ラジオ

2009年9月28日 (月)

Saturday in the Park (Part 2)

166caseykasem

いやはや、また入院してしまいました。

 今度は検査ではなく、急病、高熱で担ぎ込まれ、実は今も全快していません。

 一年に3回の入院、まだまだ若いと思っていても、そろそろ認めるべきものを認めなければならない年齢か。

 さて、そんなわけでだいぶ間が開いてしまいましたが、前回からの続き、アメリカのラジオ業界のもう一つの大きな出来事。

 それは、ケーシー・ケイサムの引退です。

 American Top 40の大成功により、アメリカ国内外で最も声の知られたアメリカ人、Voice of Americaを受賞したこともある、ディスクジョッキーとしては世界でもっとも有名だった一人。

 今年の74日の放送を最後に、引退しました。

 前回挙げた、ウルフマン・ジャック、チャーリー・ツナとならんで、FENといっていた現AFNEAGLE810のラジオヒーローでした。この3人の中では特に、小生の英語は一番影響を受けているのではないでしょうか。発音は標準的だったし、ジョークは飛ばさない、ただ淡々とアーティストと曲紹介、順位変動を解説していただけでしたから、聴き取り易かった。それと、湯川れい子さん解説の日本語版も長くやっていましたから、とっつきやすかったですね。克也さんはその番組のオープニングナレーションもやっていましたね。

 本名ケマル・アミン・ケイサム。結局、ファミリーネームがケーシーというあだ名になって、それをそのまま使うことになった。レバノンからの移民の二世。自らもアラブ系アメリカ人圧力団体の理事的な役割も果たしてきた。そんな一面もありました。

 俳優を志すも、兵役時代に韓国でのFEN(米進駐軍放送ですな)でアナウンサーになり、帰国後も西海岸のラジオ局を転々としてコメディなどをやった(ラジオは創成期は音楽よりドラマ番組のほうが圧倒的に多かったんです)。

 その中でも、いつかはトップ40カウントダウン番組を作るんだ、という希望に燃えていた。

 そんな彼の夢が実現したのは、1970年、74日土曜日、独立記念日だった。

 カウントダウン番組を発明したのは彼ではないし、この当時はTop40フォーマットのラジオ局は下火だったという。

 ところが、スタッフの地道な営業努力で、放送ネット曲を少しずつ増やしていった。

 70年代前半、いつの間にか、新曲を紹介し、最もレコードが売れてラジオでかかっている曲が分かる情報番組としてアメリカを代表するシンジケート番組になっていた。

 この成功に倣っていろいろなジャンルのカウントダウン番組が登場した。

 克也さんも、これの凝縮版の名番組「ナガオカ・ワールドミュージック」をやっていました。日本のラジオ局でも歌謡曲で同じような企画を各局がやってたし、それをテレビに持っていったのが久米さんの「ザ・ベストテン」だったと考えると、Top 40の影響の大きさは計り知れません。

 それでもケーシーはそれだけでは食えずいろいろ他の仕事をしていた。俳優としては77年頃人気絶頂だったショーン・キャシディ主演「ハーディ・ボーイズ」に出演していたし、あの大ヒット映画「ET」で、ETが英語を覚えるためにセサミストリートを観ている時、テレビから聞こえてくるBe good というナレーションはケーシーだったのです。

 番組もいろいろ工夫が加わり変化してきました。78年には、全世界的ネットワークを利用して、遠くの普段会えない誰かに曲をプレゼントする long distance dedicationが始まりました。「あの人に贈りたい from me to you」の原型ですね。記念すべき第1号は、ドイツ駐留中にデザリーという年上の女性と恋に落ちた軍人からの手紙が切っ掛けでした。最近になってこの二人を調査したところ、二人はまったく決別状態だが、そのリクエストが採用されてその後数千曲続いたことはいい思い出だ、と語っていました。

70年代後半まで、湯川さんはケーシーと直に電話で話すことができ、電話に出てきたケーシーは「今、カミさんが留守でさ、小さい二人の子供のお守りで忙しいんだよ」とバタバタしながらも楽しそうでしたが、数年後、80年代になって、同じ番号にかけたら、冷たい感じの女性秘書が出てきて、「インタビューは30XXXドルです」といわれるようになってしまったという。ビリー・ジョエルとか向こうのショウビズではよくある話だが、その若い頃苦楽を共にした奥さんもポイ捨てにして、若いデルモか女優かと再婚したという。

 とにかく大物になってしまい、81年からAmerica's Top 10という、テレビ版のホストも勤めるようになりました。

 80年代末にはプロダクションと関係が悪くなり、シャドー・スティーヴンスに後任DJを譲りましたが、ケーシー自身は対抗してすぐに別系列のシンジケートから “Casey’s Top 40”, “Casey’s Countdown”を始めたり、また90年代半ばに元鞘に収まってAmerican Top 40に復活しました。それも2000年代に入ってからはメインストリームチャートのものはライアン・シークレストに譲り、ケーシーはかつての自分のイメージに合う、ACAmerican Top 10, Hot ACAmerican Top 20をやっていました。Spotat40

 このライアン・シークレスト、いまやアメリカン・アイドルのホストで知らない人はいない存在ですが、もともとはDJ志望で、ハリウッドに行ったのもケーシーに会いたかったためだという。夢をかなえたライアンは、まさにケーシーの後継者として適任だったのでしょう。

 そんなケーシーも歳には勝てず、声がどんどんしゃがれていく。そして彼は、74日独立記念日が土曜日に当たる今年に引退を選びました。

The Complete Hit Singles

 「39年前の独立記念日の土曜日、この番組は始まりました。最初の第1位の曲はThree Dog Night “Mama Told Me”でした。そのとき、放送してくれた局はたった7局

でした。それから親友のドン・バスタニやほかのスタッフが地道に努力をしてくれて、番組も波に乗り、最大時では世界で800ものラジオ局が放送してくれるまでになりました。そしてまた独立記念日が土曜日にあたる今年、引退を決意しました。苦しい時代もありましたが、今は全てが良い思い出です」

ダーク・ホース ザ・サウンド・オブ・マッドネス

 こう結んで、最後の1位の曲紹介をしました。

 Hot AC版のTop20のほうは象徴的で、2位はニッケルバックの”If Today Was Your Last Day”1位は Shinedown”Second Chance””…Sometimes goodbye is a second chance…”「サヨナラは第二の始まりって場合もあるさ」がリフレインで流れる、まさに最後を飾るにふさわしい曲が偶然にも重なりました。

 そして番組の最後「これで私はもうマイクロフォンの前でしゃべることはありません。でも最後も、39年言い続けた、いつもの文句でいつもどおり終わることにしましょう。

“Keep your feet on the ground and keep reaching to the stars”(地面をしっかり踏みつつ、空の星{音楽界のスターにかけている}に手を伸ばし続けよう)。

こうして、ラジオの一つの時代を作った男は去って行きました。

 実はそれ以降も、70年代、80年代のTop40の再放送番組は続いていて、どうも彼は引退したという実感はわかないんですけれどね。

 実際、少年時代からかじりつきで聴いていたラジオヒーローの引退を同時体験すると、縁起でもありませんが、小林克也の引退はどんな感じになるのだろう、克也さんの最後のラジオの番組はどうやって結ばれるのだろう、と思いをめぐらせてしまいました。

 糸居さんは、最後の番組の最初に花束贈呈をやって、終了はいつものとおりに終わりました。

 ラジオではありませんが、CBSの名キャスター、エド・マロー、彼の後輩マイク・ウォーレスも、最後は名文句 “Good night and good luck”で消えていきました(ウォーレスはその後もちょくちょく出てきていますが)。

 小林克也も、番組終了の名文句、いろいろありますね。”See you next XXX…” “Bye Bye BABE…” “Have Yourself a Funky…”どんな感じになるんでしょうね。

 いやいや、克也さんはまだ声がかれていないし、ケーシーに追いつくにはまだ10数年あります。ハンク・アーロンが755本で引退したときの王貞治みたいなもんです。まだがんばってください。

Chicago V

 それで、Saturday in the Park 、シカゴのあの曲ですが

 “Saturday in the park, I think it was the 4th of July”

  これは、その70年の74日を歌った曲ではないか、と思うんです。

 それにしても、せっかく始まった全国ネットの番組、30分削られてしまうんですかあ。

 ポリスの、一面に蝋燭が並べられるビデオは”Every Breath…” ではなく”Wrapped around your Finger”のほうです。ゴドレイ&クレーム監督です。

