50年代

2010年3月 3日 (水)

Hang’em High

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「やつらを高く吊るせ」でお分かりの方はお分かりでしょうか。それにしても物騒ですねえ。

 ライブリポートです。基本的に古いアーティストのものが多いですが今回のは一番古いかもしれない。でも、一番新しいかもしれない。

 ブッカー・T・ジョーンズです。

 もうキャリアはかれこれ50年、影響を受けたアーティストは世界中に散らばっているでしょう。

 サザン(メンフィス)ソウルの中心だったスタックス・レーベルのそのまた中心だった人。素朴だけど力強いオルガン奏者。

 バックバンドだったMGsにはギターにスティーヴ・クロッパーがいたことでも知られている。スティーヴは映画「ブルース・ブラザース」の音楽を担当し、自らもブッカーと一緒に冷やかし出演している。

 でも、最近ではアウトキャスト“Hey Ya!”の独自の解釈でカバーを発表しているし、2007年にはグラミーの生涯功労賞(いわゆる殿堂入り)を、そしてこの間の2010年のグラミーでは新譜Potato Hallで最優秀R&Bインストロメンタルアルバム賞を受賞し、今なお精力的に活動中。

 その彼のライブ、例によってセットリストを強請りましたが、

Booker_t_setlist

 

これはセットリストというよりいつでも演奏できる準備万端曲リストといった感じで、順番、選曲とも全く違うものでした。

 バックが初めに出てきて“Hey Ya!”のフレーズを演り、それに乗ってブッカー登場。

 小さなライブステージ、ブッカーは向かって左端の木製オルガンに腰を据えます。

 上のリストの一曲目ではなく

 1“She Breaks”,2 “Warped Sister,” 3“Green Onions”の順で始まりました。

 GreenはMGsの代表曲の一つ。彼のオルガンのスタイルは変わっていません。ボロく見えるオルガンで、多少の和音を交えたシングルノートを淡々と奏でます。インストで、なおかつ彼みたいに独特のスタイルを持っている人の曲は説明しにくいですね。とにかく皆さん一度は耳にしたことある曲でしょうけれどね。

 ここでライブ主催会場からのサプライズ、今回のグラミー受賞を祝して彼の似顔絵がクリームで模られたケーキが披露されました。間近で見られた小生も含めてオーディエンスは大笑い、本人は照れ笑い。

 ここで彼はオルガンから立ち上がりステージ中央に移動しアコースティックギターを手にしました。ヒットしたのはオルガンインストばかりですが、彼はギターもやるし、歌もうまいんです。

 4曲目は”Born under a Bad Sign”。スタックスの代表的な男性シンガーの一人、アルバート・キングがオリジナル。クラプトンも大好きでクリームのカバーでもお馴染みかもしれません。作詞作曲はブッカーで、アルバートのバックもMGsがつとめました。

 リタ・クーリッジも無名時代にブッカーのプロディースの下でカバーしていて、ライブでも必ず取り上げます。そのリタが同時期、バックコーラスで参加していたStephen Stills “Love the One You’re with”。「愛する娘が遠くに行っちゃったなら、隣にいる娘とやっちゃいな」という、ヒッピー文化賛歌みたいな内容でも有名ですが、イントロと間奏ではいるかっこいいオルガンソロでも知られている。このオルガンを弾いていたのもブッカーなんですね。そういう西海岸系の人たちからもリスペクトを受けていますし、他にもいろいろなセッションに参加しています。

 5曲目”Ain’t No Sunshine”。故ビル・ウィザーズの71年のヒット曲、書いたのはビルですが、アルバム全体をプロデュースしていたのがブッカーで、バックはMGsでした。これもグラミーの最優秀R&B楽曲賞を受賞している。”I know, I know…”20回くらい繰り返すことで、同じフレーズが繰り返される最多回数ヒット曲、という珍記録も持っています。もう10年以上前になりますか、ジュリア・ロバーツ、ヒュー・グラントの「ノッティングヒルの恋人」でも、大スターのジュリアに会えないヒューが雨降る夜道をとぼとぼと歩く場面で効果的に使われていました。

 6曲目”Jamaica Song”はブッカー自身のギター、ヴォーカル曲として最も知られているもの。

 7曲目”Take Me to the River”。あのトーキングヘッズのデビュー曲としてつとに有名ですが、オリジナルはアル・グリーン。トーキングヘッズのデビューのときは、トーキングヘッズがアルの曲をカバーし、アルのアルバムにトーキングヘッズが曲を提供するというバーターをやったことで話題になりました。この曲はブッカーとは直接の関係はないようです。アルもメンフィスを中心に活動していましたが、スタックスではなく、もう一つの

流れを作っていたハイ・レーベルにいました。まあメンフィスソウル繋がりということで。

 8曲目、”Dock of the Bay”。出ました。オーティス・レディングの大ヒット。これはオーティスとスティーヴ・クロッパーの共作曲です。曲終わりはあの有名な口笛でオーディエンス全員参加。

 ここでまたオルガンに戻り、例のグラミー受賞アルバムの表題曲 Potato Hallが始まりました。やっぱりスタイルは変わっていない。彼のヒット曲の一つに”My Sweet Potato”というのがあり、それへの自らのアンサーソングといった感じです。3曲目の”Green Onions”には”Mo’ Onions”という曲があり、やはり南部の農作物への拘りがあるのでしょうか。Potatoには恋人の意味もありますけどね。

 ここから終わりまで11 “Soul Limbo”, 12 ”Hip Hug Her” ,13 “Hang’em High”, 14 “Time is Tight”と怒涛のごとく彼の代表曲が続きました。

 12は萩原健太さんがNHK-FMで長く続けた夜、夕方のオールディーズ番組のしゃべりのバックに使っていた曲。

 13 「やつらを高く吊るせ」とは同名のクリント・イーストウッド主演の西部劇のテーマ、マイナーコードが日本人好みでかっこいい。絶対聴いたことありますよ。「あ、あれだ!」って。

 いったんブッカーだけ引っ込みましたがバックは引っ込まず、ブッカーは再登場。オルガンではなく再びアコギを持ってステージ中央に来ます。

 アンコールは”Hold On I’m Coming”でした。Sam & Daveのあの曲。これもスタックスから出ていたレコードでした。曲を書いたアイザック・ヘイズもスタックス出身。バックもMGsでした。

 「この曲は『キヨシロ』に捧げる」と言って、曲の途中でも何度も「キヨシロ、キヨシロ」と叫んでいました。筑紫さんを追うように癌で逝ってしまった忌野清志郎、このサム&ディヴ、オーティス・レディング、そしてブッカーらスタックスのサザンソウルをこよなく愛していて、ブッカーとも親交があったようです。自分をリスペクトしてくれた彼に哀悼をこめて。

 ちなみに小生、忌野さんと誕生日が同じです。他にマーヴィン・ゲイ、レオン・ラッセルの誕生日でもあります。何か共通点はあるかな?

