経済・政治・国際

2010年9月23日 (木)

Take It Easy~All I Wanna do

またまた続くライブリポート。

 ジャクソン・ブラウンとシェリル・クロウのダブルヘッドライナー。

 しかもあまり大きくない場所で。これは楽しみです。俺が一番得意なシンガーソングライター、ウェストコースト、Hot ACのジャンルで。

ジェイムス・テイラー・トリビュート・コンサート [DVD]

 この二人が正式に同じステージに上がって同じ曲で最初に共演したのは、僕の知る限り、2006年、ジェームス・テイラーへのトリビュート・コンサートでした。ジェームスの音楽活動開始何周年かをかねて、その前年のハリケーン・カトリーナでの被害救済のために意を一つにしたアーティスト団体 Music Caresのイベントでもありました。ディシー・チックス、ボニー・レィット、スティング、インディア・アリー、アリソン・クラウス、キース・アーバン、ブルース・スプリングスティーン、デヴィッド・クロスビー、キャロル・キングらが集合し、ジェームスの曲をそれぞれの解釈で演奏しました。ジャクソンとシェリルは「メキシコ」を演りました。ここに集まったアーティストたちの中で、ジャクソン、ジェームス、ボニー・レィット、ブルース・スプリングスティーン、デヴィッド・クロスビーが、1979年、原発反対のために集まったNo Nukesに参加した人たちと被っています。シェリルは2008年大統領選挙での民主党大会でもステージに上がったし、政治的なスタンスのうえでも二人は共通点があるのでしょう。シェリルはジェームスに、「あなたの音楽は私の人生を変えました」と言っていましたが、同じ世代のジャクソンに対しても同じようなリスペクトがあるのでしょう。

 最初はジャクソンでした。これは、小生にとっては、エー、ウソだろ、って感じでした。てっきりジャクソンのほうが後だと思っていました。でも考えてみたら、いくらベテラン、西海岸が最も西海岸らしかった頃の西海岸を背負って立っていた孤高の男にしてみても、ヒット曲の数ではすでにシェリルに抜かれていて、より今に近い分、シェリルのほうがお馴染み度も深いか。

 1年前、前回来日時にベストヒットにも出演、克也さんも直にインタ。それを横目で見ながら行きましょう。

Jackson_browne_setlist

 その1年前に登場した時、またそのときの新譜「時の征者」のジャケットのようなヒゲ面ではなくさっぱりしていました。

Time the Conqueror (Dig)

 いきなりその、「時の征者」の2曲から始まりました。「“Time is on my side”から始まるけれど、今の時代には僕は明らかに後れている。これは子供の頃の夢をイメージして作った曲だ」と言っていました。

Jackson Browne

 それ以降は70年代の、内省的な曲を書いていた時代の曲が5曲続きました。ジャクソンもギターから中央に持ってこられたキーボードへと移ります。72年のファースト・アルバムから、”Rock Me…””Fountains of Sorrow”, ”Late…”74年の名盤”Late for the Sky”から。このアルバムには、No Nukesで歌われた”Before the Deluge”,ニコレット・ラーソンの追悼コンサート(これもNo Nukesに参加したアーティストがかなり被っていました)で歌われた” For a Dancer”なんかも入っていました。

Late for Sky

ジャクソンは前々回の来日ツアーではギター一本バックなしで、事前セットリストなし、全て客席からのリクエストに答えるという形式のライヴをやっていたので、その時を憶えている人がいたのか、この辺りであれを演れこれを演れという声がやたらかかり、ジャクソンは「そんなにIf It Makes You Happyが聴きたいかい?」と笑いを取ったり。でもリクエストに答えてセットリストにない”Sky Blue and Black”の一節を短く挿入しました。

For Everyman

“These Days”, “Take It Easy”はセカンドアルバム”For Everyman”収録。”Take...”はジャクソンはファーストアルバムの以前にハコが出来ていて彼のデビューシングルになるはずだったがどうも当時の彼に似合わない垢抜けた曲で、曲のフィニッシュが巧く決まらず後回しにされた。それをグレン・フライに持っていったところ、グレンは「アリゾナ州ウィンズローはいい景色だな」以下の歌詞を加え、EEaasYYYと最後を伸ばすコーラスをフィニッシュにして曲を完成させて、先に彼の新しいバンドが取り上げてしまった。あとはご存知のとおり。

ここでステージが真っ暗になり、”Lives…”ベストヒットでビデオが流れた”For America”も収録された86年のアルバムのタイトル曲。インタでは「時間が経過するにつれて、周りの人間が変わっていくし、その人たちの音楽の好みも変化するし、自分の好みも変化する」と言っていました。80年代前半は、初めて”I love you””というフレーズの入った曲を書いたり、青春映画のサントラに”Somebody’s Baby”を入れてシングルヒットを出したりちょっと軟派になりかけましたが、この”Lives…"あたりから音楽性も変化させつつ政治性を前面に出し始めました。

Naked Ride Home

それから、2002年の Naked Ride Home からの“About My Imagination”、「時の征者」からの”Givin’ That Heart Away”と新らし目の曲が続きました。

孤独なランナー

そして、第一部の幕、ライヴアルバムだけど全部新曲だった78年「孤独のランナー」からの”Love Needs…”76年の名盤の表題曲”Pretender”、そしてその「孤独のランナー」で盛り上がってジャクソンのパート終了。

Pretender

こうしてみると、ヒット曲の数はそれなりにあるのに、彼自身のヒット曲は「孤独…」のみ、あとは全てアルバムカット。でもみんなが知っている曲でライヴが成立してしまう。やっぱり彼の音楽はキャリアを通じてヒットチャートとは別のところにあったんだなあ、と再確認できました。

あれ、でもいくらなんでも、あの曲を演ってないなあ。

バックのギターは、80年代以降の西海岸を支えていたマーク・ゴールデンバーグでした。

さて、20分の休憩を挟んでシェリル登場。

これはもう、彼女のベストアルバムを生で聴いている感じのヒット曲のオンパレードでした。

Sherryl_crow_setlist

もう1990年代もオールディーズなのかな。

告白すると、個人的には90年代前半の数年間、本職を得るための修行をしていて音楽に少し弱くなっている時期(ベストヒットも中断しちゃったし)があるのですが、彼女はその直後に出てきました。それでも”All I Wanna Doを聴いて、これは何だろう?と思ったものですが、今にして思えば、彼女が正統な西海岸の後継者だったんですね。 

印象に残ったのは彼女の器用さです。彼女は曲によってアコギ、エレキをころころ換えたりベースを演ったりしてました。

Sheryl Crow

ジャクソンもジョークで言っていた”If It Makes You Happy”でいきなり始まりました。セルフタイトルの二枚目で、ロックっぽい彼女を印象付けた。

Tuesday Night Music Club

デビューアルバムTuesday Night Music Clubからの“Can’t Cry Anymore”

2年前と比較的最近のアルバムDetourからの”Love is Free”

Detours

三枚目「グローブ・セッションズ」からの”My Favorite Mistake”

ベスト盤のための新録音、キャット・スティーヴンスのカバー、ロッド・スチュアートもヒットさせていた”The First Cut is the Deepest”

The Globe Sessions

ディズニーのアニメ映画「カーズ」に提供した”Real Gone”

同じく映画Bee Movieのサントラで録音したビートルズの”Here Comes the Sun”.

と、バラエティが富み且つ耳馴染みのある曲が続きます。

ファーストアルバムからの二番目のヒット、”Strong Enough”。そういえばこの曲のアコギやマンドリンを聴いて、ある程度この人の方向性がわかってきたように憶えています。

「みんな、ブラックベリー持ってる?そのうち、みんなの頭の中にチップが埋め込まれる時代が来るんじゃないかしら、と思って作った曲よ」とMCが入って”Good is Good”

いよいよ盛り上がってきて、「これはちょっと古いけどね」と言われて”All I Wanna Do”1994年ってそんなに古いか。あ、もう16年も前か。「これはディスコでもカントリーでもないわ。ここはLAよ」のせりふで始まる、LAはお決まりで「ナゴヤ」に置き換えられました。

“Soak Up the Sun,” “Everyday is a Winding Road”もうこのあたりになると注釈を付けようとするほうが馬鹿ですね。

ザ・ヴェリー・ベスト・オブ・シェリル・クロウ

最後”I Shall Believe”。ファーストアルバム最後に収められていた曲でシングル曲でもなくかつてはライヴでもあまり演奏されなかったものが、ベスト盤に選曲されていて意外だと思われましたが、ここにジャクソンに通じる彼女の政治性が見え隠れするのですね。平和を希求する曲。

ここでいったん引っ込み、再びシェリルのバンドが出てきて、「ジャクソン、出てきて!」と呼びました。メガネをかけてジャクソンも再登場。シェリルが「(ある意味で)ジャクソンの曲を一緒に演るわね」とMC。それでさっきの、まだ出てきてなかったあの曲が始まりました。”Doctor My Eyes”。ただしオリジナルとはかけ離れたロック食の強い現代的なアレンジでした。それが「ある意味で」だったんですね。

