループ名に冠されているリーダーが最も有名なメンバーでも、リードヴォーカルでもなかった)、曲の良さが出ないので自分たちで歌った、という。

The Best of Harold Melvin and the Bluenotes Ain't No Stoppin' Us Now: Best of the Pie Years Greatest Hits

   Togetherは、まだフィラデルフィア・インターナショナルを立ち上げる前の67年、ギャンブル&ハフがイントルーダーズに提供した曲。82年にブラウン・アイド・ソウル(ラテン系アメリカ人が演るR&B)のティエラというグループがカバーして再ヒットしました。この曲、大好きなんです。意外なところで突然聴けて嬉しかった。

8        Disco Inferno

そろそろ佳境に入りダンスパーティの様相を呈し、聴衆に立ち上がれと促します。曲はサタデーナイトフィーヴァーのサントラにも入っていて大ヒットした。ディスコの定番。映画「タワーリング・インフェルノ」にインスパイアされた、ディスコを火事の高層ビルに例えた曲。オリジナルを演っていたのはトランプス。彼らもフィラデルフィアのグループだったのですが、結局彼ららしくないこのディスコナンバーが代表曲となってしまいました。

The Best of the Trammps

9        Love Train~TSOP

ギャンブル&ハフにとっても、オージェイズにとっても代表作の一つでしょう。73年のナンバー1ヒット。電車で世界中の町、国を繋いで愛を広める。

そして、フィリー・サウンドといえば、ダリル・ホールも参加したかったけど適わなかった、これら多くのヒット曲全てのバックを勤めたオーケストラがあり、彼ら自身もMFSB(Mother Fucker Son of a Bitch? Mothers Fathers Sisters Brothers? 笑)と名乗ってインスト・レコードを何枚か出しています。そしてこのTSOP, The Sound of Philadelphia が、当時のソウル専門テレビ番組「ソウルトレイン」のテーマにも使われ、ナンバー1ヒットになりました。スリー・ディグリーズも曲終わりのコーラスで参加していました。TSOPのリフを延々と続け、彼女たちはいったん舞台裏に引っ込み、また出てきます。

Love Is the Message: The Best of MFSB

10    When Will I See You Again

そしてアンコールは、彼女たちの代表曲「天使のささやき」。コーラスが綺麗な曲です。日本では、70年代から80年代にかけて赤坂局が毎年やっていた「東京音楽祭」の、第74年度最優秀楽曲賞を受賞し、彼女らの日本での人気を不動のものにし、その後アメリカ、世界各地で火が付いた、という曲です。美しい天使のコーラスは健在?

この曲でまた引っ込んで、また出てきて、アンコール2曲目でやったのはなんと

11    Boogie Wonderland

  アース、ウィンド&ファイアのあの曲でした。もう30年たてばなんでも一緒なのか?

この曲はレコードでは、やはり女性三人組のエモーションズがフィーチャーされていて重要な部分を歌っていたので、スリー・ディグリーズとしても歌いやすかったのでしょう。無理やり総立ちにさせて躍らせて、ディスコパーティーは終わりました。

ベスト・オブ・エモーションズ

「今度はいつ会えるの?」って、また秋に来日するみたいです。いかがですか。

Three_degrees

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2008年7月 4日 (金)

I Go Crazy

このコラム、ここから消えてしまったバックナンバーを集めて保存している「小林克也のRADIOBAKA・期限切れ遺失物移管所」ですが。

 お蔭様で、毎日、それなりのアクセス数を頂いております。色々な話題に触れているせいでしょう。何かのキーワードを検索にかけると何かしら引っかかることが多いようで。それでそのページだけを訪れて去っていくイチゲンさんたちばかりのようです。

ちょっと前まで「バラク・オバマ」と検索したらかなり上の方に出てきた時期がありそれでアクセスしてくださった方も多かったのですが、もはや時の人。オバマに関して書いてあるサイトも腐るほどあり、もう全然ですね。

必要な情報だけピンポイントで得られればいいというのはネット検索の本質で、長い文章を読むのは面倒でしょうが、読んだら読んだで、面白い、勉強になる、と好評ですので、お時間があればぜひよろしく。

 その「遺失物移管所」のアクセスが6月頭前後に急増しました。

 原因は「ボー・ディドリー」を検索する人が急に増えたこと。

 62日、80歳の生涯を閉じました。

 以前、U2の「ディザイア」がベストヒットでかかったことで、その曲のリズムの発明者であるボー・ディドリーの特集記事を書き、そのリズムを使ったヒット曲のリストがあるもんだから重宝されて、あの「2ちゃんねる」に初めてリンクが貼られたり。

 たとえば今だったらKTタンストールなんかがすごくリスペクトしている人。彼が編み出したビートがその後のロックに与えた影響は計り知れない、とはその記事に書いた通り。

 大往生でした。合掌。

 さて、これも書こう書こうと思っていてついつい遅れてしまった話題ですが、これまた先頃亡くなったアーティストについての徒然を。

 その人は、ポール・デーヴィス。422日逝去。享年60歳。

 地味な人ですが。70年代のヒットチャートファンには忘れられない人なんです。

 60年代末期から活動を始め、カントリーとポップを行ったり来たりしていた人。

 一躍ブレイクしたのが1977年。

Sweet Life: His Greatest Hit Singles

 “I Go Crazy”という、初めてのトップ10ヒットが生まれました。

 地味な曲調ですが、カントリーとはいえない、ゆったりしたスローテンポ、ピアノが全篇に流れるようなバラード。

 ところがこの曲、ビルボード誌のHOT 100のチャートに入って、トップ10に入るまで半年もかかったんです。

 そしてそれを含めて、HOT100内に78年まで40週間留まり、これはその時点での新記録だと騒がれました。それ以前は50年代のエンターテイメントスター、ジョニー・マティスの”Wonderful, Wonderful”という曲が39週入っていたというのが記録で、20年ぶりくらいの記録更新だったんです。だからヒットチャートファンには好まれるわけです。

