ビートルズ

2009年7月 7日 (火)

Show You the Way to Go

Off the Wall スリラー#紙ジャケット仕様#

マイケル・ジャクソンですか…

 そりゃ突然なことだったのでびっくりはしましたが、正直申しましてそれほどの衝撃は受けていないですね。

 いろいろな理由が考えられます。

 僕は、ベテランアーティストが歳をとってからどんな風になっているか、かなり前から色々想像していて、それがけっこう当たっていたりするんです。

 記録に残しているわけでもないし、誰かに話した憶えもあまりないから証拠がないのですが。

 例えば、ポール・マッカートニーは、寡作になるけれど、振っ切れて、ウィングス時代は極力避けていたビートルズ時代の曲をライヴでやるようになるだろう、とか。エルトン・ジョンは昔からスタイルをほとんど変えなかったので、流行に関係なくそれを貫いていくだろう、ロッド・スチュアートは臨機応変に自分のスタイルを変えてきて、自分のかっこよさを知っている人だから、歳に応じて渋みを増してくるだろう、マドンナは自分のトータルな美を磨くことを怠らず、年齢を感じさせないスタイルでイメージは不変だろう(由美かおるか?)、とか。

 ところが、歳をとったマイケル・ジャクソンの姿は、全く想像できなかったんです。

 より正確に言うと、想像はしていましたが、その想像が「空白」だったのです。

 すなわちマイケルはいずれにしろ、50前後で引退宣言をするだろう、あるいは明確な宣言はしなくても表舞台には極力出で来なくなり、新譜も発表せず、事実上の引退をしてしまうだろう、と。

 彼の体調も大きな理由です。彼がどんどん白くなっていったのは、彼がそういう手術を受けたのではなく、メラニン色素が極端に減少していく病気だったんですね。ライオンとかでも稀に真っ白なのが生まれますが、日光に当たることができず、他の病気も併発して短命の場合が多い。彼の場合も、正式な死因の発表はまだですが、遺書を残していたことから想像するに、はっきり自分の死期を認識していて、体はぼろぼろになっていたのでしょう。

 それ以上に彼は、10歳いくかいかないかで頂点を極めてしまい、それ以降40年間、彼のやることそのものが時代を作り続けていた。その彼が時代を作れなくなってしまったとき、どうなるのか。

 急逝、というのはその一つの答えだったのかもしれません。

 ジェームス・ディーンが事故死したときのことは、僕は当然ながら全く知らないのですが、どれくらいの人が、それ以降の彼がどのような映画を作っていったか、を想像していたでしょうか?

 人が死ぬことによいことは何もありません。しかし、結果は受け入れなくてはいけない。

 それがマイケルほどの時代の寵児、いや時代の創造者だった場合、その役割を終えたら疾風のごとく姿を消すというのは、日本史でも世界史でも珍しくない話で。

 そんなジェームス・ディーンやリンカーン、織田信長(人間五十年、下天の内を較ぶれば…)みたいな要素を感じてしまって、納得している部分があるというのが正直なところです。

 やはり私は、捻くれ者ですね。それに尽きると思います。

 ブログなどで彼の死を悼んでいる人たちのかなりが、僕より少し上の世代で、「ベストヒットUSA世代」を自認しているみたいで、克也さんの名前をお借りしている私のサイトにもアクセスが増えました。

 でも小生本人は、その世代だとは思っていないのです。

 その世代を名乗る人たちは大体小生より23上の人たちなのですが、それより若くても洋楽を聴き始めたのが早く、小学校45年の道徳の時間に「尊敬する人は?」と先生に聞かれて「エルトン・ジョン」と答えていた生意気なガキンチョだった小生は、そりゃベストヒットは(今でも)大好きな番組で希少な洋楽情報番組として楽しんでいたのですが、それに世代を投影するまでにはいきません(克也さん、ゴメンナサイm(_ _)m、でもだからこそ克也さんは小生にここで書かせて下さっているんですよね、そう思っています)。

Bad Dangerous

そういう小生にとってのマイケル・ジャクソンとは、Off the Wall, Thriller, Bad, Dangerousなどソロは全部持っていますし、ビデオクリップ集もあり、それなりに楽しみましたが、入れ込んだ、というほどではなかったのです。捻くれ者としてはどうしても一番売れているものには冷めて見てしまう悪い癖がありまして。

僕が一番好きだったマイケルは、クインシー・ジョーンズやジョン・ランディスに出会う前のマイケル、つまりジャクソン・ファイヴ末期、ジャクソンズの一人としての彼なんです。

Playlist: The Very Best of the Jacksons

10歳になるかならないかでデビューから4曲連続でナンバー1を飛ばして、それはモータウン全盛期末期のバブルガムミュージック大量生産体制の最後の踏襲者としてのものだった。その後、共演したスティービー・ワンダーあたりに入れ知恵されたか、モータウン路線に反発するようになり、兄弟独特のコーラスワークを生み出したりして、その二つの路線の妥協として、ディスコなどにも影響されたジャクソン・ファイヴ名義最後のナンバー1ヒット「ダンシング・マシーン」が出たのが74年。

その後モータウンと完全に決別し、モータウンの重役の娘を嫁にもらっていた長兄ジャーメインはその腐れ縁で残留を余儀なくされ、残りの兄弟たちはエピックレコードに移籍して、名前もジャクソンズに変えた。

僕はこの75年から78年ころのジャクソンズ、というかマイケル、が一番好きなんです。

The Jacksons

76年に移籍第一弾で発表したセルフタイトルアルバムは、名盤です。フィラデルフィア・サウンドを支えていたギャンブル&ハフのコンビと組んで製作、ストリングスを生かしたフィラデルフィアソウルと彼らのコーラスワークを融合させた美しい極が並び、”Enjoy Yourself””Show You the Way to Go”など、大ヒットとは行かなくてもそこそこ受け入れられファンの記憶に残るヒット曲も生まれました。その2年後の2枚目Destinyでは、まだ誰の影響も受けていない、彼ら独自のディスコ・ダンスミュージックの解釈を展開して”Shake Your Body”なんて、他にはあまり例のないリズムでのヒットを生み出した。

Destiny

ところが79年、以前からのマイケル人気に目を付けたエピックは、クインシー・ジョーンズとマイケルを組ませてソロアルバム、Off the Wall を作らせて、これが記録的ヒットになってしまう。

Triumph

そこから、皆さんご存知の歴史が始まってしまいます。しかしその裏では…

ジャクソンズとしてはどうしてもマイケル色をさらに強める必要に駆られてしまい、80年に出したアルバムTriumphは、彼らのセルフプロデュースのはずながらOff The Wallの二番煎じみたいな音になってしまったし、Thrillerの歴史的ヒットの後の85年に出たVictoryでは、ミック・ジャガーとジャクソンズの共演”State of Shock”が大ヒットしてしまう。しかしこれはどう聴いても、ジャクソンズとミック・ジャガーというよりは、マイケルが個人的にポール・マッカートニーと共演して”Girl is Mine” “Say Say Say”と連続大ヒットを飛ばしたこととパラレルに見えてしまう。

Victory Pipes of Peace

その後の兄弟は、マイケル、ジャネットのバカ売れもあり、空中分解状態になってしまう。

でもそれが一段落した後にジャクソンズとして久しぶりに出した89年の 2300 Jackson Street は、実に肩の力が抜けていていい作品でした。やっぱり自分たちが血の繋がった家族なんだ、ということを再確認したような。ぜんぜん売れませんでしたが。

2300 Jackson Street

まあそんなわけで、マイケルほど世界中に知られていれば人それぞれのいろいろな解釈が可能な訳で、一捻くれ者として見たマイケル論でしたが、もし彼がクインシーやジョン・ランディスと組まされることがなかったら、ジャクソンズはもっと音楽的に成熟したすばらしい音楽を作ってそれなりの成功を収め、マイケルも急逝することもなかった、と考えるのは私だけでしょうか。

