80年代

2010年9月23日 (木)

Take It Easy~All I Wanna do

またまた続くライブリポート。

 ジャクソン・ブラウンとシェリル・クロウのダブルヘッドライナー。

 しかもあまり大きくない場所で。これは楽しみです。俺が一番得意なシンガーソングライター、ウェストコースト、Hot ACのジャンルで。

ジェイムス・テイラー・トリビュート・コンサート [DVD]

 この二人が正式に同じステージに上がって同じ曲で最初に共演したのは、僕の知る限り、2006年、ジェームス・テイラーへのトリビュート・コンサートでした。ジェームスの音楽活動開始何周年かをかねて、その前年のハリケーン・カトリーナでの被害救済のために意を一つにしたアーティスト団体 Music Caresのイベントでもありました。ディシー・チックス、ボニー・レィット、スティング、インディア・アリー、アリソン・クラウス、キース・アーバン、ブルース・スプリングスティーン、デヴィッド・クロスビー、キャロル・キングらが集合し、ジェームスの曲をそれぞれの解釈で演奏しました。ジャクソンとシェリルは「メキシコ」を演りました。ここに集まったアーティストたちの中で、ジャクソン、ジェームス、ボニー・レィット、ブルース・スプリングスティーン、デヴィッド・クロスビーが、1979年、原発反対のために集まったNo Nukesに参加した人たちと被っています。シェリルは2008年大統領選挙での民主党大会でもステージに上がったし、政治的なスタンスのうえでも二人は共通点があるのでしょう。シェリルはジェームスに、「あなたの音楽は私の人生を変えました」と言っていましたが、同じ世代のジャクソンに対しても同じようなリスペクトがあるのでしょう。

 最初はジャクソンでした。これは、小生にとっては、エー、ウソだろ、って感じでした。てっきりジャクソンのほうが後だと思っていました。でも考えてみたら、いくらベテラン、西海岸が最も西海岸らしかった頃の西海岸を背負って立っていた孤高の男にしてみても、ヒット曲の数ではすでにシェリルに抜かれていて、より今に近い分、シェリルのほうがお馴染み度も深いか。

 1年前、前回来日時にベストヒットにも出演、克也さんも直にインタ。それを横目で見ながら行きましょう。

Jackson_browne_setlist

 その1年前に登場した時、またそのときの新譜「時の征者」のジャケットのようなヒゲ面ではなくさっぱりしていました。

Time the Conqueror (Dig)

 いきなりその、「時の征者」の2曲から始まりました。「“Time is on my side”から始まるけれど、今の時代には僕は明らかに後れている。これは子供の頃の夢をイメージして作った曲だ」と言っていました。

Jackson Browne

 それ以降は70年代の、内省的な曲を書いていた時代の曲が5曲続きました。ジャクソンもギターから中央に持ってこられたキーボードへと移ります。72年のファースト・アルバムから、”Rock Me…””Fountains of Sorrow”, ”Late…”74年の名盤”Late for the Sky”から。このアルバムには、No Nukesで歌われた”Before the Deluge”,ニコレット・ラーソンの追悼コンサート(これもNo Nukesに参加したアーティストがかなり被っていました)で歌われた” For a Dancer”なんかも入っていました。

Late for Sky

ジャクソンは前々回の来日ツアーではギター一本バックなしで、事前セットリストなし、全て客席からのリクエストに答えるという形式のライヴをやっていたので、その時を憶えている人がいたのか、この辺りであれを演れこれを演れという声がやたらかかり、ジャクソンは「そんなにIf It Makes You Happyが聴きたいかい?」と笑いを取ったり。でもリクエストに答えてセットリストにない”Sky Blue and Black”の一節を短く挿入しました。

For Everyman

“These Days”, “Take It Easy”はセカンドアルバム”For Everyman”収録。”Take...”はジャクソンはファーストアルバムの以前にハコが出来ていて彼のデビューシングルになるはずだったがどうも当時の彼に似合わない垢抜けた曲で、曲のフィニッシュが巧く決まらず後回しにされた。それをグレン・フライに持っていったところ、グレンは「アリゾナ州ウィンズローはいい景色だな」以下の歌詞を加え、EEaasYYYと最後を伸ばすコーラスをフィニッシュにして曲を完成させて、先に彼の新しいバンドが取り上げてしまった。あとはご存知のとおり。

ここでステージが真っ暗になり、”Lives…”ベストヒットでビデオが流れた”For America”も収録された86年のアルバムのタイトル曲。インタでは「時間が経過するにつれて、周りの人間が変わっていくし、その人たちの音楽の好みも変化するし、自分の好みも変化する」と言っていました。80年代前半は、初めて”I love you””というフレーズの入った曲を書いたり、青春映画のサントラに”Somebody’s Baby”を入れてシングルヒットを出したりちょっと軟派になりかけましたが、この”Lives…"あたりから音楽性も変化させつつ政治性を前面に出し始めました。

Naked Ride Home

それから、2002年の Naked Ride Home からの“About My Imagination”、「時の征者」からの”Givin’ That Heart Away”と新らし目の曲が続きました。

孤独なランナー

そして、第一部の幕、ライヴアルバムだけど全部新曲だった78年「孤独のランナー」からの”Love Needs…”76年の名盤の表題曲”Pretender”、そしてその「孤独のランナー」で盛り上がってジャクソンのパート終了。

Pretender

こうしてみると、ヒット曲の数はそれなりにあるのに、彼自身のヒット曲は「孤独…」のみ、あとは全てアルバムカット。でもみんなが知っている曲でライヴが成立してしまう。やっぱり彼の音楽はキャリアを通じてヒットチャートとは別のところにあったんだなあ、と再確認できました。

あれ、でもいくらなんでも、あの曲を演ってないなあ。

バックのギターは、80年代以降の西海岸を支えていたマーク・ゴールデンバーグでした。

さて、20分の休憩を挟んでシェリル登場。

これはもう、彼女のベストアルバムを生で聴いている感じのヒット曲のオンパレードでした。

Sherryl_crow_setlist

もう1990年代もオールディーズなのかな。

告白すると、個人的には90年代前半の数年間、本職を得るための修行をしていて音楽に少し弱くなっている時期(ベストヒットも中断しちゃったし)があるのですが、彼女はその直後に出てきました。それでも”All I Wanna Doを聴いて、これは何だろう?と思ったものですが、今にして思えば、彼女が正統な西海岸の後継者だったんですね。 

印象に残ったのは彼女の器用さです。彼女は曲によってアコギ、エレキをころころ換えたりベースを演ったりしてました。

Sheryl Crow

ジャクソンもジョークで言っていた”If It Makes You Happy”でいきなり始まりました。セルフタイトルの二枚目で、ロックっぽい彼女を印象付けた。

Tuesday Night Music Club

デビューアルバムTuesday Night Music Clubからの“Can’t Cry Anymore”

2年前と比較的最近のアルバムDetourからの”Love is Free”

Detours

三枚目「グローブ・セッションズ」からの”My Favorite Mistake”

ベスト盤のための新録音、キャット・スティーヴンスのカバー、ロッド・スチュアートもヒットさせていた”The First Cut is the Deepest”

The Globe Sessions

ディズニーのアニメ映画「カーズ」に提供した”Real Gone”

同じく映画Bee Movieのサントラで録音したビートルズの”Here Comes the Sun”.

と、バラエティが富み且つ耳馴染みのある曲が続きます。

ファーストアルバムからの二番目のヒット、”Strong Enough”。そういえばこの曲のアコギやマンドリンを聴いて、ある程度この人の方向性がわかってきたように憶えています。

「みんな、ブラックベリー持ってる?そのうち、みんなの頭の中にチップが埋め込まれる時代が来るんじゃないかしら、と思って作った曲よ」とMCが入って”Good is Good”

いよいよ盛り上がってきて、「これはちょっと古いけどね」と言われて”All I Wanna Do”1994年ってそんなに古いか。あ、もう16年も前か。「これはディスコでもカントリーでもないわ。ここはLAよ」のせりふで始まる、LAはお決まりで「ナゴヤ」に置き換えられました。

“Soak Up the Sun,” “Everyday is a Winding Road”もうこのあたりになると注釈を付けようとするほうが馬鹿ですね。

ザ・ヴェリー・ベスト・オブ・シェリル・クロウ

最後”I Shall Believe”。ファーストアルバム最後に収められていた曲でシングル曲でもなくかつてはライヴでもあまり演奏されなかったものが、ベスト盤に選曲されていて意外だと思われましたが、ここにジャクソンに通じる彼女の政治性が見え隠れするのですね。平和を希求する曲。

ここでいったん引っ込み、再びシェリルのバンドが出てきて、「ジャクソン、出てきて!」と呼びました。メガネをかけてジャクソンも再登場。シェリルが「(ある意味で)ジャクソンの曲を一緒に演るわね」とMC。それでさっきの、まだ出てきてなかったあの曲が始まりました。”Doctor My Eyes”。ただしオリジナルとはかけ離れたロック食の強い現代的なアレンジでした。それが「ある意味で」だったんですね。

そして最後も二人でやった”Peace Love and Understanding”は、ニック・ロウ作、エルヴィス・コステロが取り上げた曲。シェリルは去年エルヴィスと共演して感銘を受けたようです。

という、私にはとてもうれしい一夜でした。

それにしても、ジェームス・テイラーよ。日本の一極集中に毒されていないか?なぜ東京、横浜でしかやらないのだ?せめて大阪には来い。君の弟リヴィングストンは名古屋くんだりまでやってきて、たった60人の前で歌ったんだぞ。

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2010年2月 7日 (日)

Wake Up Everybody!