☆愚息”Ricky” 紀輝(のりき)が夏休みの絵日記に描いた、銀座ファンキースタジオの様子。空色の服を着ているのが、克也さん。

Norikinoenikki

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2009年8月24日 (月)

Saturday in the Park (Part 1)

サイモン&ガーファンクルのリポートで一回飛ばしてしまいましたが、予告していた、小生が感じるアメリカのラジオ業界の変化について、が今回のテーマです。

克也さんの618日付日記にあったように、巨大資本によるラジオ局の買収競争の影響が、小生のラジオ生活にも微妙に影を落としつつあります。

小生に直接影響しているのは、クリアチャンネルとCBS Radioですね。

アメリカのラジオが大好きな小生は、地上波で進駐軍放送(FENAFNのことです)しか選択がなかった少年時代に比べ、ストリーミングでいろいろなフォーマットのラジオ局がオンタイムで聴けるようになったインターネットの普及には感謝しているのですが。

おそらく一番多くの局を買い占めていて、ストリーミングの方式を統一しているクリアチャンネルが、アメリカ国外への配信をシャットアウトしてしまい、かなりの数のお気に入りだった局が聴けなくなってしまったのは以前書いたとおり。

それでもインターネットではどんな分野でもありそうな話ですが、「裏サイト」(そんないかがわしいものではありませんが)があって、クリアチャンネル支配下の局も国外から聴けるようにしてくれていました。ところが敵もさる者、クリアチャンネル側もある日突然ストリーミングの方式を一斉に変更してそういうサイトへの嫌がらせをしたり、またそのサイトもその新方式に対応するように変更してくれたり、そういう鼬ごっこが数ヶ月ごとに起こっていました。現在では、クリアチャンネル支配下局は全てではありませんがそのサイトのお陰で大部分聴けるようになっていて、一応安心しています(関心のある方は小生に御一報下されば、その裏道をお教えいたします)。

大物DJになりますと各局ではなくこの「親会社」と契約する形式があるようで、小林克也、ウルフマンジャックらと並ぶ小生の少年時代からのラジオヒーロー、今でも現役のチャーリー・ツナですが、去年の春までこのクリアチャンネル傘下にあるロサンゼルスKBIGという局の月金朝の帯を担当していましたが、このKBIGがトップ40からHOT ACにフォーマットを変更したとき(フォーマット変更は珍しくない話で、この程度なら可愛いほうです。昨日までソフトACを流していた局が日が明けていきなりDJ全員スペイン語になってラテン専門局になったりする)、KBIGからは降板しましたが、まだクリアチャンネルとの契約期間が残っているという理由から何ヶ月もラジオに登場しない空白の時期がありましたが、現在はCBS Radio配下、やはりLAの名門60年代オールディーズ専門局K-EARTHに移籍し、土日の朝(日本時間では日月早朝)時間帯を担当しています。

そのCBS Radio,クリアチャンネルほど阿漕なことはやっておらず、その傘下局は日本にいても何も問題なく聴けるのですが、最近やはり不気味に手を広げつつあります。

なんと、ヤフーのラジオ部門を買収してしまいました。

それまでのヤフーのラジオとは、ジャンル別、アーティスト別に無数のホームページ形式ラジオ局があり、またユーザーも自分の好みのジャンル、アーティスト、アルバム、曲に得点を入力していくことによって、その結果によって好みのタイプの曲を自動的に選曲してくれる、自分だけのラジオ局をカスタマイズで持てる、といううれしいサービスがあったのです。

小生も、IDを二つ持って、ロックっぽい選曲のやつと、R&Bっぽい選曲のやつ、二つ局を持っていて、「遺失物移管所」サイトにも貼り付けていました。世界中の音楽ファンがこのサービスを利用し、想像つかないほどの数のネット上仮想ラジオ局があったのでしょう。

ところが、この買収劇の結果、パーソナル局のサービスが一瞬にして消えてしまいました。
 現在はヤフーとCBSとの交渉で、CBSはヤフーに倣って、それまでなかったジャンル、テーマ別のノンDJ局を作って代替に近づけようとしてはいますが。

自分の好みでカスタマイズできるラジオ局の楽しさには遠く及ばない。自分のテイストに近い曲が、次に何がかかるのか予想できないまま流れてくるのは仕事中、遊び中のBGMとしては最高でした。これがなくなってしまったことは本当に痛い。

また、似たようなサービスをしていたFinetunesという音楽SNSもありましたが、これもほぼ同時期に自分の選曲リスト(「局」に相当します)を新たに作ったり新たな曲やアーティストを加えたりすることができなくなりました。その時点以前に作った選曲リストによるランダムプレイは残されており、そういうわけでもう更新はできませんが機能はしています。これも小生のサイトに貼り付けてありますからBGMにどうぞ。

これらはラジオ業界に巨大資本の手が伸びてきているというよりは音楽の著作権から発生した問題かもしれませんが。いずれにしろ裏で得体の知れぬ巨大な力が動いていることは想像に難くないわけで。

最近のベストヒットも、R&R誌社がビルボードに買収された2年前から予想されていたことですが、番組開始以来四分の一世紀以上名物だった、「有名な業界誌、ラジオアンドレコーズのチャート」のコールができなくなったのは寂しいですね。

克也さんは、アメリカから地方色を持ったラジオが消えてしまうのではないか、と悲観的なご様子ですが。

確かに、そういう巨大資本の影響からか、地方のオリジナル番組やCMスポットはどんどん減っていき、シンジケート番組がどんどん幅を利かせているようです。例えばACフォーマットの局では全国的に月金の夜5時間(日本だと朝になります)、一様にデライラというおばさんの番組をやっていて、リスナーと電話で結んで「あの人に贈りたいfrom me to you」リクエストみたいなことをACの曲で延々とやっています。この時間帯、どこの局にチューンしてもそれをやっているんです。このデライラという人、それ自体は悪いことではないのですが、彼女自身が多くの孤児の里親になっていて、ラジオを通じて孤児救済運動をやっているような人で、ちょっと宗教がかっていて、どうもテイストに合わないので、ACフォーマット局は嫌いではないのですがこの時間帯だけは避けています。
 確かにラジオは変化するでしょう。

そのようなラジオの「全国化」にあわせて、小生のように海外でPCで聴いたり、アメリカ国内でもPDA,スマートフォン、iPodなどでこれらのストリーミングを受信する人たちが少しずつ増えている。

それでも、アメリカの本質は日本の25倍ある広大な田舎で、その田舎に住んでいてこのオバマ政権のご時勢でも共和党を支持している人たちは、相変わらずトラックのカーラジオで地元の出力の弱い局からカントリーやオールディーズを聴いているのだと思います。

そういうアメリカが半分残っている限り、古きよきラジオのスタイルは不変だと思いますが、どうでしょうか。克也さん。

アメリカのラジオ業界の「歴史的」変化について、実はもう一つ書かなければならないことがあるのですが、また長くなってきたので次回に回します。なぜタイトルがSaturday in the Parkなのかの種明かしもそちらでしますね。

87日、お盆の帰省を利用して上京、またまたファンキーなスタジオにご挨拶、お邪魔してしまいました。銀座ファンキーズの皆様、またまたご迷惑をおかけしましたが、楽しい時間をすごさせていただきありがとうございました。いろいろ大変なことのあった日でしたが(813日付克也さんの日記参照)、愚息をカンカンクイズの子供鼻歌に出演させてくださりありがとうございました。Queen”We Will Rock You”だと正解を出してくださった方、ありがとうございました。

リスナーの投稿では「ロートルズ」とか「ローガンズ」とか無茶苦茶言われていましたが、実際は平均年齢はすごく低く、エネルギーに満ちて仕事に燃えている人たちばかりですよ。リスナーの皆さん、もっとスタッフの人たちに敬意を払いましょう。もちろん、克也さんにも。

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名古屋土産の名物(?)手羽先パイ。評判はどうだったかな?ビートルズ「青盤」の裏ジャケとのコントラストがなんともいい味を出しています。

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愚息と孫みたいに遊んでくれた克也さん。偶然にも服の色が同じ空色だった(その次週放送のベストヒットでも着ていらっしゃいましたねえ)。長丁場でお疲れの克也さんを、指圧マッサージのいろはを少し「門前の小僧」でやった小生が失礼して。思いっきりツボを外してしまい苦痛を通り越してアヘアへ顔になってしまった克也さん。腕に隠れてしまいましたが小生のファンキーオッパイTシャツにもご注目ください。

*2010年4月現在、CBSも傘下の一部の局の海外に向けてのストリーミングをブロックし始めました。

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2009年4月 7日 (火)

Open Arms

あら、珍しい。 

なんとメジャーで分かりやすいタイトルでしょう?!

