文化・芸術

2010年2月 7日 (日)

Wake Up Everybody!

Essential Teddy Pendergrass

追悼記事です。

テディ・ペンダーグラス。113日逝去。享年59歳。直接の死因は結腸癌。

1年くらい前のアイザック・ヘイズの追悼記事のときに引き合いに出しましたが、その彼も逝ってしまいました。

バリトンの魅力、しかしアイザック・ヘイズと違って甘いセクシーさを持っていた。

1970年代のフィラデルフィア・サウンドの看板でもありました。彼自身もフィラデルフィアで生まれ育ちました。

それまではリードヴォーカルをころころ変えていたハロルド・メルヴィン&ブルーノーツのフロントマンの座を確保するとメキメキ頭角を現し、知名度も急上昇しました。グループ名に冠されたリーダーと最も人気のあるリードヴォーカルが違う、アメリカ版「内山田弘とクールファイブ」「敏いとうとハッピー&ブルー」状態になったわけです。

MFSBのストリングスを前面に出したサウンドにギャンブル&ハフの名コンビによるラブソング。それに男声コーラス。

ここまでだとO’Jaysとほとんど同じですが、ハロルド・・・が違っていたのはやはりテディの独特の低音セクシーを前面に出せたことでした。

Essential Harold Melvin & The Blue Notes

最初のヒットの73年の”If You Don’t Know Me By Now””89年にシンプリー・レッドがカバーしたことからも、今でもフィラデルフィア・ソウルを代表するラブソングになっています。

その後の70年代中期は、”The Love I Lost”, “Bad Luck”, ”Wake Up Everybody”など、バラードに加えて時流に乗ったディスコっぽいリズムでのヒット曲も量産します。モータウンのテルマ・ヒューストンが77年にNo.1ヒットにして、後にジョン・サマヴィルがブロンスキー・ビートの後に作ったコミュナーズというグループが86年にイギリスでヒットさせた”Don’t Leave Me This Way”はハロルド・・・がオリジナルです。

Best of

78年、テディはハロルド・メルヴィンとの意見対立がありグループから脱退します。ソロに転向後は完全にセクシーラブバラード路線中心になり、唯一のTop40は同年の”Close the Door”ですが、80年までにかけて”Turn Off the Lights”, ”Love T.K.O.”などR&Bチャートでのヒットを飛ばし名曲を後世に残します。特に”Love T.K.O.”2000年代に入ってもカバーの定番となり、70年代のソウルカバーの企画ものには必ず選曲されるようになっています。ホール&オーツも Our Kind of Soulで、モータウンに移籍して三枚連続してカバー企画アルバムを発表してグラミーも受賞したマイケル・マクドナルドも、「美女と野獣」

のレジーナ・ベルもフィラデルフィア産のヒット曲のみをカバーしたReachin’ Outで取り上げています。

Our Kind of Soul Soul Speak

 このレジーナ・ベル、先日来日していて、ライブにも行ったのですが、その曲も演りませんでしたし、テディの死にも一言も触れませんでした。しんみりさせたくなかったんでしょうね。

Regina_belle_img

 

テディのライブでは、客席から女性のパンティが次々に投げ込まれたという。声だけで女性を○○せてしまう男。羨ましいなあ。彼に続いてフレディ・ジャクソンとかが同じ路線で出てきますし、更にはブライアン・マクナイトとかに影響が感じられますし、80年代以降、ブラコンとか、今ならアーバン・コンテンポラリーといわれるスィートなR&Bの基礎を築いたといえるでしょう。

 そんなテディですが、日本では奇妙な売れ方をします。日本ではそのソウルっぽい部分は全く受け入れない。ところが、79年から80年ころ、幼稚園児まで、テディは知らなくてもそのリズムで踊っていた。

懐かしい「ドリフのヒゲダンス」。「8時だョ!全員集合!」の名物コーナー、シムケンとカトちゃん茶ぺが、付け髭、シルクハットに黒スーツでゲストと一緒に曲芸をやる。そのバックに流れていたリズムが大受けし、インストでシングルになってオリコンでベスト10に入る唯一の記録を作る大ヒットになりました。

Teddy

これの元ネタが、実はテディの、”Love T.K.O.”も入っていた79年のアルバムTeddyの中の “Do Me”という曲だったのです。志村けんさんは、今はあまり聴いていないようですがこの頃は知る人ぞ知るソウルオタクで、テディのその曲のバックリズムを使ったところ思いがけずバカ受けして、それに便乗する形でテディのオリジナルもほんの少しですが話題になりました。あくまでもほんの少しでした。