Essential Teddy Pendergrass

追悼記事です。

テディ・ペンダーグラス。113日逝去。享年59歳。直接の死因は結腸癌。

1年くらい前のアイザック・ヘイズの追悼記事のときに引き合いに出しましたが、その彼も逝ってしまいました。

バリトンの魅力、しかしアイザック・ヘイズと違って甘いセクシーさを持っていた。

1970年代のフィラデルフィア・サウンドの看板でもありました。彼自身もフィラデルフィアで生まれ育ちました。

それまではリードヴォーカルをころころ変えていたハロルド・メルヴィン&ブルーノーツのフロントマンの座を確保するとメキメキ頭角を現し、知名度も急上昇しました。グループ名に冠されたリーダーと最も人気のあるリードヴォーカルが違う、アメリカ版「内山田弘とクールファイブ」「敏いとうとハッピー&ブルー」状態になったわけです。

MFSBのストリングスを前面に出したサウンドにギャンブル&ハフの名コンビによるラブソング。それに男声コーラス。

ここまでだとO’Jaysとほとんど同じですが、ハロルド・・・が違っていたのはやはりテディの独特の低音セクシーを前面に出せたことでした。

Essential Harold Melvin & The Blue Notes

最初のヒットの73年の”If You Don’t Know Me By Now””89年にシンプリー・レッドがカバーしたことからも、今でもフィラデルフィア・ソウルを代表するラブソングになっています。

その後の70年代中期は、”The Love I Lost”, “Bad Luck”, ”Wake Up Everybody”など、バラードに加えて時流に乗ったディスコっぽいリズムでのヒット曲も量産します。モータウンのテルマ・ヒューストンが77年にNo.1ヒットにして、後にジョン・サマヴィルがブロンスキー・ビートの後に作ったコミュナーズというグループが86年にイギリスでヒットさせた”Don’t Leave Me This Way”はハロルド・・・がオリジナルです。

Best of

78年、テディはハロルド・メルヴィンとの意見対立がありグループから脱退します。ソロに転向後は完全にセクシーラブバラード路線中心になり、唯一のTop40は同年の”Close the Door”ですが、80年までにかけて”Turn Off the Lights”, ”Love T.K.O.”などR&Bチャートでのヒットを飛ばし名曲を後世に残します。特に”Love T.K.O.”2000年代に入ってもカバーの定番となり、70年代のソウルカバーの企画ものには必ず選曲されるようになっています。ホール&オーツも Our Kind of Soulで、モータウンに移籍して三枚連続してカバー企画アルバムを発表してグラミーも受賞したマイケル・マクドナルドも、「美女と野獣」

のレジーナ・ベルもフィラデルフィア産のヒット曲のみをカバーしたReachin’ Outで取り上げています。

Our Kind of Soul Soul Speak

 このレジーナ・ベル、先日来日していて、ライブにも行ったのですが、その曲も演りませんでしたし、テディの死にも一言も触れませんでした。しんみりさせたくなかったんでしょうね。

Regina_belle_img

 

テディのライブでは、客席から女性のパンティが次々に投げ込まれたという。声だけで女性を○○せてしまう男。羨ましいなあ。彼に続いてフレディ・ジャクソンとかが同じ路線で出てきますし、更にはブライアン・マクナイトとかに影響が感じられますし、80年代以降、ブラコンとか、今ならアーバン・コンテンポラリーといわれるスィートなR&Bの基礎を築いたといえるでしょう。

 そんなテディですが、日本では奇妙な売れ方をします。日本ではそのソウルっぽい部分は全く受け入れない。ところが、79年から80年ころ、幼稚園児まで、テディは知らなくてもそのリズムで踊っていた。

懐かしい「ドリフのヒゲダンス」。「8時だョ!全員集合!」の名物コーナー、シムケンとカトちゃん茶ぺが、付け髭、シルクハットに黒スーツでゲストと一緒に曲芸をやる。そのバックに流れていたリズムが大受けし、インストでシングルになってオリコンでベスト10に入る唯一の記録を作る大ヒットになりました。

Teddy

これの元ネタが、実はテディの、”Love T.K.O.”も入っていた79年のアルバムTeddyの中の “Do Me”という曲だったのです。志村けんさんは、今はあまり聴いていないようですがこの頃は知る人ぞ知るソウルオタクで、テディのその曲のバックリズムを使ったところ思いがけずバカ受けして、それに便乗する形でテディのオリジナルもほんの少しですが話題になりました。あくまでもほんの少しでした。

ちなみに、志村さん本人がいっているのを聞いたことはありませんが、「全員集合」からのもう一曲のインストのスピンオフヒット「ドリフの早口言葉」の元ネタは、ウィルソン・ピケットの”Don’t Knock My Love”とバリー・ホワイトの”Satin Soul”を組み合わせたものであるはずです。

さて、順風満帆に見えたテディですが、82年に大きな交通事故を起こし、下半身不随になり、その後車椅子の生活を余儀なくされます。

当然コンサートはできなくなりますが、レコードは出し続け、アトランティックレコードに移籍しJoy など評価の高いアルバムを出します。事故後に出されたホィットニー・ヒューストンのデビューアルバムでも”Hold Me”をデュエットして、当時ストリップ劇場のバックの定番になっていたそうです。(なぜそんなことを知っている?)

残っている彼のウエブサイトを見ると、ディスコグラフィのページでは、ブルーノーツの時代からソロに至るまで彼のレコード、CDのジャケットが街頭に一枚ずつ飾られていて、それを彼のアバターがとぼとぼ歩きながら辿っています。やっぱり、歩きたかったんでしょうね。

更に癌に侵されていることが発覚し、2000年代はほとんど引退の状態で、今回のことを迎えました。

スィートソウルでの彼の偉大な業績を惜しみつつ、セクシーで甘い部分ではない彼の一面を紹介して死を悼みたいと思います。

先週のベストヒットでもマイケルの特集があり、克也さんはマイケルの「怒り」をよく強調されています。

美しく甘いソウルを作っていたフィラデルフィアの人たちも、実は「怒って」いたんだと思います。

77年に、テディ、O’Jaysスリー・ディグリーズ、ルー・ロウルズ、ビリー・ポール、その他フィラデルフィア・インターナショナル所属アーティストを総動員して、当然MFSBをバックに、当時(今でも)の都市部の黒人居住区の不衛生問題改善を訴えた”Let’s Clean Up the Ghetto”を出しています。有名アーティストが歌い繋ぐところなど、We Are the Worldの原型であったともいえます。

その We Are the World、ご存知の通り、四半世紀を過ぎて、この間のハイチでの大地震の被害救済のため、今のアーティストたちによって再録音されました。マイケルが残した母テープもバックに使われているという。(小生はこの手のチャリティはあまり好きではありませんが、それはこの際置いておきましょう)。

テディのブルーノーツ時代のヒット曲、”Wake Up Everybody”、そんな現在にも、マイケルの怒りにも通じるものがあります。その歌詞を紹介します。改めて合掌。

Wake up everybody no more sleepin in bed

みんな、目を覚ませ、ベッドで寝ている場合じゃない
No more backward thinkin time for thinkin ahead

過去を顧みている時じゃない、今こそ未来を見つめるんだ
The world has changed so very much
 from what it used to be

世界はかつての像から大きく変化した

so there is so much hatred war an' poverty

だからこそ憎悪と戦争と貧困が増えているんだ
Wake up all the teachers time to teach a new way

教師たちよ、目を覚ませ、今こそ新たな生き方を教える時だ
Maybe then they'll listen to whatcha have to say

きっとみんな、君たちの言うことに耳を貸すに違いない
Cause they're the ones who's coming up and the world is in their hands

なぜなら、彼らは未来を担う世代で、世界は彼らの手にゆだねられるからだ
when you teach the children teach em the very best you can.

子供たちを教育するときには、ベストを尽くしてやってくれよ。
Wake up all the doctors make the ol' people well

医師たちよ、目を覚ませ、老人たちに生きる希望を与えるんだ
They're the ones who suffer an' who catch all the hell

彼らこそあらゆる病の苦しみを受けなければならない人たちだから
But they don't have so very long before the Judgment Day

それでも、彼らの審判の日まで、それほど長くはない
So won'tcha make them happy before they pass away.

だから、彼らが本当に死を迎えるまで、幸福を与えてやってくれないか
Wake up all the builders time to build a new land

建築者たちよ、目を覚ませ、今こそ新たな土地を開拓するときだ
I know we can do it if we all lend a hand

われわれみんなも手を貸せば、きっとできるはずだ
The only thing we have to do is put it in our minds

いつも心がけていること、ただそれだけでいい。
Surely things will work out they do it every time.

いつもそうしてきたんだ、きっと巧くいくさ

The world won't get no better if we just let it be

ただ放っておいたままなら、世界はよくならない
The world won't get no better we gotta change it yeah, just you and me.
世界はよくならないから、我々が変えていかなければならないんだ、君と僕とで

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2009年12月16日 (水)

GET READY!

Gold

 あんまり間をおかずに行きましょう。

またまたライブリポートで、今回も懐かしや、テンプテーションズ。

正確に言うと、テンプテーションズ・レビュー。

以前にも、ジェファーソン・スターシップとか、アース・ウィンド&ファイアとか、エイジアとか、長くやってると人間関係がいろいろ複雑になり、バンドに出たり入ったりで、もともとは同じバンドだったものが枝分かれして南北朝時代みたいに本流と傍流が並存しているグループについて取り上げたことがありました。

実はこのテンプテーションズもそうなっているんですね。

本家テンプテーションズと、今回観たテンプテーションズ・レビューが並存している。

1960年代、フォートップス、スピナーズらと並んでモータウンの男性コーラスグループの柱と言われ、その中でも最もヒット曲が多く、そのフォートップスやスピナーズが70年代になってモータウンを見捨てて移籍して行ったしまった中、テンプスのみモータウンへの操を守り続けた。

しかしその分、メンバー交代も多かった。曲のキーによってリードヴォーカルも代えることができ、それでエゴのぶつかり合いもかなりあったという。

そんな中で、メンバーはどんどんソロになって、それなりにヒット曲を出していくようになる。

でも、オリジナルメンバーで主要だった人たちは今、殆ど鬼籍に入ってしまった。

エディ・ケンドリックス。

デヴィッド・ラフィン。

ポール・ウィリアムス。

メルヴィン・フランクリン。

1961年の結成以来、現在までテンプテーションズの看板を守り続けているのはオーティス・ウィリアムスのみ。

ところがこのオーティス、そんなテンプスの中で唯一、リードヴォーカルが取れないメンバーだった。

それで今の本家テンプテーションズは、オーティス以外90年代以降に入った人たちばかりでやっている。

Psychedelic Shack / All Directions

これに対して、テンプテーションズの名前を法的に使用できないからテンプテーションズ・レビューとしてやっている方を率いているのはデニス・エドワーズ。”Ball of Confusion” “Papa Was a Rolling Stone”などの大ヒットでリードヴォーカルをとり、70年代になってファンキーになった時期のテンプスを支えた人。

それに加えて、オリジナルメンバーのポールの遺児、ポール・ウィリアムス、ジュニアが入っていました。その意味で音楽的にもメンバーの血の流れの上でも、こっちのレビューのほうがよほど正統性を主張できるのではないか。

Look What the Lord Has Done

それはさておき、70年代を中心としつつも60年代から80年代まで30年間のテンプスの歴史を一瞥できるステージを見せてくれました。

Temps_setlist

 82年の、今は亡きリック・ジェームスの呼びかけで再結成し、彼のプロデュースを仰いだファンキーな”Standing…”から始まりました。

Live at the Apollo

 そして60年代に戻ったメドレー、”Get Ready”から。85年にホール&オーツがアポロ・シアターでのライブでエディ・ケンドリックスとデヴィッド・ラフィンをゲストに呼んでこの曲をカバーしてヒットして、それと同じことを同年の、世界数箇所で同時に行われ世界中に中継されたUSA for Africaをうけての「ライブ・エイド」で同じことをやったの、憶えている人、どれくらいいるでしょうか。

 このメドレーの中で、”Papa was a Rolling Stone”が早くも出てきてしまいました。代表曲をもう出しちゃっていいのかな。って感じ。

20th Century Masters: Millennium Collection

 その次に意外でしたが”Rainy Night in Georgia”はトニー・ジョー・ホワイト作、ブルック・ベントンという、50年代から活躍していたサザン・ソウルの人が70年に大ヒットさせた渋い渋い曲。以前はクラシックしか聴いていなかった若山玄蔵さんがいわゆる洋楽にハマったのはこの曲からだ、と言っていました。テンプスとしてレコーディングしたことはないようですが、ステージがアダルトな雰囲気になっていくのにうまい選曲でした。

