旅行・地域

2008年11月25日 (火)

憧れのラジオガール

 ちょっと変則的ですが、一人時間差攻撃で別件入稿を簡単にさせていただきます。

 連載始めて3年以上、かつて一度だけ日本語のを表題に使ったことはありましたが、それ以外ずっと洋楽の曲を使ってきた。初めてJ-ポップの曲を使います。南佳孝さんの。

使わずにはいられません。

 半分、克也さんへの報告、言づて連絡になってしまうのですが。

 平瀬マミさん、憶えていらっしゃいますよね?

96年から98年にかけてZIP HOT 100の前番組、サンデー・スカイ・アイランドを担当していた、歌がものすごくうまい、あの女性。

 つい先日ひょんなことから再会してしまいました。といってもネット上だけの話なのですが。

 彼女の番組にもよく、ちょっと捻ったリクエスト投稿をしていたので、常連で名前を憶えてもらって、最終回には電話出演もさせてもらった思い出もあります。

 彼女、番組をやっていた頃からの遠距離恋愛(そうだったのか!チクショウ!)の彼と結婚し、お嬢さんも生まれて、幸せで元気そうです。

 なんと今、沖縄にいます。数年前から数度旅行して、沖縄の不思議な魅力に取り付かれて完全移住を決意されたとのこと。

 同時に、しばらく遠ざかっていた音楽活動も、沖縄でこそやるべきなんだと思い立ち、自主録音やライブ活動を精力的に再開したようです。

 そして今月から、地元のFM局で週2日、そのZIP以来のDJのレギュラー番組を始められました。

 彼女にとってDJRole Modelはあくまでも小林克也であり、克也さんとの思い出、慕情をブログに書くため、克也さんのホームページを探していたらここRADIOBAKAに辿り着いたそうです。そしてついでに、僕が以前、彼女に呼びかけていた原稿の痕跡を発見し、誰だろうと思って載せていたそうで。それで僕のほうの「期限切れ遺失物移管所」にアクセスが数回あり、逆探知して、全くご無沙汰だった彼女の近況を知ることになりました。早速彼女にメールを送り、そのコラムを書いた張本人は私です、お久しぶりです、お元気ですか?沖縄にいるなんてびっくり、てなことで、お互いの近況報告、情報交換が始まってしまいました。

 写真を拝見する限りあの頃と殆ど変わっていなくて、少しお母さんとしての落ち着きが加わった程度で、相変わらず魅力的ですね。可愛いお嬢さんと一緒の写真を見ていると、高校か大学の同窓会に行って、ちょっと好きだったあの娘に久しぶりに会ったら素敵なママになっていた、そんな甘酸っぱい気分に浸っています。

 僕のこともブログに記事にしてくれてありがとう。

 克也さんにくれぐれもよろしくとのことでした。克也さんもよかったら連絡を取ってやってください。きっと喜びますから。

 このサイトを沖縄からご覧になっている皆さん。今は、タグチマミさん、担当の、FM沖縄、毎週月曜と火曜、午後1時からのSouthern Stationという番組、僕が聴けない分も是非聴いてやってください。選曲リストを拝見した限りではかなりイケてる番組みたいですから。


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2007年6月 7日 (木)

Love and Happiness

このコラムコーナーには似つかわしくないタイトルか。いや、いつでも世界に広まることを願っています。

 映画レポートですが、ちょっと異例。

 東京でも同様のことをやっていたらしいのですが、ルーツミュージックのドキュメンタリー映画を数本そろえて、数日ずつ連続で公開する企画があって、そのうちの一つに先週、たまたま行ってきました。たった3日間だけの公開でしたし、他の地域でこれからやるかどうかもわかりませんから、参考にはなりません。

 しかし興味があればDVDでは見ることはできるみたいです。僕も行くまで知りませんでしたが、なんと1984年、23年前の映画でした。私も当時は可愛い(?)学生でしたから、このアーティストのことは知っていても映画があるなんて全然知りませんでした。そもそも日本で公開されたことがあるんだろうか。

Al_green_gospel_according_to  映画は「アル・グリーン」。原題は”Al Green talks about his Gospel”「アル・グリーン、彼のゴスペルを語る」でしょうか。

 ティナ・ターナーやその他大勢のアーティストがカバーした”Let’s Stay Together”のオリジナルを歌っていた人。70年代前半にはいっぱいヒットを飛ばしていました。マーヴィン・ゲイのセクシーさと、スモーキー・ロビンソンのソフトさと、ウィルソン・ピケットの

Al_green_lets_stay_together_2 ワイルドさを併せ持っていた不世出のR&Bシンガー(これは映画の中にあった証言の引用)。

 全盛期に牧師になるといって表舞台から突如姿を消した彼ですが、そんな彼の自伝映画、というか宗教活動宣伝映画でした。

 ハイ・レコードという、メンフィスを拠点にサザン・ソウルの中心だったスタックス・レコードが衰退し始めた頃に、取って代わるように台頭してきたレーベルがあって、そこの元締めだったウィリアム・ミッチェルに、声を認められてレコード・デビュー。「君は二年の間にスターになれる」といわれてもグリーンは「二年も長すぎて待てないよ」といっていったんは断ったとか。

