60年代

2010年3月 3日 (水)

Hang’em High

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Stax_gold

「やつらを高く吊るせ」でお分かりの方はお分かりでしょうか。それにしても物騒ですねえ。

 ライブリポートです。基本的に古いアーティストのものが多いですが今回のは一番古いかもしれない。でも、一番新しいかもしれない。

 ブッカー・T・ジョーンズです。

 もうキャリアはかれこれ50年、影響を受けたアーティストは世界中に散らばっているでしょう。

 サザン(メンフィス)ソウルの中心だったスタックス・レーベルのそのまた中心だった人。素朴だけど力強いオルガン奏者。

 バックバンドだったMGsにはギターにスティーヴ・クロッパーがいたことでも知られている。スティーヴは映画「ブルース・ブラザース」の音楽を担当し、自らもブッカーと一緒に冷やかし出演している。

 でも、最近ではアウトキャスト“Hey Ya!”の独自の解釈でカバーを発表しているし、2007年にはグラミーの生涯功労賞(いわゆる殿堂入り)を、そしてこの間の2010年のグラミーでは新譜Potato Hallで最優秀R&Bインストロメンタルアルバム賞を受賞し、今なお精力的に活動中。

 その彼のライブ、例によってセットリストを強請りましたが、

Booker_t_setlist

 

これはセットリストというよりいつでも演奏できる準備万端曲リストといった感じで、順番、選曲とも全く違うものでした。

 バックが初めに出てきて“Hey Ya!”のフレーズを演り、それに乗ってブッカー登場。

 小さなライブステージ、ブッカーは向かって左端の木製オルガンに腰を据えます。

 上のリストの一曲目ではなく

 1“She Breaks”,2 “Warped Sister,” 3“Green Onions”の順で始まりました。

 GreenはMGsの代表曲の一つ。彼のオルガンのスタイルは変わっていません。ボロく見えるオルガンで、多少の和音を交えたシングルノートを淡々と奏でます。インストで、なおかつ彼みたいに独特のスタイルを持っている人の曲は説明しにくいですね。とにかく皆さん一度は耳にしたことある曲でしょうけれどね。

 ここでライブ主催会場からのサプライズ、今回のグラミー受賞を祝して彼の似顔絵がクリームで模られたケーキが披露されました。間近で見られた小生も含めてオーディエンスは大笑い、本人は照れ笑い。

 ここで彼はオルガンから立ち上がりステージ中央に移動しアコースティックギターを手にしました。ヒットしたのはオルガンインストばかりですが、彼はギターもやるし、歌もうまいんです。

 4曲目は”Born under a Bad Sign”。スタックスの代表的な男性シンガーの一人、アルバート・キングがオリジナル。クラプトンも大好きでクリームのカバーでもお馴染みかもしれません。作詞作曲はブッカーで、アルバートのバックもMGsがつとめました。

 リタ・クーリッジも無名時代にブッカーのプロディースの下でカバーしていて、ライブでも必ず取り上げます。そのリタが同時期、バックコーラスで参加していたStephen Stills “Love the One You’re with”。「愛する娘が遠くに行っちゃったなら、隣にいる娘とやっちゃいな」という、ヒッピー文化賛歌みたいな内容でも有名ですが、イントロと間奏ではいるかっこいいオルガンソロでも知られている。このオルガンを弾いていたのもブッカーなんですね。そういう西海岸系の人たちからもリスペクトを受けていますし、他にもいろいろなセッションに参加しています。

 5曲目”Ain’t No Sunshine”。故ビル・ウィザーズの71年のヒット曲、書いたのはビルですが、アルバム全体をプロデュースしていたのがブッカーで、バックはMGsでした。これもグラミーの最優秀R&B楽曲賞を受賞している。”I know, I know…”20回くらい繰り返すことで、同じフレーズが繰り返される最多回数ヒット曲、という珍記録も持っています。もう10年以上前になりますか、ジュリア・ロバーツ、ヒュー・グラントの「ノッティングヒルの恋人」でも、大スターのジュリアに会えないヒューが雨降る夜道をとぼとぼと歩く場面で効果的に使われていました。

 6曲目”Jamaica Song”はブッカー自身のギター、ヴォーカル曲として最も知られているもの。

 7曲目”Take Me to the River”。あのトーキングヘッズのデビュー曲としてつとに有名ですが、オリジナルはアル・グリーン。トーキングヘッズのデビューのときは、トーキングヘッズがアルの曲をカバーし、アルのアルバムにトーキングヘッズが曲を提供するというバーターをやったことで話題になりました。この曲はブッカーとは直接の関係はないようです。アルもメンフィスを中心に活動していましたが、スタックスではなく、もう一つの

流れを作っていたハイ・レーベルにいました。まあメンフィスソウル繋がりということで。

 8曲目、”Dock of the Bay”。出ました。オーティス・レディングの大ヒット。これはオーティスとスティーヴ・クロッパーの共作曲です。曲終わりはあの有名な口笛でオーディエンス全員参加。

 ここでまたオルガンに戻り、例のグラミー受賞アルバムの表題曲 Potato Hallが始まりました。やっぱりスタイルは変わっていない。彼のヒット曲の一つに”My Sweet Potato”というのがあり、それへの自らのアンサーソングといった感じです。3曲目の”Green Onions”には”Mo’ Onions”という曲があり、やはり南部の農作物への拘りがあるのでしょうか。Potatoには恋人の意味もありますけどね。

 ここから終わりまで11 “Soul Limbo”, 12 ”Hip Hug Her” ,13 “Hang’em High”, 14 “Time is Tight”と怒涛のごとく彼の代表曲が続きました。

 12は萩原健太さんがNHK-FMで長く続けた夜、夕方のオールディーズ番組のしゃべりのバックに使っていた曲。

 13 「やつらを高く吊るせ」とは同名のクリント・イーストウッド主演の西部劇のテーマ、マイナーコードが日本人好みでかっこいい。絶対聴いたことありますよ。「あ、あれだ!」って。

 いったんブッカーだけ引っ込みましたがバックは引っ込まず、ブッカーは再登場。オルガンではなく再びアコギを持ってステージ中央に来ます。

 アンコールは”Hold On I’m Coming”でした。Sam & Daveのあの曲。これもスタックスから出ていたレコードでした。曲を書いたアイザック・ヘイズもスタックス出身。バックもMGsでした。

 「この曲は『キヨシロ』に捧げる」と言って、曲の途中でも何度も「キヨシロ、キヨシロ」と叫んでいました。筑紫さんを追うように癌で逝ってしまった忌野清志郎、このサム&ディヴ、オーティス・レディング、そしてブッカーらスタックスのサザンソウルをこよなく愛していて、ブッカーとも親交があったようです。自分をリスペクトしてくれた彼に哀悼をこめて。

 ちなみに小生、忌野さんと誕生日が同じです。他にマーヴィン・ゲイ、レオン・ラッセルの誕生日でもあります。何か共通点はあるかな?

 終了後のサイン会、お疲れ、汗を拭き拭きながらもニコニコして応じてくれました。気のいいお爺ちゃんって感じ。あれ?克也さんよりもちょっとだけだけど若い。意外だなあ。

p.s. ベストヒットのスタッフの皆さん、ジェームス・イングラムはクィンシー・ジョーンズの『愛のコリーダ』(原題The Dude)アルバムの中の”Just Once”, “One-Hundred Ways他でリードヴォーカルをとっていますが表題曲「愛のコリーダ」には直接関わっていません。まあ、そんなことは百も承知でバックに流していたのかな。

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2009年12月16日 (水)

GET READY!