オバマ大統領も声明を出したとおり、私生活ではいろいろありましたが、10歳からわれわれとは上の世界に行っちゃっていた人でしたから、仕方のないことでしょう。

いずれにせよ、我々に「進むべき道を示して」くれ続けて、疾風のように去っていった時代の申し子の急逝には、改めて合掌。

克也さんの新番組、全国ネットでよかったです。

克也さんが日記で書かれているとおり、アメリカのラジオ業界はいろいろ動いていますね。次回はその話題になるでしょう。

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2008年1月25日 (金)

Nobody Wins

アメリカ vs. ジョン・レノン ジョン・レノンは誰に殺される?<モーション・ピクチャー・サウンドトラック> 映画を観ました。

 「ピースベッド-アメリカvsジョン・レノン」です。

 この映画をレビューするには勇気が要りますね。ジョンは色々な側面を持っている人、衝撃的な暗殺で夭折してしまった人。それゆえに、多くの信奉者がいっぱいいる。僕なんか書く資格がないほうで、僕より詳しい方もいっぱいいらっしゃるでしょう。

 それから、この映画は音楽と政治がクロスオーバーしている映画。僕自身、趣味(最近そうでなくなってきているという噂もありますが)で音楽にのめり込み、仕事で政治にちょっと携わっている人間としてはジョンという人物に対して微妙な立場にならざるをえません。

 それでも何とか、思い出話を含めて、僕なりに面白おかしく論じてみようと思います。

 結論から言って、僕にとってのジョンとは、あくまでもミュージシャンであり、ロックンローラーであり、作詞家であり、作曲家であるのです。全てにおいて天才的に優秀な、です。

 克也サンがらみの昔話で、かつて、ZIP HOT 100の晩年期に、「ザ・クイズ」というコーナーがありました。一時間おきにキーワードを一つずつ発表し、三つ揃ったら答えを考えて電話で回答するというもの。記念すべき第一回目の正答者が私。たった一人しかいなかったので戦利品独り占め。グッチのサングラス、重宝しています。

オール・シングス・マスト・パス 〜ニュー・センチュリー・エディション〜  問題は、1時間目「ジョージ・ハリスン」2時間目「ポール・マッカートニー」3時間目「リンゴ・スター」というものでした。

 克也さんが「答えはビートルズではありません」と断っていたにも拘らず、共通点で、「ビートルズ」という誤答が多かったのですが、僕は順番に着目して、「齢の若い順」と答えました。これが正解だったのです。当時まだジョージも存命でした。

 ところが捻くれ者の僕は、もう一つ、オタッキーな答えを思いついていました。

 それは、「ビートルズ解散後ソロでアメリカのチャートで一位を獲得した順」というやつです。

ラム  ジョージが「マイ・スィート・ロード」で70年、ポールが「アンクル・アルバート~ハルゼー提督」で71年、リンゴが「思い出のフォトグラフ」で73年。ジョンは一番遅く74年の暮れ、親友エルトン・ジョンとやった「真夜中を突っ走れ “Whatever Gets You Through the Night”」というやつです。

 Some Time in New York City/Live Jam  個人的には、ジョンはやっぱりこの頃、7475年あたりが一番音楽家として成熟していて、70年代前半の、ラディカリズムを音楽を通して訴えようとしていた時期も一段落し、実によかった、と思っています。

 そしてその頃はちょうど、そのアメリカ合衆国との長かった戦いに一段落がついた時期にもあたります。合衆国永住権、グリーンカードを手にした頃。ジョン曰く「グリーンという割にはブルーだね」。

 それまでの戦い。 

 ジョンはヨーコに出会う以前から、反体制的な気質は十分にあった。でもやはりヨーコとの出会い、その思想に触れたことで、過激な愛、平和を説くようになった。

 克也さんは去年のニューヨーク取材で彼女に長いインタをしたばっかり。日記に、彼女の存在がビートルズ解散に拍車をかけたわけじゃない、彼女の登場のはるか前から人間関係がおかしくなる兆候は見えていたんだ、みたいなことを書いておられましたが。それは僕もそうだと思うのですが、別の意味から、ヨーコの存在はビートルズに変化をもたらしたと思っています。ビートルズとファンとの関係です。

 ビートルズがあれだけ世界的なブームを起こせたのは、音楽性は言うに及ばず、彼らのアイドルとしての「中性性」だと思うのです。四人とも、ストーンズなんかに比べれば遥かに大人しく、男らしくなく、可愛らしさがあった、かといって女性的でもなく男性の立場から曲を作っている。そんな、セックスを感じさせない雰囲気が、男性にも女性にも支持されて、それだけ多くのファンを獲得できた一因であったのではなかったかと思います。

 そこにヨーコが登場した。それまで、メンバーが誰と結婚していようとも付き合っていようとも、プライベートから来る生活臭は一切排除し、四人が完全な四角形を作っていた。その中にヨーコが入り込み、レコーディングの最中でもジョンとチュッチュするシーンを見せ付けられて、ファンは否でも応でもセックスの存在を意識させられた。そこからファンのビートルズ像は、そこを認めていくか、排除していくかに分かれていってしまったのではないかと思うのです。

 いずれにせよ、左翼運動家とも関係するようになり、自らも運動を起こし、ビートルズ解散直前、カナダの二箇所で、この映画の邦題にもなった有名な、公開ベッドインによる平和の訴え、など過激な示威行動を行い、映画にも証言者として登場し、ジョンの曲のタイトルにもなった、「ブラックパンサー党」の白人版である「ホワイトパンサー党」党首、逮捕された新左翼活動家ジョン・シンクレアの釈放を訴えるコンサートを開いたりした。

これに対して当時のニクソン政権は、クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングの「オハイオ」に歌われたケント大学での反体制学生運動弾圧事件のように、ヴェトナム反戦、反政府運動が頭痛の種だった。ジョンの行動が若者に及ぼす影響に恐れをなし、FBIは盗聴も含めたジョンの活動の監視を執拗に行い、ジョンの名前は新左翼行動家としてブラックリストに載り、100ページ以上もの行動記録書が作成された。

ジョンはパラノイア(僕のことじゃありませんよ)になり、「俺とヨーコに何かあったらそれは事故じゃない」とまで言うようになった。72年にアメリカ移民帰化局は、過去のイギリスでの大麻保持を理由にジョンとヨーコに国外撤去命令を出す。しかしこれにもジョンは屈せず、その大麻所持自体が不当逮捕だったとし、頑として立ち退かず徹底抗戦を構える。

ニクソン政権のヴェトナム政策、カンボジア侵攻への反対運動とも絡み、ジョンの運動も大きな支持を得るが、72年の大統領選挙で(この人も多分パラノイアだったんでしょう)ニクソンが再選されたことにより政権やFBIのジョンへの関心は緩み、合衆国最高裁もジョンの国外撤去の理由を不当と判断したため、ジョンは念願の「案外青い」グリーンカードを手にすることができた。。。

John Lennon/Plastic Ono Band 話は戻りますが、僕はどうも、解散直後の「ジョンの魂」あたりの、彼のラディカリズムをもろに音楽に投影しようとした一連の作品群、音楽の新たなあり方を模索した斬新な試みであったことはよくわかりますが、どうも音楽そのものとしては好きになれません。それに比べて、このアメリカとの戦いが一段落したあとのジョンの作品、「真夜中・・・」とか「夢の夢」とか、企画ものとしての「ロックンロール」アルバムなど、実に円熟していい音楽だったと思ってます。

Rock 'n' Roll

ところがそんなさなか、ジョンはショーンの育児に専念するための休業、主夫宣言をしてしまい、ファンをヤキモキさけます(俺もやりたいヨー)

Milk and Honey ヨーコとの関係も新たな段階を迎え、ショーンに言われた「パパってビートルズだったの?」のいとことで一念発起しミュージシャンとして復帰、80年、「ダブル・ファンタシー」を発表。評価が分かれた作品でしたが、僕は「ウーマン」「ビューティフル・ボーイ」ウォッチング・ザ・ホィールズ」だけで名盤だったと思っています。「ダブル・・・」はジョンとヨーコの曲が交互に収録されていましたが、ジョンの曲だけ抜き出してカセットテープに録音して聴いていました。当時、そうやっていた人、少なくないと思います。ラジオでアルフィーの坂崎幸之助さんが同じことをやっていると言っていてニヤっとした思い出があります。

ところが、発売直後、128日、あの悲劇が起こった。その時も実はFBIエージェントが遠巻きに見張っていたがあえて何もしなかった、というのは本当か?