そして最後も二人でやった”Peace Love and Understanding”は、ニック・ロウ作、エルヴィス・コステロが取り上げた曲。シェリルは去年エルヴィスと共演して感銘を受けたようです。

という、私にはとてもうれしい一夜でした。

それにしても、ジェームス・テイラーよ。日本の一極集中に毒されていないか?なぜ東京、横浜でしかやらないのだ?せめて大阪には来い。君の弟リヴィングストンは名古屋くんだりまでやってきて、たった60人の前で歌ったんだぞ。

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2009年6月15日 (月)

We'll Never Have To Say Goodbye Again

 入院中の病室で書いています。

 以前にも書きましたが、二度目の入院です。

 大手術入院中でも病室で連載を続けた海老沢泰久氏の気分を味わうために。

From the Inside

 あるいは、1977年から78年にかけて麻薬中毒と極度の鬱病に襲われて精神病院に長期入院を余儀なくされ、病室で抱いた看護婦への妄想とか、退院した後の将来への不安とか、精神病院をテーマにしたコンセプトアルバム From the Inside を、当時エルトンと仲違いしていたバーニー・トーピンと一緒に作ったアリス・クーパーの気分を味わうために。

 なかなか希な機会だとは思いますので。あまり多かったら困るけど。

 私の場合は検査入院なので、気楽なもんですが。

 ある人に言わせれば、病院とは、生きて出て行くか、ダメで戻れないか、そういうところだと割り切れ、と。

 そんな中で、縁起でもない(?)話題を書きます。

 アーティストの訃報。

 2回前の記事でしたか。ジャーニーの新加入ヴォーカルがフィリピン人だということで、フィリピンの不思議な音楽事情にちょっと触れ、日本以上に70年代、80年代のお洒落ポップスが受け入れられている国かもしれない、と書き、このグループを紹介しました。その時の本文をそのままコピペします。

これまた70年代に活躍した、
爽やか系ポップスで「秋風の恋」などヒット曲も多かった男性デュエット、
イングランド・ダン&ジョン・フォード・コーリー。
これも90年代後半になってフィリピンでブームと呼ばれたくらいCDが異常な売り上げをして、30年近く音楽から身を引いて宗教活動をしていたジョン・フォード・コーリーが復活して、彼の場合移住までは至っていませんが毎年フィリピンでライヴをして、フィリピン向けのアンソロジーCDが発売されたりしています。

ちなみに相方のイングランド・ダンことダン・シールズは、カントリーに転向して成功するなど音楽活動は続けていて、彼は「想い出のサマー・ブリーズ」などの大ヒットがある、もう一つの男性デュオ、シールズ&クロフツのジム・シールズの実弟なのですが、現在はその兄弟がSeals & Sealsとしてデュエットで活動しています。

Nights Are Forever Summer Breeze

 その後に知ったことなのですが、このイングランド・ダンことダン・シールズは既に鬼籍に入っていたとのことでした。知らなかったこととはいえ、申し訳ありませんでした。

 今年の325日逝去。悪性リンパ腫のため。

 70年代後半、カーペンターズやバリー・マニロウなんかに代表されたアメリカ産良質ポップスの流れを汲んだ人たちでした。

 このシールズ兄弟を中心とした、二つのデュエットチーム、家族的な繋がりがあったことは当然想像できるのですが、もう一つ、宗教というより大きな次元でつながっていました。

 そして音楽的ルーツも、50年代にまで遡れます。

 このシールズ兄弟、ジョン・フォード・コーリー、ダッシュ・クロフツは、バハーイ教(表記方法は諸々あるようです)信者でした。

 論じるほど詳しく知りませんし、入りすぎて間違ったことを書いて問題を起こすといけませんから簡単な記述に留めますが、イスラム圏で誕生したもののキリスト教に近い教義を持ったために迫害を受け、信者が世界中に散らばった歴史を持つようです。人種を超えた融和(ジム・シールズの奥さんはアフリカ系)、博愛、絶対平和が教条の柱のようで、司祭など信者の中で階級が全く存在しないのも特徴のようです。

 シールズ&クロフツ、イングランド・ダン&ジョン・フォード・コーリーのレコードの中ジャケには、必ずこのバハーイ教の宣伝が出ていました。

 小生は日本でのバハーイ教信者だという人に一人だけ出会ったことがあります。156年前、大学教員として駆け出しの頃、東京の某私立大学の学生さんでした。その人は、シールズ&クロフツは知っていましたが、イングランド・ダン…は知らなかったようです。もっと、日本にはどれくらい信者がいるのかとか、訊いておけばよかった。

 そしてその音楽的ルーツとは。

 この連載で数年前にチラッと書いたことがある、チャンプス「テキーラ」なのです。

 その時の文章も持ってきてしまいましょう。

 

さて、この流れで、ビルボード誌が最も歌詞の短いNo.1ヒットとして記録しているのは何でしょう? 

50年代の、チャンプスというグループの、「テキーラ」という曲です。聞いたことありますか?テキーラ!という掛け声しか入ってない。

 この曲についてもいつか書く機会があるかもしれません。

なんと20069月の記事でした。その後始末を今回することになろうとは。

このチャンプス、大人数のグループでしたが、全員がバハーイ教信者、ということで繋がっていたのです。シールズ&クロフツもこのチャンプスに参加していました。

 ここから派生したシールズ&クロフツは70年代前半になって、既出の「思い出のサマー…」や「ダイアモンド・ガール」、アメリカの大学の卒業式の「贈る言葉」並みの定番となった「この道はひとつだけ」などヒット曲を連発しました。

 シールズ…は、中近東の弦楽器を取り入れてみたり、曲としても宗教色が強く出ていたものがありましたが、70年代後半になって全盛期を迎えた弟のイングランド・ダン&ジョン・フォード・コーリーは、時代の流行にうまく乗ったハーモニーを生かした爽やかポップス、「秋風…」の外にも「眠れぬ夜」「愛の旅立ち」、トッド・ラングレンのカバー「愛の証」などトップ10ヒットを連発しました。

Dowdy Ferry Road

 テキサス生まれながらなぜかイギリス訛りで喋っていたことから付いたあだ名。

 80年に入って解散。ジョン・フォード・コーリーはソロアルバムを出した後、宗教活動に専念し音楽の世界から遠ざかります。その間、バハーイ教からキリスト教に改宗したようです。それが運命のいたずらでフィリピンで復活したことは2回前に書いたとおり。

 イングランド・ダン・シールズは音楽を続け、80年代に入ってもデュエット時代の延長で、TOTOのメンバーをバックに従えたソロアルバムを作ったりしますがセールス的に成功できず、カントリーに転向して、80年代半ばから90年代にかけて大成功を収めます。これまた去年逝去したポール・デイヴィスとコラボレートしたり、マリー・オズモンドとデュエットしたり。

 そして近年、全盛期にはなかなか共演しなかった兄貴のジムと兄弟デュオユニットで活動し始めて古いファンを喜ばせていた、そんな最中でした。

 ちなみに小生がダン・シールズの訃報を知ったのは、ケーシー・ケイサムのカウントダウン番組でした。アメリカントップ40の黄金期に自分自身が紹介していた、自分よりも何歳も若いアーティストの訃報を、30年後に自分が読むことになる、などと想像していたでしょうか。

 小生でさえ、自分より若いアーティストの死を既に何度も見ているわけですから、克也さんは尚更でしょうね。でもまだケーシーに追いつくには10年ありますよ、克也さん。

 もう一つの、昔の記事の後始末。なんとこの連載第二回目、つまりこの克也さんサイトが産声を上げた直後のものです。20058。これも直コピペ。

御巣鷹山の墜落では、日本の洋楽ファンなら知る人ぞ知る悲しい損失がもう一つあるのですが、今日は長くなってしまったのでいずれ機会があれば。

 また今年も夏がやってきます。

坂本九に次ぐ、日本の洋楽ファンにとっての85年日航機墜落事故の損失とは。

 実はこの機に、このイングランド・ダン&ジョン・フォード・コーリーの日本ファンクラブ副会長が搭乗していて、やはり犠牲になっていたのでした。女性で、新婚旅行の最中でした。やり切れません。

 We'll Never Have To Say Goodbye Again 彼らのヒット曲の一つ、「愛の旅立ち」の原題です。もうさよならなんて言う必要ない、恋人同士の仲直りの曲。

 そんな誓いを立てた恋人同士が添い遂げたとしても、人間である限り、どうしても死別のさよならはあるのですよね。

Some Things Don't Come Easy

 諸行無常。

 病室の窓から外の緑を眺めて、ついそんなことにも思いが及んでしまいました。

 でも小生はまたすぐ戻ってきますからね。克也さんのように。

Tequila: The Champs Greatest Hits

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2008年12月24日 (水)

