シンガーソングライター

2010年9月23日 (木)

Take It Easy~All I Wanna do

またまた続くライブリポート。

 ジャクソン・ブラウンとシェリル・クロウのダブルヘッドライナー。

 しかもあまり大きくない場所で。これは楽しみです。俺が一番得意なシンガーソングライター、ウェストコースト、Hot ACのジャンルで。

ジェイムス・テイラー・トリビュート・コンサート [DVD]

 この二人が正式に同じステージに上がって同じ曲で最初に共演したのは、僕の知る限り、2006年、ジェームス・テイラーへのトリビュート・コンサートでした。ジェームスの音楽活動開始何周年かをかねて、その前年のハリケーン・カトリーナでの被害救済のために意を一つにしたアーティスト団体 Music Caresのイベントでもありました。ディシー・チックス、ボニー・レィット、スティング、インディア・アリー、アリソン・クラウス、キース・アーバン、ブルース・スプリングスティーン、デヴィッド・クロスビー、キャロル・キングらが集合し、ジェームスの曲をそれぞれの解釈で演奏しました。ジャクソンとシェリルは「メキシコ」を演りました。ここに集まったアーティストたちの中で、ジャクソン、ジェームス、ボニー・レィット、ブルース・スプリングスティーン、デヴィッド・クロスビーが、1979年、原発反対のために集まったNo Nukesに参加した人たちと被っています。シェリルは2008年大統領選挙での民主党大会でもステージに上がったし、政治的なスタンスのうえでも二人は共通点があるのでしょう。シェリルはジェームスに、「あなたの音楽は私の人生を変えました」と言っていましたが、同じ世代のジャクソンに対しても同じようなリスペクトがあるのでしょう。

 最初はジャクソンでした。これは、小生にとっては、エー、ウソだろ、って感じでした。てっきりジャクソンのほうが後だと思っていました。でも考えてみたら、いくらベテラン、西海岸が最も西海岸らしかった頃の西海岸を背負って立っていた孤高の男にしてみても、ヒット曲の数ではすでにシェリルに抜かれていて、より今に近い分、シェリルのほうがお馴染み度も深いか。

 1年前、前回来日時にベストヒットにも出演、克也さんも直にインタ。それを横目で見ながら行きましょう。

Jackson_browne_setlist

 その1年前に登場した時、またそのときの新譜「時の征者」のジャケットのようなヒゲ面ではなくさっぱりしていました。

Time the Conqueror (Dig)

 いきなりその、「時の征者」の2曲から始まりました。「“Time is on my side”から始まるけれど、今の時代には僕は明らかに後れている。これは子供の頃の夢をイメージして作った曲だ」と言っていました。

Jackson Browne

 それ以降は70年代の、内省的な曲を書いていた時代の曲が5曲続きました。ジャクソンもギターから中央に持ってこられたキーボードへと移ります。72年のファースト・アルバムから、”Rock Me…””Fountains of Sorrow”, ”Late…”74年の名盤”Late for the Sky”から。このアルバムには、No Nukesで歌われた”Before the Deluge”,ニコレット・ラーソンの追悼コンサート(これもNo Nukesに参加したアーティストがかなり被っていました)で歌われた” For a Dancer”なんかも入っていました。

Late for Sky

ジャクソンは前々回の来日ツアーではギター一本バックなしで、事前セットリストなし、全て客席からのリクエストに答えるという形式のライヴをやっていたので、その時を憶えている人がいたのか、この辺りであれを演れこれを演れという声がやたらかかり、ジャクソンは「そんなにIf It Makes You Happyが聴きたいかい?」と笑いを取ったり。でもリクエストに答えてセットリストにない”Sky Blue and Black”の一節を短く挿入しました。

For Everyman

“These Days”, “Take It Easy”はセカンドアルバム”For Everyman”収録。”Take...”はジャクソンはファーストアルバムの以前にハコが出来ていて彼のデビューシングルになるはずだったがどうも当時の彼に似合わない垢抜けた曲で、曲のフィニッシュが巧く決まらず後回しにされた。それをグレン・フライに持っていったところ、グレンは「アリゾナ州ウィンズローはいい景色だな」以下の歌詞を加え、EEaasYYYと最後を伸ばすコーラスをフィニッシュにして曲を完成させて、先に彼の新しいバンドが取り上げてしまった。あとはご存知のとおり。

ここでステージが真っ暗になり、”Lives…”ベストヒットでビデオが流れた”For America”も収録された86年のアルバムのタイトル曲。インタでは「時間が経過するにつれて、周りの人間が変わっていくし、その人たちの音楽の好みも変化するし、自分の好みも変化する」と言っていました。80年代前半は、初めて”I love you””というフレーズの入った曲を書いたり、青春映画のサントラに”Somebody’s Baby”を入れてシングルヒットを出したりちょっと軟派になりかけましたが、この”Lives…"あたりから音楽性も変化させつつ政治性を前面に出し始めました。

Naked Ride Home

それから、2002年の Naked Ride Home からの“About My Imagination”、「時の征者」からの”Givin’ That Heart Away”と新らし目の曲が続きました。

孤独なランナー

そして、第一部の幕、ライヴアルバムだけど全部新曲だった78年「孤独のランナー」からの”Love Needs…”76年の名盤の表題曲”Pretender”、そしてその「孤独のランナー」で盛り上がってジャクソンのパート終了。

Pretender

こうしてみると、ヒット曲の数はそれなりにあるのに、彼自身のヒット曲は「孤独…」のみ、あとは全てアルバムカット。でもみんなが知っている曲でライヴが成立してしまう。やっぱり彼の音楽はキャリアを通じてヒットチャートとは別のところにあったんだなあ、と再確認できました。

あれ、でもいくらなんでも、あの曲を演ってないなあ。

バックのギターは、80年代以降の西海岸を支えていたマーク・ゴールデンバーグでした。

さて、20分の休憩を挟んでシェリル登場。

これはもう、彼女のベストアルバムを生で聴いている感じのヒット曲のオンパレードでした。

Sherryl_crow_setlist

もう1990年代もオールディーズなのかな。

告白すると、個人的には90年代前半の数年間、本職を得るための修行をしていて音楽に少し弱くなっている時期(ベストヒットも中断しちゃったし)があるのですが、彼女はその直後に出てきました。それでも”All I Wanna Doを聴いて、これは何だろう?と思ったものですが、今にして思えば、彼女が正統な西海岸の後継者だったんですね。 

印象に残ったのは彼女の器用さです。彼女は曲によってアコギ、エレキをころころ換えたりベースを演ったりしてました。

Sheryl Crow

ジャクソンもジョークで言っていた”If It Makes You Happy”でいきなり始まりました。セルフタイトルの二枚目で、ロックっぽい彼女を印象付けた。

Tuesday Night Music Club

デビューアルバムTuesday Night Music Clubからの“Can’t Cry Anymore”

2年前と比較的最近のアルバムDetourからの”Love is Free”

Detours

三枚目「グローブ・セッションズ」からの”My Favorite Mistake”

ベスト盤のための新録音、キャット・スティーヴンスのカバー、ロッド・スチュアートもヒットさせていた”The First Cut is the Deepest”

The Globe Sessions

ディズニーのアニメ映画「カーズ」に提供した”Real Gone”

同じく映画Bee Movieのサントラで録音したビートルズの”Here Comes the Sun”.

と、バラエティが富み且つ耳馴染みのある曲が続きます。

ファーストアルバムからの二番目のヒット、”Strong Enough”。そういえばこの曲のアコギやマンドリンを聴いて、ある程度この人の方向性がわかってきたように憶えています。

「みんな、ブラックベリー持ってる?そのうち、みんなの頭の中にチップが埋め込まれる時代が来るんじゃないかしら、と思って作った曲よ」とMCが入って”Good is Good”

いよいよ盛り上がってきて、「これはちょっと古いけどね」と言われて”All I Wanna Do”1994年ってそんなに古いか。あ、もう16年も前か。「これはディスコでもカントリーでもないわ。ここはLAよ」のせりふで始まる、LAはお決まりで「ナゴヤ」に置き換えられました。

“Soak Up the Sun,” “Everyday is a Winding Road”もうこのあたりになると注釈を付けようとするほうが馬鹿ですね。

ザ・ヴェリー・ベスト・オブ・シェリル・クロウ

最後”I Shall Believe”。ファーストアルバム最後に収められていた曲でシングル曲でもなくかつてはライヴでもあまり演奏されなかったものが、ベスト盤に選曲されていて意外だと思われましたが、ここにジャクソンに通じる彼女の政治性が見え隠れするのですね。平和を希求する曲。

ここでいったん引っ込み、再びシェリルのバンドが出てきて、「ジャクソン、出てきて!」と呼びました。メガネをかけてジャクソンも再登場。シェリルが「(ある意味で)ジャクソンの曲を一緒に演るわね」とMC。それでさっきの、まだ出てきてなかったあの曲が始まりました。”Doctor My Eyes”。ただしオリジナルとはかけ離れたロック食の強い現代的なアレンジでした。それが「ある意味で」だったんですね。

そして最後も二人でやった”Peace Love and Understanding”は、ニック・ロウ作、エルヴィス・コステロが取り上げた曲。シェリルは去年エルヴィスと共演して感銘を受けたようです。

という、私にはとてもうれしい一夜でした。

それにしても、ジェームス・テイラーよ。日本の一極集中に毒されていないか?なぜ東京、横浜でしかやらないのだ?せめて大阪には来い。君の弟リヴィングストンは名古屋くんだりまでやってきて、たった60人の前で歌ったんだぞ。

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2009年11月20日 (金)

Listen to the Music!