ジョンはそういう結果になってしまい、その遥か以前にニクソン大統領は不名誉な辞任をした。この戦いは、誰が勝ったのだろう?

というわけで、映画の邦題は「ピースベッド」が前面に出てきてしまっていますが、原題の「ジョン・レノン対アメリカ合衆国」のほうがしっくり来ます。

映画は資料映像と関係者インタで淡々と続きます。ここで本職に戻っちゃいますが、音楽映画としてもさることながら、60年代後半から70年代のアメリカ社会を知る意味で広くお勧めしたい。ウォーターゲート事件に関係したニクソン政権からゴードン・リディ、ジョン・ディーン、それを暴こうとしたジャーナリストのカール・バーンスタイン、ウォルター・クロンカイト、72年民主党大統領候補ジョージ・マクガバンなんかが証言しているところをぜひ見てもらいたい。

といってももう上映期間はほとんどのところで終わってしまっているでしょう。すぐDVDで出るでしょうから是非。

というわけで、やっぱりいまだにヨーコさんの本質を理解できていないためか、あまり好きになれていないハリー教授のレビューでした。

The Fox Nobody Wins  ジョンの親友だったエルトン・ジョンがジョンに捧げた曲としては「エンプティ・ガーデン」が有名ですが、実はエルトンがジョンの死で最初にインスパイアされて作った曲は、81年「フォックス」というアルバムからのこの中ヒットだったのではないかと思うのです。ヨーロピアンディスコみたいな曲でした。

映画に登場したジョージ・マクガバン。選挙で戦ったニクソンよりも長生きしています。ビル・クリントンはこの人の選挙運動に参加したことで政治の世界に足を踏み入れました。そして今年は、その奥さんが・・・候補者選びの予備選挙ではかなり接戦を強いられていますが、もし以前の下馬評のとおりになったら・・・改めて「ジョン対アメリカ」の勝者は、誰だったのだろう?

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2008年1月 5日 (土)

Bandstand Boogie!

 あけましておめでとうございます。

 この連載を読んでくださっている奇特な方々には初めての年賀。本年もこんなんですがよろしくお願いいたします。

 克也さんには二度目です。

 なんと今年は、克也さんと同じ場所で新年の瞬間を迎えることができました。

 「ベストヒットUSA年越しROCK時間生スペシャル」に幸運にも参加できたのです。

 こいつああ春から縁起がいいぜ!With_katsuya_smaller_2

 

 大晦日の新幹線はガラガラでした。夜九時に原宿駅に降り立ったら、既に明治神宮に二年参りに向う人たちでごった返していました。

 克也さんにも久しぶりにお会いできたので、2時間前に局入りなさった克也さん、甲斐さんに御挨拶。

 私は実は過去に、外部委託専門家として某公共放送局に一年間ほぼ缶詰状態でドキュメンタリー番組製作の手伝いをした経験があり、その折にも大河ドラマの撮影スタジオとか頻繁に見せてもらったりしていて、そういう番組作りの裏側は結構知っているほうなのですが、音楽番組の生放送の現場は初めてでした。

 克也さんの日記を拝読し、ラジオもそうなのかと思ったのですが、その公共放送にはとにかく多くの人がひとつの番組にかかわっていると思いました。

 それに比べて今回のベストヒットUSAは、公開といっても観衆は100人、ライブ会場をもっと小さくした感じ、こぢんまりとした感じ、現場の人も思ったほど多くなく、何度か参加したことのあるラジオの公開放送の規模をやや大きくした感じでした。

 それでも、いくら生放送でも、本番前にはほとんど出来上がっていなければいけないのはどんな番組製作でも同じこと。それまでに多くの方々が準備に携わっています。

 そして克也さんはオーケストラの指揮者。ミュージック・マスターですね(笑)。オーケストラの指揮者の仕事は、実際にタクトを振る瞬間まで90パーセントは終わっている。その最後の10%の仕上げをするのが本番。

 (いい意味でも悪い意味でも?)克也さんは凄いお方だ、という事実を今更ながら確認できた生放送でした。

 本番までの二時間の間、そのあと六時間流れるビデオを早回しで確認する。スタッフの方が作ったそのビデオ、アーティストに関する情報の細かい台本が用意されていたのですが、本番ではそこからのネタは最小限に抑え、ほとんどご自分の経験話で番組を作ってしまう。スケベなスティーヴィー・ワンダーとか、”Bang a gong”=ズッコンバッコンとか、深夜ならでは、しかし正月であることを考えるとちょっと?な裏話も飛び出す。

Brothers in Arms

 視聴者クイズ、このCGキャラクターが使われているビデオのアーティスト、曲名は?しかし当の克也さんが一瞬、曲名が出てこなかったみたいですね。それでも、「ほら、見ろよ、あのオカマ、MTVでギターなんか弾いちゃって、指に豆作っちゃって、あんなの仕事じゃねえよ、あんなんで大金持ちになれるんだったら俺もギターかドラム習っとくんだったな、俺たちはあのオカマの冷蔵庫とカラーテレビを動かすために汗水たらしてんのによ」と、歌詞の内容でつないで番組を作ってしまう。

アビイ・ロード

 観客に向けてのジャケットクイズの第一問。「アビー・ロード」が逆さまだった。あれは意図してやったのかな?それとも。。。いずれにしろ、何も不自然なことなく番組を進行させてしまう。

グレイテスト・ヒッツ

 九州のアレステッド・ディヴェロプメントと電話でつないで新年の瞬間へのカウントダウン、でも向こう側はわかってなくて勝手に別のことをやっていたみたい、でもそれも生放送らしくていいかも。

 スタジオに来ていた皆さんは私と同年代、やや下がほとんどで、みんな音楽が大好きで,年越しの瞬間にこの場所に居たいと思ってた人たちだったということ、進行への参加の仕方や盛り上がり方でひしひしと伝わってきました。

 あっという間の6時間でした。スタッフの皆さんもそういっていました。来ていた人たちもきっとそう思ったのでは。投稿にあったけど、視聴者の人、来場者のみんな、来年もやってほしい、できたら恒例行事にしてほしい、って思ったんじゃないでしょうか。

 終了後、スタジオはすぐに元に戻されて、兵共が夢の跡。皆さんと軽い打ち上げをして、出たのが朝6時。もう明治神宮はその時間から、賽銭を投げられるのは正午になってしまうという。元旦6時台の下りの新幹線は全席満席、7時の一番最初のやつがかろうじて取れました。その朝、なんと品川-新横浜間で富士山を見ることができ、右に一富士、左に初日の出という、なんか凄い光景を見ることができて、これも得した気分でした。私はたぶん新幹線を利用する回数は並じゃないと思いますが、品川から見たのは初めてで、一番見えやすいはずの新富士-静岡間でも見えるときより見えないときのほうが圧倒的に多い。それがそんな光景を見ることができるなんて。今年はいい年になってほしいな。

 克也さん、甲斐さん、杉田さん、川岸さん、番場さん、井黒さん、本当にありがとうございました。本年もよろしくお願い申し上げます。

Tryin' to Get the Feeling

 Bandstand Boogie,アメリカの最も代表的で長寿だった視聴者参加番組、アメリカン・バンドスタンド。ディック・クラークが1956年にフィラデルフィアでスタートさせて、ディックのDJでそのときのヒット曲のレコードを書けながら、参加者をステージに上げて踊らせる、ゲストに演奏させて、やはり踊らせる(ほとんど口パクだったらしいから、結局同じことか)。バリー・マニロウがその番組に敬意を表して50年代風の曲調で、「歌の贈り物」のアルバムで発表したのですが、そのすぐ後、そして番組が終了する89年までオープニング、クロージングテーマとして使われました。

 今でも、名場面を集めたThe Best of American Bandstand という番組があるようです。

 最も成功して大金持ちになったDJ、アメリカン・ミュージック・アワードも作ったディック・クラーク。僕のアメリカのミュージシャンでの唯一のメル友(?)グレッグ・キーンはバンドスタンドには一度だけ出演したことがあるそうですが、最近になって、飛行機の中で偶然この二人は居合わせて、グレッグがディックに近寄ったら、ディックのほうから「ジェパディのグレッグ・キーンだろ。バンドスタンドに出てくれた人は一人も忘れない」と握手を差し伸べてきたそうです。

 ベストヒットUSA81年から始まり、89年からいったん中断、それから克也さんの自主制作シンジケート番組時代を経て、現在はBSでの全国放送、と形を変えてきていますが、長寿からいけばもう少し(?)でバンドスタンドの記録に追いつけるかも。がんばってみては?