 次の”Cloud 9”メドレーの中に、バラードのナンバー1ヒット”Just My Imagination”も出てきました。

 70年代のR&Bそのもので、みんな一曲の時間が半端じゃなく長い。その間にメンバーも客席に降りてきて、聴衆にマイクを向けてハミングをリピートさせたりしました。かく言う小生も、最前列正面に坐っていたので、マイクを向けられました。一番音を外さずに,他のお客さんから拍手をもらったのは小生じゃなかったかな。カラオケでもオンチじゃないほうですから。

 “The Way You Do…”60年代モータウン時代の代表曲、リタ・クーリッジもカバーし、上に書いたホール&オーツとのジョイントでもメドレーで使われた曲。

Essential Collection

 やはり67年の”Wish It Would Rain”に続いて、最後に全員が立たされて踊らされたのは、85年の”Treat Her Like a Lady”.アース・ウィンド&ファイアのアル・マッケィがプロデュースした80年代のテンプスのファンキーな最高傑作。ところがこの85年当時、デニスはテンプスから抜けていたんです。ソロとしてサイダ・ギャレットとのデュエットで”Don’t Look Any Further”という曲をヒットさせていました。そうなんです。後にマイケル・ジャクソンと”I Just Can’t Stop Lovin’ You”をデュエットでナンバー1にして、90年代にはブランニューへヴィーズに加入する、あの女性です。彼女を世に送り出したのはデニスだったんですね。

 その”Treat Her..の間奏がずっと続いて一旦引っ込み、また出てきた。上に挙げた、既に亡くなってしまったテンプスのメンバーの名前を読み上げ、一人ずつ合掌する。そして最後はやっぱり“My Girl”

 終了後のサイン会も、小生が歌ったのを憶えていて褒めてくれました。いい人たちだった。

 Get Ready.気が付いたら、2000年代の最初の10年も終わろうとしています。次の10年代への準備はできていますか?

 もし、年内に次の原稿ができなかったら・・・ハッピー・クリスマス!

Temps_autographs

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2009年11月20日 (金)

Listen to the Music!

オールレディ・フリー

  なんか最近は、前の原稿から間を開けてしまっては、その言い訳から始まってばっかりのような気がします。

 今回は、本業でかなり長いものを書く仕事がたまっておりまして。9月に病気にさえかからなければその仕事も余裕を持ってできたんですけれど。その病気の麻痺もまだ残ってますし… それでもそんな中、このサイトのお仕事も忘れてはいません。不良大学教授のハリー先生は本領発揮。

 ちょっと遅れましたがライブリポートをちゃんとやります。

 デレク・トラックス・バンドとドゥービー・ブラザーズのダブルヘッドライナー。

 もちろん、お目当ては後者なのですが。

 前座扱いではない、ちゃんと肩を並べていたデレクに関してもちゃんとリポートしますね。

「デレク・トラックス、1979年の68日、フロリダ州ジャクソンヴィル生まれ。
At Fillmore East

叔父はオールマン・ブラザーズ・バンドの結成時からのドラマー、ブッチ・トラックス。家ではいつもオールマンズのアルバムや、そのリーダーだったデュアン・オールマンが大きく貢献していたデレク&ザ・ドミノスの『レイラ』などがかかっていた。

Layla and Other Assorted Love Songs
もうおわかりのとおり、デレクという名前はクラプトンが70年代初頭に率いていた、その伝説的なグループからいただいたもの。」

実は小生、彼を一度、観ていたんですね。これもクラプトン絡み。3年前に観たクラプトンの、ヒット曲をあまり演らずデレク&ドミノスでのレパートリーなんかを中心に選曲していた日本縦断ツアー。クラプトンはその時、自分も含めてトリプルリードギターの構成でしたが、残った二人のうちの一人に、金髪の長髪で、若いのにすげー巧いやつがいるなと思って観ていたのがいたのですが、それがこのデレク・トラックスだったんですね。

なるほど、クラプトンが彼の腕を見込んだ上だというのも当然でしょうが、デレク&ドミノスつながり、サザンロックつながりだったのか、と今にして改めて納得。

「デレクはギターを、彼自身の言葉を借りれば、「身長がギターより小さかったころに」弾きはじめた。もちろん手も小さかったので、スライド・バーを使うようになったのは、そのハンディを克服するためでもあったらしい。
 やがて彼は、スライドでもレギュラー・プレイでもオープンEチューニングで弾きこなすというスタイルを確立した。愛器はギブソンSGとフェンダーのヴィンテージ・アンプ。エフェクター類には基本的に頼らない。
 スライド・バーは、デュアンが使っていたのと同じガラス製の薬ビン。ピックは使わない。そのきわめて個性的なフォーマットで、デレクは表情豊かなギターを弾きこなしている。」
 彼の曲はラジオで流れるようなタイプのものではなく、評価は高くともヒットがあるわけではないので、実は小生、彼のCDは聴いたことがなく、セットリストもいただけなかったので、詳細なリポートはできないのですが。

エフェクターを使わないというのには驚きでした。アンプだけであれだけいろいろな効果音を出しているのかと思うと驚異です。

世代のせいもあるでしょうが、サザンロックの匂いはあまり感じられませんでした。むしろインストもの中心、スライドギターと、エフェクターを使っているとしか思えない音色で、高中正義に近いものを感じました。

ドゥービーから、サックスのマーク・ルッソがずっと、ゲストでドラムスのエド・トスが一曲参加しました。

ジェフ・ベックとかデュアン・エディーとか、昔はギターだけで独り立ちしていたミュージシャンのスタイルがあったものですが、最近は見かけませんね。その伝統を一人になっても守っていくような、そんな気概を感じました。

さて、20分程度の休憩の後、お目当てのドゥービー。

3年前は夏フェスで来日して、去年はシカゴとダブルヘッドライナーでアメリカを縦断しました。そのシカゴはこの夏また、一番気の合うアース、ウィンド&ファイアとまわり、ドゥービーはレイナード・スキナード、38スペシャルらサザンロックの連中とツアーしたようです。デレクもその流れかな。

もうオリジナルメンバーはトム・ジョンストンとパット・シモンズしかいません。でもこの二人がいればそれで満足、って感じ。

あと古いメンバーだったら、「ミニット・バイ・ミニット」から参加したジョン・マクフィー。この人はギターが一番巧い上にいろんな楽器がこなせてしまう器用な人。音の要になっていました。あと、このバンドの特徴であるダブル・ドラムスの一端をかなり初期から担い続けてきたマイク・ホザック。

あとは、82年にいったん解散したあと、生き残りの相当部分が矢沢永吉のバックを勤めたりしましたがその時一緒に演ったキーボードのガイ・アリソンとか。

70年代中期からいたけれど残念ながら2005年に急逝してしまったキース・クヌードセンの後釜で入ったヴァーティカル・ホライズンのエド・トスとか、新しい人たちばかりですね。

ドゥービーのほうはセットリストをゲットしました。しかしこれはステージ上に貼り付けてあったもので、ステージに向かって一番左側にいたベースギターのスカイラーク(本名ではないでしょう。当然)が散々踏んづけたあとのもの。ローディーさんに頼み込んで剥がしてもらったものですからビニールテープの痕もくっきり、ビリビリだったのですが、小生が可能な限りの修復を施しました。なんてったってドゥービーのメモラビリアですから宝物です。

Doobie_set_list

みんな省略されて書かれているのでちょっと詳しく。

Stampede

1 Take Me in Your Arms (Rock Me) もともとホーランド-ドジャー-ホーランドのモータウンのソングライターチームが作って、60年代にアイズレー・ブラザースなんかが中ヒットさせたR&Bナンバーですけど、ドゥービーがアルバム「スタンピード」で75年に取り上げて有名になった。ライブでも景気づけの一発目として定着しています。

Toulouse Street

2 Jesus is Just Alright

72年彼らの人気を決定付けた「トゥールズ・ストリート」から。克也さんがZIP HOT 100を始めたばかりの95年にはDCトークというクリスチャン・ロックバンドがカバーしていました。ドゥービーのライブでは、ギターの音が上がるときに、ギターの3人プラスベースの一人の四人が並んでギターのヘッドを持ち上げるのがお決まりのパフォーマンスになってます。

Brotherhood

3              これはもともと一単語のタイトルですから省略なし。彼らは82年に一度解散しますが、89年に、トム・ジョンストンを迎えたオリジナルに近い編成で再結成(トムが78年からがグループを離れたのは健康上の理由となっていますが本当なんでしょうかねえ?ソロアルバムは出していましたし)。初期のロックっぽい音で戻ってきてくれて古いファンを涙させましたが、その際結成二枚目のアルバム “Brotherhood”からのヒット曲。91年。

4              Rockin’ Down the Highway

また名盤「トゥールズ・ストリート」から。この4曲あたりまでが景気づけで、ほとんどノンストップで演奏されました。

5              Double Dealing Four Flusher

「スタンピード」から。これはシングルヒットではないのですが、彼らは初期からライブとレコードは別物、と考えていた節があり、例えばこの曲は初期のライブで中盤のいいところで演奏されることがすごく多かったし、それは再結成後も受け継がれているということですね。

6              一語タイトルにつき省略なし。これも“Brotherhood”から。デレクがゲストで参加しました。

7              これは新曲です。タイトルは「・・・シャトウ」ともっと長かったかもしれませんがメモをなくしてしまいました。来年、新譜が出るそうです。「新しいCD,いや、最近はいろいろ形式があるからなんていえばいいのかねえ」とパット独特のオトボケMCで始まりました。やっぱり70年代初期の、そして再結成後のドゥービーの音だと感じました。

ワン・ステップ・クローサー-#紙ジャケSHM-CD#

8              One Step Closer

 80年の同じタイトルのアルバムから。実は、小生が今回の選曲で一番驚いたのはこれです。再結成後のライブでは、マイケル・マクドナルドがトムに取って代わって音作りの中心となりR&Bプラスオシャレロック色が強くなった、78年の「ミニット・バイ・ミニット」そしてこの「ワン・ステップ・クローサー」からの選曲は、当然歌う人がいないし、音の雰囲気も違うので極力避けられていたのですが、サービスの意味もあってやったのでしょう。この曲はパットとマイケルの共作曲でもあり、権利もあるのでやりやすかったこともあるでしょう。しかし面白いことに、レコードではマイケルがリードヴォーカルをとっていた部分をパットが歌い、パットがリードヴォーカルをとっていた部分をスカイラークが歌っていました。

ドゥービー・ストリート-#紙ジャケSHM-CD#

9              Takin’ It to the Streets

76年の同名アルバムから。これもマイケルの曲で、それ以降のドゥービーの音が、シンセサイザー中心になっていく変化のさきがけとなるヒット曲ですが、これはトムが休養前に正式メンバーとして参加した最後のアルバムでもあるので、必ず演奏されます。マイケルとも関係が悪いわけではないですし。イヴェントがあるときにはよく共演しています。この曲ではキーボードのガイ・アリソンと、ヴォーカルでは再びスカイラークが大活躍しました。