オールレディ・フリー

  なんか最近は、前の原稿から間を開けてしまっては、その言い訳から始まってばっかりのような気がします。

 今回は、本業でかなり長いものを書く仕事がたまっておりまして。9月に病気にさえかからなければその仕事も余裕を持ってできたんですけれど。その病気の麻痺もまだ残ってますし… それでもそんな中、このサイトのお仕事も忘れてはいません。不良大学教授のハリー先生は本領発揮。

 ちょっと遅れましたがライブリポートをちゃんとやります。

 デレク・トラックス・バンドとドゥービー・ブラザーズのダブルヘッドライナー。

 もちろん、お目当ては後者なのですが。

 前座扱いではない、ちゃんと肩を並べていたデレクに関してもちゃんとリポートしますね。

「デレク・トラックス、1979年の68日、フロリダ州ジャクソンヴィル生まれ。
At Fillmore East

叔父はオールマン・ブラザーズ・バンドの結成時からのドラマー、ブッチ・トラックス。家ではいつもオールマンズのアルバムや、そのリーダーだったデュアン・オールマンが大きく貢献していたデレク&ザ・ドミノスの『レイラ』などがかかっていた。

Layla and Other Assorted Love Songs
もうおわかりのとおり、デレクという名前はクラプトンが70年代初頭に率いていた、その伝説的なグループからいただいたもの。」

実は小生、彼を一度、観ていたんですね。これもクラプトン絡み。3年前に観たクラプトンの、ヒット曲をあまり演らずデレク&ドミノスでのレパートリーなんかを中心に選曲していた日本縦断ツアー。クラプトンはその時、自分も含めてトリプルリードギターの構成でしたが、残った二人のうちの一人に、金髪の長髪で、若いのにすげー巧いやつがいるなと思って観ていたのがいたのですが、それがこのデレク・トラックスだったんですね。

なるほど、クラプトンが彼の腕を見込んだ上だというのも当然でしょうが、デレク&ドミノスつながり、サザンロックつながりだったのか、と今にして改めて納得。

「デレクはギターを、彼自身の言葉を借りれば、「身長がギターより小さかったころに」弾きはじめた。もちろん手も小さかったので、スライド・バーを使うようになったのは、そのハンディを克服するためでもあったらしい。
 やがて彼は、スライドでもレギュラー・プレイでもオープンEチューニングで弾きこなすというスタイルを確立した。愛器はギブソンSGとフェンダーのヴィンテージ・アンプ。エフェクター類には基本的に頼らない。
 スライド・バーは、デュアンが使っていたのと同じガラス製の薬ビン。ピックは使わない。そのきわめて個性的なフォーマットで、デレクは表情豊かなギターを弾きこなしている。」
 彼の曲はラジオで流れるようなタイプのものではなく、評価は高くともヒットがあるわけではないので、実は小生、彼のCDは聴いたことがなく、セットリストもいただけなかったので、詳細なリポートはできないのですが。

エフェクターを使わないというのには驚きでした。アンプだけであれだけいろいろな効果音を出しているのかと思うと驚異です。

世代のせいもあるでしょうが、サザンロックの匂いはあまり感じられませんでした。むしろインストもの中心、スライドギターと、エフェクターを使っているとしか思えない音色で、高中正義に近いものを感じました。

ドゥービーから、サックスのマーク・ルッソがずっと、ゲストでドラムスのエド・トスが一曲参加しました。

ジェフ・ベックとかデュアン・エディーとか、昔はギターだけで独り立ちしていたミュージシャンのスタイルがあったものですが、最近は見かけませんね。その伝統を一人になっても守っていくような、そんな気概を感じました。

さて、20分程度の休憩の後、お目当てのドゥービー。

3年前は夏フェスで来日して、去年はシカゴとダブルヘッドライナーでアメリカを縦断しました。そのシカゴはこの夏また、一番気の合うアース、ウィンド&ファイアとまわり、ドゥービーはレイナード・スキナード、38スペシャルらサザンロックの連中とツアーしたようです。デレクもその流れかな。

もうオリジナルメンバーはトム・ジョンストンとパット・シモンズしかいません。でもこの二人がいればそれで満足、って感じ。

あと古いメンバーだったら、「ミニット・バイ・ミニット」から参加したジョン・マクフィー。この人はギターが一番巧い上にいろんな楽器がこなせてしまう器用な人。音の要になっていました。あと、このバンドの特徴であるダブル・ドラムスの一端をかなり初期から担い続けてきたマイク・ホザック。

あとは、82年にいったん解散したあと、生き残りの相当部分が矢沢永吉のバックを勤めたりしましたがその時一緒に演ったキーボードのガイ・アリソンとか。

70年代中期からいたけれど残念ながら2005年に急逝してしまったキース・クヌードセンの後釜で入ったヴァーティカル・ホライズンのエド・トスとか、新しい人たちばかりですね。

ドゥービーのほうはセットリストをゲットしました。しかしこれはステージ上に貼り付けてあったもので、ステージに向かって一番左側にいたベースギターのスカイラーク(本名ではないでしょう。当然)が散々踏んづけたあとのもの。ローディーさんに頼み込んで剥がしてもらったものですからビニールテープの痕もくっきり、ビリビリだったのですが、小生が可能な限りの修復を施しました。なんてったってドゥービーのメモラビリアですから宝物です。

Doobie_set_list

みんな省略されて書かれているのでちょっと詳しく。

Stampede

1 Take Me in Your Arms (Rock Me) もともとホーランド-ドジャー-ホーランドのモータウンのソングライターチームが作って、60年代にアイズレー・ブラザースなんかが中ヒットさせたR&Bナンバーですけど、ドゥービーがアルバム「スタンピード」で75年に取り上げて有名になった。ライブでも景気づけの一発目として定着しています。

Toulouse Street

2 Jesus is Just Alright

72年彼らの人気を決定付けた「トゥールズ・ストリート」から。克也さんがZIP HOT 100を始めたばかりの95年にはDCトークというクリスチャン・ロックバンドがカバーしていました。ドゥービーのライブでは、ギターの音が上がるときに、ギターの3人プラスベースの一人の四人が並んでギターのヘッドを持ち上げるのがお決まりのパフォーマンスになってます。

Brotherhood

3              これはもともと一単語のタイトルですから省略なし。彼らは82年に一度解散しますが、89年に、トム・ジョンストンを迎えたオリジナルに近い編成で再結成(トムが78年からがグループを離れたのは健康上の理由となっていますが本当なんでしょうかねえ?ソロアルバムは出していましたし)。初期のロックっぽい音で戻ってきてくれて古いファンを涙させましたが、その際結成二枚目のアルバム “Brotherhood”からのヒット曲。91年。

4              Rockin’ Down the Highway

また名盤「トゥールズ・ストリート」から。この4曲あたりまでが景気づけで、ほとんどノンストップで演奏されました。

5              Double Dealing Four Flusher

「スタンピード」から。これはシングルヒットではないのですが、彼らは初期からライブとレコードは別物、と考えていた節があり、例えばこの曲は初期のライブで中盤のいいところで演奏されることがすごく多かったし、それは再結成後も受け継がれているということですね。

6              一語タイトルにつき省略なし。これも“Brotherhood”から。デレクがゲストで参加しました。

7              これは新曲です。タイトルは「・・・シャトウ」ともっと長かったかもしれませんがメモをなくしてしまいました。来年、新譜が出るそうです。「新しいCD,いや、最近はいろいろ形式があるからなんていえばいいのかねえ」とパット独特のオトボケMCで始まりました。やっぱり70年代初期の、そして再結成後のドゥービーの音だと感じました。

ワン・ステップ・クローサー-#紙ジャケSHM-CD#

8              One Step Closer

 80年の同じタイトルのアルバムから。実は、小生が今回の選曲で一番驚いたのはこれです。再結成後のライブでは、マイケル・マクドナルドがトムに取って代わって音作りの中心となりR&Bプラスオシャレロック色が強くなった、78年の「ミニット・バイ・ミニット」そしてこの「ワン・ステップ・クローサー」からの選曲は、当然歌う人がいないし、音の雰囲気も違うので極力避けられていたのですが、サービスの意味もあってやったのでしょう。この曲はパットとマイケルの共作曲でもあり、権利もあるのでやりやすかったこともあるでしょう。しかし面白いことに、レコードではマイケルがリードヴォーカルをとっていた部分をパットが歌い、パットがリードヴォーカルをとっていた部分をスカイラークが歌っていました。

ドゥービー・ストリート-#紙ジャケSHM-CD#

9              Takin’ It to the Streets

76年の同名アルバムから。これもマイケルの曲で、それ以降のドゥービーの音が、シンセサイザー中心になっていく変化のさきがけとなるヒット曲ですが、これはトムが休養前に正式メンバーとして参加した最後のアルバムでもあるので、必ず演奏されます。マイケルとも関係が悪いわけではないですし。イヴェントがあるときにはよく共演しています。この曲ではキーボードのガイ・アリソンと、ヴォーカルでは再びスカイラークが大活躍しました。

10          Don’t Start Me Talkin’

  「トゥールズ・ストリート」から。これもヒット曲でなくてもライブで重要な位置を占め続けていた曲。そろそろオーラスの雰囲気。

11          Little Bitty Pretty One

 これなど、彼らがライブとレコードは別物だと考えている証拠みたいな曲です。これは彼らはレコード録音していません。でもライブではやります。オールディーズの、ドゥーワップとバブルガムをあわせたみたいな曲なんです。オリジナルはフランキー・ライモン&ティーンエイジャーズ、声変わり前のマイケル・ジャクソンも録音していました。きっと誰もが一度は聴いたことのある曲です。そんな子供っぽい曲で最後を盛り上げます。

What Were Once Vices Are Now Habits

12          曲名省略なし。74年の”What Were Once Vices are Now Habits”(「昔は悪癖だと思ってたものからもう抜けられない」が直訳で、もっと短い邦題があったような気がするけど失念しました)。彼らにとって最初のナンバー1ヒット。だけど元々はB面扱いだったものに火がついた。バイオリンが印象的なゆったりとした曲。ジョン・マクフィーは起用でそのバイオリンも綺麗に弾いてしまいます。サビの歌詞に”Mississippi moon won’t you keep on shinin’ on me”があって、このミシシッピの部分をそのコンサートの場所で言い換えるのがまたお決まりですが、当然 “Nagoya moon won’t you・・・で拍手喝采でした。

キャプテン・アンド・ミー#紙ジャケSHM-CD#

13          Long Train Runnin’

    73年、“Captain & Me”彼らの代表的アルバムの一つなんですけどここでやっと初めて出てきました。これはおなじみの曲でしょう。リミックスも何度もされていますし。

 小生はアメリカにいたとき、この曲と全く同じ経験をしました。コロラド川をラフティングで下っていたとき川沿いの線路に貨物列車がのそっとガタゴトやってきて、その長さにびっくりしました。本当に長い、何両編成だったか、500メートルくらいあったかなあ、しかも何台かの車両に Illinois Central と書いてあったのには、感動しました。

 ここでいったん引っ込んで、アンコール。ここのところアンコールのパターンは決まっているようです。

14          China Grove

続いて“Captain & Me”から。これもアメリカの道を車で走りながらラジオでかかってきたら、なんとぴったりだろう、と思わせる曲ですね。トム・ジョンストンは、おら、お前ら、盛り上がれ、とマジで怒ったような顔をしてステージを縦横無尽に行ったり来たりします。

15          曲名省略なし。またまた続いて“Captain & Me”から。そして最後はやっぱり

16          Listen to the Music

   デビューアルバム「トゥールズ・ストリート」の第一曲目にしてすでに彼らの代表曲となってしまった。

 演奏がぴたっと止まり、ドラムと手拍子だけで “Wow wow, listen to the music, all the time”の、観客を交えて大合唱。おお盛り上がりの末、余韻を残しつつ終了。

 いやあ、音楽って本当にいいですね。みなさん、もっと音楽を聴きましょう。

  折り紙菊ちゃんさん、東京でのコンサートはいかがでしたか?