Gold

 あんまり間をおかずに行きましょう。

またまたライブリポートで、今回も懐かしや、テンプテーションズ。

正確に言うと、テンプテーションズ・レビュー。

以前にも、ジェファーソン・スターシップとか、アース・ウィンド&ファイアとか、エイジアとか、長くやってると人間関係がいろいろ複雑になり、バンドに出たり入ったりで、もともとは同じバンドだったものが枝分かれして南北朝時代みたいに本流と傍流が並存しているグループについて取り上げたことがありました。

実はこのテンプテーションズもそうなっているんですね。

本家テンプテーションズと、今回観たテンプテーションズ・レビューが並存している。

1960年代、フォートップス、スピナーズらと並んでモータウンの男性コーラスグループの柱と言われ、その中でも最もヒット曲が多く、そのフォートップスやスピナーズが70年代になってモータウンを見捨てて移籍して行ったしまった中、テンプスのみモータウンへの操を守り続けた。

しかしその分、メンバー交代も多かった。曲のキーによってリードヴォーカルも代えることができ、それでエゴのぶつかり合いもかなりあったという。

そんな中で、メンバーはどんどんソロになって、それなりにヒット曲を出していくようになる。

でも、オリジナルメンバーで主要だった人たちは今、殆ど鬼籍に入ってしまった。

エディ・ケンドリックス。

デヴィッド・ラフィン。

ポール・ウィリアムス。

メルヴィン・フランクリン。

1961年の結成以来、現在までテンプテーションズの看板を守り続けているのはオーティス・ウィリアムスのみ。

ところがこのオーティス、そんなテンプスの中で唯一、リードヴォーカルが取れないメンバーだった。

それで今の本家テンプテーションズは、オーティス以外90年代以降に入った人たちばかりでやっている。

Psychedelic Shack / All Directions

これに対して、テンプテーションズの名前を法的に使用できないからテンプテーションズ・レビューとしてやっている方を率いているのはデニス・エドワーズ。”Ball of Confusion” “Papa Was a Rolling Stone”などの大ヒットでリードヴォーカルをとり、70年代になってファンキーになった時期のテンプスを支えた人。

それに加えて、オリジナルメンバーのポールの遺児、ポール・ウィリアムス、ジュニアが入っていました。その意味で音楽的にもメンバーの血の流れの上でも、こっちのレビューのほうがよほど正統性を主張できるのではないか。

Look What the Lord Has Done

それはさておき、70年代を中心としつつも60年代から80年代まで30年間のテンプスの歴史を一瞥できるステージを見せてくれました。

Temps_setlist

 82年の、今は亡きリック・ジェームスの呼びかけで再結成し、彼のプロデュースを仰いだファンキーな”Standing…”から始まりました。

Live at the Apollo

 そして60年代に戻ったメドレー、”Get Ready”から。85年にホール&オーツがアポロ・シアターでのライブでエディ・ケンドリックスとデヴィッド・ラフィンをゲストに呼んでこの曲をカバーしてヒットして、それと同じことを同年の、世界数箇所で同時に行われ世界中に中継されたUSA for Africaをうけての「ライブ・エイド」で同じことをやったの、憶えている人、どれくらいいるでしょうか。

 このメドレーの中で、”Papa was a Rolling Stone”が早くも出てきてしまいました。代表曲をもう出しちゃっていいのかな。って感じ。

20th Century Masters: Millennium Collection

 その次に意外でしたが”Rainy Night in Georgia”はトニー・ジョー・ホワイト作、ブルック・ベントンという、50年代から活躍していたサザン・ソウルの人が70年に大ヒットさせた渋い渋い曲。以前はクラシックしか聴いていなかった若山玄蔵さんがいわゆる洋楽にハマったのはこの曲からだ、と言っていました。テンプスとしてレコーディングしたことはないようですが、ステージがアダルトな雰囲気になっていくのにうまい選曲でした。

 次の”Cloud 9”メドレーの中に、バラードのナンバー1ヒット”Just My Imagination”も出てきました。

 70年代のR&Bそのもので、みんな一曲の時間が半端じゃなく長い。その間にメンバーも客席に降りてきて、聴衆にマイクを向けてハミングをリピートさせたりしました。かく言う小生も、最前列正面に坐っていたので、マイクを向けられました。一番音を外さずに,他のお客さんから拍手をもらったのは小生じゃなかったかな。カラオケでもオンチじゃないほうですから。

 “The Way You Do…”60年代モータウン時代の代表曲、リタ・クーリッジもカバーし、上に書いたホール&オーツとのジョイントでもメドレーで使われた曲。

Essential Collection

 やはり67年の”Wish It Would Rain”に続いて、最後に全員が立たされて踊らされたのは、85年の”Treat Her Like a Lady”.アース・ウィンド&ファイアのアル・マッケィがプロデュースした80年代のテンプスのファンキーな最高傑作。ところがこの85年当時、デニスはテンプスから抜けていたんです。ソロとしてサイダ・ギャレットとのデュエットで”Don’t Look Any Further”という曲をヒットさせていました。そうなんです。後にマイケル・ジャクソンと”I Just Can’t Stop Lovin’ You”をデュエットでナンバー1にして、90年代にはブランニューへヴィーズに加入する、あの女性です。彼女を世に送り出したのはデニスだったんですね。

 その”Treat Her..の間奏がずっと続いて一旦引っ込み、また出てきた。上に挙げた、既に亡くなってしまったテンプスのメンバーの名前を読み上げ、一人ずつ合掌する。そして最後はやっぱり“My Girl”

 終了後のサイン会も、小生が歌ったのを憶えていて褒めてくれました。いい人たちだった。

 Get Ready.気が付いたら、2000年代の最初の10年も終わろうとしています。次の10年代への準備はできていますか?

 もし、年内に次の原稿ができなかったら・・・ハッピー・クリスマス!

Temps_autographs

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2009年8月 2日 (日)

Old Friends

セントラルパーク・コンサート [DVD]

サイモン&ガーファンクル、日本ツアー第一回目を観ました。

 外タレ日本縦断ツアーの場合、ここ名古屋は大抵最終日に回される。東京や大阪みたいに2,3回の公演は必要なく一回だけですむし、そのくせ国際線が整備されているから翌日すぐ帰国できるからですね。

 今回はその逆、というわけです。来日してすぐ初日。今回はニュージーランド、オーストラリア、日本というツアーで、オーストラリアからの飛来ですから来易さもあったかもしれません。

 会場はドラゴンズがロード中のドーム球場。

 観客の年齢層は高い高い。小生の父親かと思うような方々もかなりお見受けしました。

 それでもアリーナ、外野ともいっぱいになり、終了間際には要所要所にガードマンが。その制止を振り切って、ミキサーさんに近づいてセットリストの余りを強請る私はいったい何者なのでしょう?ただし今回は、大人の方が多かったためか、ライバルが少なく比較的容易にもらえましたね。ただし名古屋のではなくその数日前の日付のシドニー公演のものでした。ここでは演られなかった曲も含まれています。他の場所では演った可能性もある曲ということですね。

Simon_garfunkel_nagoya_setlist

 ACT 1

 スクリーン映像から始まりました。「アメリカ」のメロディに併せて、高校生のときの初めてのライブの写真、彼らの全盛期のレコーディング中のスタジオ映像から、その同時代の世界の流れを象徴する映像、ニクソン、ブレジネフ、毛沢東、鄧小平、ネルソン・マンデラ、ゴルバチョフ、ベルリンの壁崩壊…(911事件はありませんでした。ニューヨーク出身の二人としてはまだ拭い去れない思いがあるのでしょう)

 そしてスポットライトがステージへ。観客がスクリーンに目を奪われている間にいつの間にか登場した二人。最初の曲はリストのとおりOld Friends でした。ポールのギター一本で。

Old Friends

 ここでひとつ、僕の予想が外れました。彼らは「あの曲」を発表して以来、二人のライヴは必ず「あの曲」で始めていました。それがそうではなかった。そこに今回の意味があったのです。

 2曲目から彼らがスクリーンに大写しになり、演奏もフルバンドになりました。2曲目「冬の散歩道」は、カバーしたバングルスのものから逆に影響されたのではないかと思うほど、エレキのツインギターで80年代っぽいアレンジでした。ここら辺、往年のファンはびっくりしたのではないでしょうか。その後もそういうのが続きます。

 しかし一旦はポールのアコギの連続和音ハマリングが印象的な”…Rock”。そして再び今度は彼らのヴォーカル入りの”America”

Bookends

 ここですこし間が空き、ポールが「僕の『古い友人』アーティだよ」とガーファンクルを紹介し、ガーファンクルが後方に用意されたベンチに腰掛け、ポールのギター一本、アーティのソロボーカルで、”Kathy’s…”

Sounds of Silence

 この連続する二曲にキャシーという女性が登場しますが、ポールの最初の恋人で、彼がイギリスに放浪するときにも後ろ髪引かれながらアメリカに置いてきた人ですね。

 この辺りから、今回のテーマ『古い友人』がクロースアップされます。

 アーティが「僕たちは高校で出会い、二人で曲作りを始めて、学校のパーティで演奏したんだ、こんな感じだったよ」と、”Hey Schoolgirl”。一分にも満たない短さでした。でもこの曲は1957年に既にローカルヒットになり、「トムとジェリー」という名で「アメリカン・バンドスタンド」への初出演も果たしているんですよね。そして「エヴァリー・ブラザースと一緒に、こんなのもカバーして遊んでいたんだ」と短くジーン・ヴィンセントの”Bee-Bop…”を。