 次回は恒例、アナミー賞の発表かな?

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2007年12月15日 (土)

I Want to Take You Higher

克也さんは、最近はビートルズに年末を感じてしまうという。

 ジョージの命日のジョンの命日がたまたま10日程度しか離れなくて、この季節になると克也さん自身でもビートルズ専門番組を持っていらっしゃる関係上、ご自分の番組でかけることも多くなるし、それでなくても追悼でラジオ、テレビからやたら流れるようになるからでしょうね。

 ビートルズもそうですが、私は同じ理由で、ファンク系に年末を感じてしまいます。

The Very Best of Booker T. and the MG's

 1127日のベストヒットUSAのタイムマシーンで取り上げられたブッカーTMGs。ドラマーだったアル・ジャクソンの命日に当たっていたということですが、彼は70年代に活躍するバーケイズというファンクバンドの創立メンバーになります。

Superfly (1972 Film)

 991226日に逝去したカーティス・メイフィールド。彼は本来はインプレッションズなんかに代表されるシカゴ(ノーザン)ソウルですが、私個人としては大ヒットした73年に大ヒットした「スーパーフライ」「フレディの死」なんていうファンクナンバーの印象が強い。

 言わずと知れた、去年1222日に逝去した、ゴッドファザー・オヴ・ファンク(ソウル?JB

Make It Funky - The Big Payback: 1971-1975

 そして本2007年には、1213日、アイク・ターナーがこの世を去ってしまいました。享年76歳。

Proud Mary: The Best of Ike & Tina Turner

 やはり彼には、以前にも書いた、ティナ・ターナーとの壮絶な結婚生活のイメージがついて回ります。

 彼が今年の1月に残している、彼の半生を顧みたような内容のインタヴューが興味深い。80年代半ば、ティナが全盛期だった頃、彼は不法薬物所持その他で囚獄されていた。

 それでも、彼は自分の人生に満足だ、といっています。半世紀近くミュージシャンとしてやってきて、作りたい音楽を作りたいように作ってきた。刑務所で過ごした時代も決して悪い思い出ではない。自分は特別扱いされていたようだ、と。

 それでも、質問がティナとの結婚生活のことに移ろうとしていることを察すると、「はい、インタの時間終わり」とさっさと切り上げてその場から去ってしまったそうです。

 彼女の自伝も読んではおらず、その映画化も観ておらず、周囲から聞いただけのようですが、自分の描写に不満で、彼女は一方的な被害者ではなく十分に暴力的だったという。

確かに映画にも、仏教に目覚めた後のティナが反抗する場面はありました。

 人間関係、特に結婚はとにかく難しい。

 このことも含めて、いずれにせよ彼は音楽の記憶と歴史に残る人でしょう。

 彼の作った音楽は、R&B,ファンクのファンからするとポップ、ロック色が濃すぎる、逆にロックから見ると黒すぎる、どうも両極端のコアなファンからは敬遠されがちだったようです。

 基本はブルースだ、といわれても、60年代前半、アイク&ティナとしてスー・レコード出て来たとき、”A Fool in Love”とか、”Shake a Tail Feather”とか、踊れるポップな曲で知られるようになった。

アルティマム・マキシマム

 ユナイテッド・アーティスツに移籍した60年代後半から70年代にかけて、ビートルズ “Come Together” ストーンズ“Honky Tonk Women” 、そして彼らを有名にしたクリー デンス・クリアウォーター・リヴァイヴァル(CCR)の”Proud Mary”と、積極的にロック畑の人たちの曲をカバーするようになる。このあたりが、そのような評価を生む原因になったのでしょう。

 しかし、アイクが同じ時期に最も傾倒していたのは、実はスライ&ファミリー・ストーンだったのではなかっただろうか。

Stand!

 “I Want to Take You Higher””Everybody People”なんかをオリジナルに近くカバーしていることからもそれが伺えます。

 そしてアイクは、スライが目指したファンクの新しい形、「ファミリー」に同調していたのではなかっただろうか。

 つまり、JBに端を発するR&Bからでてきたファンク、イコール黒人の男性アーティストの占有物、だったようなイメージを、スライは、ヒッピー・ムーヴメントの影響からか、バンドに白人や女性を入れてファミリーを作って、必ずしもそうではない、とでも言いたげな形を作っていた。アイクも、それを、夫婦、プラス女性バックコーラスのアイケッツ、という形でやりたかったのではなかっただろうか。

 繰り返しになりますが、壮絶だった私生活もさることながら、ミュージシャンとしても記憶と記録に残る人でしょう。

 現世より「高い世界」に行った彼に合掌。

 そして今週は、もう一人、ビッグなアーティストの訃報が入ってきました。アイクとはあらゆる意味で対極にいた人かもしれませんが。次回はその人の話になるかもしれません。

 メリークリスマス!

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2007年9月28日 (金)

Boulevard of Broken Dreams

American Idiot

  グリーンデイだと思うでしょう? ところがどっこい。

 モバHo!導入でレギュラーで聴けるようになったもう一つの克也さん番組、DJ Koby’s Radio Showもネタにしていきましょう。

 922日にアーカイヴされたのは、トニー・ベネット。

 本年81歳。

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  去年80歳を記念して製作されたアルバム、「デュエッツ」でトニーと一緒に歌ったのは、 バーブラ・ストライザンドが一番、活動期間の長さ、音楽的ジャンルが近いとして、ほかはみんな畑違い。ベテランでは、エルトン・ジョン、ポール・マッカートニー、ジェームス・テイラー、 スティービー・ワンダービリー・ジョエル、エルヴィス・コステロ、スティング、ボノジョージ・マイケル90年代以降のスターでは、ディクシー・チックスK.D.ラング、ティム・マグロウ、セリーヌ・ディオン、マイケル・ブーブレ、ジョン・レジェンドなどなど。

 普通この手の企画なら、オケが最初にとられ、それが互いに顔を合わすことなく、別々のスタジオでヴォーカルを入れたものを編集で繋ぎ合わせる。80年代のポール・マッカートニーがスティービー・ワンダーやマイケル・ジャクソンとやったやつ、似たような企画だとフランク・シナトラの生前のデュエット・アルバムもそうやって作っていた。

 ところがトニーはこの製作では、デュエット相手がいるところなら、東海岸、西海岸、イギリス、ヨーロッパ、「追いかけます、お出かけならば、どこまでも」のザ・ベストテン生中継方針を貫いた。長年バックはこの人たちとしかやらないというラルフ・シャロン・トリオを引きつれ、アーティストのいる場所に押しかけて、オケを最初にとるやり方ではない、生演奏をバックに録音するという昔ながらのスタイルで作った。彼はコンサートでも、語りかけと歌を交える特徴がありますが、それがそのままCDで再現されている。”Stevie, wonderful”みたいなシャレを交えた掛け合いとか。デュエットパートナーに選ばれた若手たちは、こんな録音の仕方は初めて、と新鮮さに緊張したという。