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2009年8月 2日 (日)

Old Friends

セントラルパーク・コンサート [DVD]

サイモン&ガーファンクル、日本ツアー第一回目を観ました。

 外タレ日本縦断ツアーの場合、ここ名古屋は大抵最終日に回される。東京や大阪みたいに2,3回の公演は必要なく一回だけですむし、そのくせ国際線が整備されているから翌日すぐ帰国できるからですね。

 今回はその逆、というわけです。来日してすぐ初日。今回はニュージーランド、オーストラリア、日本というツアーで、オーストラリアからの飛来ですから来易さもあったかもしれません。

 会場はドラゴンズがロード中のドーム球場。

 観客の年齢層は高い高い。小生の父親かと思うような方々もかなりお見受けしました。

 それでもアリーナ、外野ともいっぱいになり、終了間際には要所要所にガードマンが。その制止を振り切って、ミキサーさんに近づいてセットリストの余りを強請る私はいったい何者なのでしょう?ただし今回は、大人の方が多かったためか、ライバルが少なく比較的容易にもらえましたね。ただし名古屋のではなくその数日前の日付のシドニー公演のものでした。ここでは演られなかった曲も含まれています。他の場所では演った可能性もある曲ということですね。

Simon_garfunkel_nagoya_setlist

 ACT 1

 スクリーン映像から始まりました。「アメリカ」のメロディに併せて、高校生のときの初めてのライブの写真、彼らの全盛期のレコーディング中のスタジオ映像から、その同時代の世界の流れを象徴する映像、ニクソン、ブレジネフ、毛沢東、鄧小平、ネルソン・マンデラ、ゴルバチョフ、ベルリンの壁崩壊…(911事件はありませんでした。ニューヨーク出身の二人としてはまだ拭い去れない思いがあるのでしょう)

 そしてスポットライトがステージへ。観客がスクリーンに目を奪われている間にいつの間にか登場した二人。最初の曲はリストのとおりOld Friends でした。ポールのギター一本で。

Old Friends

 ここでひとつ、僕の予想が外れました。彼らは「あの曲」を発表して以来、二人のライヴは必ず「あの曲」で始めていました。それがそうではなかった。そこに今回の意味があったのです。

 2曲目から彼らがスクリーンに大写しになり、演奏もフルバンドになりました。2曲目「冬の散歩道」は、カバーしたバングルスのものから逆に影響されたのではないかと思うほど、エレキのツインギターで80年代っぽいアレンジでした。ここら辺、往年のファンはびっくりしたのではないでしょうか。その後もそういうのが続きます。

 しかし一旦はポールのアコギの連続和音ハマリングが印象的な”…Rock”。そして再び今度は彼らのヴォーカル入りの”America”

Bookends

 ここですこし間が空き、ポールが「僕の『古い友人』アーティだよ」とガーファンクルを紹介し、ガーファンクルが後方に用意されたベンチに腰掛け、ポールのギター一本、アーティのソロボーカルで、”Kathy’s…”

Sounds of Silence

 この連続する二曲にキャシーという女性が登場しますが、ポールの最初の恋人で、彼がイギリスに放浪するときにも後ろ髪引かれながらアメリカに置いてきた人ですね。

 この辺りから、今回のテーマ『古い友人』がクロースアップされます。

 アーティが「僕たちは高校で出会い、二人で曲作りを始めて、学校のパーティで演奏したんだ、こんな感じだったよ」と、”Hey Schoolgirl”。一分にも満たない短さでした。でもこの曲は1957年に既にローカルヒットになり、「トムとジェリー」という名で「アメリカン・バンドスタンド」への初出演も果たしているんですよね。そして「エヴァリー・ブラザースと一緒に、こんなのもカバーして遊んでいたんだ」と短くジーン・ヴィンセントの”Bee-Bop…”を。

Parsley, Sage, Rosemary and Thyme

 お遊びコーナーから、昔ながらのファンには涙物のコーナーへ。美しい反戦歌”Scarborough…”

 60年代末から70年代のフォークギター少年たちが挙って手本にしたポールでしたが、彼の双方には二つ特長があると思います。一つはツーフィンガーピッキング奏法といって、普通なら親指、人差し指、中指の三本でやる分散和音を親指、人差し指の二本でやってしまうこと、もう一つはギターのチューニングを変えずに不思議な響きの和音を発明すること。このあたり、チューニングを滅茶苦茶に変えることに命を賭けているようなスティーヴン・スティルスと違うところですが。この曲の美しいイントロのコピーにみんな苦労したみたいですね。

 そして、やはりポールがイギリス放浪中に故郷への慕情を歌った「故郷に帰りたい」。その週の『英語でしゃべらないとJr』(子供とちゃんと拝観してますよ)のWake Up Songのコーナーでも取り上げられていました。この来日にあわせた選曲だったのでしょうね。

ACT

 ここでまたスクリーンにオリジナル映像が映し出されました。今度は70年代以降、彼らのソロアルバムのジャケットの変遷や、アーティが一時映画俳優をやっていたときの映像など、そして「卒業」の若きダスティン・ホフマンが流れ、そのテーマ”Mrs. Robinson”へ。

The Graduate (1967 Film)

 さっき、彼らがライヴで必ずオープニングにしていた「あの曲」というのが、実はこれなんですね。伝説の81年のセントラルパークでのリユニオン・コンサートもそうでした。つまりここから前半とは別の第二幕がはじまる、という意味もあったのでしょう。

 ポールが「今にして思えば、アーティと一緒に録音すればよかったと思っている曲だよ」とMCが入って”Slip, Slidin’…”。これは1977年のポールのソロのベスト盤『エトセトラ』に入っていた曲ですが、ポールのこのコメントは僕にとっては実にうれしかった。僕も同じように、S&Gでやるべきだと思っていたし、そのセントラルパークで初めて二人でやったヴァージョンを聴いたとき、やっぱり正しかったと思っていました。

 そしてフォルクローレ「コンドルが飛んでいく」。アメリカでは中ヒットでしたが日本では最も売れたシングルだけあって、このとき一番拍手が大きかったです

Scissors Cut Fate for Breakfast

 ここでポールは引っ込んでしまい、アーティのソロのミニコーナーになりました。名古屋でやられたのは、”Bright Eyes”, ”Heart in New York”, ”Perfect Moment” “Now I Lay Me Down to Sleep”4曲でした。1979年イギリスで最も売れたシングルになった”Bright…”。そして、確かに「この曲をマイケル・ジャクソンに捧げます」と言って” Heart in…”を歌い始めました。アーティがソロ時代、ジミー・ウエッブに次いで好んで取り上げたギャラガー&ライルの曲で、丁度セントラルパークがあった81年に発表された、唯一の新曲として歌われた、アーティにとっては自信作でしたがあまり売れなかった曲。しかし、インディアナ生まれ、LAに移ったモータウンに育ち、LAで亡くなったマイケルに、どのような思いをこめてNYの曲を歌ったのでしょう?

 ニューヨーク、君の頭には金のことしかないんだね

New York, You got money on your mind

  And my words won’t make a dime’s worth of difference

 僕が何を言おうとも、1ダイム貨の価値にもならない。

So here’s to you New York

 そんな君に乾杯、ニューヨーク

歌詞のこの辺りが、商業主義の犠牲になったマイケルへの追悼、ということだったのでしょうか。

 “Perfect…”は比較的新しい2002年の”Everything has to be Noticed”からの、”Now I…”子供向けファミリー・アルバムからの曲でした。

 そして「僕の『古い友人』ポール・サイモンです」と紹介して、アーティは引っ込みました。ここからポールのソロのミニコーナーでしたが、古いS&Gしか知らないできた人はびっくりしたのではないでしょうか。

The Essential Paul Simon One-Trick Pony

 ここでは共に1986年の『グレイスランド』からの” The Boy in the Bubble”,”Diamonds on the Soles of her Shoes”が披露されました。南アフリカのリズムを取り入れて、ステージ上は物凄く暑くなった瞬間でした。

 ポールは、S&Gでも先程の「コンドル…」ではフォルクローレをやったし、ソロとしてのファーストシングル「母と子の絆」ではクラプトンが”I Shot the Sheriff”を演る前にレゲエを取り入れたし、ゴスペルも何曲か、そして上のリストには載っていますが残念ながらここでは演奏されなかった”Late in the Evening”ではカリプソをやった。ワールドミュージックへの飽くなき追求をしていたのですが、『グレイスランド』のときはまだ南アフリカ共和国がアパルトヘイト政策を採っており、そこのミュージシャンと共演したことで非難を受けたりしました。