Al_green_im_still_in_love_withyou  最初の大ヒット曲、”Tired of Being Alone”は、当時の恋人に会えないこと経験を歌っていて、その女の子にもミッチェルにも好かれなかった曲だが、アルだけ気に入り、地道に歌い続けて人気が出た。

 そして72年の”Let’s Stay Together”のナンバー1ヒット、73年にかけて、I’m Still in Love with You,” “ Call Me” とか、連続トップ10ヒットを放って不動のR&Bシンガーの地位を手にしたかに見えた。”Love and Happiness”もその頃の曲です。

Al_green_call_me その絶頂期にあった73年、ツアーで西海岸にいた夜、中西部にいたガールフレンド(さっきの女性とは別人らしい)を呼び寄せようとしたら、飛行機が嵐で到着が遅れた。そのとき彼は突然、神の啓示を受けて宗教に生きる決心をしたという。このあたり、現ブッシュ大統領がアル中だったのがある夜突然神に目覚めた、という、結局は事実ではないらしいのですが、広まって信じられているエピソードと似ています。

Al_green_belle_album  その後は直ぐにサウスキャロライナに土地を買って教会を立てて牧師となる。

 僕がナマで動く彼をテレビで見た記憶があるのは、78年、赤坂局が当時、毎年の恒例行事としてやっていた東京音楽祭に「愛しのベル」という曲で出場したときでした。そのころはすでにヒットチャートの常連ではなくなっており、その後ぴたっとレコードも出さなくなるのですが、既に人生を変える決心をしていたのでした。

 その後の映画は、延々と30分近く、彼の説教が見せられます。

 黒人南部福音派の教会は独特の雰囲気があります。僕も見学させてもらったことがありますし、他の映画のシーンなんかでも見た方は多いのではないでしょうか。「エーメン」の掛け声が信者から不規則に飛んできたり、陶酔して失神する信者がいたり。

 「イエスは水をワインに変えました、イエスは血をワインに変えました。イエスに不可能なことなどないのです」

 アルはこれを、バンドを従えて(教会にバンドがいること自体は珍しくないみたいですが)時々ドラムブレイクを入れさせたりして、説教とも唱ともとれる、流れるような、かつ迫力ある語り口で信者たちに語りかけていきます。

 元フィフス・ディメンションのビリー・デーヴィスJr,や、M.C.ハマーなど、ヒットを出した後ゴスペルに行ったり、神に帰依したりする黒人アーティストは少なくありません。物質主義から本当の「愛と幸福」への精神へと導かれるのでしょうか。

 アル・グリーンはその後、音楽の世界に少しだけ戻り、90年代になってユーリズミックスのアン・レノックスとのデュエットで”Put a Little Love in Your Heart”をヒットさせたり、オリジナルアルバムを20年以上のブランクを経て出したりしましたが、やはり宗教活動を中心においているようです。

 アングラの劇場で、見ていたのは僕を含めて6人だけでしたが。

アル・グリーンを憶えている人にはぜひ見てもらいたい。南部黒人教会の雰囲気を知るにもいい機会になる映画です。

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2006年11月10日 (金)

You Ain't See Nothing Yet

結構忙しいんです。

 本業はアメリカの事情や政治について書いたりしゃべったりしてるもんで。

 向こうの時間の火曜日に選挙があって、今結果が次々に入ってきています。

 克也御大にも、もっと政治のことを書いていいっていわれているし。でも難しくならない範囲で、あと、ショービズの話題も絡めて書いてみます。

 中間選挙というのは、四年に一度の大統領選挙に重ならない西暦末尾が偶数の年に行われる選挙。合衆国下院議員が任期二年で全議席がシャッフルされ、上院議員が一人六年の任期なのが二年ごとに三分の一が改選されるので、必ず二年ごとに全国選挙をやるわけですね。ほかに知事選居の改選が重なる場合や、同時にある問題の可否を住民投票で問うたりします。上院とは州の代表で、下院とは民衆の代表という位置づけです。

 いままでは上下両院とも、共和党、つまりブッシュ大統領の側の政党が12年続けて多数党を占めていました。ところが今回の結果で、両院とも、反対党の民主党、つまりクリントン前大統領の側の政党、が多数派を奪還しました。でも、たとえば上院の議席は5149で、両院とも議席差はきわめて僅少です。

 事前から民主党の優勢は予測われていました。しかし多数党に返り咲くのは大変なことでした。世論調査のほかに、どの地域ではどちらが強い、という地域的傾向みたいなものがあって、それは明らかに共和党に利する配置になっていたからです。2000年に民主党のケリー候補が勝つためには世論の支持率で51パーセント対49パーセントではだめで、最低でも55パーセント対45パーセントくらいの開きが必要でした。つまり今回はそれくらい民主党に追い風が吹いていたわけで、それくらいイラク戦争とブッシュ大統領に支持が集まらなくなっていたわけです。それでも議席が僅差なのは、その共和党がもともと持っていたアドヴァンテージのせいだと思われます。

 議会では議長とか委員会委員長とかが大きな権力を持っていて、多数党からすべてのポストが選出されるので、今回は全部変わってしまいます。特に下院の最高実力者となる下院議長が史上初の女性になりそうです。ナンシー・ペロシという、サンフランシスコ周辺の選挙区から出ているリベラルな女性で、ブッシュ大統領を「嘘吐き」呼ばわりしたこともある、大統領とは犬と猿みたいな関係の人、これからますます対決姿勢を強めていくかもしれません。また中国や日本に対しても強い態度をとった人です。