(You Make Me Feel Like)A Natural Woman

実は、時系列的にはこの前にもうひとつ大きなコンサートに行っていて、物の順序からすればそこからリポートするべきなんでしょうが。

 129日のベストヒット、スター・オヴ・ザ・ウィークのゲストに合わせて、キャロル・キングのリポートを先に回しましょう。

 「私の居間へようこそ」”Welcome to My Living Room”ツアー、私も行ってまいりました。
Welcome to My Living Room [DVD] [Import]

 以前にTOTO+ボズ・スキャッグスを観たような例のハコモノ国際会議場が会場だったのですが、会場の大きさに不釣合いな、彼女のピアノ、あとアコースティックギターが二人、シンプルな編成で、薄暗い照明、小道具でソファや観葉植物などを置く、まさにマンションの一室、彼女の居間を再現したようなステージ上でした。これはベストヒットで流れた映像のとおりです。

 私の席番号は、なんとミキサー席のもろ隣でした。前売りが思ったほどに捌けていなかったのか、開演直前に、席を一列ずつ前に移動してくださいとの指示が会場案内からありましたが、小生は、このような大きな会場の場合の「例の作戦」がありましたのでこの幸運は譲れず頑として動きませんでした。周囲の人は、なんと身勝手な奴だ、と思ったことでしょう。私も心が痛みます。でもこうして、その結果をちゃんと役に立てていることに免じてご海容願えれば幸甚です。

 例の作戦とは、ステージまでいけない場合、客席側のスタッフと仲良くなって、セットリストを分けてもらうこと。スタッフさんだって、自分の近くに英語をわかってくれる観客がいると思うとほっとするみたいですよ。今回もちゃんとものにしました。それに沿ってライヴを振り返りましょう。
Carole_king_setlist_1Carole_king_setlist_2

 



 


  彼女がインタビューで言っていた、居間を再現するコンセプトは、ブッシュ政権を追い出して民主党政権を作る話し合いを始めたことから生まれた、というの、まんざら大袈裟でもないでしょう。彼女はニューヨーク生まれのユダヤ系。それにアメリカには直接民主制の伝統もある。町の小さな寄り合いの話し合いから、何か大きな運動が始まったりする。

 インタビューでは民主党政権の誕生をかなり喜んでいた様子でしたけれど、ステージでは政治色は一切感じられませんでした。
Music

 1曲目の”…Long Ago…”は彼女の3枚目のソロアルバム、72年の”Music”からで、まさに昔の曲が中心の選曲でした。というか、インタビューでも、今は本を書くのに熱中している、なんて言ってましたけど、彼女は80年代後半から音楽的には恐ろしく寡作になってしまいますね。

 それでも2曲目、正式には”Welcome to My Living Room”はまさにこのツアーコンセプトにあわせて書き下ろされた曲だし、3曲目”Now and …”93年、第二次大戦中に選手が兵役で取られてメジャーリーグが中止になったことに反発し、野球好きの女の子たちが自分たちでプロ野球を作ったという実話を綴った、トム・ハンクス、マドンナなんかが出演していた映画「プリティリーグ(A League of Their Own)」の主題歌でした。

 4曲目あたりから古くなってきます。
Writer/Rhymes & Reasons

 “…Roof”はドリフターズ(日本のあれじゃありませんよ)の63年の大ヒット、彼女も最初のソロアルバムでセルフカバーしています。
Tapestry

 6曲目 “Where…”7曲目”Home Again”と、名盤、71年の「つづれおり」からのナンバーがぼちぼち出てきました。

 ここでピアノに座って歌っていた彼女が立ち上がり、アコースティックギターにも誓え、三人が並びます。「イーグルスみたいなことをやりたかったのよ。ナッシュビルでは毎日、何人ものシンガーソングライターが一つのステージに集まって、交互に自分の歌を歌うのよ」といって、それまで地味にバックでギターを弾いていたゲリー・バーが二曲リードヴォーカルをとりました。
Juice/Quiet Lies

 9曲目の”Love’s Been a Little Bit Hard on Me”は、ベストヒットの創成期、82年のジュース・ニュートンのヒット曲です。彼はその作者だったんですね。他にも彼は2001年のリッキー・マーティン、クリスティナ・アギレラのデュエットでヒットした”Nobody Wants to Be Lonely”の作者でもあります。そんな感じでしぶとく業界で生き残っている人、ナッシュビルに行けばいっぱいいるんでしょうね。バックコーラスをやっているキャロルは実に楽しそうでした。

 そのままのポップなノリで10曲目”Smackwater Jack”へ。「つづれおり」で最も歯切れがよかった曲。
ゴフィン&キング・ソング・コレクション1961-1967

 その次は最初の夫ジェリー・ゴーフィンとの大ヒットメドレーでしたが、私はちゃんと全部書き留めておきました。”Take Good Care of My Baby(Bobby Vee)~”It Might as well Rain until September”62年、彼女自身)~”I’m into Something Good”Herman’s Hermits~”Go Away Little Girl” (Steve Lawrence, Donny Osmond)~”Hey Girl”(Freddie Scott)~”One Fine Day”(Ciffons)~”Will You Love Me Tomorrow?(Shirrells)

  場所によって、メドレーの内容は変えているみたいです。60年代は、とにかく数え切れないヒット曲を作っていましたからね。改めて脱帽です。

 ここで20分の休憩。

 前半は黒い衣装でしたが、少しオレンジがかった色に変身してきました。

 後半は、2001年、彼女自身8年ぶりだった”Love Makes…”の表題曲からスタートしました。

 2曲目の”Sweet…””Music”から、そしてメドレーのように矢継ぎ早に、「つづれおり」からの彼女の代表曲”It’s Too Late”「心の炎も消え」。

 これらの曲も含めて、この70年代前半の彼女のソングライティングのパートナーはToni Sternという女性で、女性二人で曲を作っていたわけで「つづれおり」の中にも女性の心の変化を題材にした曲が多い。社会的にも女性の進出が目立ち始めたころと一致しており、この”…Too Late”も「つづれおり」自体も、時代が違えばあれだけのヒットにはならなかっただろう、と彼女は回想しています。遅すぎなくてよかった?
Pearls (Mini Lp Sleeve)

 4曲目の”Chains”は珍しくビートルズもカバーしている曲。70年代後半から彼女はレコードはコンスタントに出すのですがセールス的にはスランプの時期を迎えてしまいます。そんな中、80年に “Pearls”という、ゴーフィン-キング時代に他人に提供した曲のセルフカバーアルバムを出しますが、その中でも印象的な一曲でした。

 5曲目”(You Make Me Feel Like) A Natural Woman”は「つづれおり」のセルフカバーもいいですが、なんといってもアレサ・フランクリンですね。

 「今晩、この後、SMAPSMAPに出演するから観てね」とMCが入りましたが、よほど近くに住んでいない限り無理ですね。僕でさえ40分かかるんだもの。

 6曲目 “Pleasant…”は彼女自身のスタジオ録音はなく、最近のライヴでは好んで歌っているようです。モンキーズの大ヒット曲の一つ。

 7曲目“…At War”は未発表作品で、まさに、最初に書いた、共和党政権を倒すために部屋に集まった、云々という話が本当に思えてくる、ベトナムの時代にはゴーフィンと明るいラブソングを中心に作っていた彼女の今になっての反戦歌に聞こえました。

 そして、”I Feel the Earth Move”「空が落ちてくる」。「つづれおり」の中で、”…Too Late”との両A 面ヒット(懐かしい表現だなあ)に続きます。あなたと一緒にいると大地が動き空が落ちてくるのがわかる、という恋の衝撃の歌ですが、その反戦歌と繋げてちょっと違った響きを持たせながら、いったん引っ込みます。

 アンコールは、”So…“「去り行く恋人」”You’ve Got a Friend”「君の友だち」と「つづれおり」の名曲二つのメドレー。後者はジェームス・テイラーのカバーでナンバー1ヒットになり、キャロルのレコードで彼はギター、バックヴォーカルで参加しています。今回はゲリー・バーがその役目を完全に果たしていました。前者は、96年、「つづれおり」へのトリビュートアルバムで、収録曲全部を別々のアーティストが独自の解釈で録音した”Tapestry Revisited”の中でのロッド・スチュアートのカバーがものすごくいいんですけれどね。
Tapestry Revisited: A Tribute to Carole King

 最後は”Locomotion”Little Eva, Grand FunkKylie Minogue3回もヒットし、彼女自身も“Pearls”で録音している。ただし今回はダンサブルでもロックっぽくもなく、彼女のピアノだけで割とゆったりめのアレンジで、「リトルエヴァでも憶えられるような簡単なABC」などど歌詞もいじっていました。

 最盛期もあればスランプもあり、別のことに関心を持つこともある。そんな自然体の彼女の今を自然に表現しようとしたステージ、という感じでした。
Grace Of My Heart 輸入盤 【CD】

 彼女の半生をモデルにした「グレイス・オブ・マイ・ハート」という映画についても前に書いたことがありますので、ついでにどうぞ。

 今年のことは、今年の中で終わらせたいけれど、無理そうだなあ。

 とにかく、メリークリスマス!