 今回もリズム体にソエトやプレトリア出身の人をバックに従えていました。このパートでは、小生の父親世代の人たちは乗り切れなかったのではないかと思います。

 S&Gのレパートリーに戻って“Only Living Boy in New York”からバックにアーティが控えめに戻ってきました。

“My Little Town” 1975年に二人が共演で録音し、別々に二人のソロアルバムに収録され、トップ5ヒットになった曲です。

Still Crazy After All These Years Watermark

 彼らは70年の『明日に架ける橋』のアルバムに収録する数曲に関して意見対立を起こしていったんコンビを解消しますが、これはロックバンドにありがちな正式な解散ではなく、その5年後に「サタデイナイトライヴ」で競演し、それを切っ掛けにこの曲を録音し、またその2年後にアートのアルバムでサム・クックのカバー”Wonderful World”で競演しているし、その4年後には例のセントラルパーク、とちょくちょく繋ぎは取っていたんですね。そして今回。まさに腐れ縁の「古い友達」だったわけです。

 “My Little…”の楽譜をはじめてみた時に驚いた覚えがあるのですが、常識を無視した不規則な転調の連続でした。ところが全く不自然に聞こえない、ポールの曲作りの妙ですね。

Bridge Over Troubled Water

 そろそろオーラス。名曲「明日に架ける橋」。アーティがコーラス部分を除いて一人で歌ったレコードと違って、二番目の When you’re down and out…からはポールがリードを取りました。

 大拍手の中、一旦引っ込んで、再登場。

Wednesday Morning, 3 AM 

 アンコール一曲目は”Sound of Silence”

ここまで聴いて、この曲がアンコールに来ることは十分予想できていましたが、それを同演奏するのか興味がありました。この曲のオリジナルはアコギ一本の素朴な音、だけどポールがイギリス放浪中に知らないうちに大ヒットになっていて、ラジオで聞いて驚いた。それにはエレキの12弦とドラムが被さっていたからだ。

 セントラルパークでも、アコギ一本で演っていました。でも今回は、これだけ現代的なアレンジを取り入れてきたのだから、どういう演奏になるか?

 結果。エレキは入りませんでしたがドラムスは入ってきました。それでもオリジナルとは違い、音に厚みが出てより今っぽく聞こえました。

 その後、「ボクサー」を演ってもう一度引っ込む。まだ拍手が鳴り止まず、またまた登場し「若葉の頃」をしっとりと、「セシリア」を総立ちで派手にやり、拍手の中、メンバー全員を紹介して終了しました。

 本当に、「古い友達」の二人の、喧嘩を含めた友情の総括、といった感じでした。

 克也さんと同い年の二人、ポールはいまだに指は細かく動いてますし、アーティの「天使の歌声」といわれたあの高音も健在で、まだ何かやってくれそうです。克也さんもがんばりましょうね。

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2009年6月15日 (月)

We'll Never Have To Say Goodbye Again

 入院中の病室で書いています。

 以前にも書きましたが、二度目の入院です。

 大手術入院中でも病室で連載を続けた海老沢泰久氏の気分を味わうために。

From the Inside

 あるいは、1977年から78年にかけて麻薬中毒と極度の鬱病に襲われて精神病院に長期入院を余儀なくされ、病室で抱いた看護婦への妄想とか、退院した後の将来への不安とか、精神病院をテーマにしたコンセプトアルバム From the Inside を、当時エルトンと仲違いしていたバーニー・トーピンと一緒に作ったアリス・クーパーの気分を味わうために。

 なかなか希な機会だとは思いますので。あまり多かったら困るけど。

 私の場合は検査入院なので、気楽なもんですが。

 ある人に言わせれば、病院とは、生きて出て行くか、ダメで戻れないか、そういうところだと割り切れ、と。

 そんな中で、縁起でもない(?)話題を書きます。

 アーティストの訃報。

 2回前の記事でしたか。ジャーニーの新加入ヴォーカルがフィリピン人だということで、フィリピンの不思議な音楽事情にちょっと触れ、日本以上に70年代、80年代のお洒落ポップスが受け入れられている国かもしれない、と書き、このグループを紹介しました。その時の本文をそのままコピペします。

これまた70年代に活躍した、
爽やか系ポップスで「秋風の恋」などヒット曲も多かった男性デュエット、
イングランド・ダン&ジョン・フォード・コーリー。
これも90年代後半になってフィリピンでブームと呼ばれたくらいCDが異常な売り上げをして、30年近く音楽から身を引いて宗教活動をしていたジョン・フォード・コーリーが復活して、彼の場合移住までは至っていませんが毎年フィリピンでライヴをして、フィリピン向けのアンソロジーCDが発売されたりしています。

ちなみに相方のイングランド・ダンことダン・シールズは、カントリーに転向して成功するなど音楽活動は続けていて、彼は「想い出のサマー・ブリーズ」などの大ヒットがある、もう一つの男性デュオ、シールズ&クロフツのジム・シールズの実弟なのですが、現在はその兄弟がSeals & Sealsとしてデュエットで活動しています。

Nights Are Forever Summer Breeze

 その後に知ったことなのですが、このイングランド・ダンことダン・シールズは既に鬼籍に入っていたとのことでした。知らなかったこととはいえ、申し訳ありませんでした。

 今年の325日逝去。悪性リンパ腫のため。

 70年代後半、カーペンターズやバリー・マニロウなんかに代表されたアメリカ産良質ポップスの流れを汲んだ人たちでした。

 このシールズ兄弟を中心とした、二つのデュエットチーム、家族的な繋がりがあったことは当然想像できるのですが、もう一つ、宗教というより大きな次元でつながっていました。

 そして音楽的ルーツも、50年代にまで遡れます。

 このシールズ兄弟、ジョン・フォード・コーリー、ダッシュ・クロフツは、バハーイ教(表記方法は諸々あるようです)信者でした。

 論じるほど詳しく知りませんし、入りすぎて間違ったことを書いて問題を起こすといけませんから簡単な記述に留めますが、イスラム圏で誕生したもののキリスト教に近い教義を持ったために迫害を受け、信者が世界中に散らばった歴史を持つようです。人種を超えた融和(ジム・シールズの奥さんはアフリカ系)、博愛、絶対平和が教条の柱のようで、司祭など信者の中で階級が全く存在しないのも特徴のようです。

 シールズ&クロフツ、イングランド・ダン&ジョン・フォード・コーリーのレコードの中ジャケには、必ずこのバハーイ教の宣伝が出ていました。

 小生は日本でのバハーイ教信者だという人に一人だけ出会ったことがあります。156年前、大学教員として駆け出しの頃、東京の某私立大学の学生さんでした。その人は、シールズ&クロフツは知っていましたが、イングランド・ダン…は知らなかったようです。もっと、日本にはどれくらい信者がいるのかとか、訊いておけばよかった。

 そしてその音楽的ルーツとは。

 この連載で数年前にチラッと書いたことがある、チャンプス「テキーラ」なのです。

 その時の文章も持ってきてしまいましょう。

 

さて、この流れで、ビルボード誌が最も歌詞の短いNo.1ヒットとして記録しているのは何でしょう? 

50年代の、チャンプスというグループの、「テキーラ」という曲です。聞いたことありますか?テキーラ!という掛け声しか入ってない。

 この曲についてもいつか書く機会があるかもしれません。

なんと20069月の記事でした。その後始末を今回することになろうとは。

このチャンプス、大人数のグループでしたが、全員がバハーイ教信者、ということで繋がっていたのです。シールズ&クロフツもこのチャンプスに参加していました。

 ここから派生したシールズ&クロフツは70年代前半になって、既出の「思い出のサマー…」や「ダイアモンド・ガール」、アメリカの大学の卒業式の「贈る言葉」並みの定番となった「この道はひとつだけ」などヒット曲を連発しました。

 シールズ…は、中近東の弦楽器を取り入れてみたり、曲としても宗教色が強く出ていたものがありましたが、70年代後半になって全盛期を迎えた弟のイングランド・ダン&ジョン・フォード・コーリーは、時代の流行にうまく乗ったハーモニーを生かした爽やかポップス、「秋風…」の外にも「眠れぬ夜」「愛の旅立ち」、トッド・ラングレンのカバー「愛の証」などトップ10ヒットを連発しました。

Dowdy Ferry Road

 テキサス生まれながらなぜかイギリス訛りで喋っていたことから付いたあだ名。

 80年に入って解散。ジョン・フォード・コーリーはソロアルバムを出した後、宗教活動に専念し音楽の世界から遠ざかります。その間、バハーイ教からキリスト教に改宗したようです。それが運命のいたずらでフィリピンで復活したことは2回前に書いたとおり。

 イングランド・ダン・シールズは音楽を続け、80年代に入ってもデュエット時代の延長で、TOTOのメンバーをバックに従えたソロアルバムを作ったりしますがセールス的に成功できず、カントリーに転向して、80年代半ばから90年代にかけて大成功を収めます。これまた去年逝去したポール・デイヴィスとコラボレートしたり、マリー・オズモンドとデュエットしたり。

 そして近年、全盛期にはなかなか共演しなかった兄貴のジムと兄弟デュオユニットで活動し始めて古いファンを喜ばせていた、そんな最中でした。

 ちなみに小生がダン・シールズの訃報を知ったのは、ケーシー・ケイサムのカウントダウン番組でした。アメリカントップ40の黄金期に自分自身が紹介していた、自分よりも何歳も若いアーティストの訃報を、30年後に自分が読むことになる、などと想像していたでしょうか。

 小生でさえ、自分より若いアーティストの死を既に何度も見ているわけですから、克也さんは尚更でしょうね。でもまだケーシーに追いつくには10年ありますよ、克也さん。

 もう一つの、昔の記事の後始末。なんとこの連載第二回目、つまりこの克也さんサイトが産声を上げた直後のものです。20058。これも直コピペ。

御巣鷹山の墜落では、日本の洋楽ファンなら知る人ぞ知る悲しい損失がもう一つあるのですが、今日は長くなってしまったのでいずれ機会があれば。

 また今年も夏がやってきます。

坂本九に次ぐ、日本の洋楽ファンにとっての85年日航機墜落事故の損失とは。

 実はこの機に、このイングランド・ダン&ジョン・フォード・コーリーの日本ファンクラブ副会長が搭乗していて、やはり犠牲になっていたのでした。女性で、新婚旅行の最中でした。やり切れません。

 We'll Never Have To Say Goodbye Again 彼らのヒット曲の一つ、「愛の旅立ち」の原題です。もうさよならなんて言う必要ない、恋人同士の仲直りの曲。

 そんな誓いを立てた恋人同士が添い遂げたとしても、人間である限り、どうしても死別のさよならはあるのですよね。

Some Things Don't Come Easy

 諸行無常。

 病室の窓から外の緑を眺めて、ついそんなことにも思いが及んでしまいました。

 でも小生はまたすぐ戻ってきますからね。克也さんのように。

Tequila: The Champs Greatest Hits

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2009年4月 7日 (火)

Open Arms

あら、珍しい。 

なんとメジャーで分かりやすいタイトルでしょう?!