 終了後のサイン会、お疲れ、汗を拭き拭きながらもニコニコして応じてくれました。気のいいお爺ちゃんって感じ。あれ?克也さんよりもちょっとだけだけど若い。意外だなあ。

p.s. ベストヒットのスタッフの皆さん、ジェームス・イングラムはクィンシー・ジョーンズの『愛のコリーダ』(原題The Dude)アルバムの中の”Just Once”, “One-Hundred Ways他でリードヴォーカルをとっていますが表題曲「愛のコリーダ」には直接関わっていません。まあ、そんなことは百も承知でバックに流していたのかな。

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2009年8月 2日 (日)

Old Friends

セントラルパーク・コンサート [DVD]

サイモン&ガーファンクル、日本ツアー第一回目を観ました。

 外タレ日本縦断ツアーの場合、ここ名古屋は大抵最終日に回される。東京や大阪みたいに2,3回の公演は必要なく一回だけですむし、そのくせ国際線が整備されているから翌日すぐ帰国できるからですね。

 今回はその逆、というわけです。来日してすぐ初日。今回はニュージーランド、オーストラリア、日本というツアーで、オーストラリアからの飛来ですから来易さもあったかもしれません。

 会場はドラゴンズがロード中のドーム球場。

 観客の年齢層は高い高い。小生の父親かと思うような方々もかなりお見受けしました。

 それでもアリーナ、外野ともいっぱいになり、終了間際には要所要所にガードマンが。その制止を振り切って、ミキサーさんに近づいてセットリストの余りを強請る私はいったい何者なのでしょう?ただし今回は、大人の方が多かったためか、ライバルが少なく比較的容易にもらえましたね。ただし名古屋のではなくその数日前の日付のシドニー公演のものでした。ここでは演られなかった曲も含まれています。他の場所では演った可能性もある曲ということですね。

Simon_garfunkel_nagoya_setlist

 ACT 1

 スクリーン映像から始まりました。「アメリカ」のメロディに併せて、高校生のときの初めてのライブの写真、彼らの全盛期のレコーディング中のスタジオ映像から、その同時代の世界の流れを象徴する映像、ニクソン、ブレジネフ、毛沢東、鄧小平、ネルソン・マンデラ、ゴルバチョフ、ベルリンの壁崩壊…(911事件はありませんでした。ニューヨーク出身の二人としてはまだ拭い去れない思いがあるのでしょう)

 そしてスポットライトがステージへ。観客がスクリーンに目を奪われている間にいつの間にか登場した二人。最初の曲はリストのとおりOld Friends でした。ポールのギター一本で。

Old Friends

 ここでひとつ、僕の予想が外れました。彼らは「あの曲」を発表して以来、二人のライヴは必ず「あの曲」で始めていました。それがそうではなかった。そこに今回の意味があったのです。

 2曲目から彼らがスクリーンに大写しになり、演奏もフルバンドになりました。2曲目「冬の散歩道」は、カバーしたバングルスのものから逆に影響されたのではないかと思うほど、エレキのツインギターで80年代っぽいアレンジでした。ここら辺、往年のファンはびっくりしたのではないでしょうか。その後もそういうのが続きます。

 しかし一旦はポールのアコギの連続和音ハマリングが印象的な”…Rock”。そして再び今度は彼らのヴォーカル入りの”America”

Bookends

 ここですこし間が空き、ポールが「僕の『古い友人』アーティだよ」とガーファンクルを紹介し、ガーファンクルが後方に用意されたベンチに腰掛け、ポールのギター一本、アーティのソロボーカルで、”Kathy’s…”

Sounds of Silence

 この連続する二曲にキャシーという女性が登場しますが、ポールの最初の恋人で、彼がイギリスに放浪するときにも後ろ髪引かれながらアメリカに置いてきた人ですね。

 この辺りから、今回のテーマ『古い友人』がクロースアップされます。

 アーティが「僕たちは高校で出会い、二人で曲作りを始めて、学校のパーティで演奏したんだ、こんな感じだったよ」と、”Hey Schoolgirl”。一分にも満たない短さでした。でもこの曲は1957年に既にローカルヒットになり、「トムとジェリー」という名で「アメリカン・バンドスタンド」への初出演も果たしているんですよね。そして「エヴァリー・ブラザースと一緒に、こんなのもカバーして遊んでいたんだ」と短くジーン・ヴィンセントの”Bee-Bop…”を。

Parsley, Sage, Rosemary and Thyme

 お遊びコーナーから、昔ながらのファンには涙物のコーナーへ。美しい反戦歌”Scarborough…”

 60年代末から70年代のフォークギター少年たちが挙って手本にしたポールでしたが、彼の双方には二つ特長があると思います。一つはツーフィンガーピッキング奏法といって、普通なら親指、人差し指、中指の三本でやる分散和音を親指、人差し指の二本でやってしまうこと、もう一つはギターのチューニングを変えずに不思議な響きの和音を発明すること。このあたり、チューニングを滅茶苦茶に変えることに命を賭けているようなスティーヴン・スティルスと違うところですが。この曲の美しいイントロのコピーにみんな苦労したみたいですね。

 そして、やはりポールがイギリス放浪中に故郷への慕情を歌った「故郷に帰りたい」。その週の『英語でしゃべらないとJr』(子供とちゃんと拝観してますよ)のWake Up Songのコーナーでも取り上げられていました。この来日にあわせた選曲だったのでしょうね。

ACT

 ここでまたスクリーンにオリジナル映像が映し出されました。今度は70年代以降、彼らのソロアルバムのジャケットの変遷や、アーティが一時映画俳優をやっていたときの映像など、そして「卒業」の若きダスティン・ホフマンが流れ、そのテーマ”Mrs. Robinson”へ。

The Graduate (1967 Film)

 さっき、彼らがライヴで必ずオープニングにしていた「あの曲」というのが、実はこれなんですね。伝説の81年のセントラルパークでのリユニオン・コンサートもそうでした。つまりここから前半とは別の第二幕がはじまる、という意味もあったのでしょう。