 そう、彼は昔からスタイルを変えようとしない。

 そのスタイルは、一度は音楽業界から見放された。でも最近、なぜかまた求められ始めた。

 ペリー・コモのテレビショーからスターダムに登った彼。音楽の師匠はデューク・エリントンなど。すごい世代だ。

Tony_bennet_american_songbook  60年代には一年にアルバム3枚発売のペースを続け、ヒット曲も量産した。

 代表曲はなんといっても「想い出のサンフランシスコ」でしょう。

 ところが、ロックが全盛になり、音楽も多様化してきた70年代、彼のスタイルは時代遅れとなり、レコード契約も切られてしまう。

 この時期、私生活でも泥沼離婚を経験し、麻薬漬けになってしまった。この時期のことについて、彼は語りたがらない。

 それでも、子供にとってのよい父親として手本にならなければならないとの意識から、麻薬からは抜けられたという。

 そして90年代、スタイルは変わらないまま、再び脚光を浴びることになります。

 93年の、フレッド・アステアのカバー「ステッピン・アウト」ではプロモーションビデオに初挑戦し話題となり、アルバムもヒットし、若い世代のファンを開拓した。

 また少し時期はこれより後になりますが、ロッド・スチュアートの「アメリカン・ソング・ブック」三部作の成功など、その他もロックアーティストがトニーの世代の曲をカバーしたり、またマイケル・ブーブレやジョシュ・グローバンなど、トニーと同じジャズっぽい「クルーナー」を自称する若いアーティストが出てきたことも追い風になったのでしょう。

 95年にトニーは「MTVアンプラグド」に出演しCDも発表、グラミーの最優秀アルバム賞も受賞し、ますます若い世代のファンを獲得しました。

 80歳を超えて発表した「デュエッツ」からも判るとおり、若い世代からのリスペクトも並々ならぬものがあります。

Tony_bennet_in_the_studio  そんな彼、現在はニューヨーク、クイーンズ地区の自分の育った地域を一望できる高層マンションで、40歳以上年下の恋人スーザン・クロウさんと、趣味の絵を描きつつ悠々自適のようです。まさに「グッド・ライフ」(彼の代表曲の一つです)なんでしょうね。

 そうそう、それで、Boulevard of Broken Dreamsとは、1950年のトニー・ベネットのデビューヒットなのです。もちろんグリーンデイのものとは同名異曲。でも歌詞には同じフレーズが数箇所あります。グリーンデイのやつは、このトニーの曲ではなく、それ以前、1930年代にそういうタイトルの映画だか小説だかがあってそこからインスパイアされたのだといっていますが、トニーのその曲も結局出所は同じ、ということなのでしょう。

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2006年12月22日 (金)

Disco Strangler

またベストヒットネタに戻って。

Kiss_dynasty17日のタイムマシーン。1980年にKISSのドラムス、ピーター・クリスがバンドを脱退した日ということで、79年のヒット “I Was Made for Loving You” 邦題「ラビン・ユー・ベイビー」がかかりました。

キッスがディスコに挑戦。それが彼らの代表曲になっちゃって、今、日本のコマーシャルで子供たちがあのメイクアップをして替え歌を歌ってる。

考えてみればキッスというバンド、その次にヒットしたのが76年の「ベス」という曲で、そのピーターがリードを取った、というか一人で歌った、バックはストリングスとピアノのバラード。

メンバーでピアノを弾けるのは一人もいなかった。この曲をライブでやるときは他の三人は引っ込んで、ピーターもドラムから離れて一人で歌う。

ハードロック、といっても結構、ポップ性、コード進行やハーモニーを重視していたようなところもあったし。

それでも広く知られた代表曲が本筋からはなれた曲ばかりで、やや損をしていたのかもしれません。

この70年代の後半、確かdisco bandwagonという言葉がありました。

ポール・マッカートニー&マイケル・ジャクソン「セイ・セイ・セイ」のビデオを覚えている方は思い出していただければいいんですけど。

昔、ドサ周りの興行一座はワゴン車で移動していて、それがある村に賑やかにやって来たら、子供がわっと寄ってってきて、その車が移動するところ、みんな付いていって、過ぎ去った後はもぬけの殻になる。

それで、bandwagonとは、勢いに乗る、悪く言えば、便乗、を意味するようになったのですが。

この70年代末、ディスコブームに便乗して、それとはかけ離れているはずのアーティストがディスコに手を出して、いろいろな記録を残しています。キッスのみにあらず。ちょっと思い出してみましょう。

Joe_tex_aint_gonna_bump_no_moreDiana_ross_diana_ross_1ダイアナ・ロス “Love Hangover”

Joe Tex "Ain't Gonna Bump No More (With No Big Fat Woman)"

確かディスコブームの最初の頃はファンクとの境があいまいで、黒人音楽の一部と考えられていた節があり、アフロヘアーにスタイルが代表されていたのがそれを物語っている。それでもこういうR&Bのベテランがディスコに手を染めたのは大きな話題となった。

Thelma_houston_the_best_ofHarold_melvin_the_bluenotes_the_best_ofともに76年のヒット曲。ダイアナ・ロスのは、「マホガニーのテーマ」に続いて全米ナンバー1になった。ドナ・サマーを意識したかのようなイロッポイ内容、バラードからディスコビートになっていく。ベースラインは、ハロルド・メルヴィン&ブルーノーツ、後にテルマ・ヒューストンがカバーして翌77年全米1位になる”Don’t Leave Me This Way”のパクリ。

ジョー・テックスは、ラップの元祖かもしれない。途中からイスラム教に改宗するが、元々ゴスペルの味のあるR&Bも歌っていた。それがディスコに行っちゃった。82年逝去。

ローリング・ストーンズ「ミス・ユー」

Rolling_stones_some_girlsサタデー・ナイト・フィーヴァーからの曲がラジオを席巻していた78年夏、ストーンズがニューアルバム「女たち」を発表したが、そこから鳴り物入りで出てきたシングルがこれだった。ストーンズもディスコか、と、キッス同様、古いファンを引かせてしまった。でも全米一位になった。ミックの妻ビアンカのことを歌っていた。

バリー・マニロウ「コパカバーナ」

バーブラ・ストライサンド「メイン・イベントのテーマ(ファイト)」

同じく78年夏。こういうエンターテイナー系もディスコに走っちゃった。

Barry_manilow_even_nowBarbra_streissand_essential_270年代後半だけに限ればソロアーティストとしては最もレコードを売ったバリー・マニロウ。甘ったるいバラードの大ヒットを連発していた。タモリが一時期さだまさしを嫌っていたように、そういうのがだめな人たちからは徹底的に嫌われてもいた。「マニロウがラジオでかかったらブレーキ踏んでやる」なんてバンパースティッカーも流行った。

「コパカバーナ」も現在、数年前プロ野球チームを買い取り、最近は携帯電話に参入していろいろ問題を起こしているあそこのCMに使われているのでお馴染みでしょう。

曲の内容はストーリーがあって、ハバナのクラブの踊り子とバーテンダーの悲恋物語になっているんですけど。これのダンスヴァージョンは完全な16ビートにアレンジされていた。これでグラミーの最優秀男性ヴォーカルを受賞した。

バーブラも、あの高い声でのスタンダードのようなバラードが有名で、映画がらみですがディスコに手を染めて、トップ10ヒットになった。この翌年にはドナ・サマーとので湯えっと、16ビートの “No More Tears” で一位にもなる。

ロッド・スチュアート「アイム・セクシー」

Rod_stewart_blondes_have_more_fun79年頭。ロッドも16ビートに行ってナンバー1になった。さびの部分は、ブラジルのタージマハールそっくりだというので盗作問題にもなった。

ロッドはストーンズフォロワーで、さっきの「ミス・ユー」を聴いて、自分もディスコをやりたいと考え、この曲を思いついたという。

元々彼は音楽のスタイルを柔軟に変える人なので、それほど不思議なことではないのかもしれないが。でも時期を考えると・・・商売商売。

ポール・マッカートニー&ウィングス “Goodnight Tonight”

Paul_mccartney_all_the_best79年夏、ポールまでやっちゃった。

一応、歌い方とか、ベースラインとか、ポール節になってたんだけど。彼までやる必要があったのかな。ディスコでかかったときは、踊る人の好き嫌いがはっきり分かれたという。トップ10ヒット、ミリオンセラーになったが、ウィングス名義としては最後のスタジオ録音になった。