10          Don’t Start Me Talkin’

  「トゥールズ・ストリート」から。これもヒット曲でなくてもライブで重要な位置を占め続けていた曲。そろそろオーラスの雰囲気。

11          Little Bitty Pretty One

 これなど、彼らがライブとレコードは別物だと考えている証拠みたいな曲です。これは彼らはレコード録音していません。でもライブではやります。オールディーズの、ドゥーワップとバブルガムをあわせたみたいな曲なんです。オリジナルはフランキー・ライモン&ティーンエイジャーズ、声変わり前のマイケル・ジャクソンも録音していました。きっと誰もが一度は聴いたことのある曲です。そんな子供っぽい曲で最後を盛り上げます。

What Were Once Vices Are Now Habits

12          曲名省略なし。74年の”What Were Once Vices are Now Habits”(「昔は悪癖だと思ってたものからもう抜けられない」が直訳で、もっと短い邦題があったような気がするけど失念しました)。彼らにとって最初のナンバー1ヒット。だけど元々はB面扱いだったものに火がついた。バイオリンが印象的なゆったりとした曲。ジョン・マクフィーは起用でそのバイオリンも綺麗に弾いてしまいます。サビの歌詞に”Mississippi moon won’t you keep on shinin’ on me”があって、このミシシッピの部分をそのコンサートの場所で言い換えるのがまたお決まりですが、当然 “Nagoya moon won’t you・・・で拍手喝采でした。

キャプテン・アンド・ミー#紙ジャケSHM-CD#

13          Long Train Runnin’

    73年、“Captain & Me”彼らの代表的アルバムの一つなんですけどここでやっと初めて出てきました。これはおなじみの曲でしょう。リミックスも何度もされていますし。

 小生はアメリカにいたとき、この曲と全く同じ経験をしました。コロラド川をラフティングで下っていたとき川沿いの線路に貨物列車がのそっとガタゴトやってきて、その長さにびっくりしました。本当に長い、何両編成だったか、500メートルくらいあったかなあ、しかも何台かの車両に Illinois Central と書いてあったのには、感動しました。

 ここでいったん引っ込んで、アンコール。ここのところアンコールのパターンは決まっているようです。

14          China Grove

続いて“Captain & Me”から。これもアメリカの道を車で走りながらラジオでかかってきたら、なんとぴったりだろう、と思わせる曲ですね。トム・ジョンストンは、おら、お前ら、盛り上がれ、とマジで怒ったような顔をしてステージを縦横無尽に行ったり来たりします。

15          曲名省略なし。またまた続いて“Captain & Me”から。そして最後はやっぱり

16          Listen to the Music

   デビューアルバム「トゥールズ・ストリート」の第一曲目にしてすでに彼らの代表曲となってしまった。

 演奏がぴたっと止まり、ドラムと手拍子だけで “Wow wow, listen to the music, all the time”の、観客を交えて大合唱。おお盛り上がりの末、余韻を残しつつ終了。

 いやあ、音楽って本当にいいですね。みなさん、もっと音楽を聴きましょう。

  折り紙菊ちゃんさん、東京でのコンサートはいかがでしたか?

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2009年9月28日 (月)

Saturday in the Park (Part 2)

166caseykasem

いやはや、また入院してしまいました。

 今度は検査ではなく、急病、高熱で担ぎ込まれ、実は今も全快していません。

 一年に3回の入院、まだまだ若いと思っていても、そろそろ認めるべきものを認めなければならない年齢か。

 さて、そんなわけでだいぶ間が開いてしまいましたが、前回からの続き、アメリカのラジオ業界のもう一つの大きな出来事。

 それは、ケーシー・ケイサムの引退です。

 American Top 40の大成功により、アメリカ国内外で最も声の知られたアメリカ人、Voice of Americaを受賞したこともある、ディスクジョッキーとしては世界でもっとも有名だった一人。

 今年の74日の放送を最後に、引退しました。

 前回挙げた、ウルフマン・ジャック、チャーリー・ツナとならんで、FENといっていた現AFNEAGLE810のラジオヒーローでした。この3人の中では特に、小生の英語は一番影響を受けているのではないでしょうか。発音は標準的だったし、ジョークは飛ばさない、ただ淡々とアーティストと曲紹介、順位変動を解説していただけでしたから、聴き取り易かった。それと、湯川れい子さん解説の日本語版も長くやっていましたから、とっつきやすかったですね。克也さんはその番組のオープニングナレーションもやっていましたね。

 本名ケマル・アミン・ケイサム。結局、ファミリーネームがケーシーというあだ名になって、それをそのまま使うことになった。レバノンからの移民の二世。自らもアラブ系アメリカ人圧力団体の理事的な役割も果たしてきた。そんな一面もありました。

 俳優を志すも、兵役時代に韓国でのFEN(米進駐軍放送ですな)でアナウンサーになり、帰国後も西海岸のラジオ局を転々としてコメディなどをやった(ラジオは創成期は音楽よりドラマ番組のほうが圧倒的に多かったんです)。

 その中でも、いつかはトップ40カウントダウン番組を作るんだ、という希望に燃えていた。

 そんな彼の夢が実現したのは、1970年、74日土曜日、独立記念日だった。

 カウントダウン番組を発明したのは彼ではないし、この当時はTop40フォーマットのラジオ局は下火だったという。

 ところが、スタッフの地道な営業努力で、放送ネット曲を少しずつ増やしていった。

 70年代前半、いつの間にか、新曲を紹介し、最もレコードが売れてラジオでかかっている曲が分かる情報番組としてアメリカを代表するシンジケート番組になっていた。

 この成功に倣っていろいろなジャンルのカウントダウン番組が登場した。

 克也さんも、これの凝縮版の名番組「ナガオカ・ワールドミュージック」をやっていました。日本のラジオ局でも歌謡曲で同じような企画を各局がやってたし、それをテレビに持っていったのが久米さんの「ザ・ベストテン」だったと考えると、Top 40の影響の大きさは計り知れません。

 それでもケーシーはそれだけでは食えずいろいろ他の仕事をしていた。俳優としては77年頃人気絶頂だったショーン・キャシディ主演「ハーディ・ボーイズ」に出演していたし、あの大ヒット映画「ET」で、ETが英語を覚えるためにセサミストリートを観ている時、テレビから聞こえてくるBe good というナレーションはケーシーだったのです。

 番組もいろいろ工夫が加わり変化してきました。78年には、全世界的ネットワークを利用して、遠くの普段会えない誰かに曲をプレゼントする long distance dedicationが始まりました。「あの人に贈りたい from me to you」の原型ですね。記念すべき第1号は、ドイツ駐留中にデザリーという年上の女性と恋に落ちた軍人からの手紙が切っ掛けでした。最近になってこの二人を調査したところ、二人はまったく決別状態だが、そのリクエストが採用されてその後数千曲続いたことはいい思い出だ、と語っていました。

70年代後半まで、湯川さんはケーシーと直に電話で話すことができ、電話に出てきたケーシーは「今、カミさんが留守でさ、小さい二人の子供のお守りで忙しいんだよ」とバタバタしながらも楽しそうでしたが、数年後、80年代になって、同じ番号にかけたら、冷たい感じの女性秘書が出てきて、「インタビューは30XXXドルです」といわれるようになってしまったという。ビリー・ジョエルとか向こうのショウビズではよくある話だが、その若い頃苦楽を共にした奥さんもポイ捨てにして、若いデルモか女優かと再婚したという。

 とにかく大物になってしまい、81年からAmerica's Top 10という、テレビ版のホストも勤めるようになりました。

 80年代末にはプロダクションと関係が悪くなり、シャドー・スティーヴンスに後任DJを譲りましたが、ケーシー自身は対抗してすぐに別系列のシンジケートから “Casey’s Top 40”, “Casey’s Countdown”を始めたり、また90年代半ばに元鞘に収まってAmerican Top 40に復活しました。それも2000年代に入ってからはメインストリームチャートのものはライアン・シークレストに譲り、ケーシーはかつての自分のイメージに合う、ACAmerican Top 10, Hot ACAmerican Top 20をやっていました。Spotat40

 このライアン・シークレスト、いまやアメリカン・アイドルのホストで知らない人はいない存在ですが、もともとはDJ志望で、ハリウッドに行ったのもケーシーに会いたかったためだという。夢をかなえたライアンは、まさにケーシーの後継者として適任だったのでしょう。

 そんなケーシーも歳には勝てず、声がどんどんしゃがれていく。そして彼は、74日独立記念日が土曜日に当たる今年に引退を選びました。

The Complete Hit Singles

 「39年前の独立記念日の土曜日、この番組は始まりました。最初の第1位の曲はThree Dog Night “Mama Told Me”でした。そのとき、放送してくれた局はたった7局

でした。それから親友のドン・バスタニやほかのスタッフが地道に努力をしてくれて、番組も波に乗り、最大時では世界で800ものラジオ局が放送してくれるまでになりました。そしてまた独立記念日が土曜日にあたる今年、引退を決意しました。苦しい時代もありましたが、今は全てが良い思い出です」

ダーク・ホース ザ・サウンド・オブ・マッドネス

 こう結んで、最後の1位の曲紹介をしました。

 Hot AC版のTop20のほうは象徴的で、2位はニッケルバックの”If Today Was Your Last Day”1位は Shinedown”Second Chance””…Sometimes goodbye is a second chance…”「サヨナラは第二の始まりって場合もあるさ」がリフレインで流れる、まさに最後を飾るにふさわしい曲が偶然にも重なりました。

 そして番組の最後「これで私はもうマイクロフォンの前でしゃべることはありません。でも最後も、39年言い続けた、いつもの文句でいつもどおり終わることにしましょう。

“Keep your feet on the ground and keep reaching to the stars”(地面をしっかり踏みつつ、空の星{音楽界のスターにかけている}に手を伸ばし続けよう)。

こうして、ラジオの一つの時代を作った男は去って行きました。

 実はそれ以降も、70年代、80年代のTop40の再放送番組は続いていて、どうも彼は引退したという実感はわかないんですけれどね。

 実際、少年時代からかじりつきで聴いていたラジオヒーローの引退を同時体験すると、縁起でもありませんが、小林克也の引退はどんな感じになるのだろう、克也さんの最後のラジオの番組はどうやって結ばれるのだろう、と思いをめぐらせてしまいました。

 糸居さんは、最後の番組の最初に花束贈呈をやって、終了はいつものとおりに終わりました。

 ラジオではありませんが、CBSの名キャスター、エド・マロー、彼の後輩マイク・ウォーレスも、最後は名文句 “Good night and good luck”で消えていきました(ウォーレスはその後もちょくちょく出てきていますが)。

 小林克也も、番組終了の名文句、いろいろありますね。”See you next XXX…” “Bye Bye BABE…” “Have Yourself a Funky…”どんな感じになるんでしょうね。

 いやいや、克也さんはまだ声がかれていないし、ケーシーに追いつくにはまだ10数年あります。ハンク・アーロンが755本で引退したときの王貞治みたいなもんです。まだがんばってください。

Chicago V

 それで、Saturday in the Park 、シカゴのあの曲ですが

 “Saturday in the park, I think it was the 4th of July”