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2008年11月11日 (火)

Chocolate CIty

貧乏人暇なしとはよく言ったもので、いろいろ忙しく一ヶ月近くご無沙汰してしまいました(別に、暇ができたからこれを書いている、というわけではありません。これも大事なお仕事だと思っております)。

 克也さんの日記に既に取られてしまいましたが、歴史的な出来事があったわけで。

 この前までしつこく宣伝していたテレビ番組からもお分かりのように、私は本業ではその筋では中途半端に知られている奴でして。

 その歴史的な日というのも、開票進行時、アメリカでの4日夜、日本時間で5日午前10時あたりから、地元の領事館に詰めていてくれとの要請があり、関係者と共に速報に見入っておりました。

 その中に、領事館がわざわざ遠方から招いたという、福井県小浜市の市長とか市議会議員とか、「勝手にオバマ候補を応援する会」という人たちが来ていました。

 その人たちを含めて、いろいろ知ったかぶりをしていました。今度当選するであろう大統領は、名前があなたたちの町のローマ字表記に偶然一致している以上に、初めて母音で終わる名前を持つアメリカ大統領になる、と。

 ケネディとかマッキンリーはYで、これは子音扱いですね。第5代のモンローは子音と組み合わさらない二重母音です。

 あとの39人の大統領は全員文句なく子音で終わっている。

 つまり今までの大統領は、アングロサクソンと若干のアイリッシュが独占していた。白人マイノリティで、例えばイタリア系だったらFrankie Valli, みたいに必ず母音で終わりますが、今度の「黒人」大統領はそういう白人マイノリティ、褐色人種を飛び越えて、その今までアメリカの人種構成の主流派が独占していた聖域に足を踏み入れるのだ、と。

2000年代の大統領選挙人団分布は明らかに共和党にアドバンテージがあった(人口が増えている南部地域の共和党への傾斜が強い、田舎に行けば行くほど共和党が強く、山岳、高原諸州の人口過疎州では配当選挙人一人に対しての人口比が少ない、等等)ので、オバマ候補は全米で5%のリードなら接線に持ち込まれる、当選には10%以上のリードが必要、と考えていましたが、昨今の金融危機に後押し(?)されて、その10%以上のリードの状態で投票日を迎えましたので、これは確実だろう、と予想できていました。

 日本時間正午の時点で、オバマ候補がオハイオ州とニューメキシコ州を獲得したとの速報が流れ、ここでまた知ったかぶりが始まりました。これでジンクス上オバマが勝利した、と。これまで、共和党の大統領でオハイオ州を獲得せずに当選した例は一度もありません。またニューメキシコは州になって以来、二度の例外を除いて必ず最終勝者が獲得している州なんです(個人的に私は「コウモリ州」と名付けています)。それらでマケインは負けました。

 午後一時、西海岸諸州で投票が締め切られた時間、開票を待たずにCNNNBCCBSABC一斉にオバマ勝利一報を打ちました。出口調査でこれらの州はオバマ獲得が確実で、最大票田のカリフォルニアの結果で決まり、ということでした。

 そうそう、選挙前後、このコラムのバックナンバーの「小林克也のRADIOBAKA・期限切れ遺失物移管所」ですが、この間もベストヒットにゲストに出ていたベン・フォールズの一枚前のJesuslandについて書いたページにアクセスが急増しました。4年前の選挙でできたアメリカの地理的分裂を揶揄した「カナダ合衆国」と「ジーザスランド」に関する説明が、的を射ていて分かり易い、とある有名コラムニストのページにリンクされたらしいんですね。

 そこに書いてある、アメリカの分裂が解消されたわけではない、と考えています。2004年にケリー候補が勝った州は全てオバマが獲得しています。その「ジーザスランド」の中から、オハイオ、ヴァージニア、フロリダ、コロラドなどいくつかの大きな州を、金融危機や現ブッシュ大統領の支持率急落が追い風となり微妙な差で獲得できたという点が勝因だったと思われます。

 さて、その中途半端専門家が語ったコメント、地元の方々は、まだ処分なさっていなったら中日新聞6日朝刊36面をご覧になっていただきたいのですが、TVドラマなら「24」、映画なら「ディープ・インパクト」のモーガン・フリーマン演じた黒人大統領がいて、オバマの登場の地均しの役割を果たしていたといえるでしょう。

 では、音楽で黒人大統領の登場を最も早く予測してたのは誰の何という曲でしょうか?

Chocolate City

 僕の知る限り、パーラメントの”Chocolate City”です。ジョージ・クリントン(この人の名前も考えてみれば因縁がありますね。前々大統領と同姓である以前に、第三代副大統領と全く同名です)率いるP-Funkの一団。克也さん曰くヒップホップ登場以前に最もヒップホップだった人たち。70年代以来、ファンクの音楽とスタイルにものすごく影響した人たちですが、その曲自体は1975年、R&Bチャート24位、ポップチャート96位というマイナーなヒット曲。しかし、今聴いてみてもあらゆる意味で先進性を感じさせます。75年の時点でリズムボックスオンリーで、しかもラップの魁みたいな、ジョージ・クリントンの語り(?)のみで曲が進行します。Chocolate City、つまり黒人が牛耳る都市が、どんどん増殖している。首都のワシントンも黒人人口比が非常に高い。

We've got New York, we've got Gary, Somebody told me we got L.A.And we're working on Atlanta But you're the capital, CC

俺たちはNYもギャリー(インディアナ州)も占領した。ある筋によればロサンゼルスも手中にした。今はアトランタに着手しているところだ。ところが、今度は合衆国首都だぜ!
They still call it the White House But that's a temporary condition, too

 奴らはまだ「ホワイト」ハウスなんて呼んでいるけどそれも一時的状況に過ぎないぜ!

And don't be surprised if Ali is in the White House
Reverend Ike, Secretary of the Treasure
Richard Pryor, Minister of Education
Stevie Wonder, Secretary of FINE arts
And Miss Aretha Franklin, the First Lady

モハメッド・アリがホワイトハウスの主人になっていても驚く必要はないぜ

アイク牧師(70年代に活躍したテレビ伝道師)が財務長官、リチャード・プライヤ(コメディアン)が教育長官、スティービー・ワンダーが芸術長官、そしてアレサ・フランクリンがファーストレディーだ!

この曲の構図はあくまで白人に対する黒人、です。

初めての黒人大統領のオバマ。しかし彼は奴隷の先祖の血を継いでいる訳ではなく、父親はムスリム、義父はインドネシア人、母親はカンサス生まれの白人。単純な肌の色の問題ではなく、アメリカそのものの多様性を象徴するような存在です。アメリカの低俗なネットの書き込みを見ると、やはり、黒人だということで差別的な表現が多く見られますが、その分断されていたアメリカを、多様性を認めた上で再統合する役割を期待したい。いずれにせよ、歴史の大きな転換点を感じさせられる今日この頃です。

そんなこんなで忙しいと言いながら、ライヴリポートネタもたまっていますので、ぼちぼち小出しにしていきたいと思います。

筑紫さん、あなたは、あなたが好きだったあの国の歴史的な転換点をちゃんと見届けてから、旅立たれたのでしょうか?