 ポールが「今にして思えば、アーティと一緒に録音すればよかったと思っている曲だよ」とMCが入って”Slip, Slidin’…”。これは1977年のポールのソロのベスト盤『エトセトラ』に入っていた曲ですが、ポールのこのコメントは僕にとっては実にうれしかった。僕も同じように、S&Gでやるべきだと思っていたし、そのセントラルパークで初めて二人でやったヴァージョンを聴いたとき、やっぱり正しかったと思っていました。

 そしてフォルクローレ「コンドルが飛んでいく」。アメリカでは中ヒットでしたが日本では最も売れたシングルだけあって、このとき一番拍手が大きかったです

Scissors Cut Fate for Breakfast

 ここでポールは引っ込んでしまい、アーティのソロのミニコーナーになりました。名古屋でやられたのは、”Bright Eyes”, ”Heart in New York”, ”Perfect Moment” “Now I Lay Me Down to Sleep”4曲でした。1979年イギリスで最も売れたシングルになった”Bright…”。そして、確かに「この曲をマイケル・ジャクソンに捧げます」と言って” Heart in…”を歌い始めました。アーティがソロ時代、ジミー・ウエッブに次いで好んで取り上げたギャラガー&ライルの曲で、丁度セントラルパークがあった81年に発表された、唯一の新曲として歌われた、アーティにとっては自信作でしたがあまり売れなかった曲。しかし、インディアナ生まれ、LAに移ったモータウンに育ち、LAで亡くなったマイケルに、どのような思いをこめてNYの曲を歌ったのでしょう?

 ニューヨーク、君の頭には金のことしかないんだね

New York, You got money on your mind

  And my words won’t make a dime’s worth of difference

 僕が何を言おうとも、1ダイム貨の価値にもならない。

So here’s to you New York

 そんな君に乾杯、ニューヨーク

歌詞のこの辺りが、商業主義の犠牲になったマイケルへの追悼、ということだったのでしょうか。

 “Perfect…”は比較的新しい2002年の”Everything has to be Noticed”からの、”Now I…”子供向けファミリー・アルバムからの曲でした。

 そして「僕の『古い友人』ポール・サイモンです」と紹介して、アーティは引っ込みました。ここからポールのソロのミニコーナーでしたが、古いS&Gしか知らないできた人はびっくりしたのではないでしょうか。

The Essential Paul Simon One-Trick Pony

 ここでは共に1986年の『グレイスランド』からの” The Boy in the Bubble”,”Diamonds on the Soles of her Shoes”が披露されました。南アフリカのリズムを取り入れて、ステージ上は物凄く暑くなった瞬間でした。

 ポールは、S&Gでも先程の「コンドル…」ではフォルクローレをやったし、ソロとしてのファーストシングル「母と子の絆」ではクラプトンが”I Shot the Sheriff”を演る前にレゲエを取り入れたし、ゴスペルも何曲か、そして上のリストには載っていますが残念ながらここでは演奏されなかった”Late in the Evening”ではカリプソをやった。ワールドミュージックへの飽くなき追求をしていたのですが、『グレイスランド』のときはまだ南アフリカ共和国がアパルトヘイト政策を採っており、そこのミュージシャンと共演したことで非難を受けたりしました。

 今回もリズム体にソエトやプレトリア出身の人をバックに従えていました。このパートでは、小生の父親世代の人たちは乗り切れなかったのではないかと思います。

 S&Gのレパートリーに戻って“Only Living Boy in New York”からバックにアーティが控えめに戻ってきました。

“My Little Town” 1975年に二人が共演で録音し、別々に二人のソロアルバムに収録され、トップ5ヒットになった曲です。

Still Crazy After All These Years Watermark

 彼らは70年の『明日に架ける橋』のアルバムに収録する数曲に関して意見対立を起こしていったんコンビを解消しますが、これはロックバンドにありがちな正式な解散ではなく、その5年後に「サタデイナイトライヴ」で競演し、それを切っ掛けにこの曲を録音し、またその2年後にアートのアルバムでサム・クックのカバー”Wonderful World”で競演しているし、その4年後には例のセントラルパーク、とちょくちょく繋ぎは取っていたんですね。そして今回。まさに腐れ縁の「古い友達」だったわけです。

 “My Little…”の楽譜をはじめてみた時に驚いた覚えがあるのですが、常識を無視した不規則な転調の連続でした。ところが全く不自然に聞こえない、ポールの曲作りの妙ですね。

Bridge Over Troubled Water

 そろそろオーラス。名曲「明日に架ける橋」。アーティがコーラス部分を除いて一人で歌ったレコードと違って、二番目の When you’re down and out…からはポールがリードを取りました。

 大拍手の中、一旦引っ込んで、再登場。

Wednesday Morning, 3 AM 

 アンコール一曲目は”Sound of Silence”

ここまで聴いて、この曲がアンコールに来ることは十分予想できていましたが、それを同演奏するのか興味がありました。この曲のオリジナルはアコギ一本の素朴な音、だけどポールがイギリス放浪中に知らないうちに大ヒットになっていて、ラジオで聞いて驚いた。それにはエレキの12弦とドラムが被さっていたからだ。

 セントラルパークでも、アコギ一本で演っていました。でも今回は、これだけ現代的なアレンジを取り入れてきたのだから、どういう演奏になるか?

 結果。エレキは入りませんでしたがドラムスは入ってきました。それでもオリジナルとは違い、音に厚みが出てより今っぽく聞こえました。

 その後、「ボクサー」を演ってもう一度引っ込む。まだ拍手が鳴り止まず、またまた登場し「若葉の頃」をしっとりと、「セシリア」を総立ちで派手にやり、拍手の中、メンバー全員を紹介して終了しました。

 本当に、「古い友達」の二人の、喧嘩を含めた友情の総括、といった感じでした。

 克也さんと同い年の二人、ポールはいまだに指は細かく動いてますし、アーティの「天使の歌声」といわれたあの高音も健在で、まだ何かやってくれそうです。克也さんもがんばりましょうね。

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2009年6月15日 (月)

We'll Never Have To Say Goodbye Again

 入院中の病室で書いています。

 以前にも書きましたが、二度目の入院です。

 大手術入院中でも病室で連載を続けた海老沢泰久氏の気分を味わうために。

From the Inside

 あるいは、1977年から78年にかけて麻薬中毒と極度の鬱病に襲われて精神病院に長期入院を余儀なくされ、病室で抱いた看護婦への妄想とか、退院した後の将来への不安とか、精神病院をテーマにしたコンセプトアルバム From the Inside を、当時エルトンと仲違いしていたバーニー・トーピンと一緒に作ったアリス・クーパーの気分を味わうために。