Non-Stop Erotic Cabaret

 ちなみにこの記録は、83年にソフトセルの”Tainted Love”「汚れなき愛」(意味が全く正反対の誤訳邦題)が43週間Hot 100内チャートインするまで保持されます。

Greatest Hits

 現在では2000年代に入ってからの、リーアン・ライムズ “How Do I Live?”69週間チャートインしていたというのが最長記録になっています。

 集計方法が違ってきていますから、単純に並べることはできないんですけれどね。7080年代前半はシングルレコードの売り上げ枚数が加味されていた度合いが大きかったのですが、現在ではそのシングルという概念そのものが絶滅危惧種扱いですからね。時が経つに連れラジオのエアプレイ回数により比重が置かれるようになっています。

 さて、ポール・デーヴィスに話を戻しますが。

 もう一つ、この”I Go Crazy”が日本のポップスファンの間で神話を持つようになった要素は、そのヒットしていた最中に、日本でのレコード発売がなかった、ということ。

 当時このレコードは Bang Recordsという弱小レーベルから出ており、これが日本のレコード会社のいずれとも契約がなかったため、日本でのレコードが出なかった。輸入盤で入手するしかなかったんです。

 78年当時、輸入盤専門店として「タワーレコード」日本第一号店が渋谷宇田川町、NHK近くにできたばかり、その少し近くに「シスコ」という小さなお店があり、渋谷が洋楽ファンの「聖地」とされていた頃で、輸入盤そのものが安価だったとしてもまだ珍しかった時代でした。

Greatest Hits

 そんな時、自慢するわけではありませんが、僕はどこで買ったかは忘れましたが、その “I Go Crazy”が入っている”Singer of Songs, Teller of Tales”というLPを持っていました。灰色に白抜きで、お爺さんみたいな長髪長髭の彼の横顔が描かれていたジャケットでした。

 そんなわけで「幻の名曲」だったわけです。

 ところが、そんな”I Go Crazy”がある切っ掛けで日本発売され、ブームさえ起こしてしまいます。

 翌々年の80年くらい、現参議院議員、前長野県知事さんのあの人の処女作「なんとなくクリスタル」の中で”I Go Crazy”が取り上げられたこと。

 文学作品としては駄作だったと思いますが、当時のお洒落な恋愛パターンを描いていたあの小説。あのお方はその手のお洒落音楽がかなりお好きで、そのムード作りのBGMの一つとして”I Go Crazy”が取り上げられました。

 既にその頃にはバングレーベルは日本のCBSソニーと契約があり、そのお爺さんみたいなジャケットではお洒落ブームに乗れないということで夜景か何かの絵に差し替えられて発売されました。切っ掛けはどうあれ、お蔵入りの幻の名曲がやっと日の目を見たわけです。

 その後すぐ、バングレーベルは倒産し、ポールは、最近だったらサンタナなんかを復活させているやり手クライヴ・デーヴィスが社長のアリスタレコードに移籍します。

 82年、”Cool Night”, “65 Love Affair”など、明るめのポップス調でトップ10ヒットを連発します。 

 この”65 Love Affair”という曲も、もともとはポールの青春の年代に合わせて”55 Love Affair”というのが原題だったのですが、例によってクライヴ・デーヴィスが「古すぎる」といちゃもんをつけてきたので10年遅らせた、とのこと。

クール・ナイト

 ちょうどベストヒットUSAの創成期にあたりますが、この人がビデオなど作るわけがない。ベストヒットのカウントダウンではこれらの曲のバックには、今度はカラー写真で笑っている、しかし白髪混じり長髪長鬚、鼻毛もはっきり見えそうなドアップ写真のジャケットが動画なしで使われていました。ちなみに、日本発売の際、このジャケットもお洒落な絵に差し替えられました。

 彼は生涯一度も曲のビデオクリップは作らず、映像はわずかなテレビ出演の機会のものが残っているだけのようです。YouTubeでお探しください。

 それ以上に、彼は雑誌インタビューのようなものもほとんど残さなかったようです。孤高の人だったのですね。

 その後、ヒット曲は出なくなりますが、カントリーに戻り地道に活動はしていました。オズモンズのマリー・オズモンドとのデュエットもありました。

 晩年は故郷のミシシッピに戻り、そこで息を引き取りました。

 同様に、奇しくも同じミシシッピ生まれ1973年に”Show and Tell”という全米ナンバー1ヒットを持つサザン・ソウルのアル・ウィルソンも、ポールが逝った翌日の423日に68年の生涯を閉じています。

 ボー・ディドリーのような大物の陰で、渋く地味ながらもある種の人たちにとっては忘れられない人たちも人知れず去っていった、2008年の初夏でした。

 改めて合掌。

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