 もうひとつの女性初、最後の領域といえば、大統領。女性初にまっしぐらに進んでいるのはヒラリー・クリントン上院議員。ニュー・ヨーク州で再選され、二年後に向けて勢いがついたかも。

Bachman_turner_overdrive_not_fragileTal_bachman                                                             彼女がキャンペーンソングに使っていたのが、Bachman-Turner Overdirive “You Ain’t See Nothing Yet”「恋のめまい」という曲。75年のナンバー1ヒット。カナダからのバンドで、克也さんも銀座で偶然遭遇したことがあるというGuess Whoにいたランディ・バックマンを中心に結成されたグループ。98年に”She’s So High”をヒットさせたタル・バックマンのお父さん。

 「まだいいことは何も見てないよ、これからだよ」とは、なんとも意味深な。再選を目指す政治家としては、これからまだまだいいことがあるよってことだけど、ヒラリーの場合、更にその次があるよって意味もあるかもしれない。

Anne_murray_ultimate_collection_1Randy_goodrum_words_and_music 旦那の前大統領はフリートウッド・マック「ドント・ストップ」をキャンペーンソングに使っていた。旦那はMTVでケニー・ロギンスと競演したこともあるし、アン・マレーのナンバー1ソング「辛い別れ」”You Needed Me”なんかを作ったソングライターのランディ・グッドラムとは高校の同級生で一緒にバンドを組んでいて、マジでプロを目指していて、ランディとクリントン夫妻はいまでに友人同士であるという。音楽大好き一家ですね。まだあの問題は尾を引いているのかな?

 あと今回注目されたのはマイケル・J・フォックスの存在。80年代に、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」三部作、「ファミリー・タイズ」なんかで人気者だった彼もパーキンソン氏病にかかってしまった。その病気も含めて、アルツハイマー病など遺伝子レベルで引き起こされる病気の治療方法開発のきっかけとなるかもしれない幹細胞研究の推進を応援している。ところがこれは、胚をいじることは生命にかかわり、クローン人間を作る研究に結びつき神の領域を侵すということで宗教保守派が大反対しており、アメリカを二分する政治問題の一つになっています。ミズーリ州で幹細胞研究への基金が住民投票にかけられ、マイケルは体中がぶるぶる震えながらも研究の必要性を訴える運動を展開しました。これを保守派のラジオトークショーホストで有名なラッシュ・リンボウは、視聴者にお涙頂戴するための演技だ、と批判しましたが、マイケルは「自分は俳優だ。俳優としてこんな惨めな姿は見せたくない。それでも研究の必要を訴えるためにあえて見せている」と反駁しました。住民投票は僅差で可決されたようです。

 カリフォルニア州知事シュワちゃんも、前回はリコール選挙でしたが、今回は定期選挙で初めて当選しました。

 ショービズと政治の世界が密接に結びついているアメリカ。こういう話題に事欠かないのが、いいところといえばそうなのかもしれない。

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2006年10月 5日 (木)

Another Rainy Day in New York City

テレビから見るニューヨークの風景。

ニューヨーク取材三部作(と将来呼ばれるようになるかもしれない)、第一回目922日は、そぼ降る雨の中でした。レノン邸前とか、映った街並にも見覚えがあった。

第二回目101日は、ブロンディやパティ・スミスなどを輩出した、ニューヨーク・パンクのメッカだったCBGB。よっぽど汚かったけど、味のあるところだったみたいですね。

第三回目の108日には、ここの96日の克也さんの日記にある、ロングアイランドのFM曲のWRCNにゲスト出演した模様が流れるのでしょうか。

 克也さんが来たときの写真がアップされているはずだってありますけど、見当たりませんねえ(105日現在)。かわりに、多分、朝の時間のDJの一人だと思うんだけど、小太りの男が女性のビキニ水着を付けて外で水を飲んでいる写真が出てる。Yikes!

でもまあ、そういうのがその局の雰囲気やスタンスがわかっていいんでしょうね。

 一年前にもちょっと書きましたが。

 70~80年代のFEN(元AFN Eagle 810)で育った僕が、インターネットが普及して一番嬉しいと思っていることは、ストリーミングで世界のラジオ局がライヴで直に聴けるようになっていることです。WRCNは残念ながらストリーミング配信はしていないようですが。

 ストリーミングをやっているラジオ局のウェブサイト探索、自分のテイストにあった局探しは趣味となっています。ロックフォーマットの局の聴き比べは面白いです。フォーマットは同じでも、いろいろ微妙に違う。DJの個性が一番でしょうけれど、音楽情報に拘る局あり、逆に音楽は流すだけで地元情報ばかりの局あり、ほとんど喋りのない局あり。選曲も、地元出身のアーティストを贔屓していたり、やっぱり局ごとに色が違う。

 ストリーミングをやっている局を一覧できて検索できる便利なサイトがいくつかあるのですが、最新のヒット曲をかけるのはTop 40, ヒップホップを中心にかけるのはRhythmic (urban) Top 40フォーマットといいますが、これらは局全体の中での割合は少ないように見えます。でもこれはリスナーが少ないということでは必ずしもなく、そういう局は都市部に多く、人口が密集しているところでリスナーを獲得しているということなのでしょう。