まあ、いろいろなことに引っ掛けてあります。お楽しみに。

まずはご想像通り、ジャーニーのあの曲のこと。

前の記事でも書いたとおり、ちょっとブランクがあっていろいろ報告しなければいけないことがあって、順番が前後してしまいますが、こっちは時間的には近いほう。

 そのジャーニーのライヴ報告です。

 ベストヒットにも節目節目に出演多し、80年代の産業ロックの王道を辿った彼ら。

 80年代末の活動停止以来、分派がバッド・イングリッシュを作ったり、90年代は数度の企画的な再結成を経て、くっついたり離れたり。

 しかしまたここ数年の活動再開は本気のようです。

 全盛期からのメンバーは、ギターのニール・ショーン、キーボードのジョナサン・ケイン、ベースのロス・バロリー、これにニール、ジョナサンとはバッド・イングリッシュ以来の付き合いのディーン・カストロノヴォがドラム。

 そして今回の話題は、新リードヴォーカルのアーネル・ピネダ。

 フィリピンから新加入しました。

 そのためか、というかそれ以外に理由がないのですが、観客にフィリピーノ、フィリピーナが多かったこと。観客席からフィリピン国旗を大弾幕で広げたり。開始前のロビーでもタガログ語が飛び交う(ちなみに小生、タガログ語、タイ語、ほんのちょっと分かります。なぜでしょう?深い意味はありませんが。名誉のために言っておきますと、スペイン語、ロシア語はそれ以上に分かります。フランス語ドイツ語全然ダメ。クリスティナ・アギレラのあの曲程度)、記念写真をパチパチ。

 ちなみにフィリピンという国の音楽事情、暇があったら詳しく調べてみたいのですが、その暇というやつがないのが口惜しい。ひょっとしたらフィリピンは、日本以上に日本的な「おしゃれ洋楽」が好きな国のようです。

ボーン・フォー・ユー~ヒズ・ベスト&モア#紙ジャケット仕様#

 デヴィッド・ポメランツという人がいます。70年代ちょっと活躍したシンガーソングライター、しかし実際にはアメリカではソングライターとしてのみ捉えられていた人で、バリー・マニロウのヒット曲、”Trying to Get the Feeling Again”, “The Old Songs”なんかの作者です。

If I Should Love Again

 これらの曲、デヴィッドもレコードを出しますが、本国アメリカでは全然売れなかった。

 日本では、”The Old Songs”に関して、前長野県知事、現参議院議員のあのお方の処女作「なんとなくクリスタル」でポール・デイヴィスと共に取り上げられたり、また10年くらい前でしょうか、主演は草彅剛、瀬戸朝香で、ドラマ名をはっきり憶えていませんが「見合い結婚」だったかな、そこで剛君の好きなレコードとして毎回出ていてストーリーの横糸に使われたりして、知る人ぞ知る存在でした。

 その程度の人だったのですが、このデヴィッド・ポメランツのレコードはなぜかフィリピンだけでバカ売れしました。そこで彼自身、もう完全にフィリピンに移住しちゃって、録音もライヴも全てフィリピンのミュージシャンと活動しています。

I'd Really Like to See You Tonight and Other Hits

 これまた70年代に活躍した、爽やか系ポップスで「秋風の恋」などヒット曲も多かった男性デュエット、イングランド・ダン&ジョン・フォード・コーリー。

 これも90年代後半になってフィリピンでブームと呼ばれたくらいCDが異常な売り上げをして、30年近く音楽から身を引いて宗教活動をしていたジョン・フォード・コーリーが復活して、彼の場合移住までは至っていませんが毎年フィリピンでライヴをして、フィリピン向けのアンソロジーCDが発売されたりしています。ちなみに相方のイングランド・ダンことダン・シールズは、カントリーに転向して成功するなど音楽活動は続けていて、彼は「想い出のサマー・ブリーズ」などの大ヒットがある、もう一つの男性デュオ、シールズ&クロフツのジム・シールズの実弟なのですが、現在はその兄弟がSeals & Sealsとしてデュエットで活動しています。

 まあ、そんなことから、フィリピンというのは不思議な音楽志向性を持っていて、オシャレポップスが日本以上に受ける国だという想像ができるのですが。

 閑話休題。ジャーニーに話を戻します。

 スティーヴ・ペリーとは完全に決別、00年代前半の再結成企画ではペリーに声質に似た別のスティーヴが参加しましたが彼も体調不良を起こした。そこで新たなヴォーカルを物色していたニール・ショーン。たまたまYouTubeをサーフィンしていたら、フィリピンのライブハウスでスティーヴ・ペリーそっくりにジャーニーの曲を歌っている男の映像に出くわした。それがアーネルだった。ニールは早速メールでアーネルにコンタクトを取ろうとしたが、アーネルは最初、悪質ないたずらだと思って返事をしなかった。ところが周囲の人たちが返事だけでも出してみたら、と強く勧められたのでレスを送ってみたら、今度はニールに加えて、ジョナサン、ロスからもメールが返ってきたので、本物だと分かった。本当に、「あの」ジャーニーから加入を打診されているのだ、と。

 そんな、インターネット時代ならではの国境に穴を開けたシンデレラストリー。

 彼は母親を無くしたばかりで、今の自分の成功した姿を人目見せてやりたかった、という。第三世界の国にありがちですが、フィリピンも物凄く貧富の差が大きい格差社会で、実はアーネルはこんな運命のいたずらでもなければ下のほうの階級で場末のバーで歌っていたのでしょう。

 サンフランシスコ・ベイエリアをベースにしていたバンドにフィリピン人が入ってくる。

 いいじゃありませんか。

 以前書きましたが、僕はオバマ大統領を単なる黒人の大統領としてではなく、多民族社会アメリカの象徴として登場したのだと考えています。それとおなじことじゃないですか。異文化人を大きく「両腕を広げて」迎え入れたわけですから。

 それでとにかく、ご存知かもしれませんが、アーネルの声はスティーヴ・ペリーのそれにそっくりです。

 ルックスも似せようと長髪にしています。ただ、背は小さいですね。スティーヴは80年代の全盛期は長身に長いコートテールで「茶羽ゴキブリ」と一部であだ名されていましたが、長髪、小柄でちょこまか動くアーネルで、小生は、最初のシリーズの頃の20台の「金八先生」を思い出してしまいました。でも彼、実は既に40の大台を過ぎていて、つまり小生と殆ど変わらないんですよね。ニール、ジョナサンたちこそ今までジャーニーの名前を背負ってきたのに、ステージ上では無言で演奏に徹して、MCも盛り上げもアーネルに任せて、すでに信頼を得ている感じでした。

Journey_setlist

 今回も幸運にもミキサーさんからセットリストを頂きました。

REVELATION

ジャーニーの最新CD ”Revelation”は二枚組で、一枚目は新曲、二枚目は80年代のヒット曲をベスト盤形式で選曲し、アーネルをフィーチャーした再録音。その中から去年、一番ヒットした曲は”After All These Years”という、”Faithfully”を焼き直したようなロックバラードだったのですが(ちなみに先ほどの、ニール・ショーンがYouTubeでアーネルを発見したときの動画は、”Faithfully”を歌っていたものだったらしい。でも今回のライヴではその一曲だけ、ドラムのディーンがリードヴォーカルを取っていました)、その曲も演られず、80年代のおなじみの曲6割、ニューアルバムからの新曲4割という感じでしたが、ハードロック色を強く出そうとしていたように感じられました。

Frontiers

 ニューアルバムの1曲目でもある”Never Walk Away”から始まり、全盛期の後期の曲に怒涛のメドレーで続く。ちょこまか動くアーネルは前列席で手を伸ばす聴衆たちに、ウエーブを作るように右から左へと全員にハイタッチをしていく。バラードのヒット曲は、真ん中あたりの8曲目に”Lights” ”Still They Ride” をメドレーでやったり、それに続けて例の”Open Arms”に続けて、最後から2曲目に”Faithfully”を持ってきたり、要所要所でロックバラードを入れていましたが、例えばあの泣きの”Who’s Crying Now”なんかは演らなかったわけで全体的にハードな曲が中心の選曲、ニューアルバムからもそちらの方から、全体の中でも一番盛り上がったのはやっぱり”Separate Ways”,”Don’t Stop Believeing”など、”Escape”のアルバムからの曲でした。その当時、80年代初めのギターキッズたちのお手本となったニールの連符速弾きはいまだに健在と見ました。

Escape

 いい意味であまり自己主張をしそうでなく、つまりニールとあまり喧嘩しそうにない従順な、しかも全盛期の雰囲気を忠実に再現できる新たなフロントマンを得たことで、このジャーニーというグループ、もう少し長く続きそうだ、と感じました。

 

 もう一つの Open Arms

 43日放送のファンフラをお聴きになった方。克也さんに時々合いの手を入れていた子供の声に気づかれましたか?