たった一度、國弘先生との席でご一緒させていただいて、カツ丼を注文しましたが、貧乏学生だった小生、「実は、金が足りないんです」というと「しょうがねえな、俺が出してやるよ」といって払って下さった筑紫さん。そのときも、楽しそうにワシントン特派員時代の思い出話をしてくださった筑紫さん。いつか、お返しができればと思っていたのですが、やはりできませんでした。申し訳ない気持ちでいっぱいです。そのときのことはずっと忘れませんし、あなたが書いたこと、言ったことから多くのことを学びました。ありがとうございました。お疲れ様でした。安らかに。

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2008年10月 9日 (木)

番外・テレビ出演宣伝

特報!というか宣伝

私、ハリー教授こと阿南東也(あなみはるや)が、地上波全国ネットで、「本業で」テレビ出演します。1015日水曜日、TBS,毎日放送系夜9時からの新番組、関口宏さん司会「水曜ノンフィクション」、の第一回パイロット2時間特番に、恐らく編集で登場は数分になってしまうでしょうが、とにかく出てきます。シンディのニューアルバムは”Bring Ya to the Brink”でしたが、世界が核戦争の破滅のふち(brink)に追いやられそうになった事件についてチョッと語っています。いつもこの場を借りてこんなことを書いている奴はいったいどんな奴なのか興味のある方、お暇の方はぜひどうぞ。

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2008年8月20日 (水)

Still The One

シャナイヤ・トゥエインではありません。

前回も書いたように、私が東京ローカルの小林克也番組を聴ける機会があと半年で奪われてしまうかもしれないので、できるだけラジオ番組からネタを拾っていきたいと思います。

816日(プレスリーの命日でマドンナの誕生日でしたねえ)オンエアのDJ KOBYの、アメリカ大統領選挙と音楽AKA音楽の民主党大会、特集。

私の本職の専門に近いこともあり、ちょっとフォローをしておきます。

音楽界は圧倒的に民主党支持が多い。

ザ・ヴェリー・ベスト・オブ・シェリル・クロウ

民主党大会に参加予定のアーティストとしてシェリル・クロウが挙げられていましたが、もう一人、絶対に党大会に参加する、マイナーな人を紹介したいと思います。

というか、この人は音楽活動は細々と続けている程度、ミュージシャンとしての参加という位置づけではないでしょう。

しかし、70年代には名を馳せた人です。

ジョン・ホール。

70年代にオーリンズというグループのリーダーとして活躍した人です。

Let There Be Music / Waking & Dreaming

代表的なヒット曲もいくつかあり、今でもよくコンピレに選曲される75年の”Dance with Me”とか。この曲はジャズ・ギターのアール・クルーのカバーでもおなじみだと思います。あと79年の”Love Takes Time”とか(これも、マライヤではありません)。ソングライターとしてもシールズ&クロフツなどに曲を提供していました。

DANCE WITH ME - The Best of Orleans

最大のヒットは、76年の”Still the One”でした(こう並べてみると、タイトルは平凡なものばかり)。

ホールはメリーランド州の生まれ。ニューヨークを中心に東海岸で活躍したグループですが、当時全盛だったウエストコースとロックの波に乗っていました。

そしてホールは、グループ活動と並行してソロ活動も精力的で、更にはその西海岸の連中との社会、政治運動にも熱心に参加します。

ハイライトは、79年、核兵器廃絶、原子力発電反対を訴えるためのNo Nukes。会場はマディソン・スクエア・ガーデンでしたが、中心はドゥービー・ブラザーズ、ジャクソン・ブラウン、ポコ、クロスビー・スティルズ&ナッシュ、ボニー・レイット、ニコレット・ラーソンなどの西海岸の人たち、これに、ブルース・スプリングスティーン、ジェームス・テイラー、カーリー・サイモン、トム・ペティその他大勢が加わり、ウッドストック以来の最大の音楽イベントと言われました。

これにホールはソロの「パワー」と「プルトニウムは永遠だ」という二曲を演奏して参加していました。

このように、ミュージシャンの全盛期から政治社会問題に強い関心を持っていた人でした。

そのさっきの最大のヒット曲”Still the One”が再び脚光を浴びたのは前回の2004年大統領選挙の時。ブッシュ大統領が再選へのキャンペーンソングとしてその曲を使おうとしたんです。

「君はいまだに信頼できる、たった一人のひと、

 君はいまだに僕を飽きずにいさせる、たった一人のひと。。。」

再選に向けてのスローガンとしてはぴったりの内容の歌詞だったわけで、ブッシュ陣営が使いたがったのもよくわかるのですが。

作者のホールはこれを許可せず、ブッシュ陣営もキャンペーンの途中でこの曲を使用リストから外しました。

そしてその次の議会選挙の06年、ホール自身がニューヨーク州第19選挙区から、対立党の民主党から立候補、見事当選を果たしました。

自ら政治家に転身して議員一期生、やはりエネルギーに関する問題で最も活躍したようです。

その政治が本職となった彼、音楽もそこそこ続けていると書きましたが、例えばジャクソン・ブラウンがニューヨークでライブをした際にはゲスト出演して何曲か一緒に演ったようです。

下院議員ジョン・ホールは、superdelegate 特別代議員、すなわち、党大会で大統領候補に投票するために予備選挙で選出された一般の代議員とは別に、連邦議員や州知事など、現職の政治家が大統領候補選出に特別票を投じられる、その立場で党大会に参加するはずです。

でも演奏はしないんでしょうね。シェリル・クロウが来るなら一緒にステージに上がる可能性無きにしも非ずですが。

今年はご存知のように民主党の予備選挙は稀に見る接戦、対立候補に敬意を表し、代議員獲得数で次点だったヒラリー・クリントンも大統領候補の投票対象として残されることが決まりました。

ホールは、同じニューヨーク選出、06年には再選を目指したヒラリー上院議員とキャンペーンで一緒になったこともよくあり、エネルギー問題での立場が同じであることからも、ヒラリーに票を入れるのではないでしょうか。

さて、目を転じて共和党側。

DJ Koby内でもあったように、かつて1984年にレーガン大統領はブルース・スプリングスティーンに “Born in the USA”の使用を断られたり、今年のマケインは “Johnny B. Goode”の使用をチャック・ベリーから断られたり、また「当選後はホワイトハウスではABBAの音楽を流したい」発言に対しても元メンバーたちが懸念を表明しているようです。更には、既に何度か出てきたジャクソン・ブラウンまでも、マケイン陣営が彼のヒット曲”Running on Empty”を使用するのを差し止めたそうです。

Running on Empty

踏んだり蹴ったり。

では、共和党側を断らない音楽とは何でしょう?

Ultimate Survivor

「ロッキー3」のテーマ、Survivor “Eye of the Tiger”.これは予備選以前では本命視されながらも早期撤退した前ニューヨーク市長ジュリアーニ氏も、そしてマケインも使っていました。これは断られていないんでしょうね。

あと、ディクシー・チックスの対極にいたトビー・キースも断らないんじゃないかな。

Osmondmania! Osmond Family Greatest Hits

それから、オズモンズ。

あの家はモルモン教徒一家なんですね。

共和党の予備選挙で善戦したロムニー前マサチューセッツ州知事がモルモン教徒だったように、モルモン教徒は保守的で共和党の地盤のイメージが強い。

04年大統領選挙の直前に、モルモン教の総本山のユタ州の大学に、ブッシュの天敵、マイケル・ムーアが講演に行くことになり、その日に至るまでの顛末、町民の反対運動、そのまた反対運動、の様子をドキュメンタリーした「マイケル・ムーアのアホでマヌケな大統領選」という映画がありました。DVDでぜひどうぞ。

かつては一夫多妻制をとっていて迫害を受けていたものの、清廉なイメージもある。婚前交渉も認められない。

「マリー・オズモンドのLPレコードをターンテーブルに乗せようとしたら、なかなか穴がはまらなくて。無理やりはめたら、血が滲み出てきた」なんて、卑猥で、笑っていいんだか悪いんだかわからないジョークも昔ありました。

オズモンズ、レーガン大統領の就任式では大活躍でした。マケインも使ってはいかが?ABBAあたりがお好きなら丁度いいのでは?

いや、マケインは共和党内でも中道やや左で党内の保守派とはうまく行っていないようだから、逆にオズモンズあたりには嫌われているのかな?

さて、11月にはどちらが勝つでしょう。

予想はしません。結果が出てからその理由を説明するのが学者の仕事ですから(と、狡い逃げをする)。

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2008年8月 7日 (木)

Video Kills a Radio Star

The Age of Plastic

  何をいまさらこの曲を、という感じですが。

 またこの曲を思い出してしまう出来事がありました。

 MTVの開局第一発目を飾ったあの曲。

 音楽と映像が融合する時代の幕開けを象徴したような曲でありました。

 それからおよそ四半世紀、音楽にビデオが付いてくるのは当たり前、でも、ラジオという昔ながらのメディアは残っている。

 それでも、様々な技術が発達し、同じ機能を果たすはずのメディアも複数の方向に枝分かれし、その中で競合が生じ、適者生存、広く受け入れられたものは興隆し、それに失敗したものは消えていく。

 「せっかくのハイビジョンなのにブルーレイ使ってないの?もったいない。ヤザワ、ブルーレイ使ってます」

 次世代DVDの規格争いでHD-DVD方式が敗北を認めて撤退し、ソニーが中心に推進したブルーレイ方式が標準規格化して、これからの目玉として注目されるに至った、というのは記憶に新しい。

 旧型(?)の4.7GBのメディアに十分満足している私の目には、次世代DVDを巡る争いは醜く映り、泥仕合になって消費者から見捨てられて両方とも潰れてしまえ、と思っていたのですが。そうはならないようです。