 ブラック系のUrban, ブラックでもソフトよりのUrban Contemporaryフォーマットもそんな感じ。

 局の数としては、ソフトめの曲を聞かせる、カントリー系、ロック系の曲が圧倒的に多い。そういうのはあまり人がいない地域も電波でカバーしなくちゃいけないので、どうしても頭数は多くなる。

 カントリーも、最近は古いの専門のクラシック・カントリーと新しめ専門の普通のカントリーとにフォーマットが分かれてきているようです。

 ロック系の細分化はさらに著しい。

 普通の最新のロック中心の、Rockフォーマット、割とハードめが中心のModern Rock

 オルタナ系は、Alternative, AAA (Adult Alternative Album) , Hot AC と細かく分けると三つになるようで、あとのほうになるほどソフトになっていきます。

 圧倒的に多いのが、大人が好きそうな今のポップス、昔のトップ40中心のAC (Adult Contemporary) Soft Rock

 オールディーズというのも、ちょっと前まで50年代、60年代を指していたような気がするのですが、今はオールディーズといえば60年代70年代になっているようです。

 80年代、90年代の、ややロックよりの曲をかける局が最近急増してきて、Jack-Fm Styleと呼ばれているようです。局のキャッチフレーズが、”We Play Anything”, ”Playin’ It All”, ”Whatever We Want,”とかになっていて、要するに、何でもあり、と言っているんですね。そしてそういう局は、Jack, Bob, Mike, Max, Frankなんて、男の子の名前を冠していることが多い。

 こういった局のニックネームも面白いです。局の電波コールサイン(日本ならJ0**,アメリカならミシシッピ川を境に西がK***、東がW***)に引っ掛けている場合が多いですけど。Koolというのは、AC, Urban AC,オールディーズにまたあってあります。ACは他にLite,River, Sunny, Star, Mixなど。ロック系はFox, Eagleなんて動物系が多い。

 克也さんも言ってましたけれど、モーニングの時間帯は、ワンマンではなく複数のDJが会話しながら放送するスタイルが全国的に流行っていますね。僕がよく聴く、ロサンゼルスのトップ40KBIGの、懐かしいチャーリー・ツナも女性DJと一緒に朝4時間やっています。

http://radiobaka-archive.cocolog-nifty.com/bakabaka/2005/10/pon_de_repay.html

 日本のラジオ局も、インターネットを通して他の地域の曲もライブで聴けるようになるといいんですけれど。。。

 こうしてみてみると、日本のラジオ局は層が薄い。ラジオをと押し手自分の好きな音楽を見つけたかったら、ストリーミングに目を向けてみるのもいかがでしょう?Chicago_x

 Another Rainy Day in New York Cityはシカゴの76年、「愛ある別れ」の次のヒット曲。バラード路線に移行するかしないか、微妙な時期の曲で、ちょっとトロピカルにスチールドラムなんかを使ったミディアムアップテンポの曲でした。

 ニューヨークの都市部。それ以外の地域に住む平均的アメリカ人は大嫌い。ニューヨーク?あんなところアメリカじゃない、といいますが、御当地ソングの曲のタイトルで一番多いのは、ニューヨークなんだそうです。ニューヨークっ子にしてみれば情が募る場所かな。

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2006年9月22日 (金)

Southern Man

917日のベストヒットUSAは、克也さんニューヨーク取材モードで、最新チャート発表なしのタイムマシンスペシャル。

 そこで、というわけでは全然ないですが、ここでもちょっと、さらに一週間遡ります。Lynyrd_skynyrd_second_helping

910日のタイムマシンで、ギターのゲリー・ロッシントンが結婚式を挙げた日ということでかかったレイナードスキナードの「スィート・ホーム・アラバマ」。

 南部には違いありませんが、彼らのベースはフロリダで、アラバマは「彼らの家」ではありませんでした。でもこの曲でアラバマを歌ったのは、アラバマ州マッスルショールズに敬意を表すためでした。以前に紹介した「いとしのレイラをミックスした男」という映画(DVDが出たようです)の主人公トム・ダウドが活躍していて、録音スタジオがいっぱいあって、ロッド・スチュアートなどアトランティックレコードのアーティスト、サザンソウル、サザンロックの連中が多く使ってた場所で、レイナードスキナードも当然そこで録音して、トム・ダウドの世話になったのでした。

http://radiobaka-archive.cocolog-nifty.com/bakabaka/2006/06/atlantic_crossi.html

 歌詞訳テロップにこんなのが出てきました。

 「ニール・ヤングが南部をコケにした

  ニール・ヤングよ、覚えとけ

  南部人は二度とお前なんか相手にしない」

Neil_young_after_the_gold_rush克也さんの解説もあったように、これはニール・ヤングの72年の名盤「アフター・ザ・ゴールドラッシュ」のなかのSouthern Manという曲へのアンサーソングでもあったわけです。

 「南部人よ 忘れるな

  南部に関する本に書いてある

  南部に変化がついに訪れるのだ

  十字架がやかれている

  綿、黒人

  白く大きな邸宅とみずぼらしい丸太小屋

  南部人よ、いつになったら彼らに借りを返す?