Parsley, Sage, Rosemary and Thyme

 お遊びコーナーから、昔ながらのファンには涙物のコーナーへ。美しい反戦歌”Scarborough…”

 60年代末から70年代のフォークギター少年たちが挙って手本にしたポールでしたが、彼の双方には二つ特長があると思います。一つはツーフィンガーピッキング奏法といって、普通なら親指、人差し指、中指の三本でやる分散和音を親指、人差し指の二本でやってしまうこと、もう一つはギターのチューニングを変えずに不思議な響きの和音を発明すること。このあたり、チューニングを滅茶苦茶に変えることに命を賭けているようなスティーヴン・スティルスと違うところですが。この曲の美しいイントロのコピーにみんな苦労したみたいですね。

 そして、やはりポールがイギリス放浪中に故郷への慕情を歌った「故郷に帰りたい」。その週の『英語でしゃべらないとJr』(子供とちゃんと拝観してますよ)のWake Up Songのコーナーでも取り上げられていました。この来日にあわせた選曲だったのでしょうね。

ACT

 ここでまたスクリーンにオリジナル映像が映し出されました。今度は70年代以降、彼らのソロアルバムのジャケットの変遷や、アーティが一時映画俳優をやっていたときの映像など、そして「卒業」の若きダスティン・ホフマンが流れ、そのテーマ”Mrs. Robinson”へ。

The Graduate (1967 Film)

 さっき、彼らがライヴで必ずオープニングにしていた「あの曲」というのが、実はこれなんですね。伝説の81年のセントラルパークでのリユニオン・コンサートもそうでした。つまりここから前半とは別の第二幕がはじまる、という意味もあったのでしょう。

 ポールが「今にして思えば、アーティと一緒に録音すればよかったと思っている曲だよ」とMCが入って”Slip, Slidin’…”。これは1977年のポールのソロのベスト盤『エトセトラ』に入っていた曲ですが、ポールのこのコメントは僕にとっては実にうれしかった。僕も同じように、S&Gでやるべきだと思っていたし、そのセントラルパークで初めて二人でやったヴァージョンを聴いたとき、やっぱり正しかったと思っていました。

 そしてフォルクローレ「コンドルが飛んでいく」。アメリカでは中ヒットでしたが日本では最も売れたシングルだけあって、このとき一番拍手が大きかったです

Scissors Cut Fate for Breakfast

 ここでポールは引っ込んでしまい、アーティのソロのミニコーナーになりました。名古屋でやられたのは、”Bright Eyes”, ”Heart in New York”, ”Perfect Moment” “Now I Lay Me Down to Sleep”4曲でした。1979年イギリスで最も売れたシングルになった”Bright…”。そして、確かに「この曲をマイケル・ジャクソンに捧げます」と言って” Heart in…”を歌い始めました。アーティがソロ時代、ジミー・ウエッブに次いで好んで取り上げたギャラガー&ライルの曲で、丁度セントラルパークがあった81年に発表された、唯一の新曲として歌われた、アーティにとっては自信作でしたがあまり売れなかった曲。しかし、インディアナ生まれ、LAに移ったモータウンに育ち、LAで亡くなったマイケルに、どのような思いをこめてNYの曲を歌ったのでしょう?

 ニューヨーク、君の頭には金のことしかないんだね

New York, You got money on your mind

  And my words won’t make a dime’s worth of difference

 僕が何を言おうとも、1ダイム貨の価値にもならない。

So here’s to you New York

 そんな君に乾杯、ニューヨーク

歌詞のこの辺りが、商業主義の犠牲になったマイケルへの追悼、ということだったのでしょうか。

 “Perfect…”は比較的新しい2002年の”Everything has to be Noticed”からの、”Now I…”子供向けファミリー・アルバムからの曲でした。

 そして「僕の『古い友人』ポール・サイモンです」と紹介して、アーティは引っ込みました。ここからポールのソロのミニコーナーでしたが、古いS&Gしか知らないできた人はびっくりしたのではないでしょうか。

The Essential Paul Simon One-Trick Pony

 ここでは共に1986年の『グレイスランド』からの” The Boy in the Bubble”,”Diamonds on the Soles of her Shoes”が披露されました。南アフリカのリズムを取り入れて、ステージ上は物凄く暑くなった瞬間でした。

 ポールは、S&Gでも先程の「コンドル…」ではフォルクローレをやったし、ソロとしてのファーストシングル「母と子の絆」ではクラプトンが”I Shot the Sheriff”を演る前にレゲエを取り入れたし、ゴスペルも何曲か、そして上のリストには載っていますが残念ながらここでは演奏されなかった”Late in the Evening”ではカリプソをやった。ワールドミュージックへの飽くなき追求をしていたのですが、『グレイスランド』のときはまだ南アフリカ共和国がアパルトヘイト政策を採っており、そこのミュージシャンと共演したことで非難を受けたりしました。

 今回もリズム体にソエトやプレトリア出身の人をバックに従えていました。このパートでは、小生の父親世代の人たちは乗り切れなかったのではないかと思います。

 S&Gのレパートリーに戻って“Only Living Boy in New York”からバックにアーティが控えめに戻ってきました。

“My Little Town” 1975年に二人が共演で録音し、別々に二人のソロアルバムに収録され、トップ5ヒットになった曲です。

Still Crazy After All These Years Watermark

 彼らは70年の『明日に架ける橋』のアルバムに収録する数曲に関して意見対立を起こしていったんコンビを解消しますが、これはロックバンドにありがちな正式な解散ではなく、その5年後に「サタデイナイトライヴ」で競演し、それを切っ掛けにこの曲を録音し、またその2年後にアートのアルバムでサム・クックのカバー”Wonderful World”で競演しているし、その4年後には例のセントラルパーク、とちょくちょく繋ぎは取っていたんですね。そして今回。まさに腐れ縁の「古い友達」だったわけです。

 “My Little…”の楽譜をはじめてみた時に驚いた覚えがあるのですが、常識を無視した不規則な転調の連続でした。ところが全く不自然に聞こえない、ポールの曲作りの妙ですね。

Bridge Over Troubled Water

 そろそろオーラス。名曲「明日に架ける橋」。アーティがコーラス部分を除いて一人で歌ったレコードと違って、二番目の When you’re down and out…からはポールがリードを取りました。

 大拍手の中、一旦引っ込んで、再登場。

Wednesday Morning, 3 AM 

 アンコール一曲目は”Sound of Silence”

ここまで聴いて、この曲がアンコールに来ることは十分予想できていましたが、それを同演奏するのか興味がありました。この曲のオリジナルはアコギ一本の素朴な音、だけどポールがイギリス放浪中に知らないうちに大ヒットになっていて、ラジオで聞いて驚いた。それにはエレキの12弦とドラムが被さっていたからだ。

 セントラルパークでも、アコギ一本で演っていました。でも今回は、これだけ現代的なアレンジを取り入れてきたのだから、どういう演奏になるか?

 結果。エレキは入りませんでしたがドラムスは入ってきました。それでもオリジナルとは違い、音に厚みが出てより今っぽく聞こえました。

 その後、「ボクサー」を演ってもう一度引っ込む。まだ拍手が鳴り止まず、またまた登場し「若葉の頃」をしっとりと、「セシリア」を総立ちで派手にやり、拍手の中、メンバー全員を紹介して終了しました。

 本当に、「古い友達」の二人の、喧嘩を含めた友情の総括、といった感じでした。

 克也さんと同い年の二人、ポールはいまだに指は細かく動いてますし、アーティの「天使の歌声」といわれたあの高音も健在で、まだ何かやってくれそうです。克也さんもがんばりましょうね。

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2008年9月22日 (月)

Soul Man

追悼記事です。また巨星の訃報が入ってきました。

 アイザック・ヘイズ。810日逝去。享年65歳。

 66歳の誕生日の10日前でした。

  癖があって、特に日本の洋楽ファンの間なんかでは、好き嫌いが分かれる存在だったのではないでしょうか。

 子供が初めて聴いたら、びっくりして吐き気を催す。かくいう私も、生意気にも小学校中学年頃からの洋楽リスナー暦を誇るのですが、最初に聴いたとき、何だこりゃ、と思ったような記憶があります。

The Essential Teddy Pendergrass

 とにかく声が低い。しかも低いといっても、いまこのサイトのベストヒットUSAコーナーのタイムマシンで上のほうに上がっているテディ・ペンダーグラスのような甘さはない。暑苦しい、地をのた打ち回るような泥臭さ。一曲の長さが半端じゃない。10分くらい、エンディングを引っ張った、うめき声に近いようなリフレインが延々と続く。

 子供には分かりようのないタイプの音楽ですが、大人たちには特殊効果をもたらします。

Ultimate Isaac Hayes: Can You Dig It?