ちなみに、志村さん本人がいっているのを聞いたことはありませんが、「全員集合」からのもう一曲のインストのスピンオフヒット「ドリフの早口言葉」の元ネタは、ウィルソン・ピケットの”Don’t Knock My Love”とバリー・ホワイトの”Satin Soul”を組み合わせたものであるはずです。

さて、順風満帆に見えたテディですが、82年に大きな交通事故を起こし、下半身不随になり、その後車椅子の生活を余儀なくされます。

当然コンサートはできなくなりますが、レコードは出し続け、アトランティックレコードに移籍しJoy など評価の高いアルバムを出します。事故後に出されたホィットニー・ヒューストンのデビューアルバムでも”Hold Me”をデュエットして、当時ストリップ劇場のバックの定番になっていたそうです。(なぜそんなことを知っている?)

残っている彼のウエブサイトを見ると、ディスコグラフィのページでは、ブルーノーツの時代からソロに至るまで彼のレコード、CDのジャケットが街頭に一枚ずつ飾られていて、それを彼のアバターがとぼとぼ歩きながら辿っています。やっぱり、歩きたかったんでしょうね。

更に癌に侵されていることが発覚し、2000年代はほとんど引退の状態で、今回のことを迎えました。

スィートソウルでの彼の偉大な業績を惜しみつつ、セクシーで甘い部分ではない彼の一面を紹介して死を悼みたいと思います。

先週のベストヒットでもマイケルの特集があり、克也さんはマイケルの「怒り」をよく強調されています。

美しく甘いソウルを作っていたフィラデルフィアの人たちも、実は「怒って」いたんだと思います。

77年に、テディ、O’Jaysスリー・ディグリーズ、ルー・ロウルズ、ビリー・ポール、その他フィラデルフィア・インターナショナル所属アーティストを総動員して、当然MFSBをバックに、当時(今でも)の都市部の黒人居住区の不衛生問題改善を訴えた”Let’s Clean Up the Ghetto”を出しています。有名アーティストが歌い繋ぐところなど、We Are the Worldの原型であったともいえます。

その We Are the World、ご存知の通り、四半世紀を過ぎて、この間のハイチでの大地震の被害救済のため、今のアーティストたちによって再録音されました。マイケルが残した母テープもバックに使われているという。(小生はこの手のチャリティはあまり好きではありませんが、それはこの際置いておきましょう)。

テディのブルーノーツ時代のヒット曲、”Wake Up Everybody”、そんな現在にも、マイケルの怒りにも通じるものがあります。その歌詞を紹介します。改めて合掌。

Wake up everybody no more sleepin in bed

みんな、目を覚ませ、ベッドで寝ている場合じゃない
No more backward thinkin time for thinkin ahead

過去を顧みている時じゃない、今こそ未来を見つめるんだ
The world has changed so very much
 from what it used to be

世界はかつての像から大きく変化した

so there is so much hatred war an' poverty

だからこそ憎悪と戦争と貧困が増えているんだ
Wake up all the teachers time to teach a new way

教師たちよ、目を覚ませ、今こそ新たな生き方を教える時だ
Maybe then they'll listen to whatcha have to say

きっとみんな、君たちの言うことに耳を貸すに違いない
Cause they're the ones who's coming up and the world is in their hands

なぜなら、彼らは未来を担う世代で、世界は彼らの手にゆだねられるからだ
when you teach the children teach em the very best you can.

子供たちを教育するときには、ベストを尽くしてやってくれよ。
Wake up all the doctors make the ol' people well

医師たちよ、目を覚ませ、老人たちに生きる希望を与えるんだ
They're the ones who suffer an' who catch all the hell

彼らこそあらゆる病の苦しみを受けなければならない人たちだから
But they don't have so very long before the Judgment Day

それでも、彼らの審判の日まで、それほど長くはない
So won'tcha make them happy before they pass away.

だから、彼らが本当に死を迎えるまで、幸福を与えてやってくれないか
Wake up all the builders time to build a new land

建築者たちよ、目を覚ませ、今こそ新たな土地を開拓するときだ
I know we can do it if we all lend a hand

われわれみんなも手を貸せば、きっとできるはずだ
The only thing we have to do is put it in our minds

いつも心がけていること、ただそれだけでいい。
Surely things will work out they do it every time.