 なかなか希な機会だとは思いますので。あまり多かったら困るけど。

 私の場合は検査入院なので、気楽なもんですが。

 ある人に言わせれば、病院とは、生きて出て行くか、ダメで戻れないか、そういうところだと割り切れ、と。

 そんな中で、縁起でもない(?)話題を書きます。

 アーティストの訃報。

 2回前の記事でしたか。ジャーニーの新加入ヴォーカルがフィリピン人だということで、フィリピンの不思議な音楽事情にちょっと触れ、日本以上に70年代、80年代のお洒落ポップスが受け入れられている国かもしれない、と書き、このグループを紹介しました。その時の本文をそのままコピペします。

これまた70年代に活躍した、
爽やか系ポップスで「秋風の恋」などヒット曲も多かった男性デュエット、
イングランド・ダン&ジョン・フォード・コーリー。
これも90年代後半になってフィリピンでブームと呼ばれたくらいCDが異常な売り上げをして、30年近く音楽から身を引いて宗教活動をしていたジョン・フォード・コーリーが復活して、彼の場合移住までは至っていませんが毎年フィリピンでライヴをして、フィリピン向けのアンソロジーCDが発売されたりしています。

ちなみに相方のイングランド・ダンことダン・シールズは、カントリーに転向して成功するなど音楽活動は続けていて、彼は「想い出のサマー・ブリーズ」などの大ヒットがある、もう一つの男性デュオ、シールズ&クロフツのジム・シールズの実弟なのですが、現在はその兄弟がSeals & Sealsとしてデュエットで活動しています。

Nights Are Forever Summer Breeze

 その後に知ったことなのですが、このイングランド・ダンことダン・シールズは既に鬼籍に入っていたとのことでした。知らなかったこととはいえ、申し訳ありませんでした。

 今年の325日逝去。悪性リンパ腫のため。

 70年代後半、カーペンターズやバリー・マニロウなんかに代表されたアメリカ産良質ポップスの流れを汲んだ人たちでした。

 このシールズ兄弟を中心とした、二つのデュエットチーム、家族的な繋がりがあったことは当然想像できるのですが、もう一つ、宗教というより大きな次元でつながっていました。

 そして音楽的ルーツも、50年代にまで遡れます。

 このシールズ兄弟、ジョン・フォード・コーリー、ダッシュ・クロフツは、バハーイ教(表記方法は諸々あるようです)信者でした。

 論じるほど詳しく知りませんし、入りすぎて間違ったことを書いて問題を起こすといけませんから簡単な記述に留めますが、イスラム圏で誕生したもののキリスト教に近い教義を持ったために迫害を受け、信者が世界中に散らばった歴史を持つようです。人種を超えた融和(ジム・シールズの奥さんはアフリカ系)、博愛、絶対平和が教条の柱のようで、司祭など信者の中で階級が全く存在しないのも特徴のようです。

 シールズ&クロフツ、イングランド・ダン&ジョン・フォード・コーリーのレコードの中ジャケには、必ずこのバハーイ教の宣伝が出ていました。

 小生は日本でのバハーイ教信者だという人に一人だけ出会ったことがあります。156年前、大学教員として駆け出しの頃、東京の某私立大学の学生さんでした。その人は、シールズ&クロフツは知っていましたが、イングランド・ダン…は知らなかったようです。もっと、日本にはどれくらい信者がいるのかとか、訊いておけばよかった。

 そしてその音楽的ルーツとは。

 この連載で数年前にチラッと書いたことがある、チャンプス「テキーラ」なのです。

 その時の文章も持ってきてしまいましょう。

 

さて、この流れで、ビルボード誌が最も歌詞の短いNo.1ヒットとして記録しているのは何でしょう? 

50年代の、チャンプスというグループの、「テキーラ」という曲です。聞いたことありますか?テキーラ!という掛け声しか入ってない。

 この曲についてもいつか書く機会があるかもしれません。

なんと20069月の記事でした。その後始末を今回することになろうとは。

このチャンプス、大人数のグループでしたが、全員がバハーイ教信者、ということで繋がっていたのです。シールズ&クロフツもこのチャンプスに参加していました。

 ここから派生したシールズ&クロフツは70年代前半になって、既出の「思い出のサマー…」や「ダイアモンド・ガール」、アメリカの大学の卒業式の「贈る言葉」並みの定番となった「この道はひとつだけ」などヒット曲を連発しました。

 シールズ…は、中近東の弦楽器を取り入れてみたり、曲としても宗教色が強く出ていたものがありましたが、70年代後半になって全盛期を迎えた弟のイングランド・ダン&ジョン・フォード・コーリーは、時代の流行にうまく乗ったハーモニーを生かした爽やかポップス、「秋風…」の外にも「眠れぬ夜」「愛の旅立ち」、トッド・ラングレンのカバー「愛の証」などトップ10ヒットを連発しました。

Dowdy Ferry Road

 テキサス生まれながらなぜかイギリス訛りで喋っていたことから付いたあだ名。

 80年に入って解散。ジョン・フォード・コーリーはソロアルバムを出した後、宗教活動に専念し音楽の世界から遠ざかります。その間、バハーイ教からキリスト教に改宗したようです。それが運命のいたずらでフィリピンで復活したことは2回前に書いたとおり。

 イングランド・ダン・シールズは音楽を続け、80年代に入ってもデュエット時代の延長で、TOTOのメンバーをバックに従えたソロアルバムを作ったりしますがセールス的に成功できず、カントリーに転向して、80年代半ばから90年代にかけて大成功を収めます。これまた去年逝去したポール・デイヴィスとコラボレートしたり、マリー・オズモンドとデュエットしたり。

 そして近年、全盛期にはなかなか共演しなかった兄貴のジムと兄弟デュオユニットで活動し始めて古いファンを喜ばせていた、そんな最中でした。

 ちなみに小生がダン・シールズの訃報を知ったのは、ケーシー・ケイサムのカウントダウン番組でした。アメリカントップ40の黄金期に自分自身が紹介していた、自分よりも何歳も若いアーティストの訃報を、30年後に自分が読むことになる、などと想像していたでしょうか。

 小生でさえ、自分より若いアーティストの死を既に何度も見ているわけですから、克也さんは尚更でしょうね。でもまだケーシーに追いつくには10年ありますよ、克也さん。

 もう一つの、昔の記事の後始末。なんとこの連載第二回目、つまりこの克也さんサイトが産声を上げた直後のものです。20058。これも直コピペ。

御巣鷹山の墜落では、日本の洋楽ファンなら知る人ぞ知る悲しい損失がもう一つあるのですが、今日は長くなってしまったのでいずれ機会があれば。

 また今年も夏がやってきます。

坂本九に次ぐ、日本の洋楽ファンにとっての85年日航機墜落事故の損失とは。

 実はこの機に、このイングランド・ダン&ジョン・フォード・コーリーの日本ファンクラブ副会長が搭乗していて、やはり犠牲になっていたのでした。女性で、新婚旅行の最中でした。やり切れません。