 克也さんもよく放送のネタに使っていた有名なエピソードでしたが。

 アイザックの楽屋に若い黒人夫婦のファンが訪ねてきて、「あんたのレコードが俺たち夫婦にどんなプレゼントをしてくれたか知ってるかい?見てくれよ」と、連れてきた小さな4人の子供たちを紹介した。

 大人の男女をその気にさせる魔力があったのですね。

 そんな話は抜きにしてもサザンソウルの歴史を語る上ではずせない功績を残しました。

 テネシー生まれ、幼少期にサザンソウルのメッカ、同州メンフィスに住んで、二十歳前からキーボードプレーヤーとしてプロの活動開始。オーティス・レディングなんかのバックを務めて頭角を現し始めます。そのメンフィス、サザンソウルのメッカとなったスタックス・レコードの作曲家、プロデューサーとして、中心人物に成長します。

The Very Best of Sam & Dave

 23歳の時の65年、サム&デイヴのヒット曲 “Soul Man”を作曲します。

 これは映画『ブルース・ブラザーズ』の中で、そのブルース・ブラザーズを名乗ったジョン・ベルーシ、ダン・エイクロイドがカバーしてリバイバルヒットさせたことでもお馴染み。

 オリジナルのサム&デイヴは、明石屋さんまの「恋の空騒ぎ」のエンディングテーマ、説教部屋のシーンのバックで使われていたことでも有名。ここ数年全然観ていないんですけどまだ使っているんですかね。

Black Moses

 ソロアーティストとしてのピークは69年から71年。69年から一年ごとに”Hot Buttered Soul”, “Movement”, “Black Moses”と代表作を発表し、これらのアルバムタイトルはそれぞれ彼のトレードマークとなります。75年に彼は独立レーベルを立ち上げますが、それをHot Butter Recordsと名づけました。これもかなり意味深英語ですけどね。

Hot Buttered Soul

 Movementとは、それ以降の彼のバックバンドの名前になります。

 そしてBlack Mosesとは彼自身のことを指すようになってしまいます。自ら「黒いモーゼ」を名乗ったのですね。

 更に71年、映画「シャフト(黒いジャガー)」の音楽を手がけて、そのテーマ曲で全米ナンバーワンを獲得、アカデミー賞でも最優秀楽曲賞を受賞、彼の代表曲となりました。彼の他の曲とは逆で、イントロは映画のオープニングロールにあわせて流すのを意図されたため長いですが、エンディングはスパッとカッコよく切る。

 映画は、黒人青年を殺した容疑がかかった白人青年を逮捕したジョン・シャフト刑事、しかしその白人青年は不動産業界の大物の息子だったため色々手が回って保釈されて逃げ回る。組織にも圧力がかかって捜査が打ち切られそうになるのに正義の怒りを燃やし、組織を離れて一匹狼で捜査を続けて社会正義を問う、そんな内容でした。

シャフト [DVD]

 この映画は最近、といってもオリジナルの30年後の2001年、サミュエル・ジャクソン主演、音楽の世界でもおなじみのヴァネッサ・ウィリアムズ、バスタ・ライムスなんかが共演してリメイクされましたので憶えている方も多いでしょう。71年のオリジナルは完全にブラックパワー対白人主流派、の図式で作られていましたが、2001年のやつは、更に複雑化した多民族社会の人種関係、経済格差など新たな視点を加えて、それぞれの時代を反映した作品になっていました。

 しかし変わらなかったのは、このアイザック・ヘイズによるテーマ曲。「シャフト」という映画をこの曲なしで作るのは裏切り行為に当たるとでも考えられたのでしょう。リメイク版でもテーマはオリジナルのままでした。

 そんなアイザック・ヘイズ、活躍の場所は音楽だけに留まりませんでした。ほんの少しですが、俳優としてもキャリアを積んでいました。

 僕は偶然、彼をドラマで見たことがあります。多分テレ東でお昼の12時からやっていた「ロックフォードの事件メモ」の再放送。75年くらいの作品でしょう。オープニングのゲストの名前で、アイザック・ヘイズ、と出てきたので、あれっ、と思って観ていたら、やっぱりあの彼でした。無実の罪で拘留されて、獄中から無罪を訴える黒人の容疑者、みたいな役だったと記憶しています。

 スキンヘッド、サングラスがトレードマークで、怖いイメージのある彼ですが、他にも自分をアニメのキャラにしてしまう企画に熱心に取り組んだり、慈善事業をやったり、地元メンフィスのプロバスケットボールチームの共同オーナーになったり、そんな一面も持っていました。

 1990年代にも数枚アルバムを製作し、ライブも精力的にやっていましたが、20061月に脳梗塞を起こして、今年8月、意識が戻らないまま帰らぬ人となってしまいました。

 色々なことをやったとしても、やはり彼は”Soul Man”でした。

 その楽屋に来た4人の子供以外にも、アイザック・チルドレンは想像以上にいっぱいいるのかもしれません。伝説は、彼らによって継がれていくのかもしれません。

 合掌。

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2008年1月25日 (金)

Nobody Wins

アメリカ vs. ジョン・レノン ジョン・レノンは誰に殺される?<モーション・ピクチャー・サウンドトラック> 映画を観ました。

 「ピースベッド-アメリカvsジョン・レノン」です。

 この映画をレビューするには勇気が要りますね。ジョンは色々な側面を持っている人、衝撃的な暗殺で夭折してしまった人。それゆえに、多くの信奉者がいっぱいいる。僕なんか書く資格がないほうで、僕より詳しい方もいっぱいいらっしゃるでしょう。

 それから、この映画は音楽と政治がクロスオーバーしている映画。僕自身、趣味(最近そうでなくなってきているという噂もありますが)で音楽にのめり込み、仕事で政治にちょっと携わっている人間としてはジョンという人物に対して微妙な立場にならざるをえません。

 それでも何とか、思い出話を含めて、僕なりに面白おかしく論じてみようと思います。

 結論から言って、僕にとってのジョンとは、あくまでもミュージシャンであり、ロックンローラーであり、作詞家であり、作曲家であるのです。全てにおいて天才的に優秀な、です。

 克也サンがらみの昔話で、かつて、ZIP HOT 100の晩年期に、「ザ・クイズ」というコーナーがありました。一時間おきにキーワードを一つずつ発表し、三つ揃ったら答えを考えて電話で回答するというもの。記念すべき第一回目の正答者が私。たった一人しかいなかったので戦利品独り占め。グッチのサングラス、重宝しています。

オール・シングス・マスト・パス 〜ニュー・センチュリー・エディション〜  問題は、1時間目「ジョージ・ハリスン」2時間目「ポール・マッカートニー」3時間目「リンゴ・スター」というものでした。

 克也さんが「答えはビートルズではありません」と断っていたにも拘らず、共通点で、「ビートルズ」という誤答が多かったのですが、僕は順番に着目して、「齢の若い順」と答えました。これが正解だったのです。当時まだジョージも存命でした。

 ところが捻くれ者の僕は、もう一つ、オタッキーな答えを思いついていました。

 それは、「ビートルズ解散後ソロでアメリカのチャートで一位を獲得した順」というやつです。

ラム  ジョージが「マイ・スィート・ロード」で70年、ポールが「アンクル・アルバート~ハルゼー提督」で71年、リンゴが「思い出のフォトグラフ」で73年。ジョンは一番遅く74年の暮れ、親友エルトン・ジョンとやった「真夜中を突っ走れ “Whatever Gets You Through the Night”」というやつです。

 Some Time in New York City/Live Jam  個人的には、ジョンはやっぱりこの頃、7475年あたりが一番音楽家として成熟していて、70年代前半の、ラディカリズムを音楽を通して訴えようとしていた時期も一段落し、実によかった、と思っています。

 そしてその頃はちょうど、そのアメリカ合衆国との長かった戦いに一段落がついた時期にもあたります。合衆国永住権、グリーンカードを手にした頃。ジョン曰く「グリーンという割にはブルーだね」。