いつもそうしてきたんだ、きっと巧くいくさ

The world won't get no better if we just let it be

ただ放っておいたままなら、世界はよくならない
The world won't get no better we gotta change it yeah, just you and me.
世界はよくならないから、我々が変えていかなければならないんだ、君と僕とで

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2010年1月15日 (金)

Try to Remember/ The Way We Were

あけましておめでとうございます。

まだ正月ボケが続いている方もいらっしゃるでしょう。少なくとも小生はそうです。

ですので、少し正月らしいトピックで書きます。普段のような、洋楽に関するトリビアな内容は僅かになってしまうかもしれません。しかしより大きな意味での音楽の歴史の話になる可能性あり。

去年、ファンフラに二度も出演させていただいた愚息、”Ricky”紀輝(のりき)クン9歳。

小生、縁あって仕事で名古屋にいますが、両親は関東にいます。

小生と愚息も、冬休みの後半、ラッシュにできるだけ引っかからないように帰省しました。イベント参加や、お年玉ねだりが主目的でしたが。

リッキー君は、もう一つ重大なミッションを帯びて上京しました。ミッションとは大袈裟で、洗練された言葉で言い換えるといわゆる「宿題」ですな。

それは、オジイチャンオバアチャンのお家に行くことがあったら、「昭和」の時代を感じられるものを何か見せてもらって、それについての話を聴いて、教室で発表してください、というものでした。

昭和といわれましても63年もの長きにわたるわけでして、かく言う小生自身も人生の半分は昭和を生きていた訳でして、いろいろないわけではないですが。オジイチャンオバアチャンから情報をもらいなさいということは、できたら昭和の前半の時代を彷彿とするものを見せてもらえ、という含みがあるのでしょう。

小生のお袋は克也さんとほぼ同年代、親父はチョイ上です。

ちなみにリッキー君は炬燵を経験したことがありません。小生が子供の頃に入っていたものも、家を改築したときに処分してしまったとのこと。残念。

話を聞いて親父やお袋が出してきてくれたもの、すり鉢、昭和30年代の羽子板、いろいろありましたが、やっぱり一番古い、SPレコード盤がいいだろう、ということになりました。マイケル・ジャクソンの一件以来洋楽にも興味を持ち始めたリッキー君にもインパクト大きかったようです。

SPレコードとは何か。オジイチャンのお話もさることながら、このサイトにおいてセミプロ音楽ライターを始めて6年目、その意地にかけて愚息のプレゼンのカンペを作ってやることにしました。

しかし、工学技術や歴史を小学校低学年に説明するのは逆に難しいですね。小生が本当はこう言いたいんだけれど高度すぎて(?)いえない部分は(   )の吹き出しでコメントします。

「みなさんは音楽を聴くとき、CDを使っていますよね」

 (CDの売上げは10年前と比較すると半減しており、ネット配信、USBスティックオンリーとか、今年はメディアの多様化が更に加速しそうですけどね)

「でも、僕たちのお父さんや、オジイチャンの昭和の時代には、レコードというものがあったそうです。

それも、オジイチャンの時代の昭和の前半は、レコードの一番古い形のSPレコードというものがあったそうです。

今のCDは、音楽をデジタル化した信号に変換し、それに光線を当てて読み取って音に直して聴くのですが。。。」

(これ自体十分難しいですね。どうしたらいいでしょう。やっと10進法に慣れたばかりの子供たちなのに、2進法とか、0と1の二つの数字の組み合わせで全ての音が無限に信号化されてるとか。。。ますます止めたほうがいい)

「レコードは、円盤に針を落として、円盤の外側から内側に向けて掘られた一本の細い溝に記録された摩擦音を針が辿って震えて、その音を大きくして聴いていたのだそうです。」

 (CDDVDの場合、光線は内側から外側に動いています。これは皆さん、知ってましたよね?)

「レコードの一番もとの形を発明したのは、みんなも知ってる発明王のエジソンで、1877年のことだそうです。」

 (この時エジソンが作ったのは円盤ではなく筒が回転して針が下から上に降りてくるもので、声を辛うじて聞き取れる程度のものだったそうです。偶然にも、エジソンと電話の発明の特許を争ったアレグザンダー・グラハム・ベルもほぼ同時期に同じものを作っていたのですが、二人ともそれ以上の改良を考えなかったそうです。それが発明家の発明家たる所以なのかもしれませんね。プロトタイプは作るけどあとは野となれ山となれですぐ別のものに興味を移す。。。)

「これが、オジイチャンが残していてくれていたSPレコードです。」

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 「『鳩ポッポ』が『ポッポ鳩』って書いてあったりします。オジイチャンの若い頃は、日本語の横書きは右から左に書いていたそうです。」