  絶叫が聞こえた、鞭でたたかれる音も」

南部の奴隷制の名残りと、人種差別でテロを行う秘密結社クー・クラックス・クランを連想させる歌詞と捉えられたわけです。

Neil_young_harvestニール・ヤングにはもう一曲、73年のまたまた名盤「ハーヴェスト」のなかの「アラバマ」という曲の歌詞にもやはり人種リンチを連想させる部分があり、「スィート・ホーム・・・」はこれらに対するアンサーだったのでした。

 ところが、彼らがどうヤングの曲に答えたのかに関しては、解釈が二分されています。

 まず、南部はこの人種差別や保守性も含めて独自の文化を捨てない、ニール・ヤング、余計なお世話だ、ほっとけ、といったという解釈。これのほうがわかりやすい。

 「スィート・ホーム・・・」で続く歌詞に「バーミンガムではみんな知事を愛してる」とありました。

 当時アラバマ州の知事はジョージ・ウォーレスという人でした。「人種差別の伝統よ永遠なれ」といった過激なスローガンで出てきた人で、大統領選挙にも二度立候補し、南部諸州から絶大な支持を得ていた人でした。その人を讃えていた。

 また、ビデオでもあったとおり、南部連合の旗をバックスクリーンに映し、実際に旗をまとって歌うのが彼らのスタイルになっている。南北戦争のとき、奴隷制を守るためにアメリカ合衆国から離脱し別の合衆国を作ろうとした南部11州の連合の旗は、今でも人種差別の象徴として受け取られる場合があります(映画「評決のとき」参照)。

 ところがもう一つの解釈として、南部人としての誇りを貫くという点では同じだけれども、ヤングは不当に南部を遅れた地域だと誤解している、それでお前なんかイモだ、と言っている説があります。

 この解釈をとる人は「スィート・ホーム・・・」の歌詞のさっきの「知事を愛している」の後に、「ブー、ブー、ブー」というコーラスが続いていることに注目しています。これは、ウォーレス知事と、人種がらみの殺人事件のあったバーミンガムにブーイングを送っているのだ、という。

 また南部連合の旗にしても、あれはアトランティックレコード側から指示があった演出で、それが一人歩きしちゃったけれど、彼らにしてみれば特別な思い入れはないのだという。

 それでも、前の、人種問題を含めた南部の誇り説、のほうが自然だし、その解釈を取る人のほうが多い。

 このレイナードスキナード対ニール・ヤングの二分法は、二年前の大統領選挙でのブッシュ対ケリーの二項対立のときにも大いに想起されました。 

http://radiobaka-archive.cocolog-nifty.com/bakabaka/2005/12/jesusland.html

でも実は、レイナードスキナードとニール・ヤングは仲がよく、互いに音楽面で尊敬しあっているのだという。

これは、この論争が始まった70年代からそうだった。

ボーカルのロニー・ヴァンザントはニール・ヤングのTシャツを着てステージに立ったことがある。

Neil_young_rust_never_sleepsヤングは後にレイナードスキナードにPowderfingerという曲を提供した。

レイナードスキナードも人種問題について発言したことはないし、ニールも南部の二面性、多様性については十分理解しているという。

これも依然書きましたし、克也さんも言っていましたが、ニールは最近 Living with Warという、反戦反ブッシュの新作を発表しました。

http://radiobaka-archive.cocolog-nifty.com/bakabaka/2006/06/the_angry_ameri_e746.html

ニールもいろいろ解釈される人ですが、基本的には、上の人種問題の立場も含めて、そういう立場をずっと取ってきた人だと思います。

Neil_young_freedom89年に発表した Rockin’ in the Free Worldは、その前年の大統領選挙での流行語をもじった部分があったりして、これも反ブッシュ(ただしこっちは親父)の曲だったのに、その直後にあったベルリンの壁の崩壊のテーマソングのような扱いをされて誤解された。これは Born in the USAがブルース・スプリングスティーンの意思に反してレーガンのキャンペーンに使われたのによく似ています。

http://radiobaka-archive.cocolog-nifty.com/bakabaka/2005/08/i_wanna_be_elec.html

日本でも、新しい首相が誕生するようです。

その前の、メリケン国のブッシュ大統領によく似ているあのお方のおかげで、日本でも格差の広がり、二分法、二項対立が起こっているのかもしれません。

新しい時代には、融和を期待したい。

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2006年9月 9日 (土)

We Built This City

これはベストヒットUSA世代の方々にはお馴染み、93日のベストヒットUSAのリクエストコーナーでかかったスターシップ「セーラ」の前の1985年のNo.1ヒット。

その時点で既に20年近いキャリアがあり、ヒット曲もいっぱいあったバンドですが、初めてのナンバー1、しかもバンドのイメージを大きく変えての成功でした。

Starship_knee_deep_in_the_hoopla邦題「シスコはロックシティ」。シスコとはカウボーイのキャラクターが一番有名で、サンフランシスコのことは意味しません。古い言い方ですが Friscoが最も一般的ですが、これはサンフランシスコ以外での言い方で、サンフランシスコに住んでいる人に言ったら大抵は嫌な顔されます。サンフランシスコ内部ではS.F. とか the Cityとかが好まれるみたい。