 しかし、ブルーレイといっても、これから高画質映像の配信、保存方法がディスクだけに一元化されず、多様化してくるとの予想があり、うかうかもしていられないようです。

 現在、音楽CDソフトが有料配信のために苦戦しているように。

 そして今週、マイナーなニュースですが、私にとってはショックな情報が飛び込んできました。これも一つのメディアの消滅です。

 通信衛星ラジオ放送 モバHo! が来年3月でサービスを全面停止してしまうという。

 スカパー!のラジオ版といったところでしたか。「ラジオ局を持ち運ぼう」をキャッチフレーズに、テレビ放送も若干扱っていましたが、ラジオに限っていえば、目的や音楽のジャンルに特化したチャンネルが50くらい、USENのように固定した場所ではなくモバイルで持ち運べる、日本全国どこでも同じ放送が聴ける、が売りのサービスでした。

 開始が200410月。

 私はこれの受信機能を持つ携帯電話に買い換えて以来14ヶ月お付き合い。

 しかし、その受信契約に踏み切ったひとつの大きな理由であった「小林克也チャンネル」がその3ヵ月後、077月に消滅してしまった。

 そして今回の決定。

 開始からわずか5年での完全撤退。

 当初は加入契約者数200万人を目指していたのが、現時点で10万人に留まってしまっているという。小生はその希少な10万人のうちの一人というわけですな。

 伸び悩んだ最大の原因は、ワンセグとの競合であったという。

もうケータイの標準装備機能となりつつあるワンセグ。

駅のフォームに腰掛けてテレビを見ている人の姿が珍しくなくなりました。

 僕自身は、あんな小さな画面でテレビを見て面白いのかなあと思っていて、ケータイには備え付けてはありませんが、それでもどこにでも持ち歩いているB5ノートパソコンには入れてあって、移動中、出張中でも見られるようにしてあります。

 そのワンセグの強みは、無料であること。それに対して受信料が発生するモバHoは圧倒されてしまったという。

 それに、「ラジオ局を持ち歩こう」といって、ドライヴ中のBGMとしての需要を見込んでいたようだが、それもCDオーディオシステムや、iPodから無線でカーオーディオに飛ばせる機能が搭載されていれば、それに取って代わる要素も持っていなかった、ということなのだろう。

 しかし、ちょっと待ってくれ。

 何かがなくなる際に必ずある議論であるが、たとえ少数であるにせよ、それに特別な価値を見出して利用しているユーザーが必ずいる。

 モバHoとワンセグが競合したのは、アウトドアでの暇潰し(?)映像メディア視聴という点のみであり、提供していたコンテンツはまったく別物であったはずである。

 かく言う私は、TFMJ-Waveが名古屋にいながら聴けることが最大の利用目的であった。そういった、自分が住んでいる地域の地上波では聴けない局が聴けることを喜んで利用していたユーザーは少なくないのではないだろうか。

 克也さんが名古屋を去った後、この連載のネタ探しに七転八倒している私としては、東京ローカルの番組が聴けるこのサービスは救いの神だったのだ(その割にはあまりネタにしていなかったような気もするが)。

 それがまた元の木阿弥に戻ってしまう。

 「小林克也チャンネル」が無くなったあたりから雲行きが怪しくなっていたのをなんとなく感じていたのですが。

 メディアに限らず、マクロの市場原理で淘汰される消費財の特殊機能に依存していた少数派が切り捨てられるのは世の常とはわかりつつ。

 映像メディア=Videoが、また、音声メディア=Radio を殺した。

 来年の春まで、USENを含めて、ほかに東京のラジオ局が聴取できるサービスがないか、いろいろ探っていくしかないようだ。

 その前に来年3月までのDJ Koby’Radio Showと「ポップ・ミュージック・マスター」は聞き逃さないようにしよう。

 克也さん、大橋さん、首都圏以外からリクエストが来ていたら、できるだけ採用してやってくださ100_0001いね。

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2008年2月22日 (金)

New York is a Woman

半分ベストヒットネタ、半分ライヴリポートです。

219日のスター・オヴ・ザ・ウィークのゲスト、スザンヌ・ヴェガ。

123日にあったライヴに行っていましたので、それともあわせて。

彼女が8年ぶりに出してきた新譜は、”Beauty and Crime”「美しさと犯罪」

Suzanne_vega_beauty_and_crime_3

ベストヒットでのインタで言っていたとおり、スパニッシュ・ハーレム育ち、生粋のニューヨークっ娘である彼女が、そのニューヨークの、前衛さと危険さの二面性を表現した。特に前作ができた直後に911事件があり、その後に沸いた故郷に対するいろいろな思いがテーマだという。

ご存知の方も多いでしょうが、ニューヨークの都市部は、その他の地域に住んでいる人にとっては、あんなとこアメリカの代表だと思われちゃ困る、あんなとこ大嫌いだ、という場合が多い。超大国アメリカの本質は、日本の26倍ある巨大な田舎、なんですね。

それにまつわる個人的な経験から来るエピソードは枚挙に暇がないのですが、また機会があれば。

世界を代表する大都市、国際政治、経済、前衛芸術の中心、でも人口人種構成は複雑で、不衛生、犯罪発生率高い、そういう否定的なイメージも付きまとう。

911事件とは、そんな嫌われ場所のニューヨークで起こった、しかしたとえ一時的でもアメリカ全体の愛国心を高揚させ一致団結を促した、そんな皮肉も含んでいたわけです。

しかし、90年代の上向き景気にも後押しされ、衛生改善と警察力増強を前面に掲げて成功したジュリアーニ市政の御蔭で、汚い、怖いニューヨーク、というイメージは大幅に改善されたようです。

そして任期切れギリギリに911事件が起こり、その収拾にも指導力を発揮したジュリアーニさん。今年の共和党大統領候補の筆頭という下馬評でしたが、作戦ミスしましたね。早い時期に行われる州の予備選には力を要れず、フロリダなど、少し後に行われるけれども一挙に代議員を多く獲得できる州で挽回しようとした。ところが、マスコミが注目する早期に予備選を実施する州で勝った候補の勢いに、結局乗り遅れてしまった感じでした。残念。

閑話休題。

他の地域からは嫌われようとも、そこで生まれて育てば故郷への愛着は並ではない。

スザンヌがインタで、ニューヨーク以外だったらどこに住みたいかと訊かれたら、ロンドンか東京、と言っていた。よくわかります。都会っ子は最後まで都会を望むのですね。

 ビリー・ジョエルが、活躍した時期の背景の微妙なズレもあるのでしょうが、アメリカ全体から見たニューヨークの位置づけの変化を歌うことが多かったのに対し、スザンヌは、そこの生活そのものを等身大で観察した内省的な作品が多い、そこに大きな違いがあったと思います。音楽的には、ニューヨーク・パンクのパティ・スミスの洗礼を受けたジョニ・ミッチェルのフォーク、とでもいったところでしょうか。

 さて、123日のライヴ。例によって小さなライヴハウスで、オールスタンディングです。

 オープニングは彼女一人だけで出てきて、あの「トムズ・ダイナー」を口ずさみ始めました。

 「ルカ」でブレイクしたセカンドアルバム”Solitude Standing”「孤独」に収録されていた、もともとは全くの無伴奏、コーラスなしが印象的だったあの曲。日本でもコマーシャルのバックに使われた。

 歌詞の「コーヒーを注いでくれるのをじっと座って待つ」時にはバックのメンバーがポットを持って登場し「新聞を広げて、名前も知らない俳優が死んだニュース、つまらないから漫画欄を見よう」という時には新聞を広げながら登場し、「傘の水を切ながら女性が店に入ってきた」時にもその通りの仕草で登場し、一人ずつ揃っていく、粋な演出でした。

 全員揃ったところで「マレーネの肖像」。ファーストアルバム「街角の詩」からのデビューシングル、音楽専門誌から「ニューヨーク・フォーク界の新星」と華々しく紹介された曲でした。

 三曲目がニューアルバムから”New York is a Woman”.実はアルバムタイトルのbeauty and crimeというフレーズが出てくるのはこの曲で、事実上のタイトルナンバーといえるでしょう。美しさと罪が並存しているニューヨークはまさに女性そのもの、か。わかるようなわからないような・・・

 その後、ベストヒットでも新曲としてビデオが流れた、シナトラとエヴァ・ガードナーの物語、”Frank and Ava”

バックが引っ込んで彼女一人になってギター一本の弾き語り、ロッド・スチュアートの「マギー・メイ」へのアンサーソング”I Don’t Wanna Be your Maggie May”。つまり、ロッドの元歌は、少年(つまりロッド)と年上の女性との、初の大人の恋愛の曲ですが、「そんなに甘えさせないわよ」と。

映画「プリティ・イン・ピンク/恋人たちの街角」に提供した”Left and Center”

ニューアルバムから”Angel’s Doorway”。これが彼女が動じた初テロ事件に最も触発されて書いた曲だという。映画「ワールドトレードセンター」のような、事件で被害にあったものの生還して帰宅する話。