 それまでの戦い。 

 ジョンはヨーコに出会う以前から、反体制的な気質は十分にあった。でもやはりヨーコとの出会い、その思想に触れたことで、過激な愛、平和を説くようになった。

 克也さんは去年のニューヨーク取材で彼女に長いインタをしたばっかり。日記に、彼女の存在がビートルズ解散に拍車をかけたわけじゃない、彼女の登場のはるか前から人間関係がおかしくなる兆候は見えていたんだ、みたいなことを書いておられましたが。それは僕もそうだと思うのですが、別の意味から、ヨーコの存在はビートルズに変化をもたらしたと思っています。ビートルズとファンとの関係です。

 ビートルズがあれだけ世界的なブームを起こせたのは、音楽性は言うに及ばず、彼らのアイドルとしての「中性性」だと思うのです。四人とも、ストーンズなんかに比べれば遥かに大人しく、男らしくなく、可愛らしさがあった、かといって女性的でもなく男性の立場から曲を作っている。そんな、セックスを感じさせない雰囲気が、男性にも女性にも支持されて、それだけ多くのファンを獲得できた一因であったのではなかったかと思います。

 そこにヨーコが登場した。それまで、メンバーが誰と結婚していようとも付き合っていようとも、プライベートから来る生活臭は一切排除し、四人が完全な四角形を作っていた。その中にヨーコが入り込み、レコーディングの最中でもジョンとチュッチュするシーンを見せ付けられて、ファンは否でも応でもセックスの存在を意識させられた。そこからファンのビートルズ像は、そこを認めていくか、排除していくかに分かれていってしまったのではないかと思うのです。

 いずれにせよ、左翼運動家とも関係するようになり、自らも運動を起こし、ビートルズ解散直前、カナダの二箇所で、この映画の邦題にもなった有名な、公開ベッドインによる平和の訴え、など過激な示威行動を行い、映画にも証言者として登場し、ジョンの曲のタイトルにもなった、「ブラックパンサー党」の白人版である「ホワイトパンサー党」党首、逮捕された新左翼活動家ジョン・シンクレアの釈放を訴えるコンサートを開いたりした。

これに対して当時のニクソン政権は、クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングの「オハイオ」に歌われたケント大学での反体制学生運動弾圧事件のように、ヴェトナム反戦、反政府運動が頭痛の種だった。ジョンの行動が若者に及ぼす影響に恐れをなし、FBIは盗聴も含めたジョンの活動の監視を執拗に行い、ジョンの名前は新左翼行動家としてブラックリストに載り、100ページ以上もの行動記録書が作成された。

ジョンはパラノイア(僕のことじゃありませんよ)になり、「俺とヨーコに何かあったらそれは事故じゃない」とまで言うようになった。72年にアメリカ移民帰化局は、過去のイギリスでの大麻保持を理由にジョンとヨーコに国外撤去命令を出す。しかしこれにもジョンは屈せず、その大麻所持自体が不当逮捕だったとし、頑として立ち退かず徹底抗戦を構える。

ニクソン政権のヴェトナム政策、カンボジア侵攻への反対運動とも絡み、ジョンの運動も大きな支持を得るが、72年の大統領選挙で(この人も多分パラノイアだったんでしょう)ニクソンが再選されたことにより政権やFBIのジョンへの関心は緩み、合衆国最高裁もジョンの国外撤去の理由を不当と判断したため、ジョンは念願の「案外青い」グリーンカードを手にすることができた。。。

John Lennon/Plastic Ono Band 話は戻りますが、僕はどうも、解散直後の「ジョンの魂」あたりの、彼のラディカリズムをもろに音楽に投影しようとした一連の作品群、音楽の新たなあり方を模索した斬新な試みであったことはよくわかりますが、どうも音楽そのものとしては好きになれません。それに比べて、このアメリカとの戦いが一段落したあとのジョンの作品、「真夜中・・・」とか「夢の夢」とか、企画ものとしての「ロックンロール」アルバムなど、実に円熟していい音楽だったと思ってます。

Rock 'n' Roll

ところがそんなさなか、ジョンはショーンの育児に専念するための休業、主夫宣言をしてしまい、ファンをヤキモキさけます(俺もやりたいヨー)

Milk and Honey ヨーコとの関係も新たな段階を迎え、ショーンに言われた「パパってビートルズだったの?」のいとことで一念発起しミュージシャンとして復帰、80年、「ダブル・ファンタシー」を発表。評価が分かれた作品でしたが、僕は「ウーマン」「ビューティフル・ボーイ」ウォッチング・ザ・ホィールズ」だけで名盤だったと思っています。「ダブル・・・」はジョンとヨーコの曲が交互に収録されていましたが、ジョンの曲だけ抜き出してカセットテープに録音して聴いていました。当時、そうやっていた人、少なくないと思います。ラジオでアルフィーの坂崎幸之助さんが同じことをやっていると言っていてニヤっとした思い出があります。

ところが、発売直後、128日、あの悲劇が起こった。その時も実はFBIエージェントが遠巻きに見張っていたがあえて何もしなかった、というのは本当か?

ジョンはそういう結果になってしまい、その遥か以前にニクソン大統領は不名誉な辞任をした。この戦いは、誰が勝ったのだろう?

というわけで、映画の邦題は「ピースベッド」が前面に出てきてしまっていますが、原題の「ジョン・レノン対アメリカ合衆国」のほうがしっくり来ます。

映画は資料映像と関係者インタで淡々と続きます。ここで本職に戻っちゃいますが、音楽映画としてもさることながら、60年代後半から70年代のアメリカ社会を知る意味で広くお勧めしたい。ウォーターゲート事件に関係したニクソン政権からゴードン・リディ、ジョン・ディーン、それを暴こうとしたジャーナリストのカール・バーンスタイン、ウォルター・クロンカイト、72年民主党大統領候補ジョージ・マクガバンなんかが証言しているところをぜひ見てもらいたい。

といってももう上映期間はほとんどのところで終わってしまっているでしょう。すぐDVDで出るでしょうから是非。

というわけで、やっぱりいまだにヨーコさんの本質を理解できていないためか、あまり好きになれていないハリー教授のレビューでした。

The Fox Nobody Wins  ジョンの親友だったエルトン・ジョンがジョンに捧げた曲としては「エンプティ・ガーデン」が有名ですが、実はエルトンがジョンの死で最初にインスパイアされて作った曲は、81年「フォックス」というアルバムからのこの中ヒットだったのではないかと思うのです。ヨーロピアンディスコみたいな曲でした。

映画に登場したジョージ・マクガバン。選挙で戦ったニクソンよりも長生きしています。ビル・クリントンはこの人の選挙運動に参加したことで政治の世界に足を踏み入れました。そして今年は、その奥さんが・・・候補者選びの予備選挙ではかなり接戦を強いられていますが、もし以前の下馬評のとおりになったら・・・改めて「ジョン対アメリカ」の勝者は、誰だったのだろう?

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2008年1月 5日 (土)

Bandstand Boogie!

 あけましておめでとうございます。

 この連載を読んでくださっている奇特な方々には初めての年賀。本年もこんなんですがよろしくお願いいたします。

 克也さんには二度目です。

 なんと今年は、克也さんと同じ場所で新年の瞬間を迎えることができました。

 「ベストヒットUSA年越しROCK時間生スペシャル」に幸運にも参加できたのです。

 こいつああ春から縁起がいいぜ!With_katsuya_smaller_2

 

 大晦日の新幹線はガラガラでした。夜九時に原宿駅に降り立ったら、既に明治神宮に二年参りに向う人たちでごった返していました。

 克也さんにも久しぶりにお会いできたので、2時間前に局入りなさった克也さん、甲斐さんに御挨拶。

 私は実は過去に、外部委託専門家として某公共放送局に一年間ほぼ缶詰状態でドキュメンタリー番組製作の手伝いをした経験があり、その折にも大河ドラマの撮影スタジオとか頻繁に見せてもらったりしていて、そういう番組作りの裏側は結構知っているほうなのですが、音楽番組の生放送の現場は初めてでした。

 克也さんの日記を拝読し、ラジオもそうなのかと思ったのですが、その公共放送にはとにかく多くの人がひとつの番組にかかわっていると思いました。

 それに比べて今回のベストヒットUSAは、公開といっても観衆は100人、ライブ会場をもっと小さくした感じ、こぢんまりとした感じ、現場の人も思ったほど多くなく、何度か参加したことのあるラジオの公開放送の規模をやや大きくした感じでした。

 それでも、いくら生放送でも、本番前にはほとんど出来上がっていなければいけないのはどんな番組製作でも同じこと。それまでに多くの方々が準備に携わっています。

 そして克也さんはオーケストラの指揮者。ミュージック・マスターですね(笑)。オーケストラの指揮者の仕事は、実際にタクトを振る瞬間まで90パーセントは終わっている。その最後の10%の仕上げをするのが本番。