 We'll Never Have To Say Goodbye Again 彼らのヒット曲の一つ、「愛の旅立ち」の原題です。もうさよならなんて言う必要ない、恋人同士の仲直りの曲。

 そんな誓いを立てた恋人同士が添い遂げたとしても、人間である限り、どうしても死別のさよならはあるのですよね。

Some Things Don't Come Easy

 諸行無常。

 病室の窓から外の緑を眺めて、ついそんなことにも思いが及んでしまいました。

 でも小生はまたすぐ戻ってきますからね。克也さんのように。

Tequila: The Champs Greatest Hits

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2008年2月14日 (木)

Where Have All the Flowers Gone?

どなたでもご存知の歌ではないでしょうか。学校の音楽か英語の時間にも出てくるような。

THE NEW FRONTIERS sing THE KINGSTON TRIO  古いフォークソングですね。曲を書いたのはピート・シーガー。ピーター、ポール&マリーが演奏しているのを聴いて、キングストン・トリオが録音,それで広く世に知られるようになりました。1962年のこと。

 そのキングストン・トリオのメンバーだった一人が、天に召されました。ジョン・スチュアート、2008119日逝去、享年68歳。

 現在なら同姓同名のテレビコメンテーターが人気のようですが、僕にとってはあくまでも、ジョン・スチュアートといえばミュージシャンのジョン・スチュアートです。ちょっとの時間ですが会話したこともあるんですから。

 キングストン・トリオといえば、フォークのルーツ的存在。56年に「トム・ドゥーリー」という大ヒットがありました。実在した、南北戦争のときに南部側に従軍していたミュージシャンの話。戦争が終わったあと、何人かの女性と関係を持ち、結婚もしますが、その相手が刺殺されてしまった。その相手に最後に会っていた人物としてトムは嫌疑をかけられ、逃亡するが捕まってしまい、証拠不十分のまま絞首刑にされた。

 “Hang down your head Tom Dooley, Hang down your head and cry…”

ジョンがキングストン・トリオに参加したのは61年からですからこの曲とは直接にはかかわっていません。

 ジョンが参加したあとの「花はどこへ行った?」の大ヒット。その後のヴェトナム反戦運動のアンセムになります。

 そしてジョン・スチュアートといえば、モンキーズのナンバー1ヒット、「デイドリーム・ビリーヴァー」の作者でもあります。ジョン自身も何度か録音していますが、みなモンキーズとはだいぶイメージが違うもの、やはりギター一本のバックのフォーク調のアレンジ、彼の野太い低い声で渋いです。

John_stewart_lonesome_picker_rises_  70年代、シンガーソングライターブームの中で、”California Bloodline” “Lonesome Picker Rises Again”などという、その筋では名盤と評価されているアルバムを発表しますが、セールス的には表舞台に立っていたというわけではありませんでした。

 そんな彼がソロとして大ブレイクしたのが79年。

 当時全盛期だったフリートウッドマックのリンジー・バッキンガJohn_stewart_bomb_away_dream_babiesが彼の大ファンで、彼のプロデュースを買って出ます。私生活での行き詰まりを超えて音楽上でのパートナーであり続けると決心したスティーヴィー・ニックスとともに全面的にバックアップし、”Bomb Away Dream Babies”というアルバムを発表します。それまでの彼の音楽性とは外れた、洗練された、当時流行のフリートウッドマックの音に彼の野太い声が乗っかった感じ、でもこれが最大のヒットとなり、” Gold”というソロとして唯一のトップ10ヒットも生まれます。

The Best...So Far  同じ79年、アン・マレーが「デイドリーム・ビリーヴァー」をカバーしたり、日本でも確かカメラのテレビCMにモンキーズのオリジナル曲が使われて俄かブームが起こり、当時は引退して競馬騎手になっていた元メンバーのデイヴィー・ジョーンズが鳴り物入りで来日したりしていました。

 ちなみに、デヴィッド・ボウイの本名がデヴィッド・ジョーンズで、彼がその名前を変えなければならなかったのはこのデイヴィー・ジョーンズがいたからでした。閑話休題。

 そんなこんなで、79年、ジョン・スチュワートは結構儲けた年でした。

 僕がそんなジョンに会えたのは2001年の早春。今のブッシュ大統領が就任した頃でした。

 小さな会場でライヴをやってくれました。

 バックは一人もいない、彼の声と12弦ギターだけ、僕が今まで観た中でももっともシンプルな構成。

 観客も数十人しかいないし、コアなファンしか来ていない。そのこじんまりさを活かして、フロアからのリクエストにどんどん応えるなど、渋いながらもアットホームなライブでした。

 僕はフロアから”Gold!”と叫びました。「へえ、君たちはGoldを知ってるのか」といいつつ、12弦ギター一本のみでのアコースティックな”Gold”をやってくれました。これは彼の基本に戻ったアレンジですね。

 最後は「デイドリーム・ビリーヴァー」、「今の魂のない音楽に満足してるかい?」と話しかけつつの弾き語りでした。

 ライヴのあと、サインをねだりに行きました(相変わらずミーハーや)。僕は”Bomb Away Dream Babies” “Lonesome Picker Rises Again”CDを持っていました。今では両方とも貴重で、”Lonesome...”の方は日本で再発されたのみ、”Bomb Away…”の方はアメリカのマイナーな再発レーベルからほんの短期間に発売されていただけだったので、彼はそれを持っていることに感心したようで「どうやって手に入れたのかね?」といいながらサインしてくれました。

 ちょうど同じ頃、NHKBSで、「この歌に歴史あり」みたいなシリーズがあり、克也さんのナヴィゲートで「花はどこへ行った」の特集をやり、克也さん自身は取材されなかったのでしょうが、ジョンが出てきて思い出を語っていました。

 ヴェトナム反戦で民主党(アメリカ)が分裂したのが1968年、なんか今年の大統領選挙の予備選挙も、それを髣髴とさせるものがあります。

 その邂逅の2001年のあとのアメリカと世界に何を思って、彼は天に昇ったのでしょうか。

 また一人、巨人が旅立ちました。合掌。

 

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2007年9月28日 (金)