エルトン・ジョン “Victim of Love”

Elton_john_victim_of_loveこれは知られていないかもしれない。なんとエルトンもディスコをやっていたのだ。

今まで挙げたものは、それぞれのアーティストのスタイルからかけ離れているという意味で、異色、汚点の曲ばかりだったかもしれないが、エルトンの場合は売り上げ的にも見事にコケた、正真正銘の「汚点」である。

80年中ごろのリリース。77年あたりからスランプといわれていた。作詞の相棒バーニー・トーピンと一時期はなれていたことも原因だが、70年代の全盛期をともにしたプロデューサーのガス・ダッジョンと分かれたのも大きかった。いろいろな試行錯誤が続き、ここではなんとドナ・サマーを手がけたピート・ベロッティを迎えて、レコードA,B面ノンストップのディスコアルバムを出してきた。

エルトンは後に、このときはやらなければならなかったことだ、と語っているが、ディスコブームが消えようとしている時、なぜやったのか理解に苦しむ。彼のキャリアの中で最も売れなかったアルバムになった。

シカゴ “Must Have Been Crazy”

Chicago_13_1同じ時期にシカゴもやっていた。シカゴも、オリジナルメンバーのギタリスト、テリー・キャスがピルトル暴発事故でなくなって以来スランプで、試行錯誤を繰り返していた時期だった。シカゴ13のアルバムより、ディスコが唯一音楽に貢献したことは録音技術を向上させたことだ、と言って、自分たちでも挑戦した。トップ40にも入らず最悪の結果になる。彼らの復活はビル・チャンプリンが加入しデヴィッド・フォスターをプロデューサーに迎える、シカゴ1681年まで待たされることになる。

Eagles_long_runタイトルのDisco Stranglerはイーグルスの最後のスタジオ録音アルバム「ロングラン」の中の曲。タイトルを見たときは、え!?イーグルスもディスコ?なんて思ったけれど、ビートはちょっと意識したところはありますが、ちょっとツェッペリン風の、ディスコの虚栄を歌った曲。

考えてみれば、ブームの中心にいたビージーズも、本当にディスコと呼べるものを作っていたのは彼らの長いキャリアの中ではほんの3,4年の間だった。他のアーティストとは違って一曲のみではなかったけれど、彼らにとっても、便乗だったのかもしれない。

ディスコブームそのものが虚栄でバブルだったのでしょう。

メリークリスマス!

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2006年12月 1日 (金)

CRY

Police_synchronicity1126日のベストヒットのタイムマシーン(またか!?)、1976年に10㏄からケヴィン・ゴドレイとロル・クレームが脱退した日で、この二人は80年代に音楽ビデオ制作に大活躍するので、その代表作の一つ、ポリス「見つめていたい」がかかりました。

本当はゴドレイ&クレーム「クライ」が彼ら自身の曲でもあるし、映像としても彼らの最高傑作だと思うんですけど。これは約一年前に既に放送されているんですね。実は、読まれはしなかったけれど僕のしつこく出したリクエストが採用されたんじゃないかと思っています。その前に、まだベストヒットが事務所が作っていた地道な地方局向けシンジケート30分番組だった頃の98年年末のリクエスト特集でも採用してもらったことがあります。このときは読まれました。それくらい好きなビデオなんですね。

この10cc、すごいグループでした。

四人のメンバーがいて、四人ともいろいろな楽器の演奏ができて、ヴォーカルも取れて、曲も作れて、後には映像にも才能を発揮する。

Wayne_fontana_the_mindbenders_best_ofエリック・スチュアート。彼は60年代は”The Game of Love”や、フィル・コリンズのカバーでお馴染みの “Groovy Kind of Love”なんかをヒットさせたマンチェスターのWayne Fontana &the Mindbendersにいました。こちら



Hollies_for_certain_becauseグラハム・グールドマン。同じ時代に既にソングライターとして地位を確立していた人で、日本でもヒットしたホリーズの「バスストップ」、他に”Look Through Any Window”、ヤードバーズの「フォー・ユア・ラヴ」(クラプトンはこういう曲を演るのが嫌でヤードバーズを抜けた)、他にハーマンズ・ハーミッツのヒット曲なんかを書いていた。

グールドマンとゴドレイは同級生で、十代の頃モッキンバーズというバンドで一緒に演奏し、ゴドレイと他のバンドで一緒に演っていたクレームも加わった。

最初は、スチュアート、ゴドレイ、クレームというメンバーでホットレッグスというバンドが結成され、”Neanderthal Man”「ネアンデルタール人」というヒット曲が生まれました。原始人っぽいチャントとリズムにビートルズの”A Day in the Life”の大仰な展開が取り入れられている、なんともいえない曲です。

これにグールドマンが加わり10㏄に。平均的男性が一日に分泌するあの液の量、をバンド名にしちゃったという説もありますが、実際はマネージャーが、世界ナンバー1のロックバンドの夢を見て、それがなぜかそういう名前だった、というのが本当の由来だとか。あの液の平均分泌量は実際はもっと少ない?

音楽性が多様で、シュールな芸術性もあればフランク・ザッパ的なグロ、ユーモアも持ち合わせている不思議なバンドでした。

ビートルズの「オー・ダーリン」をモチーフにしたドゥ・ワップの「ドナ」とか。

イギリスでの最初のナンバー1”Rubber Bullets”という、「監獄ロック」のパロディみたいな曲で。

10cc_original_soundtrackそれで何といっても74年から75年にかけての「アイム・ノット・イン・ラヴ」の世界的ヒットが代表曲になるわけですが。

その後のシンセサイザーブームの先駆けになったような、美しい荘厳な曲ですが。

「君の写真を壁にかけてあるけど、汚いシミを隠したいからそうしてるだけで、別に君のこと好きなわけじゃないよ」

「夜中に電話したけど、君を愛してないってことを確認したいだけだから、騒がないでね」

「静かにして、大きな男の子は泣くもんじゃない(Be quiet, big boys don’t cry)

などなど、結局この人は相手を本当は好きなのか嫌いなのか、はたまた男から女に言っているのかその逆なのか、いろいろな解釈ができて謎の多い曲です。10cc_deceptive_brends

10cc_bloody_touristそしてその後、そのゴドレイとクレームが抜けてしまって、スチュアートとグールドマンの二人になってしまった10㏄は、ポール・マッカートニーが書いたって言ってもほとんどの人が信じてしまうくらいクリソツな “The Things We Do for Love”「愛ゆえに」とか、レゲエに挑戦した”Dreadlock Holiday”なんてヒット曲を出しますが。

Paul_mccartney_tug_of_warPaul_mccartney_pipes_of_peaceWax_american_english80年頃解散状態に。その後スチュアートはポール・マッカートニーの80年代前半期のソロ活動、”Tug of War”, “Pipes of Peace”あたりを全面的に支え、グールドマンは、”Lonely Boy”のヒットを持つ西海岸のシンガーソングライター、アンドリュー・ゴールドとWAXというユニットを結成、ウェストコーストサウンドとブリットポップの融合を目指します。

同じ頃、ゴドレイとクレームはデュオを結成、同時に映像も手がけるようになります。

Godley_creme_history_mixその85年の最大のヒット曲「クライ」は、モノクロ、ワンショットで、老若男女数十人の人が登場してひたすら口パクで唄って、その顔がモーフィングでどんどん推移していくという技モノでした。まだCG技術がそれほど発達していない頃なので、人の顔がどんどん変わっていくのは画期的でした。

Michael_jackson_dangerous数年後、マイケル・ジャクソンが”Black and White”のビデオでCG技術を使って同じことをやります。




Godley_creme_imagesその他にも、ゴドレイ&クレーム自身の”Englishman in New York”(スティングとは同名異曲)ではマネキンのオーケストラが出てきたり。