 (いい意味でも悪い意味でも?)克也さんは凄いお方だ、という事実を今更ながら確認できた生放送でした。

 本番までの二時間の間、そのあと六時間流れるビデオを早回しで確認する。スタッフの方が作ったそのビデオ、アーティストに関する情報の細かい台本が用意されていたのですが、本番ではそこからのネタは最小限に抑え、ほとんどご自分の経験話で番組を作ってしまう。スケベなスティーヴィー・ワンダーとか、”Bang a gong”=ズッコンバッコンとか、深夜ならでは、しかし正月であることを考えるとちょっと?な裏話も飛び出す。

Brothers in Arms

 視聴者クイズ、このCGキャラクターが使われているビデオのアーティスト、曲名は?しかし当の克也さんが一瞬、曲名が出てこなかったみたいですね。それでも、「ほら、見ろよ、あのオカマ、MTVでギターなんか弾いちゃって、指に豆作っちゃって、あんなの仕事じゃねえよ、あんなんで大金持ちになれるんだったら俺もギターかドラム習っとくんだったな、俺たちはあのオカマの冷蔵庫とカラーテレビを動かすために汗水たらしてんのによ」と、歌詞の内容でつないで番組を作ってしまう。

アビイ・ロード

 観客に向けてのジャケットクイズの第一問。「アビー・ロード」が逆さまだった。あれは意図してやったのかな?それとも。。。いずれにしろ、何も不自然なことなく番組を進行させてしまう。

グレイテスト・ヒッツ

 九州のアレステッド・ディヴェロプメントと電話でつないで新年の瞬間へのカウントダウン、でも向こう側はわかってなくて勝手に別のことをやっていたみたい、でもそれも生放送らしくていいかも。

 スタジオに来ていた皆さんは私と同年代、やや下がほとんどで、みんな音楽が大好きで,年越しの瞬間にこの場所に居たいと思ってた人たちだったということ、進行への参加の仕方や盛り上がり方でひしひしと伝わってきました。

 あっという間の6時間でした。スタッフの皆さんもそういっていました。来ていた人たちもきっとそう思ったのでは。投稿にあったけど、視聴者の人、来場者のみんな、来年もやってほしい、できたら恒例行事にしてほしい、って思ったんじゃないでしょうか。

 終了後、スタジオはすぐに元に戻されて、兵共が夢の跡。皆さんと軽い打ち上げをして、出たのが朝6時。もう明治神宮はその時間から、賽銭を投げられるのは正午になってしまうという。元旦6時台の下りの新幹線は全席満席、7時の一番最初のやつがかろうじて取れました。その朝、なんと品川-新横浜間で富士山を見ることができ、右に一富士、左に初日の出という、なんか凄い光景を見ることができて、これも得した気分でした。私はたぶん新幹線を利用する回数は並じゃないと思いますが、品川から見たのは初めてで、一番見えやすいはずの新富士-静岡間でも見えるときより見えないときのほうが圧倒的に多い。それがそんな光景を見ることができるなんて。今年はいい年になってほしいな。

 克也さん、甲斐さん、杉田さん、川岸さん、番場さん、井黒さん、本当にありがとうございました。本年もよろしくお願い申し上げます。

Tryin' to Get the Feeling

 Bandstand Boogie,アメリカの最も代表的で長寿だった視聴者参加番組、アメリカン・バンドスタンド。ディック・クラークが1956年にフィラデルフィアでスタートさせて、ディックのDJでそのときのヒット曲のレコードを書けながら、参加者をステージに上げて踊らせる、ゲストに演奏させて、やはり踊らせる(ほとんど口パクだったらしいから、結局同じことか)。バリー・マニロウがその番組に敬意を表して50年代風の曲調で、「歌の贈り物」のアルバムで発表したのですが、そのすぐ後、そして番組が終了する89年までオープニング、クロージングテーマとして使われました。

 今でも、名場面を集めたThe Best of American Bandstand という番組があるようです。

 最も成功して大金持ちになったDJ、アメリカン・ミュージック・アワードも作ったディック・クラーク。僕のアメリカのミュージシャンでの唯一のメル友(?)グレッグ・キーンはバンドスタンドには一度だけ出演したことがあるそうですが、最近になって、飛行機の中で偶然この二人は居合わせて、グレッグがディックに近寄ったら、ディックのほうから「ジェパディのグレッグ・キーンだろ。バンドスタンドに出てくれた人は一人も忘れない」と握手を差し伸べてきたそうです。

 ベストヒットUSA81年から始まり、89年からいったん中断、それから克也さんの自主制作シンジケート番組時代を経て、現在はBSでの全国放送、と形を変えてきていますが、長寿からいけばもう少し(?)でバンドスタンドの記録に追いつけるかも。がんばってみては?

 次回は恒例、アナミー賞の発表かな?

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2007年12月15日 (土)

I Want to Take You Higher

克也さんは、最近はビートルズに年末を感じてしまうという。

 ジョージの命日のジョンの命日がたまたま10日程度しか離れなくて、この季節になると克也さん自身でもビートルズ専門番組を持っていらっしゃる関係上、ご自分の番組でかけることも多くなるし、それでなくても追悼でラジオ、テレビからやたら流れるようになるからでしょうね。

 ビートルズもそうですが、私は同じ理由で、ファンク系に年末を感じてしまいます。

The Very Best of Booker T. and the MG's

 1127日のベストヒットUSAのタイムマシーンで取り上げられたブッカーTMGs。ドラマーだったアル・ジャクソンの命日に当たっていたということですが、彼は70年代に活躍するバーケイズというファンクバンドの創立メンバーになります。

Superfly (1972 Film)

 991226日に逝去したカーティス・メイフィールド。彼は本来はインプレッションズなんかに代表されるシカゴ(ノーザン)ソウルですが、私個人としては大ヒットした73年に大ヒットした「スーパーフライ」「フレディの死」なんていうファンクナンバーの印象が強い。

 言わずと知れた、去年1222日に逝去した、ゴッドファザー・オヴ・ファンク(ソウル?JB

Make It Funky - The Big Payback: 1971-1975

 そして本2007年には、1213日、アイク・ターナーがこの世を去ってしまいました。享年76歳。

Proud Mary: The Best of Ike & Tina Turner

 やはり彼には、以前にも書いた、ティナ・ターナーとの壮絶な結婚生活のイメージがついて回ります。

 彼が今年の1月に残している、彼の半生を顧みたような内容のインタヴューが興味深い。80年代半ば、ティナが全盛期だった頃、彼は不法薬物所持その他で囚獄されていた。

 それでも、彼は自分の人生に満足だ、といっています。半世紀近くミュージシャンとしてやってきて、作りたい音楽を作りたいように作ってきた。刑務所で過ごした時代も決して悪い思い出ではない。自分は特別扱いされていたようだ、と。

 それでも、質問がティナとの結婚生活のことに移ろうとしていることを察すると、「はい、インタの時間終わり」とさっさと切り上げてその場から去ってしまったそうです。

 彼女の自伝も読んではおらず、その映画化も観ておらず、周囲から聞いただけのようですが、自分の描写に不満で、彼女は一方的な被害者ではなく十分に暴力的だったという。

確かに映画にも、仏教に目覚めた後のティナが反抗する場面はありました。

 人間関係、特に結婚はとにかく難しい。

 このことも含めて、いずれにせよ彼は音楽の記憶と歴史に残る人でしょう。

 彼の作った音楽は、R&B,ファンクのファンからするとポップ、ロック色が濃すぎる、逆にロックから見ると黒すぎる、どうも両極端のコアなファンからは敬遠されがちだったようです。

 基本はブルースだ、といわれても、60年代前半、アイク&ティナとしてスー・レコード出て来たとき、”A Fool in Love”とか、”Shake a Tail Feather”とか、踊れるポップな曲で知られるようになった。

アルティマム・マキシマム

 ユナイテッド・アーティスツに移籍した60年代後半から70年代にかけて、ビートルズ “Come Together” ストーンズ“Honky Tonk Women” 、そして彼らを有名にしたクリー デンス・クリアウォーター・リヴァイヴァル(CCR)の”Proud Mary”と、積極的にロック畑の人たちの曲をカバーするようになる。このあたりが、そのような評価を生む原因になったのでしょう。

 しかし、アイクが同じ時期に最も傾倒していたのは、実はスライ&ファミリー・ストーンだったのではなかっただろうか。

Stand!