 それは私の息子、阿南”Ricky”紀輝(のりき)8歳だったのです。

 春休みを利用して上京帰省し、金曜日が重なっていたので、銀座のスタジオに突然に親子でご挨拶、というかお邪魔しに行ってしまいました。いろいろ悪戯もしてご迷惑もおかけしました。でも放送事故には至らずほっとしています。大喜びで、「カンカン!」や「ブー!」に参加できた時ははしゃいでました(親も!?)

 放送でも、「君、小林克也の孫じゃないの?」とおっしゃってくださいましたが、本当に孫のようにゴム割り箸鉄砲で遊んでくださったり、感謝です。スタッフの皆様も、音に関係ない程度に機械をいじらせてくださったり、いい経験、思い出になったと思います。

 本当にありがとうございました。

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おやつを賭けてじゃんけんポン。愚息が負けましたがちゃんと分けて下さった御大でした。

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ちゃんと原田Dのお手伝いもしました。未知の世界に興味津々、でも御大のお邪魔にはならないように・・・

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突然お邪魔して失礼したにもかかわらず、「もろ手を広げて」歓待してくださった克也さんと銀座ファンキーズの皆様、ありがとうございました。お疲れ様でした。

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2008年11月25日 (火)

憧れのラジオガール

 ちょっと変則的ですが、一人時間差攻撃で別件入稿を簡単にさせていただきます。

 連載始めて3年以上、かつて一度だけ日本語のを表題に使ったことはありましたが、それ以外ずっと洋楽の曲を使ってきた。初めてJ-ポップの曲を使います。南佳孝さんの。

使わずにはいられません。

 半分、克也さんへの報告、言づて連絡になってしまうのですが。

 平瀬マミさん、憶えていらっしゃいますよね?

96年から98年にかけてZIP HOT 100の前番組、サンデー・スカイ・アイランドを担当していた、歌がものすごくうまい、あの女性。

 つい先日ひょんなことから再会してしまいました。といってもネット上だけの話なのですが。

 彼女の番組にもよく、ちょっと捻ったリクエスト投稿をしていたので、常連で名前を憶えてもらって、最終回には電話出演もさせてもらった思い出もあります。

 彼女、番組をやっていた頃からの遠距離恋愛(そうだったのか!チクショウ!)の彼と結婚し、お嬢さんも生まれて、幸せで元気そうです。

 なんと今、沖縄にいます。数年前から数度旅行して、沖縄の不思議な魅力に取り付かれて完全移住を決意されたとのこと。

 同時に、しばらく遠ざかっていた音楽活動も、沖縄でこそやるべきなんだと思い立ち、自主録音やライブ活動を精力的に再開したようです。

 そして今月から、地元のFM局で週2日、そのZIP以来のDJのレギュラー番組を始められました。

 彼女にとってDJRole Modelはあくまでも小林克也であり、克也さんとの思い出、慕情をブログに書くため、克也さんのホームページを探していたらここRADIOBAKAに辿り着いたそうです。そしてついでに、僕が以前、彼女に呼びかけていた原稿の痕跡を発見し、誰だろうと思って載せていたそうで。それで僕のほうの「期限切れ遺失物移管所」にアクセスが数回あり、逆探知して、全くご無沙汰だった彼女の近況を知ることになりました。早速彼女にメールを送り、そのコラムを書いた張本人は私です、お久しぶりです、お元気ですか?沖縄にいるなんてびっくり、てなことで、お互いの近況報告、情報交換が始まってしまいました。

 写真を拝見する限りあの頃と殆ど変わっていなくて、少しお母さんとしての落ち着きが加わった程度で、相変わらず魅力的ですね。可愛いお嬢さんと一緒の写真を見ていると、高校か大学の同窓会に行って、ちょっと好きだったあの娘に久しぶりに会ったら素敵なママになっていた、そんな甘酸っぱい気分に浸っています。

 僕のこともブログに記事にしてくれてありがとう。

 克也さんにくれぐれもよろしくとのことでした。克也さんもよかったら連絡を取ってやってください。きっと喜びますから。

 このサイトを沖縄からご覧になっている皆さん。今は、タグチマミさん、担当の、FM沖縄、毎週月曜と火曜、午後1時からのSouthern Stationという番組、僕が聴けない分も是非聴いてやってください。選曲リストを拝見した限りではかなりイケてる番組みたいですから。


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2008年8月20日 (水)

Still The One

シャナイヤ・トゥエインではありません。

前回も書いたように、私が東京ローカルの小林克也番組を聴ける機会があと半年で奪われてしまうかもしれないので、できるだけラジオ番組からネタを拾っていきたいと思います。

816日(プレスリーの命日でマドンナの誕生日でしたねえ)オンエアのDJ KOBYの、アメリカ大統領選挙と音楽AKA音楽の民主党大会、特集。

私の本職の専門に近いこともあり、ちょっとフォローをしておきます。

音楽界は圧倒的に民主党支持が多い。

ザ・ヴェリー・ベスト・オブ・シェリル・クロウ

民主党大会に参加予定のアーティストとしてシェリル・クロウが挙げられていましたが、もう一人、絶対に党大会に参加する、マイナーな人を紹介したいと思います。

というか、この人は音楽活動は細々と続けている程度、ミュージシャンとしての参加という位置づけではないでしょう。

しかし、70年代には名を馳せた人です。

ジョン・ホール。

70年代にオーリンズというグループのリーダーとして活躍した人です。

Let There Be Music / Waking & Dreaming

代表的なヒット曲もいくつかあり、今でもよくコンピレに選曲される75年の”Dance with Me”とか。この曲はジャズ・ギターのアール・クルーのカバーでもおなじみだと思います。あと79年の”Love Takes Time”とか(これも、マライヤではありません)。ソングライターとしてもシールズ&クロフツなどに曲を提供していました。

DANCE WITH ME - The Best of Orleans

最大のヒットは、76年の”Still the One”でした(こう並べてみると、タイトルは平凡なものばかり)。

ホールはメリーランド州の生まれ。ニューヨークを中心に東海岸で活躍したグループですが、当時全盛だったウエストコースとロックの波に乗っていました。

そしてホールは、グループ活動と並行してソロ活動も精力的で、更にはその西海岸の連中との社会、政治運動にも熱心に参加します。

ハイライトは、79年、核兵器廃絶、原子力発電反対を訴えるためのNo Nukes。会場はマディソン・スクエア・ガーデンでしたが、中心はドゥービー・ブラザーズ、ジャクソン・ブラウン、ポコ、クロスビー・スティルズ&ナッシュ、ボニー・レイット、ニコレット・ラーソンなどの西海岸の人たち、これに、ブルース・スプリングスティーン、ジェームス・テイラー、カーリー・サイモン、トム・ペティその他大勢が加わり、ウッドストック以来の最大の音楽イベントと言われました。

これにホールはソロの「パワー」と「プルトニウムは永遠だ」という二曲を演奏して参加していました。

このように、ミュージシャンの全盛期から政治社会問題に強い関心を持っていた人でした。

そのさっきの最大のヒット曲”Still the One”が再び脚光を浴びたのは前回の2004年大統領選挙の時。ブッシュ大統領が再選へのキャンペーンソングとしてその曲を使おうとしたんです。