この歴史の長い、サンフランシスコを代表するバンド、皇室に慶事があったからってわけじゃありませんけど、ほぼ20年間ずっと「後醍醐天皇」の「南北朝」状態なんですね。

有名なジェファソン・エアプレインとしてスタート。フラワーチルドレンとか、ヒッピーとか、60年代半ばからの対抗文化の中心だったサンフランシスコから出てきた、ドラッグの退廃的なイメージが重なるサイケデリックロックバンドでした。

Jefferson_airplane_somebody_to_loveオリジナルメンバーとして、女性ヴォーカルのグレース・スリック、男性のマーティ・バリン、ギターのジョーマ・コーコネン、ポール・カントナー、後に加入したベースのジャック・キャサディなんかがいました。コーコネンがブルースシンガーのブラインド・レモン・ジェファソンの真似をよくしていて、ブラインド・トマス・ジェファソン・エアプレインと渾名されていたことからグループ名がきまった。

3日のタイムマシンのコーナーでかかったキャンド・ヒートは67年のモンタレー国際ポップフェスティヴァルからの映像でしたが、ジェファソン・エアプレインも登場しましたし、それからウッドストックにも。

良く知られている曲は”Somebody to Love” “White Rabbit”など。進歩的な町サンフランシスコ、ヒッピーの若者たちの象徴になっていきました。

その個人主義的な文化から登場したためか、人間関係もドライだったのでしょう。スリックを始め、メンバーがドラッグで逮捕されること少なからず。また、スリックとカントナーは結婚したことはありませんが二人の間に婚外子がいたりして。これはMTVでVJをやっていたチャイナ・カントナーです。

Jefferson_starship_red_octopus70年代に入ってますますばらばらになり、コーコネンとキャサディはサイドプロジェクトのホット・ツナを結成し、段々こっちのほうに本気になっていって、エアプレインのツアーに参加しなくなっていく。そこでカントナーは二人抜きでバンドを再編成しようとするが、ジェファソン・エアプレインとはコーコネンの渾名から取ったので使う権利がないということで、ジェファソン・スターシップと名を変えて再スタートする。空挺が宇宙船に昇格したわけです。Jefferson_starship_earthJefferson_starship_spitfire

ジェファソン・スターシップとしては、サイケ的な要素はアルバム収録曲には残ったものの、70年代半ばにヒットした”Miracles,” “With Your Love” “Count on Me”などシングル曲は、聴きやすく普通のウエストコースト色を強めていく。

そして70年代末にはマーティ・バリンがグループに疑問を感じ脱退、ソロ転向へ。81年の「ハート悲しく」”Hearts”は、なんか演歌みたいな短調の音階かつコブシのきいたヴォーカルで日本でもヒットしました。

ベストヒットUSAにもゲスト出演しましたね。克也さんと彼の名前の発音は「バリン」か「ベイリン」かで論争したんじゃないですか。

Elvin_bishop_struttin_my_stuff男性ヴォーカルが抜けたジェファソン・スターシップは後釜に、ブルースギターのエルヴィン・ビショップのバンドで歌っていて、76年に「愛に狂って」”Fooled Around and Fell in Love”という大ヒットのある、ミッキー・トーマスを迎えます。音的にはますます普通のロックバンドになって80年代を迎える。

そしてこの音楽の方向性に嫌気が差し、ポール・カントナーも脱退、訴訟を起こしてバンド名の権利を主張、バンドが残っても名前を使えなくしてしまう。それで残ったバンドは、ジェファソンを取って単に、スターシップ、となったわけです。

そこから80年代半ばの大進撃が始まる。

Starship_no_protection_1先ほどの「シスコはロックシティ」「セーラ」映画「マネキン」のテーマ「愛は止まらない」なんてナンバー1を連発する。後にロバータ・フラックとマキシ・プリーストがデュエットでヒットさせた”Set the Night on Music”も元々スターシップのアルバムカットでした。売るためのロック、日本で言う産業ポップロックバンドになってしまい、グレース・スリックにはドラッグ文化の女王としての面影は全く消えてしまった。

ところが同じ時期、ベストヒットでグループ活動は会議ばっかりでうんざりだといっていたマーティ・バリンとポール・カントナー、ジャック・キャサディが再び意気投合、3人の頭文字を取ってKBCバンドを結成して活動を始めます。ここから流れが二つできて、「南北朝」状態になっちゃうわけです。

むしろ昔のエアプレインの流れを汲むのはKBCだということで、グレース・スリックもスターシップを脱退して合流、コーコネンも迎えて、90年代にはジェファソン・エアプレインの完全復活が一時期ありました。

その後グレース・スリックは音楽からセミリタイアし、時折映画のサウンドトラックなど単発で録音したりしていますが、現在はむしろ絵画に興味を持っているようです。

そして、カントナーとバリンはジェファソン・スターシップの名前を復活させて、次世代ジェファソン・スターシップ Jefferson Starship The Next Generation JSTNGとして現在も活動中。

そしてもう一つの流れは、ミッキー・トーマスが完全にフロントマンになって、バックはジェファソンの流れを汲まない若いミュージシャンのみでバンドが続き、Starship featuring Mickey Thomasとして、80年代のヒット曲をライヴで歌い続けています。DVDも出てます。