同じく”Pornographer’s Dream”。エロ小説作家の夢だといわれる女優とは、どんな女性なんだろう。

Suzanne_vega_tried_and_true などなど、いろいろ考えさせられる曲が続いて、やっぱり盛り上がりは「ルカ」。

彼女の代表曲ですね。87年にアメリカで3位。児童虐待の問題を扱ったことで有名。

ヒューイ・ルイス。シカゴとのダブルヘッドライナーで来日します。当時のベストヒットでのインタで、克也さんとともに軽い一曲レベルの商業主義に走っていた当時の音楽界を嘆き、「70年代にあったコンセプト・アルバムみたいにアルバム全体でひとつのテーマを追求することがなくなり、一曲一曲がばら売りになるのはビデオの普及のせいだ。「ルカ」をやったスザンヌみたいに、真面目なことをやる人が一人くらいいなければ業界ごとまるっきりダメになる」といっていたのを思い出します。

そして最後、「トムズ・ダイナー」がもう一回、今度はさらにおなじみのD.N.A.のバージョンがバックバンドとともに再現されました。

これは思いがけなく、「孤独」から4年後の91年、イギリスのスタジオチームのD.N.A.によって、もともとはスザンヌの声しかなかったこの曲自体をサンプリングネタにしてバックを加え、ヒップホップ調に仕上げたもの。

これは、原曲の素朴な雰囲気を大切にするならぶち壊しに近い行為ですが、実は一番喜んだのはスザンヌ本人で、積極的にシングル発売を働きかけたのも彼女自身だという。御蔭でこの曲は5位になる、彼女にとっては「ルカ」に次ぐ大ヒットとなり、便乗したりミックスバージョンもいくつか並んで出てきました。

ここが一番大音量になりましたね。そして大団円。

終了後、サイン会があって、またミーハーしている私としては機会を逃しませんでした。既に持っていて持ち込んだベスト盤、そして気になってその場で買ったニューアルバム、そしてローディーに頼み込んで譲ってもらったスザンヌ用セットリスト(僕は結構集めています)にサインを入れてもらいました。

そのセットリスト、曲ごとに、彼女のギターの何フレット目にカポタストを当てるか、それが数字で入れてあって面白いです。アンコールは、フロアからのリクエストにも答えられるように、柔軟に何曲も上げてあります。

やっぱり、体と頭で聴くライヴ、といった感じでした。

「ニューヨークは女」ならぬ、今話題の半分の「ニューヨークからの女」。落下傘候補ですが。

来週の今頃には、文字通り「雌雄が決している」のでしょうか。

Suzanne_vega_setlist

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2008年2月14日 (木)

Where Have All the Flowers Gone?

どなたでもご存知の歌ではないでしょうか。学校の音楽か英語の時間にも出てくるような。

THE NEW FRONTIERS sing THE KINGSTON TRIO  古いフォークソングですね。曲を書いたのはピート・シーガー。ピーター、ポール&マリーが演奏しているのを聴いて、キングストン・トリオが録音,それで広く世に知られるようになりました。1962年のこと。

 そのキングストン・トリオのメンバーだった一人が、天に召されました。ジョン・スチュアート、2008119日逝去、享年68歳。

 現在なら同姓同名のテレビコメンテーターが人気のようですが、僕にとってはあくまでも、ジョン・スチュアートといえばミュージシャンのジョン・スチュアートです。ちょっとの時間ですが会話したこともあるんですから。

 キングストン・トリオといえば、フォークのルーツ的存在。56年に「トム・ドゥーリー」という大ヒットがありました。実在した、南北戦争のときに南部側に従軍していたミュージシャンの話。戦争が終わったあと、何人かの女性と関係を持ち、結婚もしますが、その相手が刺殺されてしまった。その相手に最後に会っていた人物としてトムは嫌疑をかけられ、逃亡するが捕まってしまい、証拠不十分のまま絞首刑にされた。

 “Hang down your head Tom Dooley, Hang down your head and cry…”

ジョンがキングストン・トリオに参加したのは61年からですからこの曲とは直接にはかかわっていません。

 ジョンが参加したあとの「花はどこへ行った?」の大ヒット。その後のヴェトナム反戦運動のアンセムになります。

 そしてジョン・スチュアートといえば、モンキーズのナンバー1ヒット、「デイドリーム・ビリーヴァー」の作者でもあります。ジョン自身も何度か録音していますが、みなモンキーズとはだいぶイメージが違うもの、やはりギター一本のバックのフォーク調のアレンジ、彼の野太い低い声で渋いです。

John_stewart_lonesome_picker_rises_  70年代、シンガーソングライターブームの中で、”California Bloodline” “Lonesome Picker Rises Again”などという、その筋では名盤と評価されているアルバムを発表しますが、セールス的には表舞台に立っていたというわけではありませんでした。

 そんな彼がソロとして大ブレイクしたのが79年。

 当時全盛期だったフリートウッドマックのリンジー・バッキンガJohn_stewart_bomb_away_dream_babiesが彼の大ファンで、彼のプロデュースを買って出ます。私生活での行き詰まりを超えて音楽上でのパートナーであり続けると決心したスティーヴィー・ニックスとともに全面的にバックアップし、”Bomb Away Dream Babies”というアルバムを発表します。それまでの彼の音楽性とは外れた、洗練された、当時流行のフリートウッドマックの音に彼の野太い声が乗っかった感じ、でもこれが最大のヒットとなり、” Gold”というソロとして唯一のトップ10ヒットも生まれます。

The Best...So Far  同じ79年、アン・マレーが「デイドリーム・ビリーヴァー」をカバーしたり、日本でも確かカメラのテレビCMにモンキーズのオリジナル曲が使われて俄かブームが起こり、当時は引退して競馬騎手になっていた元メンバーのデイヴィー・ジョーンズが鳴り物入りで来日したりしていました。

 ちなみに、デヴィッド・ボウイの本名がデヴィッド・ジョーンズで、彼がその名前を変えなければならなかったのはこのデイヴィー・ジョーンズがいたからでした。閑話休題。

 そんなこんなで、79年、ジョン・スチュワートは結構儲けた年でした。

 僕がそんなジョンに会えたのは2001年の早春。今のブッシュ大統領が就任した頃でした。

 小さな会場でライヴをやってくれました。

 バックは一人もいない、彼の声と12弦ギターだけ、僕が今まで観た中でももっともシンプルな構成。

 観客も数十人しかいないし、コアなファンしか来ていない。そのこじんまりさを活かして、フロアからのリクエストにどんどん応えるなど、渋いながらもアットホームなライブでした。

 僕はフロアから”Gold!”と叫びました。「へえ、君たちはGoldを知ってるのか」といいつつ、12弦ギター一本のみでのアコースティックな”Gold”をやってくれました。これは彼の基本に戻ったアレンジですね。

 最後は「デイドリーム・ビリーヴァー」、「今の魂のない音楽に満足してるかい?」と話しかけつつの弾き語りでした。

 ライヴのあと、サインをねだりに行きました(相変わらずミーハーや)。僕は”Bomb Away Dream Babies” “Lonesome Picker Rises Again”CDを持っていました。今では両方とも貴重で、”Lonesome...”の方は日本で再発されたのみ、”Bomb Away…”の方はアメリカのマイナーな再発レーベルからほんの短期間に発売されていただけだったので、彼はそれを持っていることに感心したようで「どうやって手に入れたのかね?」といいながらサインしてくれました。

 ちょうど同じ頃、NHKBSで、「この歌に歴史あり」みたいなシリーズがあり、克也さんのナヴィゲートで「花はどこへ行った」の特集をやり、克也さん自身は取材されなかったのでしょうが、ジョンが出てきて思い出を語っていました。

 ヴェトナム反戦で民主党(アメリカ)が分裂したのが1968年、なんか今年の大統領選挙の予備選挙も、それを髣髴とさせるものがあります。

 その邂逅の2001年のあとのアメリカと世界に何を思って、彼は天に昇ったのでしょうか。

 また一人、巨人が旅立ちました。合掌。

 

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2008年1月25日 (金)

Nobody Wins

アメリカ vs. ジョン・レノン ジョン・レノンは誰に殺される?<モーション・ピクチャー・サウンドトラック> 映画を観ました。

 「ピースベッド-アメリカvsジョン・レノン」です。

 この映画をレビューするには勇気が要りますね。ジョンは色々な側面を持っている人、衝撃的な暗殺で夭折してしまった人。それゆえに、多くの信奉者がいっぱいいる。僕なんか書く資格がないほうで、僕より詳しい方もいっぱいいらっしゃるでしょう。

 それから、この映画は音楽と政治がクロスオーバーしている映画。僕自身、趣味(最近そうでなくなってきているという噂もありますが)で音楽にのめり込み、仕事で政治にちょっと携わっている人間としてはジョンという人物に対して微妙な立場にならざるをえません。

 それでも何とか、思い出話を含めて、僕なりに面白おかしく論じてみようと思います。

 結論から言って、僕にとってのジョンとは、あくまでもミュージシャンであり、ロックンローラーであり、作詞家であり、作曲家であるのです。全てにおいて天才的に優秀な、です。