Boulevard of Broken Dreams

American Idiot

  グリーンデイだと思うでしょう? ところがどっこい。

 モバHo!導入でレギュラーで聴けるようになったもう一つの克也さん番組、DJ Koby’s Radio Showもネタにしていきましょう。

 922日にアーカイヴされたのは、トニー・ベネット。

 本年81歳。

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  去年80歳を記念して製作されたアルバム、「デュエッツ」でトニーと一緒に歌ったのは、 バーブラ・ストライザンドが一番、活動期間の長さ、音楽的ジャンルが近いとして、ほかはみんな畑違い。ベテランでは、エルトン・ジョン、ポール・マッカートニー、ジェームス・テイラー、 スティービー・ワンダービリー・ジョエル、エルヴィス・コステロ、スティング、ボノジョージ・マイケル90年代以降のスターでは、ディクシー・チックスK.D.ラング、ティム・マグロウ、セリーヌ・ディオン、マイケル・ブーブレ、ジョン・レジェンドなどなど。

 普通この手の企画なら、オケが最初にとられ、それが互いに顔を合わすことなく、別々のスタジオでヴォーカルを入れたものを編集で繋ぎ合わせる。80年代のポール・マッカートニーがスティービー・ワンダーやマイケル・ジャクソンとやったやつ、似たような企画だとフランク・シナトラの生前のデュエット・アルバムもそうやって作っていた。

 ところがトニーはこの製作では、デュエット相手がいるところなら、東海岸、西海岸、イギリス、ヨーロッパ、「追いかけます、お出かけならば、どこまでも」のザ・ベストテン生中継方針を貫いた。長年バックはこの人たちとしかやらないというラルフ・シャロン・トリオを引きつれ、アーティストのいる場所に押しかけて、オケを最初にとるやり方ではない、生演奏をバックに録音するという昔ながらのスタイルで作った。彼はコンサートでも、語りかけと歌を交える特徴がありますが、それがそのままCDで再現されている。”Stevie, wonderful”みたいなシャレを交えた掛け合いとか。デュエットパートナーに選ばれた若手たちは、こんな録音の仕方は初めて、と新鮮さに緊張したという。

 そう、彼は昔からスタイルを変えようとしない。

 そのスタイルは、一度は音楽業界から見放された。でも最近、なぜかまた求められ始めた。

 ペリー・コモのテレビショーからスターダムに登った彼。音楽の師匠はデューク・エリントンなど。すごい世代だ。

Tony_bennet_american_songbook  60年代には一年にアルバム3枚発売のペースを続け、ヒット曲も量産した。

 代表曲はなんといっても「想い出のサンフランシスコ」でしょう。

 ところが、ロックが全盛になり、音楽も多様化してきた70年代、彼のスタイルは時代遅れとなり、レコード契約も切られてしまう。

 この時期、私生活でも泥沼離婚を経験し、麻薬漬けになってしまった。この時期のことについて、彼は語りたがらない。

 それでも、子供にとってのよい父親として手本にならなければならないとの意識から、麻薬からは抜けられたという。

 そして90年代、スタイルは変わらないまま、再び脚光を浴びることになります。

 93年の、フレッド・アステアのカバー「ステッピン・アウト」ではプロモーションビデオに初挑戦し話題となり、アルバムもヒットし、若い世代のファンを開拓した。

 また少し時期はこれより後になりますが、ロッド・スチュアートの「アメリカン・ソング・ブック」三部作の成功など、その他もロックアーティストがトニーの世代の曲をカバーしたり、またマイケル・ブーブレやジョシュ・グローバンなど、トニーと同じジャズっぽい「クルーナー」を自称する若いアーティストが出てきたことも追い風になったのでしょう。

 95年にトニーは「MTVアンプラグド」に出演しCDも発表、グラミーの最優秀アルバム賞も受賞し、ますます若い世代のファンを獲得しました。

 80歳を超えて発表した「デュエッツ」からも判るとおり、若い世代からのリスペクトも並々ならぬものがあります。

Tony_bennet_in_the_studio  そんな彼、現在はニューヨーク、クイーンズ地区の自分の育った地域を一望できる高層マンションで、40歳以上年下の恋人スーザン・クロウさんと、趣味の絵を描きつつ悠々自適のようです。まさに「グッド・ライフ」(彼の代表曲の一つです)なんでしょうね。

 そうそう、それで、Boulevard of Broken Dreamsとは、1950年のトニー・ベネットのデビューヒットなのです。もちろんグリーンデイのものとは同名異曲。でも歌詞には同じフレーズが数箇所あります。グリーンデイのやつは、このトニーの曲ではなく、それ以前、1930年代にそういうタイトルの映画だか小説だかがあってそこからインスパイアされたのだといっていますが、トニーのその曲も結局出所は同じ、ということなのでしょう。

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2006年10月27日 (金)

Bo Diddley is Jesus

U2_rattle_and_hum1022日ベストヒット、タイムマシンで、“Rattle and Hum”「魂の叫び」のアルバムがイギリスのチャートで一位になった日ということでかかった、同名ドキュメンタリー映画からのU2「ディザイア」。


Kt_tunstall_eye_to_the_telescopeまだまだ記憶に鮮明の今年のヒット曲。今アメリカでは日本、イギリスと逆の順序で“Suddenly I See”が上がってきていますが、アメリカでの顔見世大ヒットとなったKT・タンストールの “Black Horse and the Cherry Tree”。僕もお気に入り、個人的に大プッシュ。

George_michael_faithワム!再結成を表明したジョージ・マイケル。去年の自伝映画での再会がきっかけになったのかな。今のところのソロの最大のヒット、85年の“Faith”

Neil_sedaka_laughter_in_the_rain_the_bes60年代のスターだったニール・セダカが長い停滞時期を経て75年に「雨に微笑を」で大復活しましたが、それに続く同年の全米ナンバー1ヒットの “Bad Blood”。エルトン・ジョンとのコラボでした。



Ace_frehley78年暮れ、KISSのメンバー四人全員がいっせいにソロアルバムを発表し、ジャケットも、一人一人の顔のアップで同じ、という企画がありました。その中で、メンバーの中では最も目立たない存在だったリードギターのエース・フレーリーがシングルで最大のヒットを出しました。イギリスのハローというグループのカバー、“New York Groove”

だんだんマイナーになってきてますか?