「君はいまだに信頼できる、たった一人のひと、

 君はいまだに僕を飽きずにいさせる、たった一人のひと。。。」

再選に向けてのスローガンとしてはぴったりの内容の歌詞だったわけで、ブッシュ陣営が使いたがったのもよくわかるのですが。

作者のホールはこれを許可せず、ブッシュ陣営もキャンペーンの途中でこの曲を使用リストから外しました。

そしてその次の議会選挙の06年、ホール自身がニューヨーク州第19選挙区から、対立党の民主党から立候補、見事当選を果たしました。

自ら政治家に転身して議員一期生、やはりエネルギーに関する問題で最も活躍したようです。

その政治が本職となった彼、音楽もそこそこ続けていると書きましたが、例えばジャクソン・ブラウンがニューヨークでライブをした際にはゲスト出演して何曲か一緒に演ったようです。

下院議員ジョン・ホールは、superdelegate 特別代議員、すなわち、党大会で大統領候補に投票するために予備選挙で選出された一般の代議員とは別に、連邦議員や州知事など、現職の政治家が大統領候補選出に特別票を投じられる、その立場で党大会に参加するはずです。

でも演奏はしないんでしょうね。シェリル・クロウが来るなら一緒にステージに上がる可能性無きにしも非ずですが。

今年はご存知のように民主党の予備選挙は稀に見る接戦、対立候補に敬意を表し、代議員獲得数で次点だったヒラリー・クリントンも大統領候補の投票対象として残されることが決まりました。

ホールは、同じニューヨーク選出、06年には再選を目指したヒラリー上院議員とキャンペーンで一緒になったこともよくあり、エネルギー問題での立場が同じであることからも、ヒラリーに票を入れるのではないでしょうか。

さて、目を転じて共和党側。

DJ Koby内でもあったように、かつて1984年にレーガン大統領はブルース・スプリングスティーンに “Born in the USA”の使用を断られたり、今年のマケインは “Johnny B. Goode”の使用をチャック・ベリーから断られたり、また「当選後はホワイトハウスではABBAの音楽を流したい」発言に対しても元メンバーたちが懸念を表明しているようです。更には、既に何度か出てきたジャクソン・ブラウンまでも、マケイン陣営が彼のヒット曲”Running on Empty”を使用するのを差し止めたそうです。

Running on Empty

踏んだり蹴ったり。

では、共和党側を断らない音楽とは何でしょう?

Ultimate Survivor

「ロッキー3」のテーマ、Survivor “Eye of the Tiger”.これは予備選以前では本命視されながらも早期撤退した前ニューヨーク市長ジュリアーニ氏も、そしてマケインも使っていました。これは断られていないんでしょうね。

あと、ディクシー・チックスの対極にいたトビー・キースも断らないんじゃないかな。

Osmondmania! Osmond Family Greatest Hits

それから、オズモンズ。

あの家はモルモン教徒一家なんですね。

共和党の予備選挙で善戦したロムニー前マサチューセッツ州知事がモルモン教徒だったように、モルモン教徒は保守的で共和党の地盤のイメージが強い。

04年大統領選挙の直前に、モルモン教の総本山のユタ州の大学に、ブッシュの天敵、マイケル・ムーアが講演に行くことになり、その日に至るまでの顛末、町民の反対運動、そのまた反対運動、の様子をドキュメンタリーした「マイケル・ムーアのアホでマヌケな大統領選」という映画がありました。DVDでぜひどうぞ。

かつては一夫多妻制をとっていて迫害を受けていたものの、清廉なイメージもある。婚前交渉も認められない。

「マリー・オズモンドのLPレコードをターンテーブルに乗せようとしたら、なかなか穴がはまらなくて。無理やりはめたら、血が滲み出てきた」なんて、卑猥で、笑っていいんだか悪いんだかわからないジョークも昔ありました。

オズモンズ、レーガン大統領の就任式では大活躍でした。マケインも使ってはいかが?ABBAあたりがお好きなら丁度いいのでは?

いや、マケインは共和党内でも中道やや左で党内の保守派とはうまく行っていないようだから、逆にオズモンズあたりには嫌われているのかな?

さて、11月にはどちらが勝つでしょう。

予想はしません。結果が出てからその理由を説明するのが学者の仕事ですから(と、狡い逃げをする)。

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2008年8月 7日 (木)

Video Kills a Radio Star

The Age of Plastic

  何をいまさらこの曲を、という感じですが。

 またこの曲を思い出してしまう出来事がありました。

 MTVの開局第一発目を飾ったあの曲。

 音楽と映像が融合する時代の幕開けを象徴したような曲でありました。

 それからおよそ四半世紀、音楽にビデオが付いてくるのは当たり前、でも、ラジオという昔ながらのメディアは残っている。

 それでも、様々な技術が発達し、同じ機能を果たすはずのメディアも複数の方向に枝分かれし、その中で競合が生じ、適者生存、広く受け入れられたものは興隆し、それに失敗したものは消えていく。

 「せっかくのハイビジョンなのにブルーレイ使ってないの?もったいない。ヤザワ、ブルーレイ使ってます」

 次世代DVDの規格争いでHD-DVD方式が敗北を認めて撤退し、ソニーが中心に推進したブルーレイ方式が標準規格化して、これからの目玉として注目されるに至った、というのは記憶に新しい。

 旧型(?)の4.7GBのメディアに十分満足している私の目には、次世代DVDを巡る争いは醜く映り、泥仕合になって消費者から見捨てられて両方とも潰れてしまえ、と思っていたのですが。そうはならないようです。

 しかし、ブルーレイといっても、これから高画質映像の配信、保存方法がディスクだけに一元化されず、多様化してくるとの予想があり、うかうかもしていられないようです。

 現在、音楽CDソフトが有料配信のために苦戦しているように。

 そして今週、マイナーなニュースですが、私にとってはショックな情報が飛び込んできました。これも一つのメディアの消滅です。

 通信衛星ラジオ放送 モバHo! が来年3月でサービスを全面停止してしまうという。

 スカパー!のラジオ版といったところでしたか。「ラジオ局を持ち運ぼう」をキャッチフレーズに、テレビ放送も若干扱っていましたが、ラジオに限っていえば、目的や音楽のジャンルに特化したチャンネルが50くらい、USENのように固定した場所ではなくモバイルで持ち運べる、日本全国どこでも同じ放送が聴ける、が売りのサービスでした。

 開始が200410月。

 私はこれの受信機能を持つ携帯電話に買い換えて以来14ヶ月お付き合い。

 しかし、その受信契約に踏み切ったひとつの大きな理由であった「小林克也チャンネル」がその3ヵ月後、077月に消滅してしまった。

 そして今回の決定。

 開始からわずか5年での完全撤退。

 当初は加入契約者数200万人を目指していたのが、現時点で10万人に留まってしまっているという。小生はその希少な10万人のうちの一人というわけですな。

 伸び悩んだ最大の原因は、ワンセグとの競合であったという。

もうケータイの標準装備機能となりつつあるワンセグ。

駅のフォームに腰掛けてテレビを見ている人の姿が珍しくなくなりました。

 僕自身は、あんな小さな画面でテレビを見て面白いのかなあと思っていて、ケータイには備え付けてはありませんが、それでもどこにでも持ち歩いているB5ノートパソコンには入れてあって、移動中、出張中でも見られるようにしてあります。

 そのワンセグの強みは、無料であること。それに対して受信料が発生するモバHoは圧倒されてしまったという。

 それに、「ラジオ局を持ち歩こう」といって、ドライヴ中のBGMとしての需要を見込んでいたようだが、それもCDオーディオシステムや、iPodから無線でカーオーディオに飛ばせる機能が搭載されていれば、それに取って代わる要素も持っていなかった、ということなのだろう。

 しかし、ちょっと待ってくれ。

 何かがなくなる際に必ずある議論であるが、たとえ少数であるにせよ、それに特別な価値を見出して利用しているユーザーが必ずいる。

 モバHoとワンセグが競合したのは、アウトドアでの暇潰し(?)映像メディア視聴という点のみであり、提供していたコンテンツはまったく別物であったはずである。

 かく言う私は、TFMJ-Waveが名古屋にいながら聴けることが最大の利用目的であった。そういった、自分が住んでいる地域の地上波では聴けない局が聴けることを喜んで利用していたユーザーは少なくないのではないだろうか。

 克也さんが名古屋を去った後、この連載のネタ探しに七転八倒している私としては、東京ローカルの番組が聴けるこのサービスは救いの神だったのだ(その割にはあまりネタにしていなかったような気もするが)。