まあ、いろいろなことに引っ掛けてあります。お楽しみに。

まずはご想像通り、ジャーニーのあの曲のこと。

前の記事でも書いたとおり、ちょっとブランクがあっていろいろ報告しなければいけないことがあって、順番が前後してしまいますが、こっちは時間的には近いほう。

 そのジャーニーのライヴ報告です。

 ベストヒットにも節目節目に出演多し、80年代の産業ロックの王道を辿った彼ら。

 80年代末の活動停止以来、分派がバッド・イングリッシュを作ったり、90年代は数度の企画的な再結成を経て、くっついたり離れたり。

 しかしまたここ数年の活動再開は本気のようです。

 全盛期からのメンバーは、ギターのニール・ショーン、キーボードのジョナサン・ケイン、ベースのロス・バロリー、これにニール、ジョナサンとはバッド・イングリッシュ以来の付き合いのディーン・カストロノヴォがドラム。

 そして今回の話題は、新リードヴォーカルのアーネル・ピネダ。

 フィリピンから新加入しました。

 そのためか、というかそれ以外に理由がないのですが、観客にフィリピーノ、フィリピーナが多かったこと。観客席からフィリピン国旗を大弾幕で広げたり。開始前のロビーでもタガログ語が飛び交う(ちなみに小生、タガログ語、タイ語、ほんのちょっと分かります。なぜでしょう?深い意味はありませんが。名誉のために言っておきますと、スペイン語、ロシア語はそれ以上に分かります。フランス語ドイツ語全然ダメ。クリスティナ・アギレラのあの曲程度)、記念写真をパチパチ。

 ちなみにフィリピンという国の音楽事情、暇があったら詳しく調べてみたいのですが、その暇というやつがないのが口惜しい。ひょっとしたらフィリピンは、日本以上に日本的な「おしゃれ洋楽」が好きな国のようです。

ボーン・フォー・ユー~ヒズ・ベスト&モア#紙ジャケット仕様#

 デヴィッド・ポメランツという人がいます。70年代ちょっと活躍したシンガーソングライター、しかし実際にはアメリカではソングライターとしてのみ捉えられていた人で、バリー・マニロウのヒット曲、”Trying to Get the Feeling Again”, “The Old Songs”なんかの作者です。

If I Should Love Again

 これらの曲、デヴィッドもレコードを出しますが、本国アメリカでは全然売れなかった。

 日本では、”The Old Songs”に関して、前長野県知事、現参議院議員のあのお方の処女作「なんとなくクリスタル」でポール・デイヴィスと共に取り上げられたり、また10年くらい前でしょうか、主演は草彅剛、瀬戸朝香で、ドラマ名をはっきり憶えていませんが「見合い結婚」だったかな、そこで剛君の好きなレコードとして毎回出ていてストーリーの横糸に使われたりして、知る人ぞ知る存在でした。

 その程度の人だったのですが、このデヴィッド・ポメランツのレコードはなぜかフィリピンだけでバカ売れしました。そこで彼自身、もう完全にフィリピンに移住しちゃって、録音もライヴも全てフィリピンのミュージシャンと活動しています。

I'd Really Like to See You Tonight and Other Hits

 これまた70年代に活躍した、爽やか系ポップスで「秋風の恋」などヒット曲も多かった男性デュエット、イングランド・ダン&ジョン・フォード・コーリー。

 これも90年代後半になってフィリピンでブームと呼ばれたくらいCDが異常な売り上げをして、30年近く音楽から身を引いて宗教活動をしていたジョン・フォード・コーリーが復活して、彼の場合移住までは至っていませんが毎年フィリピンでライヴをして、フィリピン向けのアンソロジーCDが発売されたりしています。ちなみに相方のイングランド・ダンことダン・シールズは、カントリーに転向して成功するなど音楽活動は続けていて、彼は「想い出のサマー・ブリーズ」などの大ヒットがある、もう一つの男性デュオ、シールズ&クロフツのジム・シールズの実弟なのですが、現在はその兄弟がSeals & Sealsとしてデュエットで活動しています。

 まあ、そんなことから、フィリピンというのは不思議な音楽志向性を持っていて、オシャレポップスが日本以上に受ける国だという想像ができるのですが。

 閑話休題。ジャーニーに話を戻します。

 スティーヴ・ペリーとは完全に決別、00年代前半の再結成企画ではペリーに声質に似た別のスティーヴが参加しましたが彼も体調不良を起こした。そこで新たなヴォーカルを物色していたニール・ショーン。たまたまYouTubeをサーフィンしていたら、フィリピンのライブハウスでスティーヴ・ペリーそっくりにジャーニーの曲を歌っている男の映像に出くわした。それがアーネルだった。ニールは早速メールでアーネルにコンタクトを取ろうとしたが、アーネルは最初、悪質ないたずらだと思って返事をしなかった。ところが周囲の人たちが返事だけでも出してみたら、と強く勧められたのでレスを送ってみたら、今度はニールに加えて、ジョナサン、ロスからもメールが返ってきたので、本物だと分かった。本当に、「あの」ジャーニーから加入を打診されているのだ、と。

 そんな、インターネット時代ならではの国境に穴を開けたシンデレラストリー。

 彼は母親を無くしたばかりで、今の自分の成功した姿を人目見せてやりたかった、という。第三世界の国にありがちですが、フィリピンも物凄く貧富の差が大きい格差社会で、実はアーネルはこんな運命のいたずらでもなければ下のほうの階級で場末のバーで歌っていたのでしょう。

 サンフランシスコ・ベイエリアをベースにしていたバンドにフィリピン人が入ってくる。

 いいじゃありませんか。

 以前書きましたが、僕はオバマ大統領を単なる黒人の大統領としてではなく、多民族社会アメリカの象徴として登場したのだと考えています。それとおなじことじゃないですか。異文化人を大きく「両腕を広げて」迎え入れたわけですから。

 それでとにかく、ご存知かもしれませんが、アーネルの声はスティーヴ・ペリーのそれにそっくりです。

 ルックスも似せようと長髪にしています。ただ、背は小さいですね。スティーヴは80年代の全盛期は長身に長いコートテールで「茶羽ゴキブリ」と一部であだ名されていましたが、長髪、小柄でちょこまか動くアーネルで、小生は、最初のシリーズの頃の20台の「金八先生」を思い出してしまいました。でも彼、実は既に40の大台を過ぎていて、つまり小生と殆ど変わらないんですよね。ニール、ジョナサンたちこそ今までジャーニーの名前を背負ってきたのに、ステージ上では無言で演奏に徹して、MCも盛り上げもアーネルに任せて、すでに信頼を得ている感じでした。

Journey_setlist

 今回も幸運にもミキサーさんからセットリストを頂きました。

REVELATION

ジャーニーの最新CD ”Revelation”は二枚組で、一枚目は新曲、二枚目は80年代のヒット曲をベスト盤形式で選曲し、アーネルをフィーチャーした再録音。その中から去年、一番ヒットした曲は”After All These Years”という、”Faithfully”を焼き直したようなロックバラードだったのですが(ちなみに先ほどの、ニール・ショーンがYouTubeでアーネルを発見したときの動画は、”Faithfully”を歌っていたものだったらしい。でも今回のライヴではその一曲だけ、ドラムのディーンがリードヴォーカルを取っていました)、その曲も演られず、80年代のおなじみの曲6割、ニューアルバムからの新曲4割という感じでしたが、ハードロック色を強く出そうとしていたように感じられました。

Frontiers

 ニューアルバムの1曲目でもある”Never Walk Away”から始まり、全盛期の後期の曲に怒涛のメドレーで続く。ちょこまか動くアーネルは前列席で手を伸ばす聴衆たちに、ウエーブを作るように右から左へと全員にハイタッチをしていく。バラードのヒット曲は、真ん中あたりの8曲目に”Lights” ”Still They Ride” をメドレーでやったり、それに続けて例の”Open Arms”に続けて、最後から2曲目に”Faithfully”を持ってきたり、要所要所でロックバラードを入れていましたが、例えばあの泣きの”Who’s Crying Now”なんかは演らなかったわけで全体的にハードな曲が中心の選曲、ニューアルバムからもそちらの方から、全体の中でも一番盛り上がったのはやっぱり”Separate Ways”,”Don’t Stop Believeing”など、”Escape”のアルバムからの曲でした。その当時、80年代初めのギターキッズたちのお手本となったニールの連符速弾きはいまだに健在と見ました。

Escape

 いい意味であまり自己主張をしそうでなく、つまりニールとあまり喧嘩しそうにない従順な、しかも全盛期の雰囲気を忠実に再現できる新たなフロントマンを得たことで、このジャーニーというグループ、もう少し長く続きそうだ、と感じました。

 

 もう一つの Open Arms

 43日放送のファンフラをお聴きになった方。克也さんに時々合いの手を入れていた子供の声に気づかれましたか?

 それは私の息子、阿南”Ricky”紀輝(のりき)8歳だったのです。

 春休みを利用して上京帰省し、金曜日が重なっていたので、銀座のスタジオに突然に親子でご挨拶、というかお邪魔しに行ってしまいました。いろいろ悪戯もしてご迷惑もおかけしました。でも放送事故には至らずほっとしています。大喜びで、「カンカン!」や「ブー!」に参加できた時ははしゃいでました(親も!?)