Eric_clapton_461_ocean_boulevard来日が待ち遠しいクラプトン。オリジナルはブルースのジョン・オーティスでしたが、“461 Ocean Boulevard”のアルバムの中で“I Shot the Sheriff” と一緒にカバーした “Willie and the Hand Jive”。ベストアルバムにも収められました。



Bruce_springsteen_born_to_runブルース・スプリングスティーンの75年の出世作、「明日なき暴走」“Born to Run”からのアルバムカット、“She’s the One”



Guns_n_roses_appetite_for_destructionGuns N’Roses、“Appetite for Destruction”の中からシングルにはならなかったけど人気のある“ Mr. Brownstone”

Kenny_loggins_yesterday_today_tommorrow__2最後は意外なところで、というか一番関連性が低いからなのですが、ケニー・ロギンスのご存知「フットルース」。同名サントラからの84年ナンバー1ヒット。




脈絡なく曲が並んだようですが、実は以上の曲は重要な共通点を持っています。

さて、なんでしょう?

これらの曲、リズムが同じ部分があるんです。

並んだ曲の数からわかるように、ロックで最もよく使われるリズムの一つです。

ジャ・・ジャ・・ジャ・・・ジャンジャン~

字じゃ分からないなあ。音符で表すにも変換ができなくて限界があるんだけど、♪を16分音符、/16分休符と考えて、♪/////////X/、みたいになるはずです。どれでも曲を思い浮かべるのが一番。二曲思い浮かべたら、ああ、似てるな、と思っていただければ。

このリズムはボー・ディドリー・シャッフルと呼ばれます。

Bo_didley_his_bestもちろん人の名前。ボー・ディドリーはロックの生みの親、ブルースからロックを分離した最初の世代といわれる人。

南部ミシシッピの出身。プレスリーと同時期に活躍した人で、55年には黒人として初めてエド・サリヴァン・ショーに出演しました。

彼自身の曲で有名なヒット曲があるわけではありませんが、とにかくそのスタイルで多くのアーティストからリスペクトされている。

86年にロックの殿堂入り。

Who_magic_busThe Whoも“Magic Bus”というシャッフルを使っている曲があるし、ライヴでボー・ディドリーのカバーを必ずといっていいほどやっている。

U2の「魂の叫び」も、成功した彼らの音楽的ルーツを探るドキュメンタリーであり、ボブ・ディランやBB・キングらと一緒にやっていた。そこに「ディザイア」が納めらえているのも、彼らのボーに対するリスペクトの現れでしょう。「ディザイア」は、荒いギターのストロークにハーモニカをかぶせる形で、ボー・ディドリーを忠実に再現していたといえます。

KT・タンストールも、この間のベストヒット出演で、あの曲はボー・ディドリーに捧げる意味もあった、と言ってました。

90年代、南部からのオルタナ系で活躍していた Jesus and Mary Chain にも“Bo Diddley is Jesus”というトリビュートソングがある。

同世代がどんどん他界していく中で、78歳の彼は存命です。去年はハリケーン・カトリーナの被害救済ライブにも登場した。真っ赤な派手な服、ハットにに大きなメガネ、相変わらずの風貌でした。

最近は曾孫にも囲まれ、信心に生きているようです。彼自身が神に近づいた?

彼ほど、一つのスタイルが後続のアーティストたちに影響している例はないでしょう。

この次はどんな曲が出てくるか。


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2006年3月23日 (木)

Garden Party

克也さんの名古屋通いは終わっても、このコラムは続けていいらしい。

 克也さんは、名古屋での11年間、契約に含まれた休暇を除いて、皆勤でした。新幹線が停車してひやひやしたことはあったようですが。お疲れ様でした。

 私もこのサイト開設以来、入稿を欠かしたことは今のところありません。理由は、自分の第一の趣味の音楽やラジオのことについて自由にエッセイできる楽しさが六割から七割ですが、後の残りはある種の強迫観念に駆られてのような気がします。

 他のレギュラー執筆者は、克也さんと一緒に仕事をされて、したがってかなりの頻度でお会いしている方々であるはずです。翻って小生は、業界の人間でもない、克也さんとお会いできたのは数えるほど、ハガキ職人から成り上がった名古屋のリスナーの代表みたいな立場でしかない。そんな奴が穴を開けると、忘れられて捨てられるぞ、みたいな感覚がどこかにあるんですね。

 どうしても番組からネタを拾うことが多くなる小生にとって、克也さん番組が毎日のようにある関東と違い、名古屋での唯一の番組がなくなることは、ネタ探しに多大なるダメージになること必至で、今後がますます不安です。それ以上に、前回も触れたようにZIP-FMおよびZip Hot 100は東海地区の音楽市場を開拓した功績があり、その意味で一つの歴史が終わろうとしています。

 それはさておき、その数少ない小生と克也さんとの邂逅の機会は、Zip Hot 100の名場面集にも繋がりますので、ちょっと思い出してみようと思います。

Randy_vanwarmer_the_best_of_1  最初に生克也さんにお目にかかったのは961016日(日付は多分これで間違いないと思うが)、名古屋では恒例郷土三英傑パレードが行われた日、Randy Van Warmerが番組ゲストと、スタジオ横サロンで見にライヴをしに来た日。そのライヴ観覧の抽選に当たっていきました。その前の週、テレフォンチャンスラインで青い野球帽を当てていて、スタジオの中、放送中の克也さんに、これです、これです、と合図して御迷惑をかけました。

 その後、97年の春ごろには、当時はZIPで、今は全国公営放送局のFMでご活躍中のY.M.さんとの土曜午後の短いトークショーがあったりしました。このころ克也さんは土曜日午前にも名古屋ローカルでテレビ番組「ビビデバビデブ」をやっていて、週二回、二日連続の名古屋往復だったんですねえ。Matt_bianco_rico

 それからやはり、9810月、ZIP開局5周年を記念しての一連のイベント。特にハードロックカフェからの公開生放送では小生もでしゃばって少し活躍しました。クイズやゲストのマット・ビヤンコへのインタなど。

 あとZIPとは関係ありませんが、0054日、池袋西武の屋上でのニッポン放送のビートルズの電リク生公開放送も忘れられません。この時は個人的には愚息が誕生したばっかりで、命名の相談にちょっと乗っていただきました。

 そして最後の大きなイベントになってしまうのは、去年417日、万博会場でやった公開放送。カウントダウンと、スクリーンに映るビデオやゲストのパフォーマンスで、聴覚と視覚が見事に融合していました。小生も、テレフォンチャンスラインの三択問題で、前の二人が間違えて最後の一つが残ったときに繋がって正解、というおいしい経験もしました。これで22回目の正解、これは記録でしょうが、それで最後になってしまうのでしょうか。