つまり現在は「ジェファソン・スターシップ」と「スターシップ」が全く別に存在している状態なんですね。

宮様、跡取りは一人でよかったですよ。複数いるとろくなことがない。

このように一つのバンドの中での人間関係はドライでも、サンフランシスコを含めたベイエリア全体を眺めてみると、ミュージシャンたちは一つの大きなコミュニティを作っているような気がします。そのことはまたいずれの機会に。

SF。坂の多い町、路面電車の町、モーホーがいっぱいいる町。

僕はそう嫌いではない。

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2006年3月23日 (木)

Garden Party

克也さんの名古屋通いは終わっても、このコラムは続けていいらしい。

 克也さんは、名古屋での11年間、契約に含まれた休暇を除いて、皆勤でした。新幹線が停車してひやひやしたことはあったようですが。お疲れ様でした。

 私もこのサイト開設以来、入稿を欠かしたことは今のところありません。理由は、自分の第一の趣味の音楽やラジオのことについて自由にエッセイできる楽しさが六割から七割ですが、後の残りはある種の強迫観念に駆られてのような気がします。

 他のレギュラー執筆者は、克也さんと一緒に仕事をされて、したがってかなりの頻度でお会いしている方々であるはずです。翻って小生は、業界の人間でもない、克也さんとお会いできたのは数えるほど、ハガキ職人から成り上がった名古屋のリスナーの代表みたいな立場でしかない。そんな奴が穴を開けると、忘れられて捨てられるぞ、みたいな感覚がどこかにあるんですね。

 どうしても番組からネタを拾うことが多くなる小生にとって、克也さん番組が毎日のようにある関東と違い、名古屋での唯一の番組がなくなることは、ネタ探しに多大なるダメージになること必至で、今後がますます不安です。それ以上に、前回も触れたようにZIP-FMおよびZip Hot 100は東海地区の音楽市場を開拓した功績があり、その意味で一つの歴史が終わろうとしています。

 それはさておき、その数少ない小生と克也さんとの邂逅の機会は、Zip Hot 100の名場面集にも繋がりますので、ちょっと思い出してみようと思います。

Randy_vanwarmer_the_best_of_1  最初に生克也さんにお目にかかったのは961016日(日付は多分これで間違いないと思うが)、名古屋では恒例郷土三英傑パレードが行われた日、Randy Van Warmerが番組ゲストと、スタジオ横サロンで見にライヴをしに来た日。そのライヴ観覧の抽選に当たっていきました。その前の週、テレフォンチャンスラインで青い野球帽を当てていて、スタジオの中、放送中の克也さんに、これです、これです、と合図して御迷惑をかけました。

 その後、97年の春ごろには、当時はZIPで、今は全国公営放送局のFMでご活躍中のY.M.さんとの土曜午後の短いトークショーがあったりしました。このころ克也さんは土曜日午前にも名古屋ローカルでテレビ番組「ビビデバビデブ」をやっていて、週二回、二日連続の名古屋往復だったんですねえ。Matt_bianco_rico

 それからやはり、9810月、ZIP開局5周年を記念しての一連のイベント。特にハードロックカフェからの公開生放送では小生もでしゃばって少し活躍しました。クイズやゲストのマット・ビヤンコへのインタなど。

 あとZIPとは関係ありませんが、0054日、池袋西武の屋上でのニッポン放送のビートルズの電リク生公開放送も忘れられません。この時は個人的には愚息が誕生したばっかりで、命名の相談にちょっと乗っていただきました。

 そして最後の大きなイベントになってしまうのは、去年417日、万博会場でやった公開放送。カウントダウンと、スクリーンに映るビデオやゲストのパフォーマンスで、聴覚と視覚が見事に融合していました。小生も、テレフォンチャンスラインの三択問題で、前の二人が間違えて最後の一つが残ったときに繋がって正解、というおいしい経験もしました。これで22回目の正解、これは記録でしょうが、それで最後になってしまうのでしょうか。

その日の記録が万博公式ページの日記に残っています。

http://www.expo2005.or.jp/jp/E0/E1/head/0417_004.htmlTopics0417p000zip3

Topics0417p000zip4  下に克也さんとモリゾーの2ショットがありますが、その上の来場者の写真で一番大きく写っている、右下の、赤いメッシュの野球帽、サングラス、黒いTシャツの首の太い男が、何を隠そうこの私です。

 この写真からもわかるように、この日は楽しいガーデン・パーティだったわけですが。Rick_nelson_greatest_hits_1

Garden Partyといえば、50年代は Ricky Nelson として”Poor Little Fool” ”Traveling Man”などヒットを放ったアイドルが、70年代はシンガーソングライター的になってRick Nelsonと名前を変えたときのヒット曲。克也さんはアイドル時代の彼のコンサートの司会を既にやっていたという。85年に飛行機事故でなくなってしまいますが、その遺児二人がNelsonを組み、90年代に “After the Rain” “Do You Believe in Religion”なんてヒット曲を放つ。その彼らが98年にスタジオにゲストに来て、お父さんのことで話が弾み、生演奏でこのGarden Partyをやりだし、克也さんも一コーラス歌わされましたね。Nelson_the_best_of