 “I Want to Take You Higher””Everybody People”なんかをオリジナルに近くカバーしていることからもそれが伺えます。

 そしてアイクは、スライが目指したファンクの新しい形、「ファミリー」に同調していたのではなかっただろうか。

 つまり、JBに端を発するR&Bからでてきたファンク、イコール黒人の男性アーティストの占有物、だったようなイメージを、スライは、ヒッピー・ムーヴメントの影響からか、バンドに白人や女性を入れてファミリーを作って、必ずしもそうではない、とでも言いたげな形を作っていた。アイクも、それを、夫婦、プラス女性バックコーラスのアイケッツ、という形でやりたかったのではなかっただろうか。

 繰り返しになりますが、壮絶だった私生活もさることながら、ミュージシャンとしても記憶と記録に残る人でしょう。

 現世より「高い世界」に行った彼に合掌。

 そして今週は、もう一人、ビッグなアーティストの訃報が入ってきました。アイクとはあらゆる意味で対極にいた人かもしれませんが。次回はその人の話になるかもしれません。

 メリークリスマス!

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2007年11月 5日 (月)

Sweet Baby James (part 1?)

Sweet Baby James

113日のDJ KOBYでアーカイヴされたジェームス・テイラー。

僕も大好きなアーティストなので思い入れはいろいろあるのですが。

まず、番組内でとんでもないポカがありましたのでそこからフォローしておきましょう。

ジェームス・テイラーがソロのシンガー・ソングライターとして大成功する以前に、幼馴染で、70年代の西海岸のスタジオで欠かせない存在となるダニー・コーチマーなんかと結成していたバンドが「フライング・マシーン」。

 一曲目にかかった彼の最初のヒット曲 Fire and Rainの中にも “sweet dreams and flying machines and pieces on the ground”なんて一節が出てくるくらいです。

Flying_machine_flight_recorder  そこでかかったのが、「フライング・マシーン」の “Smile a Little Smile for Me (Rosemary)” 邦題「笑ってローズマリーちゃん」。

 ところが、この「フライング・マシーン」は、ジェームス・テイラーのいた「フライング・マシーン」とは全く関係ないのです。

 確かにややこしくてよく間違える人がいるのですが、やってしまいましたね。

 「笑ってローズマリーちゃん」の方は、イギリスのグループですが、イギリス本国ではヒットせず、196911月にトップ10入り、そして日本でも70年代初め、いわゆる「洋楽ヒット」として大ヒットしました。

 これはこの当時流行っていた、録音のためにスタジオミュージシャンを集めた、実体のない幽霊グループの一つだったんです。ショッキング・ブルー、トニー・オーランド&ドーンも最初はそうでした。

 背後に、「ローズマリーちゃん」の作者であるトニー・マコーリーという大物がいました。

 この前後にも、Foundations “Build Me Up Buttercup”とか5th Dimension “Last Night I didn’t Get to Sleep at All”とか、「刑事スタスキー&ハッチ」をちょっと取り上げた時にも書きましたが、ハッチ刑事役のデヴィッド・ソウの「安らぎの季節」”Don’t Give Up on Us”とか、良質の本流ポップスを書いてヒットをいっぱい出していた人でありました。

 そのマコーリーが「ローズマリーちゃん」を演奏させるために集めた幽霊グループだったんです。

 ちなみにマコーリーはその次の仕事として、エディソン・ライトハウスという、やはり実体のないグループをでっち上げます。

 そのグループは70年に「恋の炎」”Love Grows (Where My Rosemary Goes)”という大ヒットを放ちます。ここにも「ローズマリーちゃん」が出てきていて、「笑って」の続編とも言えました。

 日本では、ベイシティ・ローラーズに3ヶ月だけいたけど、若さとはにかみで人気のあったパット・マッグリンがカバーしたことでも有名ではないでしょうか。

Tony_burrows_love_grows  このエディソン・ライトハウスでリードヴォーカルをとったのが、トニー・バロウズというスタジオシンガーで、この人はその後、この手の幽霊グループプロジェクトを渡り歩き、70年代のヒットチャートで、最も多くの異なるグループのリードヴォーカルでヒットを飛ばしたシンガー、という珍記録を作ることになります。

 エディソン・ライトハウス「恋の炎」に続いて、Brotherhood of Man の”United We Stand”。「ともに立ち上がれ」という曲、911同時多発テロの直後にも、よくラジオで流されました。

 他に、White Plains “My Baby Loves Loving” Pipkins “Gimmie Dat Ding”など。

 そしてもう一つ有名なのはファースト・クラスという幽霊グループの「ビーチ・ベイビー」。74年に突然現れたビーチ・ボーイズのパロディバンドという感じでした。

「ビーチ・ベイビー」の間奏のホーンセクションは、85年の、Strawberry Switchblade “Since Yesterday”の中でパクられています。

Bay_city_rollers_dedication  10年くらい前に、バハ・メンがカバーしてました。

 このように、本流ポップスを産業的に売るために作られ続けた一連の幽霊グループプロジェクトでしたが、この延長線上にベイシティ・ローラーズがいたのではないか、つまり、レコードでの演奏はスタジオミュージシャンがやり、客の前ではかわいい男の子たちが演奏しているフリをして女の子たちをキャーキャー言わせる、そんな流れが次に作られたのではないか、と個人的に分析しています。

James_taylor_and_the_original_flyin  ジェームス・テイラーの方のフライング・マシーンは、James Taylor & the “Original” Flying Machine”としてCDが再発されています。

 ジェームス・テイラーの話のはずだったのが大きく外れてしまいました。ジェームスに関する話題はまだまだ続きそうな気配ですので今回はこの辺で。

 TFMの大橋さん、プロフェッサー・ハリーって私のことですよー(*)

(*)11月第一週の「小林時々日記」より

11月は余分な仕事や遊びのスケジュールが入っててかなり忙しいので、
それに備えてちょっとだけラジオの「貯め録り」。
ふだんより多めのリクエストを紹介した。
TFMの大橋ディレクターが、
この人よくメールがくるんだけど、マニアですよねぇ、
でもツボをこころえてるんですよ、いい所へ球を投げてくるんで、
2回目だけどこの曲かけちゃいますかぁ?
名前を見ると「プロフェッサー・ハリー」、阿南東也だ。
ハハーン、名古屋にいるのによくチェックしてるなぁと
ちょっと嬉しい気分だったが、
日本有数のポップス博士だと彼には説明しなかった。
どうしてそんなエライ人がリクエストなんかしてくるんだ?とかきいてくるにきまってる。
だってどう答える?
「エライけど軽いんだ」?
プロフェッサー・ハリーのことは次回大橋君と飲みに行った時のネタにしよう。

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2007年9月28日 (金)

Boulevard of Broken Dreams

American Idiot

  グリーンデイだと思うでしょう? ところがどっこい。

 モバHo!導入でレギュラーで聴けるようになったもう一つの克也さん番組、DJ Koby’s Radio Showもネタにしていきましょう。

 922日にアーカイヴされたのは、トニー・ベネット。

 本年81歳。

【Aポイント+メール便送料無料】トニー・ベネット Tony Bennett / Duets: An American Classics (輸入盤CD)

 

  去年80歳を記念して製作されたアルバム、「デュエッツ」でトニーと一緒に歌ったのは、 バーブラ・ストライザンドが一番、活動期間の長さ、音楽的ジャンルが近いとして、ほかはみんな畑違い。ベテランでは、エルトン・ジョン、ポール・マッカートニー、ジェームス・テイラー、 スティービー・ワンダービリー・ジョエル、エルヴィス・コステロ、スティング、ボノジョージ・マイケル90年代以降のスターでは、ディクシー・チックスK.D.ラング、ティム・マグロウ、セリーヌ・ディオン、マイケル・ブーブレ、ジョン・レジェンドなどなど。

 普通この手の企画なら、オケが最初にとられ、それが互いに顔を合わすことなく、別々のスタジオでヴォーカルを入れたものを編集で繋ぎ合わせる。80年代のポール・マッカートニーがスティービー・ワンダーやマイケル・ジャクソンとやったやつ、似たような企画だとフランク・シナトラの生前のデュエット・アルバムもそうやって作っていた。

 ところがトニーはこの製作では、デュエット相手がいるところなら、東海岸、西海岸、イギリス、ヨーロッパ、「追いかけます、お出かけならば、どこまでも」のザ・ベストテン生中継方針を貫いた。長年バックはこの人たちとしかやらないというラルフ・シャロン・トリオを引きつれ、アーティストのいる場所に押しかけて、オケを最初にとるやり方ではない、生演奏をバックに録音するという昔ながらのスタイルで作った。彼はコンサートでも、語りかけと歌を交える特徴がありますが、それがそのままCDで再現されている。”Stevie, wonderful”みたいなシャレを交えた掛け合いとか。デュエットパートナーに選ばれた若手たちは、こんな録音の仕方は初めて、と新鮮さに緊張したという。