 それがまた元の木阿弥に戻ってしまう。

 「小林克也チャンネル」が無くなったあたりから雲行きが怪しくなっていたのをなんとなく感じていたのですが。

 メディアに限らず、マクロの市場原理で淘汰される消費財の特殊機能に依存していた少数派が切り捨てられるのは世の常とはわかりつつ。

 映像メディア=Videoが、また、音声メディア=Radio を殺した。

 来年の春まで、USENを含めて、ほかに東京のラジオ局が聴取できるサービスがないか、いろいろ探っていくしかないようだ。

 その前に来年3月までのDJ Koby’Radio Showと「ポップ・ミュージック・マスター」は聞き逃さないようにしよう。

 克也さん、大橋さん、首都圏以外からリクエストが来ていたら、できるだけ採用してやってくださ100_0001いね。

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2007年12月26日 (水)

Same Old Lang Syne

クリスマス特番おつかれさまでした。

子供の相手もしなければならなかったし(選曲もNHK的に普通だと思ってしまったので)全ては聴けませんでした。すみません。

克也さんが番組内でおっしゃっていた、「世界が宗教だなんだで争っている現在、日本の、盆も正月もクリスマスもバレンタインも一緒に盛り上がる無宗教性、よく言えば縁起物ならなんでも受け入れる度量の大きさ、悪く言えばいい加減さは、今の世界に新しいモデルとしてもっと発信してもいいんじゃないか」という発言、あれは私の、911同時多発テロのあった2001年のクリスマスの時期の番組への投稿ネタですね。あの時のZIP HOT 100のオープニングトークでは、街のクリスマスの盛り上がりに、日本には元来関係ないお祭りのはず、騒ぎすぎ、みたいなことをおっしゃって(私も実はその部分には賛成なのですが)、それへの反論として書いた覚えがありますから、小生の考え方に同調してくださったのですね。光栄です。

前回、亡くなってしまったアイク・ターナーに関する徒然を綴り、そうしている瞬間にもまた惜しまれるアーティストの訃報が届いた、と書きましたが、やはりその人に関して一言申し上げて、本年最後のお勤めとさせていただきましょう。

ダン・フォーゲルバーグ。1216日逝去。享年51歳。若すぎる。

1956年イリノイ州ピオリア生まれ。

ちなみに話は全く外れますが、このピオリアという町だか村だか、何もないところなんですけど、なぜか最もアメリカらしい平均的な町の代表格として会話に用いられることがあります。

1973年、ウォーターゲート疑惑の真っ最中。ニクソン大統領は大統領執務室での会話を全て録音しており、それが大陪審の命令により、ニクソンが大統領特権で拒否した部分を除いて部分的に公開されました。その中でニクソンがこのピオリアという町の名前をやたら出していました。私がこういう発言をしたり、こういう政策を発表したらピオリアの人たちはどう思うだろうか、云々。

当時、A新聞ワシントン特派員だった筑紫哲也さん。いったいこの町に何があるんだろうと思って地図を広げて探してみたら、シカゴの近くにある何の変哲もなさそうな町。意外な感じもしたが、それでもニクソンがそれだけ言うのだからきっと何かあるに違いないと思い、ある日思い立って行ってみたら、やっぱり小麦畑しかないなんてことのないところだった。

結局のところ、大家族、農業、信仰心の深さなど古き良き時代の典型的なアメリカのライフスタイルを残していて、最も平均的でつまらない場所、しかし政治的には面積は広く人口も多く無視はできない中西部という地域を、何かのきっかけでこのピオリアという町がアメリカ英語で代表するようになったのではないか、ということでした。

筑紫さんも早くもっと元気になって完全復帰してくださいね。

閑話休題。

その最も平均的にアメリカ的な町で生まれたダンは、一言で言えば、男性版ジョニ・ミッチェル、とでも言ったらいいようなアーティストに成長しました。

彼は先ず画家を目指し、イリノイ大学に行っても絵画を専攻します。ミュージシャンになった後もアルバムの表ジャケ、裏ジャケ、中ジャケのどこかには彼自身が描いた絵を見ることができた。これもジョニそっくり。

しかし同時に、ギターを中心に、ピアノも、ヴォーカルも出来るマルチプレイヤーとしても才能を発揮し、大学時代から音楽活動を始めます。しかも叙情的で内政的な詩を多く書く。

ホーム・フリー(紙ジャケット仕様)

72年のデビューアルバム「ホームフリー」は、ローリングストーン誌のレビューで「まるで一人でクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング(CSN&Y)をやっているようだ」と絶賛されました。

それはまだ彼が10代の頃に書いた曲の数々だったはず、ところが、例えばそのデビューアルバムの最後の収録曲「リバー」など、「僕の人生は心の痛みで流れる涙の川」なんてリフレインが続く、まるでこれから死んでしまうような、既にベテランの域に達していたような音作りでした。

Souvenirs

74年の二枚目のアルバム「アメリカの思い出」はまだイーグルスに加わる前のジョー・ウォルシュがプロデュース、ドン・ヘンリーやグレン・フライ、アメリカのジェリー・べックリー、そしてそのCSN&Yのグラハム・ナッシュなど有名どころがゲスト参加するようになり、「パート・オヴ・ザ・プラン」という最初のヒットも出て、西海岸サウンドを担うシンガーソングライターの一人として認められました。

ツイン・サンズ・オブ・ディファレント・マザーズ

78年には、ジャズフルート奏者のティム・ワイズバーグとの競演で、収録曲がほとんどインストロメンタルで、ウエストコーストロックとジャズの融合を目指した斬新なアルバムを発表します。タイトルがTwin Sons of Different Mothers(異母双生児)だって。ちなみにこの二人はその20年後にその続編のアルバムを発表しますが、その時のタイトルはNo Resemblance Whatsoever(顔は全く似ていない)で、笑ってしまいました。結構、二人とも馬面で似ていたのですが。更にちなみにやっぱりこの二人、名前からしてユダヤ系つながりだったんでしょうね。

Phoenix

日本で何かのテレビCMに使われた「ロンガー」、79年の「フェニックス」というアルバムから、そして81年の二枚組「イノセント・エイジ」あたりから大ヒットを連発するようになり、地位を不動のものとします。

イノセント・エイジ

「一歩間違えればさだまさし」と言った人がいるとかいないとか。アコースティックギターを基調とする、フォークロックが中心、それでも美しさの中に時に力強さも感じさせる、最後までスタイルを買えずに貫いた人でした。ライフスタイルも都会を嫌い、普段はコロラドの田舎にずっと引っ込んでいた人でした。環境保全や、原住民(インディアンですね)の文化の保護に関しても活動していました。

それでも、84年、「ランゲージ・オヴ・ラヴ」という曲で初めてビデオクリップを作って、ベストヒットで流れたときにはびっくりしました。彼はそういうことはやらないと思ってた。時代には勝てなかったのでしょう。

Windows and Walls

15年前にライヴを記録したDVDの中のインタで、「20年後も僕は変わっていないと思う。音楽と自然を愛せたことに感謝したい」と言っていた彼、その20年後を見ずに逝ってしまいましたが、その言葉通りの人生でした。

Live - Greetings From the West

Same Old Lang Syne「懐かしき恋人の歌」。そのイノセント・エイジから、彼にとっては「ロンガー」に次ぐ大ヒットでした。クリスマスイブに偶然昔の恋人と再会した、今は成功したミュージシャンの歌。おそらく彼の実体験でしょう。曲の最後に、トム・スコットのサックスソロで「蛍の光」のメロディが流れます。年末に発売されましたが単なるクリスマスソングの枠を超えたヒットになりました。「蛍の光」は Auld Lang Syne, 今の英語に直すとold long agoということで、そして、いつもながらの、という same old…を引っ掛けたタイトルになっています。

また、「蛍の光」の時期です。

克也さんご自身と並んでこのコーナーの最古参、この場を借りてこの言葉を言えるのが三回目。奇跡的に思えます。今年は自分も体調を崩して(ネタにも困って)穴を開けることもありましたが、お許しのいただける限りがんばりたいと思います。

「皆様、よいお年を!」

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2007年11月 5日 (月)

Sweet Baby James (part 1?)