  これは、その70年の74日を歌った曲ではないか、と思うんです。

 それにしても、せっかく始まった全国ネットの番組、30分削られてしまうんですかあ。

 ポリスの、一面に蝋燭が並べられるビデオは”Every Breath…” ではなく”Wrapped around your Finger”のほうです。ゴドレイ&クレーム監督です。

☆愚息”Ricky” 紀輝(のりき)が夏休みの絵日記に描いた、銀座ファンキースタジオの様子。空色の服を着ているのが、克也さん。

Norikinoenikki

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2009年8月 2日 (日)

Old Friends

セントラルパーク・コンサート [DVD]

サイモン&ガーファンクル、日本ツアー第一回目を観ました。

 外タレ日本縦断ツアーの場合、ここ名古屋は大抵最終日に回される。東京や大阪みたいに2,3回の公演は必要なく一回だけですむし、そのくせ国際線が整備されているから翌日すぐ帰国できるからですね。

 今回はその逆、というわけです。来日してすぐ初日。今回はニュージーランド、オーストラリア、日本というツアーで、オーストラリアからの飛来ですから来易さもあったかもしれません。

 会場はドラゴンズがロード中のドーム球場。

 観客の年齢層は高い高い。小生の父親かと思うような方々もかなりお見受けしました。

 それでもアリーナ、外野ともいっぱいになり、終了間際には要所要所にガードマンが。その制止を振り切って、ミキサーさんに近づいてセットリストの余りを強請る私はいったい何者なのでしょう?ただし今回は、大人の方が多かったためか、ライバルが少なく比較的容易にもらえましたね。ただし名古屋のではなくその数日前の日付のシドニー公演のものでした。ここでは演られなかった曲も含まれています。他の場所では演った可能性もある曲ということですね。

Simon_garfunkel_nagoya_setlist

 ACT 1

 スクリーン映像から始まりました。「アメリカ」のメロディに併せて、高校生のときの初めてのライブの写真、彼らの全盛期のレコーディング中のスタジオ映像から、その同時代の世界の流れを象徴する映像、ニクソン、ブレジネフ、毛沢東、鄧小平、ネルソン・マンデラ、ゴルバチョフ、ベルリンの壁崩壊…(911事件はありませんでした。ニューヨーク出身の二人としてはまだ拭い去れない思いがあるのでしょう)

 そしてスポットライトがステージへ。観客がスクリーンに目を奪われている間にいつの間にか登場した二人。最初の曲はリストのとおりOld Friends でした。ポールのギター一本で。

Old Friends

 ここでひとつ、僕の予想が外れました。彼らは「あの曲」を発表して以来、二人のライヴは必ず「あの曲」で始めていました。それがそうではなかった。そこに今回の意味があったのです。

 2曲目から彼らがスクリーンに大写しになり、演奏もフルバンドになりました。2曲目「冬の散歩道」は、カバーしたバングルスのものから逆に影響されたのではないかと思うほど、エレキのツインギターで80年代っぽいアレンジでした。ここら辺、往年のファンはびっくりしたのではないでしょうか。その後もそういうのが続きます。

 しかし一旦はポールのアコギの連続和音ハマリングが印象的な”…Rock”。そして再び今度は彼らのヴォーカル入りの”America”

Bookends

 ここですこし間が空き、ポールが「僕の『古い友人』アーティだよ」とガーファンクルを紹介し、ガーファンクルが後方に用意されたベンチに腰掛け、ポールのギター一本、アーティのソロボーカルで、”Kathy’s…”

Sounds of Silence

 この連続する二曲にキャシーという女性が登場しますが、ポールの最初の恋人で、彼がイギリスに放浪するときにも後ろ髪引かれながらアメリカに置いてきた人ですね。

 この辺りから、今回のテーマ『古い友人』がクロースアップされます。

 アーティが「僕たちは高校で出会い、二人で曲作りを始めて、学校のパーティで演奏したんだ、こんな感じだったよ」と、”Hey Schoolgirl”。一分にも満たない短さでした。でもこの曲は1957年に既にローカルヒットになり、「トムとジェリー」という名で「アメリカン・バンドスタンド」への初出演も果たしているんですよね。そして「エヴァリー・ブラザースと一緒に、こんなのもカバーして遊んでいたんだ」と短くジーン・ヴィンセントの”Bee-Bop…”を。

Parsley, Sage, Rosemary and Thyme

 お遊びコーナーから、昔ながらのファンには涙物のコーナーへ。美しい反戦歌”Scarborough…”

 60年代末から70年代のフォークギター少年たちが挙って手本にしたポールでしたが、彼の双方には二つ特長があると思います。一つはツーフィンガーピッキング奏法といって、普通なら親指、人差し指、中指の三本でやる分散和音を親指、人差し指の二本でやってしまうこと、もう一つはギターのチューニングを変えずに不思議な響きの和音を発明すること。このあたり、チューニングを滅茶苦茶に変えることに命を賭けているようなスティーヴン・スティルスと違うところですが。この曲の美しいイントロのコピーにみんな苦労したみたいですね。

 そして、やはりポールがイギリス放浪中に故郷への慕情を歌った「故郷に帰りたい」。その週の『英語でしゃべらないとJr』(子供とちゃんと拝観してますよ)のWake Up Songのコーナーでも取り上げられていました。この来日にあわせた選曲だったのでしょうね。

ACT

 ここでまたスクリーンにオリジナル映像が映し出されました。今度は70年代以降、彼らのソロアルバムのジャケットの変遷や、アーティが一時映画俳優をやっていたときの映像など、そして「卒業」の若きダスティン・ホフマンが流れ、そのテーマ”Mrs. Robinson”へ。

The Graduate (1967 Film)

 さっき、彼らがライヴで必ずオープニングにしていた「あの曲」というのが、実はこれなんですね。伝説の81年のセントラルパークでのリユニオン・コンサートもそうでした。つまりここから前半とは別の第二幕がはじまる、という意味もあったのでしょう。

 ポールが「今にして思えば、アーティと一緒に録音すればよかったと思っている曲だよ」とMCが入って”Slip, Slidin’…”。これは1977年のポールのソロのベスト盤『エトセトラ』に入っていた曲ですが、ポールのこのコメントは僕にとっては実にうれしかった。僕も同じように、S&Gでやるべきだと思っていたし、そのセントラルパークで初めて二人でやったヴァージョンを聴いたとき、やっぱり正しかったと思っていました。

 そしてフォルクローレ「コンドルが飛んでいく」。アメリカでは中ヒットでしたが日本では最も売れたシングルだけあって、このとき一番拍手が大きかったです

Scissors Cut Fate for Breakfast

 ここでポールは引っ込んでしまい、アーティのソロのミニコーナーになりました。名古屋でやられたのは、”Bright Eyes”, ”Heart in New York”, ”Perfect Moment” “Now I Lay Me Down to Sleep”4曲でした。1979年イギリスで最も売れたシングルになった”Bright…”。そして、確かに「この曲をマイケル・ジャクソンに捧げます」と言って” Heart in…”を歌い始めました。アーティがソロ時代、ジミー・ウエッブに次いで好んで取り上げたギャラガー&ライルの曲で、丁度セントラルパークがあった81年に発表された、唯一の新曲として歌われた、アーティにとっては自信作でしたがあまり売れなかった曲。しかし、インディアナ生まれ、LAに移ったモータウンに育ち、LAで亡くなったマイケルに、どのような思いをこめてNYの曲を歌ったのでしょう?

 ニューヨーク、君の頭には金のことしかないんだね

New York, You got money on your mind

  And my words won’t make a dime’s worth of difference

 僕が何を言おうとも、1ダイム貨の価値にもならない。

So here’s to you New York

 そんな君に乾杯、ニューヨーク

歌詞のこの辺りが、商業主義の犠牲になったマイケルへの追悼、ということだったのでしょうか。

 “Perfect…”は比較的新しい2002年の”Everything has to be Noticed”からの、”Now I…”子供向けファミリー・アルバムからの曲でした。

 そして「僕の『古い友人』ポール・サイモンです」と紹介して、アーティは引っ込みました。ここからポールのソロのミニコーナーでしたが、古いS&Gしか知らないできた人はびっくりしたのではないでしょうか。

The Essential Paul Simon One-Trick Pony

 ここでは共に1986年の『グレイスランド』からの” The Boy in the Bubble”,”Diamonds on the Soles of her Shoes”が披露されました。南アフリカのリズムを取り入れて、ステージ上は物凄く暑くなった瞬間でした。

 ポールは、S&Gでも先程の「コンドル…」ではフォルクローレをやったし、ソロとしてのファーストシングル「母と子の絆」ではクラプトンが”I Shot the Sheriff”を演る前にレゲエを取り入れたし、ゴスペルも何曲か、そして上のリストには載っていますが残念ながらここでは演奏されなかった”Late in the Evening”ではカリプソをやった。ワールドミュージックへの飽くなき追求をしていたのですが、『グレイスランド』のときはまだ南アフリカ共和国がアパルトヘイト政策を採っており、そこのミュージシャンと共演したことで非難を受けたりしました。

 今回もリズム体にソエトやプレトリア出身の人をバックに従えていました。このパートでは、小生の父親世代の人たちは乗り切れなかったのではないかと思います。

 S&Gのレパートリーに戻って“Only Living Boy in New York”からバックにアーティが控えめに戻ってきました。

“My Little Town” 1975年に二人が共演で録音し、別々に二人のソロアルバムに収録され、トップ5ヒットになった曲です。

Still Crazy After All These Years Watermark

 彼らは70年の『明日に架ける橋』のアルバムに収録する数曲に関して意見対立を起こしていったんコンビを解消しますが、これはロックバンドにありがちな正式な解散ではなく、その5年後に「サタデイナイトライヴ」で競演し、それを切っ掛けにこの曲を録音し、またその2年後にアートのアルバムでサム・クックのカバー”Wonderful World”で競演しているし、その4年後には例のセントラルパーク、とちょくちょく繋ぎは取っていたんですね。そして今回。まさに腐れ縁の「古い友達」だったわけです。

 “My Little…”の楽譜をはじめてみた時に驚いた覚えがあるのですが、常識を無視した不規則な転調の連続でした。ところが全く不自然に聞こえない、ポールの曲作りの妙ですね。

Bridge Over Troubled Water

 そろそろオーラス。名曲「明日に架ける橋」。アーティがコーラス部分を除いて一人で歌ったレコードと違って、二番目の When you’re down and out…からはポールがリードを取りました。

 大拍手の中、一旦引っ込んで、再登場。

Wednesday Morning, 3 AM 

 アンコール一曲目は”Sound of Silence”

ここまで聴いて、この曲がアンコールに来ることは十分予想できていましたが、それを同演奏するのか興味がありました。この曲のオリジナルはアコギ一本の素朴な音、だけどポールがイギリス放浪中に知らないうちに大ヒットになっていて、ラジオで聞いて驚いた。それにはエレキの12弦とドラムが被さっていたからだ。

 セントラルパークでも、アコギ一本で演っていました。でも今回は、これだけ現代的なアレンジを取り入れてきたのだから、どういう演奏になるか?