 放送でも、「君、小林克也の孫じゃないの?」とおっしゃってくださいましたが、本当に孫のようにゴム割り箸鉄砲で遊んでくださったり、感謝です。スタッフの皆様も、音に関係ない程度に機械をいじらせてくださったり、いい経験、思い出になったと思います。

 本当にありがとうございました。

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おやつを賭けてじゃんけんポン。愚息が負けましたがちゃんと分けて下さった御大でした。

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ちゃんと原田Dのお手伝いもしました。未知の世界に興味津々、でも御大のお邪魔にはならないように・・・

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突然お邪魔して失礼したにもかかわらず、「もろ手を広げて」歓待してくださった克也さんと銀座ファンキーズの皆様、ありがとうございました。お疲れ様でした。

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2008年12月24日 (水)

(You Make Me Feel Like)A Natural Woman

実は、時系列的にはこの前にもうひとつ大きなコンサートに行っていて、物の順序からすればそこからリポートするべきなんでしょうが。

 129日のベストヒット、スター・オヴ・ザ・ウィークのゲストに合わせて、キャロル・キングのリポートを先に回しましょう。

 「私の居間へようこそ」”Welcome to My Living Room”ツアー、私も行ってまいりました。
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 以前にTOTO+ボズ・スキャッグスを観たような例のハコモノ国際会議場が会場だったのですが、会場の大きさに不釣合いな、彼女のピアノ、あとアコースティックギターが二人、シンプルな編成で、薄暗い照明、小道具でソファや観葉植物などを置く、まさにマンションの一室、彼女の居間を再現したようなステージ上でした。これはベストヒットで流れた映像のとおりです。

 私の席番号は、なんとミキサー席のもろ隣でした。前売りが思ったほどに捌けていなかったのか、開演直前に、席を一列ずつ前に移動してくださいとの指示が会場案内からありましたが、小生は、このような大きな会場の場合の「例の作戦」がありましたのでこの幸運は譲れず頑として動きませんでした。周囲の人は、なんと身勝手な奴だ、と思ったことでしょう。私も心が痛みます。でもこうして、その結果をちゃんと役に立てていることに免じてご海容願えれば幸甚です。

 例の作戦とは、ステージまでいけない場合、客席側のスタッフと仲良くなって、セットリストを分けてもらうこと。スタッフさんだって、自分の近くに英語をわかってくれる観客がいると思うとほっとするみたいですよ。今回もちゃんとものにしました。それに沿ってライヴを振り返りましょう。
Carole_king_setlist_1Carole_king_setlist_2

 



 


  彼女がインタビューで言っていた、居間を再現するコンセプトは、ブッシュ政権を追い出して民主党政権を作る話し合いを始めたことから生まれた、というの、まんざら大袈裟でもないでしょう。彼女はニューヨーク生まれのユダヤ系。それにアメリカには直接民主制の伝統もある。町の小さな寄り合いの話し合いから、何か大きな運動が始まったりする。

 インタビューでは民主党政権の誕生をかなり喜んでいた様子でしたけれど、ステージでは政治色は一切感じられませんでした。
Music

 1曲目の”…Long Ago…”は彼女の3枚目のソロアルバム、72年の”Music”からで、まさに昔の曲が中心の選曲でした。というか、インタビューでも、今は本を書くのに熱中している、なんて言ってましたけど、彼女は80年代後半から音楽的には恐ろしく寡作になってしまいますね。

 それでも2曲目、正式には”Welcome to My Living Room”はまさにこのツアーコンセプトにあわせて書き下ろされた曲だし、3曲目”Now and …”93年、第二次大戦中に選手が兵役で取られてメジャーリーグが中止になったことに反発し、野球好きの女の子たちが自分たちでプロ野球を作ったという実話を綴った、トム・ハンクス、マドンナなんかが出演していた映画「プリティリーグ(A League of Their Own)」の主題歌でした。

 4曲目あたりから古くなってきます。
Writer/Rhymes & Reasons

 “…Roof”はドリフターズ(日本のあれじゃありませんよ)の63年の大ヒット、彼女も最初のソロアルバムでセルフカバーしています。
Tapestry

 6曲目 “Where…”7曲目”Home Again”と、名盤、71年の「つづれおり」からのナンバーがぼちぼち出てきました。

 ここでピアノに座って歌っていた彼女が立ち上がり、アコースティックギターにも誓え、三人が並びます。「イーグルスみたいなことをやりたかったのよ。ナッシュビルでは毎日、何人ものシンガーソングライターが一つのステージに集まって、交互に自分の歌を歌うのよ」といって、それまで地味にバックでギターを弾いていたゲリー・バーが二曲リードヴォーカルをとりました。
Juice/Quiet Lies

 9曲目の”Love’s Been a Little Bit Hard on Me”は、ベストヒットの創成期、82年のジュース・ニュートンのヒット曲です。彼はその作者だったんですね。他にも彼は2001年のリッキー・マーティン、クリスティナ・アギレラのデュエットでヒットした”Nobody Wants to Be Lonely”の作者でもあります。そんな感じでしぶとく業界で生き残っている人、ナッシュビルに行けばいっぱいいるんでしょうね。バックコーラスをやっているキャロルは実に楽しそうでした。

 そのままのポップなノリで10曲目”Smackwater Jack”へ。「つづれおり」で最も歯切れがよかった曲。
ゴフィン&キング・ソング・コレクション1961-1967

 その次は最初の夫ジェリー・ゴーフィンとの大ヒットメドレーでしたが、私はちゃんと全部書き留めておきました。”Take Good Care of My Baby(Bobby Vee)~”It Might as well Rain until September”62年、彼女自身)~”I’m into Something Good”Herman’s Hermits~”Go Away Little Girl” (Steve Lawrence, Donny Osmond)~”Hey Girl”(Freddie Scott)~”One Fine Day”(Ciffons)~”Will You Love Me Tomorrow?(Shirrells)

  場所によって、メドレーの内容は変えているみたいです。60年代は、とにかく数え切れないヒット曲を作っていましたからね。改めて脱帽です。

 ここで20分の休憩。

 前半は黒い衣装でしたが、少しオレンジがかった色に変身してきました。

 後半は、2001年、彼女自身8年ぶりだった”Love Makes…”の表題曲からスタートしました。

 2曲目の”Sweet…””Music”から、そしてメドレーのように矢継ぎ早に、「つづれおり」からの彼女の代表曲”It’s Too Late”「心の炎も消え」。

 これらの曲も含めて、この70年代前半の彼女のソングライティングのパートナーはToni Sternという女性で、女性二人で曲を作っていたわけで「つづれおり」の中にも女性の心の変化を題材にした曲が多い。社会的にも女性の進出が目立ち始めたころと一致しており、この”…Too Late”も「つづれおり」自体も、時代が違えばあれだけのヒットにはならなかっただろう、と彼女は回想しています。遅すぎなくてよかった?
Pearls (Mini Lp Sleeve)

 4曲目の”Chains”は珍しくビートルズもカバーしている曲。70年代後半から彼女はレコードはコンスタントに出すのですがセールス的にはスランプの時期を迎えてしまいます。そんな中、80年に “Pearls”という、ゴーフィン-キング時代に他人に提供した曲のセルフカバーアルバムを出しますが、その中でも印象的な一曲でした。

 5曲目”(You Make Me Feel Like) A Natural Woman”は「つづれおり」のセルフカバーもいいですが、なんといってもアレサ・フランクリンですね。

 「今晩、この後、SMAPSMAPに出演するから観てね」とMCが入りましたが、よほど近くに住んでいない限り無理ですね。僕でさえ40分かかるんだもの。

 6曲目 “Pleasant…”は彼女自身のスタジオ録音はなく、最近のライヴでは好んで歌っているようです。モンキーズの大ヒット曲の一つ。

 7曲目“…At War”は未発表作品で、まさに、最初に書いた、共和党政権を倒すために部屋に集まった、云々という話が本当に思えてくる、ベトナムの時代にはゴーフィンと明るいラブソングを中心に作っていた彼女の今になっての反戦歌に聞こえました。

 そして、”I Feel the Earth Move”「空が落ちてくる」。「つづれおり」の中で、”…Too Late”との両A 面ヒット(懐かしい表現だなあ)に続きます。あなたと一緒にいると大地が動き空が落ちてくるのがわかる、という恋の衝撃の歌ですが、その反戦歌と繋げてちょっと違った響きを持たせながら、いったん引っ込みます。

 アンコールは、”So…“「去り行く恋人」”You’ve Got a Friend”「君の友だち」と「つづれおり」の名曲二つのメドレー。後者はジェームス・テイラーのカバーでナンバー1ヒットになり、キャロルのレコードで彼はギター、バックヴォーカルで参加しています。今回はゲリー・バーがその役目を完全に果たしていました。前者は、96年、「つづれおり」へのトリビュートアルバムで、収録曲全部を別々のアーティストが独自の解釈で録音した”Tapestry Revisited”の中でのロッド・スチュアートのカバーがものすごくいいんですけれどね。
Tapestry Revisited: A Tribute to Carole King

 最後は”Locomotion”Little Eva, Grand FunkKylie Minogue3回もヒットし、彼女自身も“Pearls”で録音している。ただし今回はダンサブルでもロックっぽくもなく、彼女のピアノだけで割とゆったりめのアレンジで、「リトルエヴァでも憶えられるような簡単なABC」などど歌詞もいじっていました。

 最盛期もあればスランプもあり、別のことに関心を持つこともある。そんな自然体の彼女の今を自然に表現しようとしたステージ、という感じでした。
Grace Of My Heart 輸入盤 【CD】

 彼女の半生をモデルにした「グレイス・オブ・マイ・ハート」という映画についても前に書いたことがありますので、ついでにどうぞ。

 今年のことは、今年の中で終わらせたいけれど、無理そうだなあ。

 とにかく、メリークリスマス!