Sweet Baby James

113日のDJ KOBYでアーカイヴされたジェームス・テイラー。

僕も大好きなアーティストなので思い入れはいろいろあるのですが。

まず、番組内でとんでもないポカがありましたのでそこからフォローしておきましょう。

ジェームス・テイラーがソロのシンガー・ソングライターとして大成功する以前に、幼馴染で、70年代の西海岸のスタジオで欠かせない存在となるダニー・コーチマーなんかと結成していたバンドが「フライング・マシーン」。

 一曲目にかかった彼の最初のヒット曲 Fire and Rainの中にも “sweet dreams and flying machines and pieces on the ground”なんて一節が出てくるくらいです。

Flying_machine_flight_recorder  そこでかかったのが、「フライング・マシーン」の “Smile a Little Smile for Me (Rosemary)” 邦題「笑ってローズマリーちゃん」。

 ところが、この「フライング・マシーン」は、ジェームス・テイラーのいた「フライング・マシーン」とは全く関係ないのです。

 確かにややこしくてよく間違える人がいるのですが、やってしまいましたね。

 「笑ってローズマリーちゃん」の方は、イギリスのグループですが、イギリス本国ではヒットせず、196911月にトップ10入り、そして日本でも70年代初め、いわゆる「洋楽ヒット」として大ヒットしました。

 これはこの当時流行っていた、録音のためにスタジオミュージシャンを集めた、実体のない幽霊グループの一つだったんです。ショッキング・ブルー、トニー・オーランド&ドーンも最初はそうでした。

 背後に、「ローズマリーちゃん」の作者であるトニー・マコーリーという大物がいました。

 この前後にも、Foundations “Build Me Up Buttercup”とか5th Dimension “Last Night I didn’t Get to Sleep at All”とか、「刑事スタスキー&ハッチ」をちょっと取り上げた時にも書きましたが、ハッチ刑事役のデヴィッド・ソウの「安らぎの季節」”Don’t Give Up on Us”とか、良質の本流ポップスを書いてヒットをいっぱい出していた人でありました。

 そのマコーリーが「ローズマリーちゃん」を演奏させるために集めた幽霊グループだったんです。

 ちなみにマコーリーはその次の仕事として、エディソン・ライトハウスという、やはり実体のないグループをでっち上げます。

 そのグループは70年に「恋の炎」”Love Grows (Where My Rosemary Goes)”という大ヒットを放ちます。ここにも「ローズマリーちゃん」が出てきていて、「笑って」の続編とも言えました。

 日本では、ベイシティ・ローラーズに3ヶ月だけいたけど、若さとはにかみで人気のあったパット・マッグリンがカバーしたことでも有名ではないでしょうか。

Tony_burrows_love_grows  このエディソン・ライトハウスでリードヴォーカルをとったのが、トニー・バロウズというスタジオシンガーで、この人はその後、この手の幽霊グループプロジェクトを渡り歩き、70年代のヒットチャートで、最も多くの異なるグループのリードヴォーカルでヒットを飛ばしたシンガー、という珍記録を作ることになります。

 エディソン・ライトハウス「恋の炎」に続いて、Brotherhood of Man の”United We Stand”。「ともに立ち上がれ」という曲、911同時多発テロの直後にも、よくラジオで流されました。

 他に、White Plains “My Baby Loves Loving” Pipkins “Gimmie Dat Ding”など。

 そしてもう一つ有名なのはファースト・クラスという幽霊グループの「ビーチ・ベイビー」。74年に突然現れたビーチ・ボーイズのパロディバンドという感じでした。

「ビーチ・ベイビー」の間奏のホーンセクションは、85年の、Strawberry Switchblade “Since Yesterday”の中でパクられています。

Bay_city_rollers_dedication  10年くらい前に、バハ・メンがカバーしてました。

 このように、本流ポップスを産業的に売るために作られ続けた一連の幽霊グループプロジェクトでしたが、この延長線上にベイシティ・ローラーズがいたのではないか、つまり、レコードでの演奏はスタジオミュージシャンがやり、客の前ではかわいい男の子たちが演奏しているフリをして女の子たちをキャーキャー言わせる、そんな流れが次に作られたのではないか、と個人的に分析しています。

James_taylor_and_the_original_flyin  ジェームス・テイラーの方のフライング・マシーンは、James Taylor & the “Original” Flying Machine”としてCDが再発されています。

 ジェームス・テイラーの話のはずだったのが大きく外れてしまいました。ジェームスに関する話題はまだまだ続きそうな気配ですので今回はこの辺で。

 TFMの大橋さん、プロフェッサー・ハリーって私のことですよー(*)

(*)11月第一週の「小林時々日記」より

11月は余分な仕事や遊びのスケジュールが入っててかなり忙しいので、
それに備えてちょっとだけラジオの「貯め録り」。
ふだんより多めのリクエストを紹介した。
TFMの大橋ディレクターが、
この人よくメールがくるんだけど、マニアですよねぇ、
でもツボをこころえてるんですよ、いい所へ球を投げてくるんで、
2回目だけどこの曲かけちゃいますかぁ?
名前を見ると「プロフェッサー・ハリー」、阿南東也だ。
ハハーン、名古屋にいるのによくチェックしてるなぁと
ちょっと嬉しい気分だったが、
日本有数のポップス博士だと彼には説明しなかった。
どうしてそんなエライ人がリクエストなんかしてくるんだ?とかきいてくるにきまってる。
だってどう答える?
「エライけど軽いんだ」?
プロフェッサー・ハリーのことは次回大橋君と飲みに行った時のネタにしよう。

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2007年10月 5日 (金)

Rich Girl

この夏のヒットチャートを見ますと、僕はまだ現在の音楽をフォローしているほうでびっくりはしなかったですが、僕の(あるいはそれ以上の)世代の人が曲を聴かずにタイトルだけ見た場合、あれ、と思うような曲が少なくとも二つありました。Big Girls Don't Cry

Frankie_valli_4_seasons_anthology             

 一つはファーギーの”Big Girls Don’t Cry”.

  “Big Girls Don’t Cry”と聞けば、古いポップスファンが思い出すのはフランキー・ヴァリ&フォー・シーズンスの63年の大ヒット。

  ケーシー・ケイサムの番組では聴き比べをやってましたが、ほとんど半世紀の差は凄いですね。フランキーのファルセットに、単純なリズムと一発録りの粗さ。

Gwen_stephani_love_angel_music_baby  そしてもう一つが、グェン・ステファニの”Rich Girl”

 “Rich Girl”といえば80年代以降の人でもホール&オーツを思い出すんじゃないでしょうか?

 929日のDJ KOBYでもアーカイヴされたことですし、ちょっとリッチガールを掘り下げてみましょう。

 それでもこれは77年ですからもう30年前で、彼らにとって最初のDaryl_hall_john_oates_bigger_than_b ナンバー1ヒット。

 それ以前の”She’s Gone”, “Sara,Smile”みたいなモロブルー・アイド・ソウルから、70年代後半のポップな音作り、そして80年代、やりたいことを何でもやって大ブレイクするまでの狭間にあった感じでした。

Daryl_hall_john_oates_along_the_red  70年代後半、デヴィッド・フォスターをプロデューサーに向かえポップになっていく、彼らはこの時期を「失敗だった」と振り返ったそうですが。

 実は「リッチガール」と同じ77年にダリルはソロアルバムを作っていて、それがロバート・フリップのプロデュースでニュー・ウェーヴっぽくて、それまでフィラデルフィア・ソウルやブルー・アイDaryl_hall_sacred_songs ド・ソウルの流れで売っていたホール&オーツとあまりにもイメージがかけ離れているのでお蔵入りになってしまった。それでそのソロアルバムを出してもびっくりされないように、ホール&オーツとして徐々にポップロック色を強めたアルバムを出し続けて、それで80年、そのソロは「セイクリッド・ソングス」として日の目を見た。

 だとしたら、「失敗だった」といわれる前に「あの時期は一体なん だったんだ?」と思わずにはいられません。その時期の彼らが結構好きだった自分としては尚更です。Voices

 さて、その「リッチガール」には、一つの解釈、というか、この曲が大ヒットしたとき、かなりのアメリカ人が、「あの事件」のことを歌っているのだと思った、というのがあります。

 「パトリシア・ハースト事件」

 20世紀の初め、「新聞王」と呼ばれた、アメリカの活字ジャーナリズムの基礎を作り上げた人として歴史に残っているウィリアム・ランドルフ・ハーストという人がいて、パトリシアはその孫でした。当然。大金持ち。