 結果。エレキは入りませんでしたがドラムスは入ってきました。それでもオリジナルとは違い、音に厚みが出てより今っぽく聞こえました。

 その後、「ボクサー」を演ってもう一度引っ込む。まだ拍手が鳴り止まず、またまた登場し「若葉の頃」をしっとりと、「セシリア」を総立ちで派手にやり、拍手の中、メンバー全員を紹介して終了しました。

 本当に、「古い友達」の二人の、喧嘩を含めた友情の総括、といった感じでした。

 克也さんと同い年の二人、ポールはいまだに指は細かく動いてますし、アーティの「天使の歌声」といわれたあの高音も健在で、まだ何かやってくれそうです。克也さんもがんばりましょうね。

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2009年7月 7日 (火)

Show You the Way to Go

Off the Wall スリラー#紙ジャケット仕様#

マイケル・ジャクソンですか…

 そりゃ突然なことだったのでびっくりはしましたが、正直申しましてそれほどの衝撃は受けていないですね。

 いろいろな理由が考えられます。

 僕は、ベテランアーティストが歳をとってからどんな風になっているか、かなり前から色々想像していて、それがけっこう当たっていたりするんです。

 記録に残しているわけでもないし、誰かに話した憶えもあまりないから証拠がないのですが。

 例えば、ポール・マッカートニーは、寡作になるけれど、振っ切れて、ウィングス時代は極力避けていたビートルズ時代の曲をライヴでやるようになるだろう、とか。エルトン・ジョンは昔からスタイルをほとんど変えなかったので、流行に関係なくそれを貫いていくだろう、ロッド・スチュアートは臨機応変に自分のスタイルを変えてきて、自分のかっこよさを知っている人だから、歳に応じて渋みを増してくるだろう、マドンナは自分のトータルな美を磨くことを怠らず、年齢を感じさせないスタイルでイメージは不変だろう(由美かおるか?)、とか。

 ところが、歳をとったマイケル・ジャクソンの姿は、全く想像できなかったんです。

 より正確に言うと、想像はしていましたが、その想像が「空白」だったのです。

 すなわちマイケルはいずれにしろ、50前後で引退宣言をするだろう、あるいは明確な宣言はしなくても表舞台には極力出で来なくなり、新譜も発表せず、事実上の引退をしてしまうだろう、と。

 彼の体調も大きな理由です。彼がどんどん白くなっていったのは、彼がそういう手術を受けたのではなく、メラニン色素が極端に減少していく病気だったんですね。ライオンとかでも稀に真っ白なのが生まれますが、日光に当たることができず、他の病気も併発して短命の場合が多い。彼の場合も、正式な死因の発表はまだですが、遺書を残していたことから想像するに、はっきり自分の死期を認識していて、体はぼろぼろになっていたのでしょう。

 それ以上に彼は、10歳いくかいかないかで頂点を極めてしまい、それ以降40年間、彼のやることそのものが時代を作り続けていた。その彼が時代を作れなくなってしまったとき、どうなるのか。

 急逝、というのはその一つの答えだったのかもしれません。

 ジェームス・ディーンが事故死したときのことは、僕は当然ながら全く知らないのですが、どれくらいの人が、それ以降の彼がどのような映画を作っていったか、を想像していたでしょうか?

 人が死ぬことによいことは何もありません。しかし、結果は受け入れなくてはいけない。

 それがマイケルほどの時代の寵児、いや時代の創造者だった場合、その役割を終えたら疾風のごとく姿を消すというのは、日本史でも世界史でも珍しくない話で。

 そんなジェームス・ディーンやリンカーン、織田信長(人間五十年、下天の内を較ぶれば…)みたいな要素を感じてしまって、納得している部分があるというのが正直なところです。

 やはり私は、捻くれ者ですね。それに尽きると思います。

 ブログなどで彼の死を悼んでいる人たちのかなりが、僕より少し上の世代で、「ベストヒットUSA世代」を自認しているみたいで、克也さんの名前をお借りしている私のサイトにもアクセスが増えました。

 でも小生本人は、その世代だとは思っていないのです。

 その世代を名乗る人たちは大体小生より23上の人たちなのですが、それより若くても洋楽を聴き始めたのが早く、小学校45年の道徳の時間に「尊敬する人は?」と先生に聞かれて「エルトン・ジョン」と答えていた生意気なガキンチョだった小生は、そりゃベストヒットは(今でも)大好きな番組で希少な洋楽情報番組として楽しんでいたのですが、それに世代を投影するまでにはいきません(克也さん、ゴメンナサイm(_ _)m、でもだからこそ克也さんは小生にここで書かせて下さっているんですよね、そう思っています)。

Bad Dangerous

そういう小生にとってのマイケル・ジャクソンとは、Off the Wall, Thriller, Bad, Dangerousなどソロは全部持っていますし、ビデオクリップ集もあり、それなりに楽しみましたが、入れ込んだ、というほどではなかったのです。捻くれ者としてはどうしても一番売れているものには冷めて見てしまう悪い癖がありまして。

僕が一番好きだったマイケルは、クインシー・ジョーンズやジョン・ランディスに出会う前のマイケル、つまりジャクソン・ファイヴ末期、ジャクソンズの一人としての彼なんです。

Playlist: The Very Best of the Jacksons

10歳になるかならないかでデビューから4曲連続でナンバー1を飛ばして、それはモータウン全盛期末期のバブルガムミュージック大量生産体制の最後の踏襲者としてのものだった。その後、共演したスティービー・ワンダーあたりに入れ知恵されたか、モータウン路線に反発するようになり、兄弟独特のコーラスワークを生み出したりして、その二つの路線の妥協として、ディスコなどにも影響されたジャクソン・ファイヴ名義最後のナンバー1ヒット「ダンシング・マシーン」が出たのが74年。

その後モータウンと完全に決別し、モータウンの重役の娘を嫁にもらっていた長兄ジャーメインはその腐れ縁で残留を余儀なくされ、残りの兄弟たちはエピックレコードに移籍して、名前もジャクソンズに変えた。

僕はこの75年から78年ころのジャクソンズ、というかマイケル、が一番好きなんです。

The Jacksons

76年に移籍第一弾で発表したセルフタイトルアルバムは、名盤です。フィラデルフィア・サウンドを支えていたギャンブル&ハフのコンビと組んで製作、ストリングスを生かしたフィラデルフィアソウルと彼らのコーラスワークを融合させた美しい極が並び、”Enjoy Yourself””Show You the Way to Go”など、大ヒットとは行かなくてもそこそこ受け入れられファンの記憶に残るヒット曲も生まれました。その2年後の2枚目Destinyでは、まだ誰の影響も受けていない、彼ら独自のディスコ・ダンスミュージックの解釈を展開して”Shake Your Body”なんて、他にはあまり例のないリズムでのヒットを生み出した。

Destiny

ところが79年、以前からのマイケル人気に目を付けたエピックは、クインシー・ジョーンズとマイケルを組ませてソロアルバム、Off the Wall を作らせて、これが記録的ヒットになってしまう。

Triumph

そこから、皆さんご存知の歴史が始まってしまいます。しかしその裏では…

ジャクソンズとしてはどうしてもマイケル色をさらに強める必要に駆られてしまい、80年に出したアルバムTriumphは、彼らのセルフプロデュースのはずながらOff The Wallの二番煎じみたいな音になってしまったし、Thrillerの歴史的ヒットの後の85年に出たVictoryでは、ミック・ジャガーとジャクソンズの共演”State of Shock”が大ヒットしてしまう。しかしこれはどう聴いても、ジャクソンズとミック・ジャガーというよりは、マイケルが個人的にポール・マッカートニーと共演して”Girl is Mine” “Say Say Say”と連続大ヒットを飛ばしたこととパラレルに見えてしまう。

Victory Pipes of Peace

その後の兄弟は、マイケル、ジャネットのバカ売れもあり、空中分解状態になってしまう。

でもそれが一段落した後にジャクソンズとして久しぶりに出した89年の 2300 Jackson Street は、実に肩の力が抜けていていい作品でした。やっぱり自分たちが血の繋がった家族なんだ、ということを再確認したような。ぜんぜん売れませんでしたが。

2300 Jackson Street

まあそんなわけで、マイケルほど世界中に知られていれば人それぞれのいろいろな解釈が可能な訳で、一捻くれ者として見たマイケル論でしたが、もし彼がクインシーやジョン・ランディスと組まされることがなかったら、ジャクソンズはもっと音楽的に成熟したすばらしい音楽を作ってそれなりの成功を収め、マイケルも急逝することもなかった、と考えるのは私だけでしょうか。

オバマ大統領も声明を出したとおり、私生活ではいろいろありましたが、10歳からわれわれとは上の世界に行っちゃっていた人でしたから、仕方のないことでしょう。

いずれにせよ、我々に「進むべき道を示して」くれ続けて、疾風のように去っていった時代の申し子の急逝には、改めて合掌。

克也さんの新番組、全国ネットでよかったです。

克也さんが日記で書かれているとおり、アメリカのラジオ業界はいろいろ動いていますね。次回はその話題になるでしょう。

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2009年4月24日 (金)

Time Machine-1984

Then & Now Rock 'n Soul, Pt. 1

  往年のベストヒットUSAのタイムマシーンのコーナー冒頭の、克也さんの雄たけびみたいですね。

 知らない若い方々のために念のために言っておきますと、80年代のベストヒットのタイムマシーンは、今みたいに、何年前の今日は何があった、ができなくて、ある年のある一曲を紹介していたんです。

 それ以前の曲の映像がなかなかなかった時代でしたからね。当時契約していたアメリカのテレビ番組SOLID GOLDの映像を流したり。克也さんもスタッフの皆さんも資料映像探しにはずいぶん苦労されたみたいです。「ボストン」が蔵の奥から見つかったときには抱き合って泣いて喜んだとか。。。

 さて、でも上のタイトルは、いつものように曲やアルバムのタイトルにもなっていますから、その種明かしは後でします。お楽しみに。

 今のベストヒットをご覧の方々にはお分かりのとおり、421日の放送ではタイムマシーンスペシャルで、25年前の1984年に戻りました。小生は大学の音楽研究サークルでバリバリやっていた時期でした。

 当たり前のことですが、ある特定の二つの時期をピックアップして比較してみて、似ている部分もあれば違う部分もあります。小生はまず番組を見て、84年と今とはかなり似ているのではないか、と感じました。その似ている部分とは?

 克也さんは、「このアーティストは知っているけれど曲は知らなかったよー、ってのが多くありませんでしたか?」とおっしゃっていましたが、それはなぜでしょう?

 その謎をとく鍵は以下のクイズで。

 その1984420日付けチャートに入っていた以下の曲にはある共通点があります。それは何でしょう?

 19位 Pretenders “Show Me”

 17位 Yes     “Leave It”

 16位 Hall & Oates “Adult Education”

 14位 John Cougar Mellencamp “Authority Song”

 12位 Kool & the Gang “Tonight”

 9位 Denniece Williams "Let's Hear It for the Boy”

 7位 Culture Club “Miss Me Blind”

 2位 Lionel Richie  “Hello”

20曲中8曲ですが、さて共通点とは?

Colour by Numbers

 答。これらは全て、そのアーティスト(一部サントラ)のアルバムからの2枚目以下のシングルカット曲、つまりアルバムのリーディングヒット曲ではない曲、なんですね。

 ついでにもう一問。では以下の曲の共通点とは?