 そう、彼は昔からスタイルを変えようとしない。

 そのスタイルは、一度は音楽業界から見放された。でも最近、なぜかまた求められ始めた。

 ペリー・コモのテレビショーからスターダムに登った彼。音楽の師匠はデューク・エリントンなど。すごい世代だ。

Tony_bennet_american_songbook  60年代には一年にアルバム3枚発売のペースを続け、ヒット曲も量産した。

 代表曲はなんといっても「想い出のサンフランシスコ」でしょう。

 ところが、ロックが全盛になり、音楽も多様化してきた70年代、彼のスタイルは時代遅れとなり、レコード契約も切られてしまう。

 この時期、私生活でも泥沼離婚を経験し、麻薬漬けになってしまった。この時期のことについて、彼は語りたがらない。

 それでも、子供にとってのよい父親として手本にならなければならないとの意識から、麻薬からは抜けられたという。

 そして90年代、スタイルは変わらないまま、再び脚光を浴びることになります。

 93年の、フレッド・アステアのカバー「ステッピン・アウト」ではプロモーションビデオに初挑戦し話題となり、アルバムもヒットし、若い世代のファンを開拓した。

 また少し時期はこれより後になりますが、ロッド・スチュアートの「アメリカン・ソング・ブック」三部作の成功など、その他もロックアーティストがトニーの世代の曲をカバーしたり、またマイケル・ブーブレやジョシュ・グローバンなど、トニーと同じジャズっぽい「クルーナー」を自称する若いアーティストが出てきたことも追い風になったのでしょう。

 95年にトニーは「MTVアンプラグド」に出演しCDも発表、グラミーの最優秀アルバム賞も受賞し、ますます若い世代のファンを獲得しました。

 80歳を超えて発表した「デュエッツ」からも判るとおり、若い世代からのリスペクトも並々ならぬものがあります。

Tony_bennet_in_the_studio  そんな彼、現在はニューヨーク、クイーンズ地区の自分の育った地域を一望できる高層マンションで、40歳以上年下の恋人スーザン・クロウさんと、趣味の絵を描きつつ悠々自適のようです。まさに「グッド・ライフ」(彼の代表曲の一つです)なんでしょうね。

 そうそう、それで、Boulevard of Broken Dreamsとは、1950年のトニー・ベネットのデビューヒットなのです。もちろんグリーンデイのものとは同名異曲。でも歌詞には同じフレーズが数箇所あります。グリーンデイのやつは、このトニーの曲ではなく、それ以前、1930年代にそういうタイトルの映画だか小説だかがあってそこからインスパイアされたのだといっていますが、トニーのその曲も結局出所は同じ、ということなのでしょう。

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2007年9月21日 (金)

Going to a Go-Go

モバHO!を導入してから毎週日曜朝聴けるようになった「ポップ・ミュージック・マスター」。

 たった4曲だけど、いい曲がかかりますね。特に4曲目のリクエストは皆さん結構わがままに渋い曲を出していますね。

 916日にかかったJohnny Rivers “Swayin’ to the Music”

Johnny_rivers_slim_slo_slider  77年の今頃のヒットで、歌詞の一番のバックにコオロギか何か、虫が啼いている効果音が入っていて、季節的にもぴったり。虫の鳴き声に風流を感じるのは日本特有の文化で、世界の大多数の人はノイズとしか捉えない、なんて話もありますけど、必ずしもそうではないことが分かります。

 克也さんは彼の登場の頃の話、ウィスキー・ア・ゴー・ゴーの話をしていて、やっぱりジョニー・リヴァースといえばそのイメージが強いんですけれど、かかったこの曲は彼としては晩年期の、最後のヒット曲ともいえる時期のものですね。

 彼のキャリアは長い。

 彼は強運の持ち主なのか、節目節目に大物の助けを借りることが多い。

 1958年に、ディランと同じようにニュー・ヨークにわたって音楽活動を開始した彼。川が多いルイジアナ出身の彼に「リヴァース」という芸名を与えたのは、「ロックンロール」という言葉の発明者であるとされるアラン・フリードだという説もある。ジョニーとロック自体、義兄弟の関係?

 ニュー・ヨークで失敗してナッシュヴィルに渡って、そこでのデビューを支援したのはハンク・ウィリアムスの未亡人だった。

 そこでも泣かず飛ばず、ロサンゼルスに本拠地を移して、彼の曲が知人を通してリック・ネルソンに取り上げられ、まず作曲家として売れ始める(リック・ネルソンについては、ちょっとですけどこちらを)。でも彼はそれ以降、ほとんどカバー曲のヒットで有名になります。

 ロサンゼルスのイタリアンパーティで、出るはずだったバンドのヴォーカルが何かの理由で出演できなくなり、客席に偶々いたリヴァースが壇上に上がり、役を奪い取ってしまい、評判が広まります。

Johnny_rivers_at_the_whisky_a_go_go  そんな彼の演奏を、ジャン&ディーンのマネージャーだったルー・アドラーが観て感激し、オープンが予定されているライブハウス、ウィスキー・ア・ゴー・ゴーでライヴを録音してレコード化する案を提案します。

 64年、サンセット大通りにできたこのディスコ兼ライブハウスは、その後、南カリフォルニアから出てくる、バーズ、バッファロー・スプリングフィールド、ドアーズ、ヴァン・モリソンなんかを売り出す伝説の聖地になります。66年にスモーキー・ロビンソン&ミラクルズがヒットさせ、82年にローリング・ストーンズがライヴ盤からシングルカットした”Going to A-Go-Go”もここでうまれた「ゴーゴーダンス」のことを歌っているんですね。その伝説の場所を最初に有名にしたのがリヴァースということになります。Rolling_stones_still_life_2

Smokey_robinson_the_miracles_ultima

Johnny_rivers_a_touch_of_gold  彼の最初のシングルヒットは”Poor Side of Town”という綺麗な曲で、これはクレジットはリヴァースとアドラーの共作ということになっていますが、実は本当の作曲者は当時アドラーの下で見習いをしていたジミー・ウェッブだったというのが定説になっています。それ以降のリヴァースは、ちゃんとウェッブをクレジットした上で彼の曲を好んで多く取り上げ、グラミーの最優秀楽曲賞に輝いた「恋はフェニックス」は実はグレン・キャンベルの前にリヴァースがオリジナルでレコーディングしていて、ヒットしたグレンのものはそれにそっくりでした(ジミー・ウェッブについてはこちらを)。

 James_taylor_sweet_baby_james 他にも、ジェームス・テイラーの”Fire and Rain”を最初に気に入って録音したのもリヴァースだった。ということは、アメリカの70年代前半のシンガーソングライターブームの火付け役だったのも彼?

 リクエストでかかった”Swayin’ to the Music”の前に、75年にヒットしたのは” Help Me Rhonda”、いわずと知れたビーチ・ボーイズのカバー曲ですが、ここでは当時、廃人同様で隠遁生活を送っていて、本家ビーチ・ボーイズのレコーディングにすら参加しようとしなかったブライアン・ウィルソンがバックボーカルで参加していたことが話題になりました。

Funky_kings_funky_kingsGlenn_frey_the_best_of             

 “Swayin’ to the Music”も、70年代半ば、西海岸でジミに活躍していた多くのバンドの一つ、ファンキー・キングスの曲を彼風に取り上げたものでした。ちなみにそこには、イーグルスの”Peaceful Easy Feeling”その他、グレン・フライのソロの曲をほとんど共作しているジャック・テンプチンがいました。

 そんなジョニー・リヴァース、現在、髪の毛は真っ白になりましたが、いい感じで年齢を重ねていて、今でもライヴをこなしているようです。

 それにしても、「ポップ・ミュージック・マスター」のウェブサイトにリクエストメッセージが掲載されていますけど、リクエストした愛知県のプロフェッサー・ハリーさんって、やっぱり「あの人」なんでしょうねえ。名古屋の克也さん番組でのリクエスト採用数の記録を誇る彼も、克也さんが去ってしまったし、克也さんにリクエストが読まれたのはなんと5年ぶりみたいです。さぞ喜んでいることでしょう。うっしっし。

 (克也さん、ありがとうございます!!!)

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