 そのパトリシア、7423日、左翼過激派集団に誘拐され身代金を要求される事件が起こります。

 ところがその半年後、パトリシアはその過激派のメンバーになったとハースト家に肉声テープを送りつけ、メンバーとともに銀行強盗をした防犯カメラ映像が報道され全米を震撼させました。

 翌759月、激しい抵抗の末、逮捕されました。しかし76年から始まった裁判では「自分は洗脳されていた」と一転無罪を主張し始めましたが、陪審は有罪と判断し、懲役35年の判決が下りました。

 ところがこれに、名優ジョン・ウェインや、後の大統領、その当時カリフォルニア州知事だったロナルド・レーガンなんかセレブおれきれきが減刑嘆願書を提出し、刑期は7年に縮められました。当時のカーター大統領の恩赦と「多額の保釈金」によって77年、そのリッチガールの年には仮釈放の身になりました。

 意思に反して拉致されて最初は抵抗しますが、徐々に拉致した側の考え方に共鳴するようになり最後には積極的に行動を共にするようになるという現象を「ストックホルム症候群」というのだそうです。北欧でも似たような事件があったからそのように呼ばれるようになり、日本でもありました。映画にもなっているようですので関心があれば。簡単に探せると思います。

 確かに人間って、真っ白の部屋に閉じ込められていながら、何日も「お前は真っ黒の空間の中にいる」といわれ続けると、たいした日にちもたたずにそう思うようになってしまう動物なんだそうです(本当にそんな実験をした人いるのかな?人権問題だ)

 「金持ちのお嬢様、君はちょっとやりすぎたね。

  でもそんなこと、ぜんぜん構わないと思ってるんだろ。

  いざとなったら、おじいちゃんたちのお金を当てにできるからね。 

  そりゃずるいよ、でも、お金でなんでも自由になるってわけじゃないからね。

  欲しいものは何でも手に入る、でも、本当に一人になったらどうするつもりかい?

  どんなに突っ張ったって、強くはなれないよ、きっと」

 「やりすぎ」「おじいちゃんたちのお金」「一人になったらどうする」あたりがいかにも事件との関連を匂わせるのですが。

 確かダリルは否定も肯定もせず「曲は作って発表したら後はリスナーのものだ、自由に解釈していい」みたいなことを言っていたと思いますが、後にジョンははっきりと否定し「事件とは関係ない。身分の違いの恋の歌だよ」と言っていました。

 でも全く関係ないのはつまらないですね。ヒット曲からその当時の世相が分かるほうが面白いと思います。

 パトリシア・ハーストは今は母親で、映画に端役で出演するまでになっています。

 ホール&オーツとフィラデルフィアについても考察をめぐらせたかったのですが、長くなる前にこの辺で、またの機会に。

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2007年9月21日 (金)

Going to a Go-Go

モバHO!を導入してから毎週日曜朝聴けるようになった「ポップ・ミュージック・マスター」。

 たった4曲だけど、いい曲がかかりますね。特に4曲目のリクエストは皆さん結構わがままに渋い曲を出していますね。

 916日にかかったJohnny Rivers “Swayin’ to the Music”

Johnny_rivers_slim_slo_slider  77年の今頃のヒットで、歌詞の一番のバックにコオロギか何か、虫が啼いている効果音が入っていて、季節的にもぴったり。虫の鳴き声に風流を感じるのは日本特有の文化で、世界の大多数の人はノイズとしか捉えない、なんて話もありますけど、必ずしもそうではないことが分かります。

 克也さんは彼の登場の頃の話、ウィスキー・ア・ゴー・ゴーの話をしていて、やっぱりジョニー・リヴァースといえばそのイメージが強いんですけれど、かかったこの曲は彼としては晩年期の、最後のヒット曲ともいえる時期のものですね。

 彼のキャリアは長い。

 彼は強運の持ち主なのか、節目節目に大物の助けを借りることが多い。

 1958年に、ディランと同じようにニュー・ヨークにわたって音楽活動を開始した彼。川が多いルイジアナ出身の彼に「リヴァース」という芸名を与えたのは、「ロックンロール」という言葉の発明者であるとされるアラン・フリードだという説もある。ジョニーとロック自体、義兄弟の関係?

 ニュー・ヨークで失敗してナッシュヴィルに渡って、そこでのデビューを支援したのはハンク・ウィリアムスの未亡人だった。

 そこでも泣かず飛ばず、ロサンゼルスに本拠地を移して、彼の曲が知人を通してリック・ネルソンに取り上げられ、まず作曲家として売れ始める(リック・ネルソンについては、ちょっとですけどこちらを)。でも彼はそれ以降、ほとんどカバー曲のヒットで有名になります。

 ロサンゼルスのイタリアンパーティで、出るはずだったバンドのヴォーカルが何かの理由で出演できなくなり、客席に偶々いたリヴァースが壇上に上がり、役を奪い取ってしまい、評判が広まります。

Johnny_rivers_at_the_whisky_a_go_go  そんな彼の演奏を、ジャン&ディーンのマネージャーだったルー・アドラーが観て感激し、オープンが予定されているライブハウス、ウィスキー・ア・ゴー・ゴーでライヴを録音してレコード化する案を提案します。

 64年、サンセット大通りにできたこのディスコ兼ライブハウスは、その後、南カリフォルニアから出てくる、バーズ、バッファロー・スプリングフィールド、ドアーズ、ヴァン・モリソンなんかを売り出す伝説の聖地になります。66年にスモーキー・ロビンソン&ミラクルズがヒットさせ、82年にローリング・ストーンズがライヴ盤からシングルカットした”Going to A-Go-Go”もここでうまれた「ゴーゴーダンス」のことを歌っているんですね。その伝説の場所を最初に有名にしたのがリヴァースということになります。Rolling_stones_still_life_2

Smokey_robinson_the_miracles_ultima

Johnny_rivers_a_touch_of_gold  彼の最初のシングルヒットは”Poor Side of Town”という綺麗な曲で、これはクレジットはリヴァースとアドラーの共作ということになっていますが、実は本当の作曲者は当時アドラーの下で見習いをしていたジミー・ウェッブだったというのが定説になっています。それ以降のリヴァースは、ちゃんとウェッブをクレジットした上で彼の曲を好んで多く取り上げ、グラミーの最優秀楽曲賞に輝いた「恋はフェニックス」は実はグレン・キャンベルの前にリヴァースがオリジナルでレコーディングしていて、ヒットしたグレンのものはそれにそっくりでした(ジミー・ウェッブについてはこちらを)。

 James_taylor_sweet_baby_james 他にも、ジェームス・テイラーの”Fire and Rain”を最初に気に入って録音したのもリヴァースだった。ということは、アメリカの70年代前半のシンガーソングライターブームの火付け役だったのも彼?

 リクエストでかかった”Swayin’ to the Music”の前に、75年にヒットしたのは” Help Me Rhonda”、いわずと知れたビーチ・ボーイズのカバー曲ですが、ここでは当時、廃人同様で隠遁生活を送っていて、本家ビーチ・ボーイズのレコーディングにすら参加しようとしなかったブライアン・ウィルソンがバックボーカルで参加していたことが話題になりました。

Funky_kings_funky_kingsGlenn_frey_the_best_of             

 “Swayin’ to the Music”も、70年代半ば、西海岸でジミに活躍していた多くのバンドの一つ、ファンキー・キングスの曲を彼風に取り上げたものでした。ちなみにそこには、イーグルスの”Peaceful Easy Feeling”その他、グレン・フライのソロの曲をほとんど共作しているジャック・テンプチンがいました。

 そんなジョニー・リヴァース、現在、髪の毛は真っ白になりましたが、いい感じで年齢を重ねていて、今でもライヴをこなしているようです。

 それにしても、「ポップ・ミュージック・マスター」のウェブサイトにリクエストメッセージが掲載されていますけど、リクエストした愛知県のプロフェッサー・ハリーさんって、やっぱり「あの人」なんでしょうねえ。名古屋の克也さん番組でのリクエスト採用数の記録を誇る彼も、克也さんが去ってしまったし、克也さんにリクエストが読まれたのはなんと5年ぶりみたいです。さぞ喜んでいることでしょう。うっしっし。

 (克也さん、ありがとうございます!!!)

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