14位 John Cougar Mellencamp “Authority Song”

 13位 Go-Go’s “Head Over Heals

 12位 Kool & the Gang “Tonight”

 11位 Steve Perry “Oh Sherry”

 9位 Denniece Williams "Let's Hear It for the Boy”

 7位 Culture Club “Miss Me Blind”

 6位 Cars “You Might Think”

 5位 Rick Springfield “Love Somebody”

 4位 Kenny Loggins “Footloose”

 2位 Lionel Richie  “Hello”

今度は20曲中半分、これは一枚目のシングルカットも含めて、3曲以上トップ20に入るシングルヒットを出すアルバムからの曲です。

Can't Slow Down Heartbeat City

 これらのことから何がわかるか。

 この当時は、一枚のアルバムからシングルヒットが何枚も出てくる、曲のばら売り時代だったんですね。

 その理由は簡単で、ビデオ、MTVの最盛期だったからです。

  オンエアされた”You Might Think”のビデオ、今見ても凝ってますし、アワードを獲るのも当然ですね。あと”Leave It”のビデオはあのゴドレイ&クレームの作品です。

 この日のチャートにはたまたま入っていませんでしたが、ヒューイ・ルイス&ニュースもアルバム「スポーツ」から4曲のヒットを出していた全盛期だったのですが、やはりこの時期の近辺に克也さんがサンフランシスコに赴いての取材インタで、「70年代のコンセプトアルバムみたいな時代を懐かしく思わないかい?」という質問に「曲のばら売りはみんなビデオのせいなんだ。一曲毎に作るから」と答えていました。そのとおりの時代だったんですね。

 84年はほかにもシンディ・ローパー、ティナ・ターナー、マドンナなんかが一枚のアルバムから4曲以上シングルをヒットさせていた時代でした。

 この部分は、今現在の時代に似ていると思うのです。

 ニッケルバック、ドートリーなんかが、一枚のCDから何曲もヒット曲を出し、一枚で数年もたせていたりします。

 しかし、84年と今が異なるのは、メディア(媒体、手段、という意味)が違うという点ですね。

 現在のばら売り現象の原因も明らか。今はデジタル・ダウンロードの時代だからです。

アメリカのアマゾンのサイトを見れば、特定のCDのページに、収録曲全曲が曲別に、一曲いくら、で売っています。日本からは買えませんが。日本には日本の中で皆さんご存知の別の手段があるでしょう。また、そろそろCDではなくUSBスティックのみで売り出すアーティストも出てくるという。

 84年は、CDはそこそこ出ていましたが、まだ塩化ビニールの時代でした。LPレコードは、針が内側になればなるほど溝の感覚が細くなり音質が悪くなるので、AB面の最後の曲は多少手を抜く、みたいな不文律があったそうですが(山下達郎氏弁)、今は新しいアルバム製作にはその度毎にグレイテストヒッツアルバムを作るんだ、みたいな意気込みが必要な時代になっているんだと思います。

 さて、もう一つクイズ。これは答に主観が入りすぎているので怒られるかもしれませんが、以下の曲、というよりアーティストの共通点とは?

17位 Yes     “Leave It”

 16位 Hall & Oates “Adult Education”

 12位 Kool & the Gang “Tonight”

11位 Steve Perry “Oh Sherry”

9位 Denniece Williams "Let's Hear It for the Boy”

 4位 Kenny Loggins “Footloose”

 2位 Lionel Richie  “Hello”

 1位 Phil Collins “Against All Odds”

フットルース But Seriously

 答、これらのアーティストは、本来は別に音楽のルーツを持っていて、少なくともデビュー時はスタイルが全く違っていたのが、この84年は商業路線に走ってポップになって軽くなったり、バラードに手を染めたり、サントラに走っていった人たちだといえます。他にもこの時期のシカゴなんかがその代表選手ではなかったでしょうか。まあ、売れて何ぼの世界ですし、時流に合わせることができるのも才能の一つですしね。それに何よりもリスナーとして楽しませてもらえましたし。どうこう言う気はありませんが(既に言っているか)

 そういう時代だったんですね。そんなことにいろいろ思いを巡らせることができた特集でした。またやってください。

 そうそう、それで、タイトルの説明。

Grand Funk

 Time Machineとは、今のベストヒットのタイムマシーンのコーナーで、克也さんが登場するバックにかかっているギターのカッティング。あれはグランド・ファンク・レイルロードのTime Machineという曲なんですね。そういうのを知っている克也さんかスタッフのどなたか、流石だと思います。

 ちなみに、番組創成期からずっと使われ続けているスター・オヴ・ザ・ウィークのタイトルバックにかかる、ファンファーレみたいなのは、マイケル・ジョンソンという、これまたフィリピン人や前長野県知事さんが好きそうな(前回の記事を読んでください)シンガーの“YouYou, You”という曲のイントロです。”You Can Call Me Blue”というアルバムに収録されています。

1984

 あと、1984。これはまさにこの年の元日に発売になったヴァン・ヘイレンのアルバムのタイトルで、同名の曲も収録されていました。「ジャンプ」が入っているやつです。

 考えてみれば、1984年とは、ジョージ・オーウエルによる未来小説の舞台で、ヴァン・ヘイレンのそのアルバムもそれを意識したものでした。ビッグ・ブラザーという独裁者に監視される世界を想像したオーウエルと、実際に1984年を迎えてどこまで現実になっているか、などという検証がいろいろなマスメディアでされていました。その84年も、プリンスが歌った1999年も、歴史になってしまいましたね。

 そうそう、前回の記事で思い出せなかった、草彅剛、瀬戸朝香のテレビドラマのタイトルですが、あの記事を読んで下さっている希少な方々のお一人から、「成田離婚」であるとの御教示を受けました。ありがとうございました。お詫びして訂正いたします。草彅さん、いろいろありましたが、これもノーコメントで。まあ、もし自分を偽った姿で仕事をなさっているのだとしたら、ストレス溜まりますよね。

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2009年4月 7日 (火)

Open Arms

あら、珍しい。 

なんとメジャーで分かりやすいタイトルでしょう?!

まあ、いろいろなことに引っ掛けてあります。お楽しみに。

まずはご想像通り、ジャーニーのあの曲のこと。

前の記事でも書いたとおり、ちょっとブランクがあっていろいろ報告しなければいけないことがあって、順番が前後してしまいますが、こっちは時間的には近いほう。

 そのジャーニーのライヴ報告です。

 ベストヒットにも節目節目に出演多し、80年代の産業ロックの王道を辿った彼ら。

 80年代末の活動停止以来、分派がバッド・イングリッシュを作ったり、90年代は数度の企画的な再結成を経て、くっついたり離れたり。

 しかしまたここ数年の活動再開は本気のようです。

 全盛期からのメンバーは、ギターのニール・ショーン、キーボードのジョナサン・ケイン、ベースのロス・バロリー、これにニール、ジョナサンとはバッド・イングリッシュ以来の付き合いのディーン・カストロノヴォがドラム。

 そして今回の話題は、新リードヴォーカルのアーネル・ピネダ。

 フィリピンから新加入しました。

 そのためか、というかそれ以外に理由がないのですが、観客にフィリピーノ、フィリピーナが多かったこと。観客席からフィリピン国旗を大弾幕で広げたり。開始前のロビーでもタガログ語が飛び交う(ちなみに小生、タガログ語、タイ語、ほんのちょっと分かります。なぜでしょう?深い意味はありませんが。名誉のために言っておきますと、スペイン語、ロシア語はそれ以上に分かります。フランス語ドイツ語全然ダメ。クリスティナ・アギレラのあの曲程度)、記念写真をパチパチ。

 ちなみにフィリピンという国の音楽事情、暇があったら詳しく調べてみたいのですが、その暇というやつがないのが口惜しい。ひょっとしたらフィリピンは、日本以上に日本的な「おしゃれ洋楽」が好きな国のようです。

ボーン・フォー・ユー~ヒズ・ベスト&モア#紙ジャケット仕様#

 デヴィッド・ポメランツという人がいます。70年代ちょっと活躍したシンガーソングライター、しかし実際にはアメリカではソングライターとしてのみ捉えられていた人で、バリー・マニロウのヒット曲、”Trying to Get the Feeling Again”, “The Old Songs”なんかの作者です。

If I Should Love Again

 これらの曲、デヴィッドもレコードを出しますが、本国アメリカでは全然売れなかった。

 日本では、”The Old Songs”に関して、前長野県知事、現参議院議員のあのお方の処女作「なんとなくクリスタル」でポール・デイヴィスと共に取り上げられたり、また10年くらい前でしょうか、主演は草彅剛、瀬戸朝香で、ドラマ名をはっきり憶えていませんが「見合い結婚」だったかな、そこで剛君の好きなレコードとして毎回出ていてストーリーの横糸に使われたりして、知る人ぞ知る存在でした。

 その程度の人だったのですが、このデヴィッド・ポメランツのレコードはなぜかフィリピンだけでバカ売れしました。そこで彼自身、もう完全にフィリピンに移住しちゃって、録音もライヴも全てフィリピンのミュージシャンと活動しています。

I'd Really Like to See You Tonight and Other Hits

 これまた70年代に活躍した、爽やか系ポップスで「秋風の恋」などヒット曲も多かった男性デュエット、イングランド・ダン&ジョン・フォード・コーリー。

 これも90年代後半になってフィリピンでブームと呼ばれたくらいCDが異常な売り上げをして、30年近く音楽から身を引いて宗教活動をしていたジョン・フォード・コーリーが復活して、彼の場合移住までは至っていませんが毎年フィリピンでライヴをして、フィリピン向けのアンソロジーCDが発売されたりしています。ちなみに相方のイングランド・ダンことダン・シールズは、カントリーに転向して成功するなど音楽活動は続けていて、彼は「想い出のサマー・ブリーズ」などの大ヒットがある、もう一つの男性デュオ、シールズ&クロフツのジム・シールズの実弟なのですが、現在はその兄弟がSeals & Sealsとしてデュエットで活動しています。

 まあ、そんなことから、フィリピンというのは不思議な音楽志向性を持っていて、オシャレポップスが日本以上に受ける国だという想像ができるのですが。

 閑話休題。ジャーニーに話を戻します。

 スティーヴ・ペリーとは完全に決別、00年代前半の再結成企画ではペリーに声質に似た別のスティーヴが参加しましたが彼も体調不良を起こした。そこで新たなヴォーカルを物色していたニール・ショーン。たまたまYouTubeをサーフィンしていたら、フィリピンのライブハウスでスティーヴ・ペリーそっくりにジャーニーの曲を歌っている男の映像に出くわした。それがアーネルだった。ニールは早速メールでアーネルにコンタクトを取ろうとしたが、アーネルは最初、悪質ないたずらだと思って返事をしなかった。ところが周囲の人たちが返事だけでも出してみたら、と強く勧められたのでレスを送ってみたら、今度はニールに加えて、ジョナサン、ロスからもメールが返ってきたので、本物だと分かった。本当に、「あの」ジャーニーから加入を打診されているのだ、と。