他のアーティストのビデオでもシュールな映像を多数作ります。

ポリス「見つめていたい」は、モノクロですが、青や赤のバージョンもありましたね。

他に同じ「シンクロニシティ」のアルバムから”Wrapped Around Your Finger”では何百本もの蝋燭を立てて。

Asia_1Duran_duranデュランデュラン”Girls on Film”では裸の女の子にドロレスをやらせる。

エイジア「ヒート・オヴ・ザ・モーメント」では画面を16分割して左上から右下に、歌詞に合わせてどんどんシーンを変えていく。

Wang_chung_best_of

ワン・チャン“Everybody Have Fun Tonight”では、かなり前だけどポケモンのテレビで使われて子供たちの視力絵の影響が問題になったフラッシュ効果が使われていた。

フランキー・ゴース・トゥ・ハリウッド”Two Tribes”では、レーガン大統領とチェルネンコ書記長のマスクを被った二人が衆人環視の中で殴りあい、最後は地球が爆発する。ジョージ・ハリソン“When We Was Fab”。ジョージの手が何本にも別れ、ギターを弾きながらまりつきをしたり長く伸びたピアノを弾いたり、最後にはジョージが空中浮揚して上半身がいくつにも分かれていく。

他にもハービー・ハンコック「ロッキット」、ビートルズ「フリー・アズ・ア・バード」などなど印象的なものをいっぱい残しています。

Frankie_goes_to_hollywood_welcom_to_the_

音楽的にもすごい功績を残した人たち。映像面でもこの通りすごかった。

40周年を迎えた円谷プロのウルトラマンシリーズ。その創世記から今尚メガフォンを取られている、知る人ぞ知る実相寺昭雄さんという監督がいらっしゃいますが。

下斜めのアングルから取ったり、輪郭や色をぼかしたり、ナイフに写った光る目とか、宇宙人をアパートの和室に上げて胡坐をかかせるとか、シュールな絵を取る人。

ゴドレイ&クレームの映像は、実相寺さんと同じタッチを感じるんです。

ウルトラマンファンでもあるハリー教授でした。


George_harrison_cloud_nine

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2006年8月24日 (木)

Stoned

今年初めの来日、この間のキースの椰子の木攀じ登りのち転落事件と、相変わらずいまだに話題に事欠かないローリング・ストーンズ。

 この夏は、映画「ブライアン・ジョーンズ-ストーンズから消えた男」が全国で公開されたことが一番の話題でしょう。私も観てみました。

 いくつかの映画を思い出しました。Last_days

 まず、今年前半にやっていた、ニルヴァナのカート・コバーンの最期をモデルにした「ラスト・デイズ」。才能あるロックミュージシャンの孤独と現実逃避、そして謎に包まれた最期といった点が似ています。

 そしてこれをより強く思い出したのですが、10年前にやっていた、ビートルズの幻のメンバー、スチュアート・サトクリフの生涯を描いた「バックビート」。このストーンズの映画とタッチがよく似てるなと思っていたら、案の定、製作(フィノラ・ドワイヤー)と監督(スティーヴン・ウーリー)が全く一緒でした。「バックビート」の次の企画としてずっと暖めていたとのこと。

 ビートルズとストーンズ、60年代にイギリスから登場して世界を席巻し、否でも応でも互いを意識せざるをえなかった、スタイルでも対極をなしていた二大バンド、そのオリジナルメンバーだったが、それらが本当の絶頂期を迎える直前に、他メンバーとの軋轢から脱退を余儀なくされ、そしてその後、やはり逃避し、夭逝する、といった共通点がこの二人にはあります。Backbeat

 サトクリフは音楽よりも美術に才能を持っていたと言われ、映画館では彼が遺した抽象画の画展もやっていました。ゲージツは爆発かもしれないが、僕にはよくわからない。ただいろいろな色の線が不規則に殴り書きされているようにしか見えなかった。抽象画なら僕にもできるかな、とさえ思いました。でも僕の場合、風景画を描いて他人に見せても「素晴らしい抽象画だ」と言われるのがオチですが。

 サトクリフはビートルズ脱退後、ハンブルグで出会った年上の女性カメラマンとの恋と芸術に生きますが、脳腫瘍で急逝してしまいます。

 しかしブライアン・ジョーンズの場合、脱退後は退廃を極め、その死は謎に包まれていました。Stoned

 幼馴染だったミックとキースが、ロンドンに出て音楽で身を立てようとダートフォードの田舎から乗った汽車で偶然再会したことからストーンズ伝説は始まります。

 それとは別の流れで、既にロンドンで音楽活動をやっていたブライアンと合流してストーンズが結成、アメリカンブルースへの傾倒が強かったブライアンがリーダーとなります。

 しかしマネージャーだったアンドリュー・オルダムが、ストーンズをビートルズの対極に位置する不良グループのイメージを演出し、ミックのスター性、キースとミックの曲作りの才能を見抜き、彼ら中心のバンドとして売り込む。その戦略の中で、音楽的にも違憲が合わなくなり、人間関係もおかしくなり、ブライアンは孤立していく。そして、ドラッグや異常性愛に溺れるようになる。ブライアンの麻薬の前科を理由にアメリカがストーンズの入国を許可しなかったことから、アメリカ進出を重視していたオルダムはますますブライアンを邪魔者にし、ついには脱退を勧告する。

 ブライアンが「くまのプーさん」の作者A・ミルンの邸宅を購入して住んで、修繕のために建築家フランク・ソログッドを雇って、他に恋人のアナ・ウォーリン、看護婦のジャネット・ローソンと半同居状態の生活だったが、ブライアンの異常行動はどんどん増し精神もずたずたになっていく。話し相手でもあったフランクのちょっとした仕事が気に入らないと言って癇癪を起こしてクビにした。

 そんな6973日、ブライアンはその自宅のプールで溺死する。

 警察の発表はドラッグ過剰摂取による事故死だったが、レコーディング中のミックたちには、自殺、と伝えられた。ミックたちは淡々と仕事を続けたという。

 しかし、その他にも、他殺説も囁かれ、突然の死は謎のまま残されている。

 フランクは93年に他界する今わの際で、ブライアン殺害を自白したという。アナ・ウォーリンも後に同様の証言をした。おそらくそうなのだろう。しかしこれは証言だけで証拠はない。この映画も、その他殺説に則っている。Rolling_stones_englands_newest_hitmakesr

 奇しくも先週、ロンドン・ハイドパークで彼の死の二日後に行われた追悼フリーコンサートの模様をNHKのBSが再放送していました。ミックは弔辞こうを読み上げていました。

 彼は死んだのではない、彼は眠ったのでもない。彼は、夢の生活から解き放たれ、嵐のような未来へ向かって動き始めたのだ。

 ミックとキースは葬儀にも参列しなかった。ミックの恋人マリアンヌ・フェイスフルも、突然の死と周囲の冷たさ、人間関係の複雑さに疲れ、ドラッグを過剰摂取し仮死状態になる。ストーンズの成功し始めの裏の暗部でした。

 ブライアンの周囲の60年代末の退廃的な雰囲気と、フランクの存在に代表されるイギリスの旧世代、上流階級文化との衝突など社会的な背景も描かれています。

 原題のStoned。ぴったりのタイトルです。当然ストーンズに掛けているわけですが、stonedとは、酒や麻薬に溺れる、という意味があり、二重含意になっているわけです。

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2006年7月28日 (金)

With a Little Help from My Friends

Ringo_starr_his_all_star_band723日、1989年、リンゴ・スターが長年のアル中リハビリから復活してオールスターバンドとのツアーを開始した日。




Ringo_starr_blast_from_your_past

 リンゴの70年代のソロのヒット曲を集めたベスト盤 Blast from your Pastの裏ジャケに、地元の産婦人科医の言葉、として

You don’t have to be the first, but make sure that you are not the last

「一等である必要はない、ビリッケツでさえなければ」

と書いてあります。彼の座右の銘なんでしょう。

 ビートルズ時代の彼の発言にも

 「ファンに、四人の中で誰が一番好き?と尋ねたら、きっと僕は四番目になるだろう。でも、二番目に誰が好き?という質問だったら、僕が一番になるんじゃないかな」。 なんていうのが残っています。

 個性豊かだった四人の中で最も自己主張が少なく、音楽での才能も(?)だった彼。

 最初のドラマーで、人気者だったピート・ベストが、契約したレコード会社のプロデューサーからの条件でくびになり後釜で入ったとき、僕が悪いことをしたみたいだ、音楽が楽しめない、と言った彼。