その日の記録が万博公式ページの日記に残っています。

http://www.expo2005.or.jp/jp/E0/E1/head/0417_004.htmlTopics0417p000zip3

Topics0417p000zip4  下に克也さんとモリゾーの2ショットがありますが、その上の来場者の写真で一番大きく写っている、右下の、赤いメッシュの野球帽、サングラス、黒いTシャツの首の太い男が、何を隠そうこの私です。

 この写真からもわかるように、この日は楽しいガーデン・パーティだったわけですが。Rick_nelson_greatest_hits_1

Garden Partyといえば、50年代は Ricky Nelson として”Poor Little Fool” ”Traveling Man”などヒットを放ったアイドルが、70年代はシンガーソングライター的になってRick Nelsonと名前を変えたときのヒット曲。克也さんはアイドル時代の彼のコンサートの司会を既にやっていたという。85年に飛行機事故でなくなってしまいますが、その遺児二人がNelsonを組み、90年代に “After the Rain” “Do You Believe in Religion”なんてヒット曲を放つ。その彼らが98年にスタジオにゲストに来て、お父さんのことで話が弾み、生演奏でこのGarden Partyをやりだし、克也さんも一コーラス歌わされましたね。Nelson_the_best_of

 そんな名古屋も、あと一回。

 前回の日記で触れられていた、「おしゃべり人物伝」、僕が印象に残っているのは柴田恭兵さんがやった沢村栄治の回、あと卑弥呼の回、この時は早乙女愛さんだったかな。いい番組でした。西田ひかるさんが似たような番組を続けましたね。92年頃は僕も番組制作の手伝いでNHKに入りびたりで、見学したことがあります。
リック・ネルソンの双子の子供たちネルソンが、目の前で父親のヒット曲のメドレーをやってくれた時、涙が止まらなかった。親父と声がそっくりなんだもん。誰かリッキー・ネルソンがすごかった頃を覚えている人いる?知らない人にいくら力説しても伝わんないよー-小林

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2006年3月10日 (金)

Rock'n 'Roll Heaven

名古屋へいらっしゃらなかった日曜日は有意義でしたか?

というわけでラジオがなかったので、例によってベストヒットUSAの話。

Elvis_presley  35日は1960年、エルヴィスが兵役から除隊した日。

 ジョン・レノンは、77年のプレスリー逝去の際に、彼は軍隊にとられた時点で死んでいたと思っていた、と発言しており、そう思うファンも少なくないようですが、彼にとってはやはり人生の転機で、従軍先のドイツでプリシラと知り合うんですよね。

 大滝詠一翁いわく、日本の洋楽文化はどんなに戻ってもビートルズどまりだけど、アメリカやイギリスはエルヴィスまで戻れる。そこに深みの違いがある。

 克也さんも言っていた、1956年のデビュー時の初テレビ出演はジャズのトミーとジミーのドーシー兄弟が中心のサタデーナイトバンドスタンドで、そこでアレンジャーとして仕事をしていたのがクィンシー・ジョーンズでした。彼の回想によれば、ある時突然、メンフィスから若者がやってきてリハーサルで歌ったら、ジャズ専門のバンドは合わないから怒りだして、特別にメンフィスから彼のバンドを呼んで出演させた。トミー・ドーシーは彼を評し、あんな奴すぐ消える、と言ったそうですが、反響の投書が1万通近くあった。その後、保守的なミルトン・バールのショーに出演したが、それにはその十倍もの反響、と言うか苦情が殺到した。バールはその数で彼がスターになると確信し、マネージャーのトム・パーカー大佐に告げた。その数日後、スティーヴ・アレンのショーに出演したときには、話題作りのための出演だったけどアレンがプレスリーのスタイルを嫌っていたため、初めてタキシードを着せられ、ハットを被った老ビーグル犬を指差しながらハウンド・ドッグを歌わされた。

 とにかく、腰グラグラ、膝ガクガクのスタイルは黒人にもなかった。若い世代は夢中になるが、親の世代は物凄く嫌悪した。とにかく、エルヴィスは音楽とアメリカ文化を変えた。

Elvis_presley_on_stage ところがその後の兵役。除隊後も、パーカー大佐の勧めで映画に多く出るようになるがその自分の活動に疑問を持ち始め、宗教に傾倒するようになる。そんな中で彼の転機となったのが二つ目の映像で流れた、68年のカムバックショー。当時では珍しかった、三メートル四方の小さなステージを360度聴衆が取り囲むスタイルを取り入れ、観客からの直の反応をビンビン受け取り、自分のスタイルを再確認する。克也さんは「使用前、使用後」と言うちょっと否定的な言い方をなさっていましたが、これも彼にとってはいい意味での変化だったのでしょう。

Blues_brothers_briefcase_full_of_blues そして、1982年歿のジョン・ベルーシの命日。レイ・チャールズとの競演のシーンが流れました。日本で最初に発売されたブルース・ブラザースのLPのライナー解説が笑えます。書いている人がジョンとダン・エイクロイドのことを知らなくて、コメディ路線のサウンドトラックだと気が付かず、真面目なカバーアルバムだと思って小難しく解説してる。

Andy_gibb_sadow_dancing そしてそして、ビージーズのギブ兄弟の末弟、アンディ・ギブの誕生日でもあった。


Marilyn_mccoo_billy_davis_jr_i_hope_we_gRex_smith_simply_rex_greatest_hits アンディ・ギブと言えば、まだ
MTVもなくてプロモーションビデオがそれほど作られていなかった時期に開始されたベストヒットUSAが元ネタに使っていた Solid Goldというテレビ番組のホストをしていて、時々ベストヒットにも登場していました。女性司会者はフィフス・ディメンションのマリリン・マックー。彼が病気になったあとは、やはりアイドルで、Sooner or Laterというソープオペラで人気が出て、You Take My Breath Awayというヒット曲もあるレックス・スミスが取って代わりました。

 今回の登場人物は、みんな帰らぬ人になっています。

Righteous_brothers_reunion Rock’n Roll Heavenは、ライチャス・ブラザースの74年のカムバックヒット。作者は山下達朗の英語詩の相棒のアラン・オディ。その時点で亡くなっていたロックスターたちに捧げる曲。

 「永遠を信じるなら、一生なんてほんの一夜興行さ。

  ロックンロール天国があったなら、彼らはバンドを組んで楽しくやってるさ。

  ジミヘン、ジャニス・ジョプリン、オーティス・レディング、ジム・モリソン

  ジム・クロウチ、ボビー・ダーリン、みんな別の演奏場所を見つけただけさ」

それにプレスリーやレノンやジョージやマーヴィンや、今回の人たちも加わる。
願わくば坂本九も。

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