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2008年11月23日 (日)

Ever Changing Times (Part 2)

10月、ちょっと穴を開けていた時期に観ていたライヴレポートを。全く別の日に見た二つを、ほんの僅かな共通点で無理やり結び付けます。

 一人目はデヴィッド・ロバーツという人。殆ど知られていないでしょう。しかし、彼の生まれ故郷カナダや、アメリカなんかよりも日本のほうが熱心なファンがいる、そんな人でしょう。

 ソングライターとして、微妙に知られている人です。

 例によって終了後にせしめてサインももらったセットリストを出して、演奏曲目から行きたいのですが。

David_roberts_setlist





 



 Knee Deep in the Hoopla
  この中で比較的有名な曲は、例えば
9曲目の”Before I Go”。これはスターシップの「シスコはロックシティ」「セーラ」が入っていた大ヒットアルバム”Knee Deep in the Hoopla”に収められた曲です。他にもスターシップにはその次の”No Protection”の中に”Say When”という曲を提供しています。
When I See You Smile

 また11曲目” Stay with Me Tonight”は、ソロとして85”Missing You”の大ヒットを持ち、70年代にはベイビーズ、ソロを経て80年代末にはバッド・イングリッシュと流れたジョン・ウエイトとの共作です。実際この曲はバッド・イングリッシュが取り上げるはずだったのがボツられたもので、代わりにデヴィッド、ジョン・ウエイト、そしてジョナサン・ケイン(ベイビーズ、ジャーニーを経てバッド・イングリッシュに参加したあの人です。念のため)の共作で”Tough Time Don’t Last”が収録されました。

6曲目 “Midnight Rendezvous”84年のラムゼイ・ルイスのアルバムに取り上げられています。

 それから、日本向けの企画物として録音されたのが5曲目の”Run Back”。これは93年の赤坂局系列のドラマ、確か高島政伸主演だったと思いますが「新幹線物語」のテーマで使われました。

 そんな感じで、80年代後半のお洒落AOR系の流れを汲んでいた人だったんですね。

 82年に一枚だけAll Dressed Upというアルバムを残していました。バックが当時全盛期だった、デヴィッド・フォスター、TOTO周辺の人脈で固められ、もうそれ以上説明が必要なく想像できるような音作りで、彼自身TOTOに入ってヴォーカルをとっても全く違和感のないような、ジョゼフ・ウィリアムズやトミー・ファンダーバークみたいな声質でした。

 なんと26年ぶりとなる新作“Better Late Than Never”(謂い得て妙だ)、プラス今までの他人提供曲、ボツ曲を集めた”Missing Years”を日本向けに発表しての来日でした。

 小さなライブハウスで聴衆は50人くらいしかいない、でもこういうのが自分としては一番好きですね。

 一曲一曲、誰のために書いた曲だ、どういう切っ掛けで書いた曲だ、丁寧なMCが入り、お客さんを大切にしている感じでした。

 ライヴが終わった後も、3枚のCD,セットリスト、宣伝ポスター2枚と7つもサインをもらってしまいました。バックに、ジミー・ウェッブ、バリー・マン、アメリカなどをプロデュースしたことがある、その筋の大物フレッド・モーリンという人がいて、その人にもサインをもらって話し込んでしまいました。
All_dressed_upBetter_late_than_never

 



Missing_years




 
  さて、その一週後、今度はスティーヴ・ルカサーのライヴがありました。

 デヴィッド・ロバーツとルカサーを無理やり繋げるとすると、その82年の”All Dressed Up”のバックにルカサーをはじめTOTOの面々が全面協力をしていたことと、あとランディ・グッドラムという人物。もうすでに何度か登場しましたが、アン・マレーの「辛い別れ」、スティーヴ・ペリー「OH!シェリー」など多くのメロウなヒット曲を書いた、今年の大統領選挙の民主党予備選挙でがんばった、今度の国務長官になりそうな女性のご主人の前大統領と高校の同級生で一緒にバンドをやっていたあの人。音楽上の人脈もやはり通じていて、ロバーツはグッドラムとの共作曲は”Run Back”その他多く(クリントン夫妻の話題もロバーツと話しました)、ルカサーはTOTO活動停止宣言と同時に発表したソロアルバム”Ever Changing Times”は殆どグッドラムとの共同プロデュースといっていい。

 大会場ではないけれども、ライブハウスとしては名古屋では新しく大きめの場所で。

 半年前にTOTOライヴも観て、そこで同じようなフロントマンの役割を果たしていた彼、今回はTOTOの曲こそ一曲も演奏しませんでした(当たり前)でしたが、その最新作では一人TOTOをやっている感じで、ライヴも、例えばラリー・カールトンと一緒にやった時の彼とは違い、TOTOの彼がそのままソロになってやってきたという違和感のない音作りや雰囲気でした。当然、ロバーツよりハードで聴衆ノリノリ!

 

1. Drive A Crooked Road
2. Twist The Knife
3. Ever Changing Times

4. Live For Today

5. How Many Zeros

6. Stab In The Back
7. Hate Everything About You
8. Song For Jeff

9 Party In Simon's Pants
10 Jammin' With Jesus

11. Fall Into Velvet > Never Walk Alone
12. Talk To Ya Later

13The Truth
14. Tell Me What You Want From Me

Ever Changing Times

そのニューアルバムからは、3561013143はタイトル曲で、この曲だけ聴衆と一緒にチャントをやった。6は、スティーリーダンそっくりの曲で、インスピレーションをくれた二人と、ジェフ・ポーカロに捧げる、とのMCで流れるようなギタープレイ。

7は、ボブ・シーガーの”Shame on the Moon”などのカントリー系のヒット曲を書いたロドニー・クロウエルとの共作曲で、「お前なんか大嫌い」という曲で、アコースティックギターで弾き語りしながらどさくさにまぎれて”SO Fuck YOU!”といったのを聞き逃しませんでした。僕は曲終わりの後、”FUCK YOU BACK!”と客席から返してやると、ルカサーはニヤリとして“Really?”と語尾下がりで返してきました。やる気か?てな感じ?

TOTOについていろいろな噂が飛び交っているのは知っている。まだ我々は仲間で、連絡をしょっちゅう取り合っているよ」と、本とか嘘かのMCのあと、またジェフに捧げる曲8と、一番の仲良しであるサイモン・フィリップスに変な意味でインスパイアされた9。高中正義みたいなインストロメンタルの13

ドラムが、ショーン・キングストンを10歳老けさせたような太っちょのヴァレンタインという人だったのですが、メンバー全員が彼がお尻丸出し全裸で子供と風呂に入っている写真をルカサーを含むバンド全員が首掛けIDカード入れに入れてぶら下げていたというおふざけ付でした。

Ever Changing Times、諸行無常。TOTO,ボズ・スキャッグスのダブルヘッドライナーの時と同じく再びタイトルにして見ましたが、共に80年代の洋楽の主流部分を、一方は裏方から、他方は表舞台で支えていた二人。一方は回顧的なライヴ、他方は過去の遺産は受け継ぎつつ新しい挑戦をしようとしていたライヴ。対照的といえばそのとおりですが、いい音楽はいい音楽、理屈抜きに楽しみましょう。

ライヴリポートはまだまだ続く。

Steve_lukather_ever_changing_times

 


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2008年10月15日 (水)

Realize

またライヴリポート。チョッと続きそう。克也さんのラジオが聴ける回数が残り少ないというのに。。。

 今回はコービー・カレイ。小さいライヴハウスでやってくれました。これは行くしかないですね。

 ベストヒットUSAの大晦日生特番の放送終了後、楽屋でのちょっとした反省会で「これだけの長時間、チョッとゲスト呼んでナマ小ライヴやらせたらよかったね。コービー・カレイなんかいたら呼びたかったね」と仰っていました。

 わかりますね。彼女ならバンド全員でも小回りが利きそうだし、一人だけでも弾き語りできそうだし、気さくに来てくれそう。だけど、その後の10ヶ月の間だけでも、かなり大きくなってしまったのではないでしょうか。そしてこれからもっと大きくなっていきそう。

 彼女のCaillatという苗字、はるか昔にどこかで聞いたことがあるな、と思っていたのですが。

 なんと、僕が自分の小遣いで一番最初に買って、今までの人生で最も多く買い換えて最も多く聴いているであろう、フリートウッドマックの「噂」(そしてその次の「牙(タスク)」

のプロデューサーに名を連ねていた Ken Caillat(当時は僕も含めてみんな「キャリヤット」と発音していましたが)という人がいて、彼女はその愛娘なんですね。なんかこちらから一方的ですが因縁を感じてしまいます。

 それでも父親がその仕事をしたのは30年以上前。彼女は22歳。

 さらにそれでも、20周年の名盤製作回顧ドキュメンタリーDVDの撮影の際、子供だった彼女は父親に連れられてメンバーに引き合わせてもらったとか。得にスティービー・ニクスにはすごく憧憬の情を抱いたよう。ステージでもそういう匂いが少し感じられましたね。

 それでも、彼女が自分自身でもシンガーになる夢を見始めたのは、そんな家族環境もさることながら、やはり彼女のジェネレーションで、ローリン・ヒル(彼女の言葉、正確にはフージーズ)を聴いて、自分でもその曲を小学校のコンテストで歌って以来、だという。

楽器はまずピアノから入り、曲作りを始め、ギターを始めたのは4年前だという。まあ、4年やればあれくらいできるだろう、という腕前でした(素人が偉そうに)。

 そして、まだ歴史の浅いマイスペースでアクセス数、再生回数、お友だち登録数が通算でトップになり、颯爽と登場した。時代の申し子、ですね。

 さて。ステージです。

 普段僕が行くより、聴衆平均年齢は低い低い。カップルもいっぱい。

 彼女か登場すると、「かわいーー!!!」の黄色い声。

 彼女の場合、アルバムはまだ一枚しか出ていませんし、いい意味でも悪い意味でもそのアルバムでの、アコースティックでシンプルな、若々しいイメージは定着しており、ステージでもそのアルバムの曲をそのまま聴いたような感じでしたので、いきなり、例によって終了後ゲットしてサインを入れてもらったセットリストを出して曲目を確認することにしましょう。