 解散後、他の三人全てから楽曲提供を受けた。

 他の三人全てと一緒に演奏したのは彼だけ。

 彼は、解散後、点になってしまったビートルたちを線で結びつけることができた唯一の存在でした。

 オールスターバンドも、盛りを過ぎたミュージシャンの大集合のお祭りにも見えますが、そんなリンゴの人柄あったればこそロックスターたちが一堂に会することができたのでしょう。Ringo_starr_his_all_star_band_so_far

 オールスターバンドの企画はその後12年間続き、ゲストはそのたびごとに入れ替わり立ち代わりしますが(大きく深呼吸)

Dr.ジョン、レヴォン・ヘルム、ビリー・プレストン、クラレンス・クレモンズ、リック・ダンコ、ジョー・ウォルシュ、ニルス・ロフグレン、バートン・カミングス、デイヴ・エドモンズ、ティモシー・B・シュミット、トッド・ラングレン、ピーター・フランプトン、ランディ・バックマン、フェリックス・キャヴァリエ、ジャック・ブルース、ゲリー・ブルッカー、サイモン・カーク

なんていうそうそうたる顔ぶれが参加しました。

 その足跡をまとめたDVDを観てみますと。The_band_greatest_hits

 いきなり、リック・ダンコ、レヴォン・ヘルムのザ・バンドコンビによるWeightから始まります。

 他にも、ジョー・ウォルシュのRocky Mountain Way、サイモン・カークによるフリーの All Right Now、ジャック・ブルースによるクリームのSunshine of Your Loveなんかが入っています。そんな感じで、参加アーティストも自分の代表曲を披露したんでしょう。

 その間を縫って、リンゴもその贅沢なメンバーをバックに、自分のソロのヒット曲、Photograph, You’re Sixteen、ビートルズ時代に彼のリードで有名になった曲、イエローサブマリンなんかを挟んでいきます。

 リンゴのステージングは単調。曲のリズムに合わせて右手を左右にウエーブするだけのパフォーマンス。でも楽しそう。ビートルズの頃のライヴは、機材もよくなく、聴衆の悲鳴のほうが大きく、全く楽しめなかった。人前で歌うのを好きになれたのは割りと最近なんだそうです。Ringo_starr_his_all_starr_band_tour_2003

 最後はWith a Little Help from My Friendsの大合唱。

 僕はジョン暗殺の前から、四人の中で一番長生きするのはリンゴなんじゃないか、と思っていました。そう思っている人、案外多いのでは。年齢は上から二番目だけど、一番ストレスのない人生を送っているような気がする。不謹慎ですが、残りは二人、どうなるでしょう。

 運命にもたらされた幸運な人生を精一杯エンジョイしているのかも。

 そして、持つべきは友達。

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2006年6月22日 (木)

When I'm 64

日曜日から何度これを目にしたことでしょう。

日曜日の18日、when I’m 64と作って歌っていたあの人が、本当に64歳の誕生日を迎えてしまいました。

その日以来、音楽関係のブログを歴訪したりするとやたら目に付き、日本の新聞の見出しにすら使われていました。

また今月29日は、この人を擁した、ポップスの歴史の中で最も成功したグループが日本の土を踏んで、日本武道館でEH・エリック氏を司会に、ザ・ドリフターズを前座に従えて、ほとんど悲鳴しか聞こえなかったという伝説的な30分コンサートを開いて40周年ということもあって、記念特集番組なんかも企画されていて、注目を浴びているようです。

そういうわけで陳腐ですが、ちょっとこの話題を。

64歳になっても、僕をまだ必要としてくれるかい?」と歌っていた彼の64歳の誕生日前後に、ちょうど離婚問題が持ち上がっていることも皮肉。Paul_linda

やっぱりほとんどの人のイメージの中では、彼のパートナーは前妻のリンダなんだろう。二人の相互補完的なコンビネーションはある意味で理想的な夫婦像だったのかもしれない。

仕事上のもう一人のパートナー、ジョンの伴侶、ヨーコは、中性的だった四人のバランスの中に異性として堂々と入り込んだため、あの絶妙なバランスを崩してしまった。対してリンダが前面に出てきたのはウィングス結成から。あくまで旦那を後方からサポートする役目で。

このポップスの歴史で最も成功したグループから既に二人が鬼籍に入ってしまいましたが、この人もよく64歳までがんばったという感じです。一番殺されかけた人ですから。

調べてみると、出てくるわ出てくるわ、この人の死亡説。ほとんどが笑っちゃうこじつけですけど。Beatles_sgt_peppers_lonely_hearts_club_b

この人は、実は死んでいて、途中から、この人のそっくりさんコンテストで優勝したカナダ人警察官ビリー・シアーズ・キャンベルという人に入れ替わっているのだ、という。

Sgt.Pepper’s Lonely Hearts Club BandWith a Little Help from My Friendsのメドレーで、前の曲の最後にビリー・シアーズという人が紹介され、後の曲は彼が歌っているという設定になっているが、それはこの交代を暗示したものだという(前回の拙稿も参照)。

She Came in Through the Bathroom Windowの歌詞の中に、「警察署勤めをやめてもっとまともな仕事に就く」という一節があり、これもそのシアーズのことだ、と。Beatles_help

Yesterday, all my troubles seem so far away 「過去、全ての人生のごたごたは遥か昔」まるで死を目前にして人生を回顧しているようだ。




Beatles_let_it_be_1

Let It BeMother Mary comes to me。これは彼が死別したお母さんメアリーに天国で再会した、という意味である?





Beatles_white_album  空耳ネタもいくつか。Revolution No.9re, volve, 逆回転で聴いてみると、彼が Help eと断末魔の叫びを上げているように聞える。彼のファミリーネームはアルファベットで九文字だ。

Strawberry Fields Foreverで、さっきの相棒ジョンが、I buried Paul、俺がポールを埋葬した、と言ってるかに聞こえる部分がある。

 ジャケット写真にも様々な暗示が。そのサージェント・ペパーズのジャケットで彼は、O.P.D.と書かれたバッジをつけている。これはofficially pronounced dead 死亡公式発表、の略ではないのか?

いや、実はこれはOPDではなくOPPであって、Ontario Provincial Police オンタリオ州警察、のバッジで、彼がカナダ人のファンからもらったもの、だという。

え?なら尚のこと、それはカナダの元警察官が付けている、と考えたほうが自然ではないのか?Beatles_abbey_road

極めつけのアビーロードのジャケット。横断歩道を一列に渡る四人。白いスーツのジョンが神、灰色のリンゴが葬儀屋、青のジョージが墓掘り人、そして黒スーツ、裸足、逆足の彼は、棺桶、を象徴している、という。

その背後のフォルクスワーゲンのナンバープレートが、LMW28IF、と読める。これはLinda McCartney Widow, 28 if (he were alive) リンダは未亡人、彼は生きていたら28歳、という暗号ではないのか?(実際は28IFではなく281F、数字の1、のようだ)

 ジョンは後の、彼を批判した曲 How Do You Sleep?の中で、「フリークたちが君は死んだって言ってたけど、それが正しかったんだよ」なんて一節があります。http://radiobaka-archive.cocolog-nifty.com/bakabaka/2006/03/everything_must.htmlPaul_mccartney_paul_is_live_

 グループ解散後、一時期はそれ以前の数々の名曲を演奏することにすら消極的だったのが、ここのところ吹っ切れて積極的に演奏するようになり、いまなお精力的に世界を回っています。93年、彼はライヴアルバムを発表し、そのタイトルもPaul is Live 「ポールは生きてる!」ジャケットも、そのアビーロードと同じ横断歩道を、犬を連れた彼が渡るパロディ。

 いろいろ言われましたが、64歳になった彼は、正真正銘、本物の生きている彼なんでしょう。

 名前をできるだけ隠そうとしましたが無理でした。バレバレですね。克也さんに会うなり、いかりや長助よろしく「ウォッス!」と言った、あの人です。

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