 そんな名古屋も、あと一回。

 前回の日記で触れられていた、「おしゃべり人物伝」、僕が印象に残っているのは柴田恭兵さんがやった沢村栄治の回、あと卑弥呼の回、この時は早乙女愛さんだったかな。いい番組でした。西田ひかるさんが似たような番組を続けましたね。92年頃は僕も番組制作の手伝いでNHKに入りびたりで、見学したことがあります。
リック・ネルソンの双子の子供たちネルソンが、目の前で父親のヒット曲のメドレーをやってくれた時、涙が止まらなかった。親父と声がそっくりなんだもん。誰かリッキー・ネルソンがすごかった頃を覚えている人いる?知らない人にいくら力説しても伝わんないよー-小林

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2006年3月16日 (木)

Everything Must Change

やはりそういうことだったのですね。

Dcp_1435  ZIP HOT 100ではもともと90曲を駆け足のフラッシュで紹介し急上昇曲は何曲かピックして全曲流し最後の1時間でトップ10を聞く、というフォーマットだったのですが、数週間前から4時間かけて上位40曲をじっくりかけるようになったのです。落ち着いて音楽を聴けるようになったのはよかったのですが、このあたりから、少し怪しいという気配はありました。

5年前の還暦の際、ガセネタで克也さん引退降板説が流れたときはびっくりしましたが、このたびは本人から直々に出た話だし、マルコ氏とやった記念番組で、「あと5年くらいだと思ってますよ」の一言があり、それ以来改編期を迎えるたび、今回は大丈夫か、と心配になり、番組が続いているとほっとしたものです。番組が続くこと自体が有難いのであり、いつ降板されてもおかしくない。だから、今回の発表にはある程度覚悟ができていたようなところがあり、結構落ち着いています。週一回でも片道2時間かけて通うのがお体にも堪えてくるようになったのでしょう。

それでも、10年以上、当たり前のことのようにあったものがなくなるのは悲しいし寂しいし、実際なくなってしまった後に、ぽかんと穴が開いたような実感に襲われるのだと思います。ちょうど、小生が今の仕事で名古屋に来たのと克也さんの番組開始時期が重なっていたのでその意味でも感慨深く、その間に名古屋ではいろいろなことがあり、「洋楽不毛の地」と言われた空白地帯を克也さんは開拓したと思います。

 その気持ちを殺して、今は、有難うございました、ご苦労様でした、お疲れ様でした、残りの回数、最後の思い出の楽しい放送を宜しくお願いします、とあえて言いたい。

 番組終了のパターンは、派手に普段と違った特集をやるか、普段のままさりげなく終わるか、に二分されるようですが。克也さんの番組の場合、ラジオの野球中継がない時期の半年間限定ものの最終回を聞いたことが多いためか、後者のイメージが強いです。ZIPも後者になる予感。12日の放送でも、今春卒業、をオープニングでチラッと言っただけで後は何も変わっていませんでした。番組BBSでは克也さん卒業を惜しむメッセージ一色だったにもかかわらず。一つの歴史が終わるのですから、何か考えてもいいと思います。

 「あと5年」は結局名古屋での放送のことになってしまい、克也さん自身は、まだ「ローンも残っている」し、舌が回らなくなってもまだDJやるかもしれないとのこと。テレビの放送は続くでしょうけどラジオでお声が聞けなくなるのは耐えられません。別の形で残る予定はないのでしょうか。関東では毎日のようにある録音番組のいずれかを名古屋で流すとか、あるいは東京のスタジオから有線で名古屋に向けて放送するとか。

 そして小生のこのお仕事はどうなってしまうのでしょう。Paul_mccartney_wings_at_the_spead_of_sou_1

12日はポールとリンダが結婚した日、と言うことで、「リンダに捧げた曲」としてWingsSilly Love Songs”がかかりましたが。

 その曲は、リンダへの曲というよりは、ジョンと対話をしていた曲、なんですね。


John_lennon_imagine_2

ジョンのアルバム、Imagineの中の、アナログの時代で言えばB面の3曲目に” How Do You Sleep”という曲があり、これが強烈なポール批判の曲です。

君がやったことは 「昨日」(Yesterday、あの名曲)だけで、君が立ち去った後、君は単なる「ある日」(Another Day,ポールのソロデビュー曲)に過ぎない・・・Paul_mccartney_ram_1

Scan10002 なんて一節が出てきますし、またアルバムの中ジャケにジョンが豚の頭を捕まえている写真がありますが、これはポールのソロデビューアルバム Ramのジャケットの、牛を捕まえている写真を皮肉ったものです。その後、ジョンが「ポールがビートルズに貢献したことは、“バカなラブソング”をいっぱい持ち込んだことだ」と発言しました。

 ポールはその曲を聞き続け、その発言を受け、また同じようなことを言う批評家たちに対しても、アンサーソングとして“Silly Love Songs”を世に出したのでした。

君は、世間はバカなラブソングに飽き飽きしてるって言うけど、

僕の周囲を見回しても、そんなことはない

一部の人は世界をバカなラブソングで満たそうとしてるって言うけど、

一体それのどこが悪いのか、知りたいよ

だって僕は、また恋に落ちたんだから

愛はすぐにはやって来ない

全然こないときだってある

恋に落ちて初めてわかるんだ

愛にはバカバカしいことなんて全然ない

ポールのある種の開き直りとも取れます。

あの二人は、解散後も、こういう風に曲を通してメッセージを送り続け、対話、と言うか喧嘩の続きをしていたんですね。

Paul_young_from_time_to_time_singles_col Everything Must Change はポール・ヤングでした。

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