 克也サンがらみの昔話で、かつて、ZIP HOT 100の晩年期に、「ザ・クイズ」というコーナーがありました。一時間おきにキーワードを一つずつ発表し、三つ揃ったら答えを考えて電話で回答するというもの。記念すべき第一回目の正答者が私。たった一人しかいなかったので戦利品独り占め。グッチのサングラス、重宝しています。

オール・シングス・マスト・パス 〜ニュー・センチュリー・エディション〜  問題は、1時間目「ジョージ・ハリスン」2時間目「ポール・マッカートニー」3時間目「リンゴ・スター」というものでした。

 克也さんが「答えはビートルズではありません」と断っていたにも拘らず、共通点で、「ビートルズ」という誤答が多かったのですが、僕は順番に着目して、「齢の若い順」と答えました。これが正解だったのです。当時まだジョージも存命でした。

 ところが捻くれ者の僕は、もう一つ、オタッキーな答えを思いついていました。

 それは、「ビートルズ解散後ソロでアメリカのチャートで一位を獲得した順」というやつです。

ラム  ジョージが「マイ・スィート・ロード」で70年、ポールが「アンクル・アルバート~ハルゼー提督」で71年、リンゴが「思い出のフォトグラフ」で73年。ジョンは一番遅く74年の暮れ、親友エルトン・ジョンとやった「真夜中を突っ走れ “Whatever Gets You Through the Night”」というやつです。

 Some Time in New York City/Live Jam  個人的には、ジョンはやっぱりこの頃、7475年あたりが一番音楽家として成熟していて、70年代前半の、ラディカリズムを音楽を通して訴えようとしていた時期も一段落し、実によかった、と思っています。

 そしてその頃はちょうど、そのアメリカ合衆国との長かった戦いに一段落がついた時期にもあたります。合衆国永住権、グリーンカードを手にした頃。ジョン曰く「グリーンという割にはブルーだね」。

 それまでの戦い。 

 ジョンはヨーコに出会う以前から、反体制的な気質は十分にあった。でもやはりヨーコとの出会い、その思想に触れたことで、過激な愛、平和を説くようになった。

 克也さんは去年のニューヨーク取材で彼女に長いインタをしたばっかり。日記に、彼女の存在がビートルズ解散に拍車をかけたわけじゃない、彼女の登場のはるか前から人間関係がおかしくなる兆候は見えていたんだ、みたいなことを書いておられましたが。それは僕もそうだと思うのですが、別の意味から、ヨーコの存在はビートルズに変化をもたらしたと思っています。ビートルズとファンとの関係です。

 ビートルズがあれだけ世界的なブームを起こせたのは、音楽性は言うに及ばず、彼らのアイドルとしての「中性性」だと思うのです。四人とも、ストーンズなんかに比べれば遥かに大人しく、男らしくなく、可愛らしさがあった、かといって女性的でもなく男性の立場から曲を作っている。そんな、セックスを感じさせない雰囲気が、男性にも女性にも支持されて、それだけ多くのファンを獲得できた一因であったのではなかったかと思います。

 そこにヨーコが登場した。それまで、メンバーが誰と結婚していようとも付き合っていようとも、プライベートから来る生活臭は一切排除し、四人が完全な四角形を作っていた。その中にヨーコが入り込み、レコーディングの最中でもジョンとチュッチュするシーンを見せ付けられて、ファンは否でも応でもセックスの存在を意識させられた。そこからファンのビートルズ像は、そこを認めていくか、排除していくかに分かれていってしまったのではないかと思うのです。

 いずれにせよ、左翼運動家とも関係するようになり、自らも運動を起こし、ビートルズ解散直前、カナダの二箇所で、この映画の邦題にもなった有名な、公開ベッドインによる平和の訴え、など過激な示威行動を行い、映画にも証言者として登場し、ジョンの曲のタイトルにもなった、「ブラックパンサー党」の白人版である「ホワイトパンサー党」党首、逮捕された新左翼活動家ジョン・シンクレアの釈放を訴えるコンサートを開いたりした。

これに対して当時のニクソン政権は、クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングの「オハイオ」に歌われたケント大学での反体制学生運動弾圧事件のように、ヴェトナム反戦、反政府運動が頭痛の種だった。ジョンの行動が若者に及ぼす影響に恐れをなし、FBIは盗聴も含めたジョンの活動の監視を執拗に行い、ジョンの名前は新左翼行動家としてブラックリストに載り、100ページ以上もの行動記録書が作成された。

ジョンはパラノイア(僕のことじゃありませんよ)になり、「俺とヨーコに何かあったらそれは事故じゃない」とまで言うようになった。72年にアメリカ移民帰化局は、過去のイギリスでの大麻保持を理由にジョンとヨーコに国外撤去命令を出す。しかしこれにもジョンは屈せず、その大麻所持自体が不当逮捕だったとし、頑として立ち退かず徹底抗戦を構える。

ニクソン政権のヴェトナム政策、カンボジア侵攻への反対運動とも絡み、ジョンの運動も大きな支持を得るが、72年の大統領選挙で(この人も多分パラノイアだったんでしょう)ニクソンが再選されたことにより政権やFBIのジョンへの関心は緩み、合衆国最高裁もジョンの国外撤去の理由を不当と判断したため、ジョンは念願の「案外青い」グリーンカードを手にすることができた。。。

John Lennon/Plastic Ono Band 話は戻りますが、僕はどうも、解散直後の「ジョンの魂」あたりの、彼のラディカリズムをもろに音楽に投影しようとした一連の作品群、音楽の新たなあり方を模索した斬新な試みであったことはよくわかりますが、どうも音楽そのものとしては好きになれません。それに比べて、このアメリカとの戦いが一段落したあとのジョンの作品、「真夜中・・・」とか「夢の夢」とか、企画ものとしての「ロックンロール」アルバムなど、実に円熟していい音楽だったと思ってます。

Rock 'n' Roll

ところがそんなさなか、ジョンはショーンの育児に専念するための休業、主夫宣言をしてしまい、ファンをヤキモキさけます(俺もやりたいヨー)

Milk and Honey ヨーコとの関係も新たな段階を迎え、ショーンに言われた「パパってビートルズだったの?」のいとことで一念発起しミュージシャンとして復帰、80年、「ダブル・ファンタシー」を発表。評価が分かれた作品でしたが、僕は「ウーマン」「ビューティフル・ボーイ」ウォッチング・ザ・ホィールズ」だけで名盤だったと思っています。「ダブル・・・」はジョンとヨーコの曲が交互に収録されていましたが、ジョンの曲だけ抜き出してカセットテープに録音して聴いていました。当時、そうやっていた人、少なくないと思います。ラジオでアルフィーの坂崎幸之助さんが同じことをやっていると言っていてニヤっとした思い出があります。

ところが、発売直後、128日、あの悲劇が起こった。その時も実はFBIエージェントが遠巻きに見張っていたがあえて何もしなかった、というのは本当か?

ジョンはそういう結果になってしまい、その遥か以前にニクソン大統領は不名誉な辞任をした。この戦いは、誰が勝ったのだろう?

というわけで、映画の邦題は「ピースベッド」が前面に出てきてしまっていますが、原題の「ジョン・レノン対アメリカ合衆国」のほうがしっくり来ます。

映画は資料映像と関係者インタで淡々と続きます。ここで本職に戻っちゃいますが、音楽映画としてもさることながら、60年代後半から70年代のアメリカ社会を知る意味で広くお勧めしたい。ウォーターゲート事件に関係したニクソン政権からゴードン・リディ、ジョン・ディーン、それを暴こうとしたジャーナリストのカール・バーンスタイン、ウォルター・クロンカイト、72年民主党大統領候補ジョージ・マクガバンなんかが証言しているところをぜひ見てもらいたい。

といってももう上映期間はほとんどのところで終わってしまっているでしょう。すぐDVDで出るでしょうから是非。

というわけで、やっぱりいまだにヨーコさんの本質を理解できていないためか、あまり好きになれていないハリー教授のレビューでした。

The Fox Nobody Wins  ジョンの親友だったエルトン・ジョンがジョンに捧げた曲としては「エンプティ・ガーデン」が有名ですが、実はエルトンがジョンの死で最初にインスパイアされて作った曲は、81年「フォックス」というアルバムからのこの中ヒットだったのではないかと思うのです。ヨーロピアンディスコみたいな曲でした。

映画に登場したジョージ・マクガバン。選挙で戦ったニクソンよりも長生きしています。ビル・クリントンはこの人の選挙運動に参加したことで政治の世界に足を踏み入れました。そして今年は、その奥さんが・・・候補者選びの予備選挙ではかなり接戦を強いられていますが、もし以前の下馬評のとおりになったら・・・改めて「ジョン対アメリカ」の勝者は、誰だったのだろう?

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