SPレコードは、一分間に78回転して、それで3分間くらいもって一曲だったそうです。溝を辿って音を拾う針は鉄でできていて、一回使ったらそれでもう使えなくなり、一回ごとに交換していたそうです。」

「昭和が始まった頃(1920年代ですな)、アメリカという国ではジャズという音楽が大流行して(子供たちはジャズといわれてもピンと来ないし、アメリカといわれても日本より大きな国があるんだなあ、くらいの認識しかまだないでしょう)レコードが広まったそうです。」

SPレコードは片面しか録音できず、割れやすい硬いプラスチックで作られていたので、1940年代にアメリカと日本が戦争をしていた頃(今ではこの歴史事実すら知らないで大学に入学してくるやつらがゴマンといますから、早くから教えておいたほうがいいと思います)、素材は弾力性があって割れにくい塩化ビニールに変わり(ちょっと難しいかなあ)、両方の面に録音できるようになり、直径は30センチになって一分間に33回転になり、片面に40分も録音できた、何曲も連続して聴けるようになりました。これをLPレコードといいました。一曲だけを聴くためのものは直径17センチと小さくなり、一分間45回転になりました。これをEPレコードといって、中心の穴が大きかったのでドーナツ盤というあだ名がつきました。音を拾う針も宝石(こういう言い方のほうがわかるでしょう)が使われるようになり、一番硬いダイアモンドを使って作った針なら延べ(この概念もまだ習っていないでしょうが)で300時間くらい聴くことができました。」(これらの規格を作って普及させたのはアメリカのコロンビアとRCAです)

「ビートルズや、マイケル・ジャクソンも最初はそうやってレコードを作って売っていました。」(小学生もこの二つなら全員辛うじて知っているようです)

「これが、1981年に最初に述べたCDが売られるようになり、今にいたります」

(世界で最初にCDを商品化したのは新しいもの好きの大滝詠一師匠の A Long Vacationでした。来年は20周年を迎えるわけですな)

以上、「   」の部分をリッキー君が写真を見せながら巧く発表してくれればいいな、と思っているのですが(親バカ丸出し)。

以下は小生の個人的な回想。

小生は、物は壊れるまで使い切らなければ気がすまないセコい性格もさることながら、LPレコードを最盛期で1000枚近く持っていたこともあり、しかもマイナーで希少なものが中心でしたから、それらが全てCD化されるとは到底考えられず、最後までCDに抵抗し、アナログレコードにしがみ付いていた口でした。最初のCDを買ったのは1989年だったと記憶しています。それまでアナログではどうしても見つからなかった曲がCDになっていたからでした。その曲についてはいずれ稿を改めて。

それ以降は雪崩の如く、ン千枚のCDを集めてしまいましたが、今はCDを買う以外に音楽を入手して貯めておく手段は多様化し、CDを何枚持っているかなど何の自慢にもならない時代になってしまいました。冒頭に書いたCD売上げの半減減少も無縁ではないでしょう。

技術の発展、普及にかかる時間はどんどん圧縮される傾向にあります。小生はDVDもン千枚ためてしまって、次世代DVDもクソ食らえと思っていたのですが、ひょっとしたら本年の暮れまでには、時流に負けてブルーレイシステムを入手しているかもしれない、そんな予感さえする2010年正月でした。

ザ・ベスト・オブ・グラディス・ナイト&ピップス

Try to Remember/ The Way We Were

グラディス・ナイト&ピップスが、1975年、その前年に大ヒットしたバーブラ・ストライザンドの『追憶』のテーマにせりふを加えてかばさせたヒット。世の中の動きや技術発展が速くなっていても、その基礎は先人の発想と努力の賜物であって、それを有り難がって使っていた時代があったことを忘れてはいけない。小学校からの勉強も、その認識が根底になければ。知ることは喜びで、無駄なものは何もないのです。

♪いつだって、。忘れない、エジソンは、偉い人、そんなの常識~、タッタタラリラ~♪

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2008年8月 7日 (木)

Video Kills a Radio Star

The Age of Plastic

  何をいまさらこの曲を、という感じですが。

 またこの曲を思い出してしまう出来事がありました。

 MTVの開局第一発目を飾ったあの曲。

 音楽と映像が融合する時代の幕開けを象徴したような曲でありました。

 それからおよそ四半世紀、音楽にビデオが付いてくるのは当たり前、でも、ラジオという昔ながらのメディアは残っている。

 それでも、様々な技術が発達し、同じ機能を果たすはずのメディアも複数の方向に枝分かれし、その中で競合が生じ、適者生存、広く受け入れられたものは興隆し、それに失敗したものは消えていく。