 そんな、インターネット時代ならではの国境に穴を開けたシンデレラストリー。

 彼は母親を無くしたばかりで、今の自分の成功した姿を人目見せてやりたかった、という。第三世界の国にありがちですが、フィリピンも物凄く貧富の差が大きい格差社会で、実はアーネルはこんな運命のいたずらでもなければ下のほうの階級で場末のバーで歌っていたのでしょう。

 サンフランシスコ・ベイエリアをベースにしていたバンドにフィリピン人が入ってくる。

 いいじゃありませんか。

 以前書きましたが、僕はオバマ大統領を単なる黒人の大統領としてではなく、多民族社会アメリカの象徴として登場したのだと考えています。それとおなじことじゃないですか。異文化人を大きく「両腕を広げて」迎え入れたわけですから。

 それでとにかく、ご存知かもしれませんが、アーネルの声はスティーヴ・ペリーのそれにそっくりです。

 ルックスも似せようと長髪にしています。ただ、背は小さいですね。スティーヴは80年代の全盛期は長身に長いコートテールで「茶羽ゴキブリ」と一部であだ名されていましたが、長髪、小柄でちょこまか動くアーネルで、小生は、最初のシリーズの頃の20台の「金八先生」を思い出してしまいました。でも彼、実は既に40の大台を過ぎていて、つまり小生と殆ど変わらないんですよね。ニール、ジョナサンたちこそ今までジャーニーの名前を背負ってきたのに、ステージ上では無言で演奏に徹して、MCも盛り上げもアーネルに任せて、すでに信頼を得ている感じでした。

Journey_setlist

 今回も幸運にもミキサーさんからセットリストを頂きました。

REVELATION

ジャーニーの最新CD ”Revelation”は二枚組で、一枚目は新曲、二枚目は80年代のヒット曲をベスト盤形式で選曲し、アーネルをフィーチャーした再録音。その中から去年、一番ヒットした曲は”After All These Years”という、”Faithfully”を焼き直したようなロックバラードだったのですが(ちなみに先ほどの、ニール・ショーンがYouTubeでアーネルを発見したときの動画は、”Faithfully”を歌っていたものだったらしい。でも今回のライヴではその一曲だけ、ドラムのディーンがリードヴォーカルを取っていました)、その曲も演られず、80年代のおなじみの曲6割、ニューアルバムからの新曲4割という感じでしたが、ハードロック色を強く出そうとしていたように感じられました。

Frontiers

 ニューアルバムの1曲目でもある”Never Walk Away”から始まり、全盛期の後期の曲に怒涛のメドレーで続く。ちょこまか動くアーネルは前列席で手を伸ばす聴衆たちに、ウエーブを作るように右から左へと全員にハイタッチをしていく。バラードのヒット曲は、真ん中あたりの8曲目に”Lights” ”Still They Ride” をメドレーでやったり、それに続けて例の”Open Arms”に続けて、最後から2曲目に”Faithfully”を持ってきたり、要所要所でロックバラードを入れていましたが、例えばあの泣きの”Who’s Crying Now”なんかは演らなかったわけで全体的にハードな曲が中心の選曲、ニューアルバムからもそちらの方から、全体の中でも一番盛り上がったのはやっぱり”Separate Ways”,”Don’t Stop Believeing”など、”Escape”のアルバムからの曲でした。その当時、80年代初めのギターキッズたちのお手本となったニールの連符速弾きはいまだに健在と見ました。

Escape

 いい意味であまり自己主張をしそうでなく、つまりニールとあまり喧嘩しそうにない従順な、しかも全盛期の雰囲気を忠実に再現できる新たなフロントマンを得たことで、このジャーニーというグループ、もう少し長く続きそうだ、と感じました。

 

 もう一つの Open Arms

 43日放送のファンフラをお聴きになった方。克也さんに時々合いの手を入れていた子供の声に気づかれましたか?

 それは私の息子、阿南”Ricky”紀輝(のりき)8歳だったのです。

 春休みを利用して上京帰省し、金曜日が重なっていたので、銀座のスタジオに突然に親子でご挨拶、というかお邪魔しに行ってしまいました。いろいろ悪戯もしてご迷惑もおかけしました。でも放送事故には至らずほっとしています。大喜びで、「カンカン!」や「ブー!」に参加できた時ははしゃいでました(親も!?)

 放送でも、「君、小林克也の孫じゃないの?」とおっしゃってくださいましたが、本当に孫のようにゴム割り箸鉄砲で遊んでくださったり、感謝です。スタッフの皆様も、音に関係ない程度に機械をいじらせてくださったり、いい経験、思い出になったと思います。

 本当にありがとうございました。

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おやつを賭けてじゃんけんポン。愚息が負けましたがちゃんと分けて下さった御大でした。

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ちゃんと原田Dのお手伝いもしました。未知の世界に興味津々、でも御大のお邪魔にはならないように・・・

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突然お邪魔して失礼したにもかかわらず、「もろ手を広げて」歓待してくださった克也さんと銀座ファンキーズの皆様、ありがとうございました。お疲れ様でした。

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2009年3月24日 (火)

Here  I Go  Again

ご無沙汰してしまいました。

 まあいろいろ手違いがございまして、去年の暮れに書いた原稿が、年が明けてかなりたってからアップされたりして。

 新年のご挨拶をするにはあまりにも間抜けな時期になってしまいました。

 去年の年越しの瞬間は克也さんと同じ場所で、公開生放送スタジオで派手にカウントダウンをやっていい思い出になりました。今年も同じようなことがあると期待していたのですが、残念ながらうってかわって地味な年越しの瞬間となりましたが、それでもBSアサヒで、オノ・ヨーコさんやチャーがジャムする”Imagine”を観ながら、テレビ画面にテロップで映るカウントダウンで新年を迎えました。

 その後、年末、年度末の忙しい時期があったのもさることながら、なんと小生、入院をしてしまいました。

 簡単な静養と検査だったのですが。大手術をされながらレギュラーをほとんど2週間しか穴を開けなかった克也さん、現在手術入院中ながら病床から連載を欠かさない海老沢泰久さんを改めて尊敬申し上げます。

 実はまだ、かなり後になりますが入院はもう一度ある予定なのです。

 それやこれやで、殆どの人は気にも留めなかったでしょうが、極一部の希少な方々にはご心配をおかけし申し訳ございませんでした。

 そんなわけで、去年からペースが乱れて、ここに発表するべきことがややたまっています。その「蔵出し」を徐々にやっていきましょう。

 まずはなんと去年の11月、ホワイトスネイクとデフレパードのダブルヘッドライナーライブに行った時の報告です。

 今までもダブルヘッドライナーのライヴのリポートは何度か書いてきましたが、今回が少し違っていたのは、今までのものは全て、違う二つのバンド、アーティストがせっかく同じ場所時間でやるんだからちょっと一緒にギグしようよ、みたいな趣向があったのですが、この二つのイギリスのヘビメタバンドの場合、そういったことが全くありませんでした。ホワイトスネイク側からデフレパへのエールは全くなし、デフレパのジョーから一曲目の後にちょっと「ホワイトスネイク、最高だったよなー」みたいな謝辞(?)が一言あったのみ。二つの全く別々のライヴを立て続けに見た、という感じでした。ヘビメタという時点でそれぞれの個性が強すぎるから、一緒になんかやろうよ、という発想自体に無理があるのかな。

 この度も例によって客席側のミキサーさんに強請ってセットリストをゲットしちゃいました。しかもスタッフも総入れ替えだったのに、二グループ両方のを手に入れました。ヘビメタには、僕みたいにラジオでヒット曲中心に聴いている人と違ってコアなファンが結構いらっしゃいますから、ライヴ終了後の余韻に浸りながら家路を辿ろうとする雑踏の流れの中でこれを見つけられた人たちからはかなりやっかみを受けてしまい、ケータイ付属のカメラで写させてくれ、というリクエストを数件受けました。こんなことも今までなかった経験でしたね。

 

 最初はホワイトスネイク。これはもうカバーデイルの独り舞台、といった感じでした。メンバーもアメリカから連れてきた新しい人が多かったし。バックスクリーンにはアルバムジャケットなんかに使われるロゴマークを壁紙みたいにして曲によって変えていく程度でした。

Whitesnake's Greatest Hits

 結成時から、ディープパープルと比較されて軽くなったとか、いろいろ言われたバンドでしたが、80年代半ばになって割り切って商業ロックに近づいて(はっきりいえばポップな要素を取り入れて)、字の如くセールス的にも大成功して文句を言わせなかった彼ら。ちょうど真ん中に”Is This Love”、ラストに”Here I Go Again” 、アンコールに“In the Still of the Night”などその時代のおなじみの、みんなで歌える曲を配置しつつも、ハードなツインギターソロ、ドラムソロのパートも挟みヘビメタの面目躍如といったところでしょうか。

Defleppard_setlist 

 30分の休憩を挟んでデフレパ。こちらは、高校の同級生が32年前に結成したバンドで、そのときのメンバーが今なお3人も残ってやっている。ジョー・エリオットの高音カナキリ声シャウトはいまだ健在、克也さんのベストヒットUSA回顧にもあったけれど、84年の大晦日の事故で左手を失った片手ドラマー、リック・アレンも、バックスクリーンに大写しにされるとかえって迫力がありました。そのバックスクリーンの使い方もホワイトスネイクとは異なり、そうやってステージ上のメンバーの様子を追ったり、コミカルなビデオクリップを流したりと効果的に使っていた感じでした。

Best Of

 ハードさもデフレパのほうが上だったような感じ。それでも、「パイロメニア」「ヒステリア」と名盤を立て続けに出しただけあり、おなじみのヒット曲のオンパレードができるのはさすが。”Heartbreak”とは”Bringin’ on the Heartbreak””Sugar”とは “Pour Some Sugar on Me”のことです。念のため。アンコールで、「時間が余ったら」やるはずだった”Bad…”は残念ながらできませんでした。

 Here I Go Againとまた書きたいですが。まだリポートしたいライヴネタも溜まっていますし、恒例の「アナミー賞」もやってません。本家のグラミー賞も過ぎちゃったのに。でも、上のような事情で、まだペースを取り戻すには時間がかかるかもしれません。ボチボチやっていきますので長い目でよろしくお願いします。

 改編期も近いということで、「ポップ・ミュージック・マスター」終了は残念です。僕にとってはモバHoのサービス終了と重なるのでもし続いていたとしても聴けなくなるので残念さ半分ですが。ヒット曲のイントロループのテーマ、訳詞コーナー、何年前の今日のNo.1コーナーなど、後期のZIP Hot 100を髣髴とさせる番組だったのでやっぱり、終了は時の流れを感じてしまいます。

 「期限切れ遺失物移管所」にメールを下さった「折り紙菊ちゃん」さん、改めてありがとうございます。22日の放送でシンディ・ローパーのリクエストがかかった「トラック山ちゃん」ってひょっとしてあなたのことですか?番組にあなたに捧げるリクエストを出してあるんですけど、あと一回、録音はもう終わっているでしょうね。克也さん、大橋さんに採用する度量、あったかな?

 文末ながら、克也さま、早いですがお誕生日おめでとうございます。

Whitesnake_centerfold

Whitesnake_setlist_2 

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