 「せっかくのハイビジョンなのにブルーレイ使ってないの?もったいない。ヤザワ、ブルーレイ使ってます」

 次世代DVDの規格争いでHD-DVD方式が敗北を認めて撤退し、ソニーが中心に推進したブルーレイ方式が標準規格化して、これからの目玉として注目されるに至った、というのは記憶に新しい。

 旧型(?)の4.7GBのメディアに十分満足している私の目には、次世代DVDを巡る争いは醜く映り、泥仕合になって消費者から見捨てられて両方とも潰れてしまえ、と思っていたのですが。そうはならないようです。

 しかし、ブルーレイといっても、これから高画質映像の配信、保存方法がディスクだけに一元化されず、多様化してくるとの予想があり、うかうかもしていられないようです。

 現在、音楽CDソフトが有料配信のために苦戦しているように。

 そして今週、マイナーなニュースですが、私にとってはショックな情報が飛び込んできました。これも一つのメディアの消滅です。

 通信衛星ラジオ放送 モバHo! が来年3月でサービスを全面停止してしまうという。

 スカパー!のラジオ版といったところでしたか。「ラジオ局を持ち運ぼう」をキャッチフレーズに、テレビ放送も若干扱っていましたが、ラジオに限っていえば、目的や音楽のジャンルに特化したチャンネルが50くらい、USENのように固定した場所ではなくモバイルで持ち運べる、日本全国どこでも同じ放送が聴ける、が売りのサービスでした。

 開始が200410月。

 私はこれの受信機能を持つ携帯電話に買い換えて以来14ヶ月お付き合い。

 しかし、その受信契約に踏み切ったひとつの大きな理由であった「小林克也チャンネル」がその3ヵ月後、077月に消滅してしまった。

 そして今回の決定。

 開始からわずか5年での完全撤退。

 当初は加入契約者数200万人を目指していたのが、現時点で10万人に留まってしまっているという。小生はその希少な10万人のうちの一人というわけですな。

 伸び悩んだ最大の原因は、ワンセグとの競合であったという。

もうケータイの標準装備機能となりつつあるワンセグ。

駅のフォームに腰掛けてテレビを見ている人の姿が珍しくなくなりました。

 僕自身は、あんな小さな画面でテレビを見て面白いのかなあと思っていて、ケータイには備え付けてはありませんが、それでもどこにでも持ち歩いているB5ノートパソコンには入れてあって、移動中、出張中でも見られるようにしてあります。

 そのワンセグの強みは、無料であること。それに対して受信料が発生するモバHoは圧倒されてしまったという。

 それに、「ラジオ局を持ち歩こう」といって、ドライヴ中のBGMとしての需要を見込んでいたようだが、それもCDオーディオシステムや、iPodから無線でカーオーディオに飛ばせる機能が搭載されていれば、それに取って代わる要素も持っていなかった、ということなのだろう。

 しかし、ちょっと待ってくれ。

 何かがなくなる際に必ずある議論であるが、たとえ少数であるにせよ、それに特別な価値を見出して利用しているユーザーが必ずいる。

 モバHoとワンセグが競合したのは、アウトドアでの暇潰し(?)映像メディア視聴という点のみであり、提供していたコンテンツはまったく別物であったはずである。

 かく言う私は、TFMJ-Waveが名古屋にいながら聴けることが最大の利用目的であった。そういった、自分が住んでいる地域の地上波では聴けない局が聴けることを喜んで利用していたユーザーは少なくないのではないだろうか。

 克也さんが名古屋を去った後、この連載のネタ探しに七転八倒している私としては、東京ローカルの番組が聴けるこのサービスは救いの神だったのだ(その割にはあまりネタにしていなかったような気もするが)。

 それがまた元の木阿弥に戻ってしまう。

 「小林克也チャンネル」が無くなったあたりから雲行きが怪しくなっていたのをなんとなく感じていたのですが。

 メディアに限らず、マクロの市場原理で淘汰される消費財の特殊機能に依存していた少数派が切り捨てられるのは世の常とはわかりつつ。

 映像メディア=Videoが、また、音声メディア=Radio を殺した。

 来年の春まで、USENを含めて、ほかに東京のラジオ局が聴取できるサービスがないか、いろいろ探っていくしかないようだ。

 その前に来年3月までのDJ Koby’Radio Showと「ポップ・ミュージック・マスター」は聞き逃さないようにしよう。

 克也さん、大橋さん、首都圏以外からリクエストが来ていたら、できるだけ採用してやってくださ100_0001いね。

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