 彼女自身がギターを持って歌ったのはほんの数曲で、あとは歌に専念してバックに任せていた感じでした。

 1曲目から3曲目はアルバムと全く同じ曲順です。4曲目で2枚目のシングル”Realize”をやった後に出てきた、“U.P.”とは。クィーン+デヴィッド・ボウィの “Under Pressure”でした。原曲の、ファンク、オカマっぽい色っぽさはなく、アコースティックベースを利かせて彼女のイメージで。それとメドレーでやった”Something Special”は未発表曲のようですね。

 またアルバムからの曲に戻り、8曲目の”Tailor Made”の前には、「姉貴の彼氏を紹介されて、姉貴に捧げた曲よ」と長めのMCが付きました。

 9曲目は、上でチョッと触れましたが、この曲に感動して、この曲を小学校の歌のコンテストで歌って、アーティストになる夢を持った、というあの曲。彼女のギターと、バックにベースがもう一人だけのシンプルな構成で歌われて、アコースティックな味で、むしろロバータ・フラックに似ていて、全くヒップホップではありませんでした。

 実は帰りのエレベーターでも彼女と一緒になって、チョッと話せたのですが、それでも私が影響を受けたのはローリン・ヒルの方だ、と言っていました。

 この曲を作ったときはギターを習いたてで、共作のジェイソンにすごく助けてもらったわ」というお馴染み“Bubbly”をみんなで大合唱した後、そろそろ終わりだな、何が始まるかな、と思ったら、彼女は「みんな、ダンスっぽいのがいい、それともロックしたい?」と訊いてきました。ダンス、が多数意見を占めた感じだったので、”I.W.Y.B.”が始まりました。なんとこれ、ジャクソン5の”I Want You Back”だったのです。子供に戻ってステージの上でも下でも踊らにゃ損々、てな雰囲気になってしまいました。

 もし、ロックっぽいの、の意見が多数だった場合用意されていた、“B of B”とは何だったのでしょう?ストーンズ、ベッド・ミドラーの”Beast of Burden”あたりでしょうか?もし、他の場所でライヴをご覧になって、この”B of B”だったという方、いらっしゃったらぜひご教示下さい。

 アンコールの”Capri”では、同い年の友達が若くして母親になる、その一部始終を見て感動して、彼女に捧げた曲、と紹介して、彼女のギター一本で歌われました。

Colby_calliat_coco

 リオナ・ルイス、サラ・ブラリス、テイラー・スイフトなど、ACのジャンルではちょっとした女の子シンガーソングライターブームが起こっています。そんな中でも、一番最初に夢を実現した(realize)、もっと大きくなっていきそうな彼女に注目。

 まだ間に合った。しつこいですが、15日水曜日夜9時、新番組「水曜ノンフィクション」2時間特番に、私、阿南東也がほんの少し登場しますので、ここでこんなこと書いているミーハーはこんな奴だったのか、とわかる機会はそうはありませんので、お暇でしたら是非。

Colby_setist

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2008年9月 5日 (金)

All Summer Long

Rock N Roll Jesus Little Deuce Coupe/All Summer Long

 ビーチボーイズにもこういうアルバムがありましたね。

もう9月、日付的には夏は終わった感じですが。

夏は長い休みもあって、開放的になれる、一番せいか、音楽を楽しめる季節かもしれません。その夏のBGM、それがその時期に一番ヒットしていてラジオでいっぱいかかっていたものか、きわめて個人的に好きだったものかにかかわらず、その夏のテーマ曲、BGMみたいなものがあるはずです。

僕にとっての08年の夏は、その名もずばり、この曲でした。キッドロックの久しぶりのニューシングル。夏を過ぎてもまだまだアメリカのチャート上位に食い込んでいそうです。

ひと夏のテーマを超えて、今年度アナミー賞最優秀楽曲を既に狙える位置にある!

826日のベストヒット、カウントダウンUSA7位に入っていたということで丸々かかりました。

実は小生、番組にこの曲のリクエストをしつこく出していたので、採用されたのだと思っています。克也さん、杉田さん、川岸さん、番場さん、ありがとうございました!

この曲は遊び心いっぱい、クラシックロックファンの心をくすぐります。

サビの部分ではレイナード・スキナード「スィートホーム・アラバマ」のイントロのギターのリフ、間奏のピアノソロのフレーズ、歌詞の一部も出てきたりします。

Second Helping

そして曲全体に流れるのはウォーレン・ジヴォンの78年の中ヒット「ロンドンの狼男」”Werewolves of London”のピアノのフレーズがサンプリングされています。Genius: The Best of Warren Zevon

レイナード・スキナードのことは書いたことがあるので、このウォーレン・ジヴォンという人に関する徒然を。あまり知られていない人でしょうから。

70年代後半のシンガーソングライター、ウエストコーストのブームの一翼を担った人。リンダ・ロンシュタット周辺の音楽版「カリフォルニア・マフィア」(この言い方には政治版がある)の一人といっていいでしょう。

ただし、イーグルスやリンダに代表される西海岸のさわやかなイメージとは異なり、彼の極、アルバムは暗く、皮肉に満ちていました。

曲に登場するのは麻薬中毒者、気の狂った兵士、大量殺人犯、強欲弁護士、そして狼男みたいな妖怪。

詞に描かれる皮肉な世界観、ちょっとやる気のなさそうな歌い方など、ランディ・ニューマンに近い感じでした。

それでも、才能は注目される。

リンダはヒット曲もカバーばかりで、アルバムカットでは西海岸の無名作曲家の曲を積極的に取り上げ、多くを世に送り出しました。J.D.サウザー、カーラ・ボノフ、アンドリュー・ゴールド、エリック・カズ、他諸々。ウォーレンもそんな中の一人でした。

60年代から無名グループで音楽活動を始め、ぜんぜん売れませんでしたが、そんな時代の彼の作品”He Quit Me, Man”が映画「真夜中のカウボーイ」のサウンドトラックに使われて少し注目されました。

Warren Zevon

その程度の中途半端な音楽活動に嫌気が差したのか、70年代初めにはスペインに移住していましたが、彼を埋もれさせておくのは惜しいと考えたのが、「カリフォルニア・マフィア」の総元締めジャクソン・ブラウン。彼をロサンゼルスに呼び戻し、アルバムのプロデュースを買って出ます。76年にセルフタイトルのアルバム Warren Zevon が作られました。

Heart Like a Wheel

このアルバムに収録された「風にさらわれた恋」”Hasten Down the Wind”をリンダが取り上げ、アルバムタイトルにもして、このアルバムからトップ10ヒットが2曲出てリンダもスターの仲間入りをし、ウォーレンにも俄然注目が集まるようになりました。そのアルバムには他にも「カルメリータ」「モハメッドのラジオ」というウォーレンの曲が収録されました。

The Very Best of Linda Ronstadt

その次の、リンダの最大ヒットアルバムとなる78年の”Simple Dreams”には「私はついてない」”Poor Poor Pitiful Me”というウォーレンの曲が収められ、三枚目のシングルカット曲に選ばれ、トップ40ヒットになりました。それとまったく同じ時期に、やはりジャクソン・ブラウンのプロデュースによるウォーレンの二枚目のアルバム”Excitable Boy”も発表され、その中から「ロンドンの狼男」がシングルカットされ、やはりトップ40に入りました。

Excitable Boy

映画「サタデーナイトフィーヴァー」の全盛期で、ウォーレンはアルバムのプロモーションのためのライヴの最中に、ジョン・トラヴォルタのダンスの真似をしてずっこけて骨折してそのあとのライヴのスケジュールがキャンセルになった、なんてあほなエピソードも残してしまいました。

でもウォーレンが商業的に成功したのはこれが最初で最後となってしまいました。その後、麻薬中毒になってしまい、作品を発表するペースも落ちてしまいますが、90年代末まで活動し、REMなどからリスペクトを受けレコーディングのバックにメンバーが参加するなどの交流がありました。

ウォーレン・ジヴォンでもう一つ思い出すのは、1991年の映画、ケヴィン・クライン、ダニー・グローヴァー、スティーヴ・マーティンなどが出演し、”Grand Canyon”邦題「わが街」。犯罪と荒廃にむしばまれた大都会ロサンゼルスに生きる6人の男女の生活が描かれ、最後に登場人物全員が導かれるようにグランドキャニオンに集まり、大自然の中での自分たちの存在の小ささを再認識する、そういった映画でした。

その中で主演のケヴィン・クライン演じるうだつの上がらない男が、交通渋滞に巻き込まれている最中に、カーラジオからウォーレンの”Lawyers, Guns and Money”「弁護士と銃と金」という曲が流れてきて、ケヴィンがハンドルを握りながら一緒に口ずさむ、というシーンが出てきます。

この曲はシングルヒットは全然していない、知る人ぞ知る程度のアルバムカット曲。それでも西海岸のロック局を聴いている人は普通の人でも歌えちゃうのだなあ、と思わせるシーンでした。

ウォーレン・ジヴォン、20038月、肺癌のため帰らぬ人となりました。享年56

まあとにかく、「ロンドンの狼男」と「スィートホーム・アラバマ」のフレーズがぴったりと合ってしまうことを発見したキッドロックのセンスに脱帽!

わが街 [DVD]

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2008年8月20日 (水)

Still The One

シャナイヤ・トゥエインではありません。

前回も書いたように、私が東京ローカルの小林克也番組を聴ける機会があと半年で奪われてしまうかもしれないので、できるだけラジオ番組からネタを拾っていきたいと思います。

816日(プレスリーの命日でマドンナの誕生日でしたねえ)オンエアのDJ KOBYの、アメリカ大統領選挙と音楽AKA音楽の民主党大会、特集。

私の本職の専門に近いこともあり、ちょっとフォローをしておきます。

音楽界は圧倒的に民主党支持が多い。

ザ・ヴェリー・ベスト・オブ・シェリル・クロウ

民主党大会に参加予定のアーティストとしてシェリル・クロウが挙げられていましたが、もう一人、絶対に党大会に参加する、マイナーな人を紹介したいと思います。

というか、この人は音楽活動は細々と続けている程度、ミュージシャンとしての参加という位置づけではないでしょう。

しかし、70年代には名を馳せた人です。

ジョン・ホール。

70年代にオーリンズというグループのリーダーとして活躍した人です。

Let There Be Music / Waking & Dreaming

代表的なヒット曲もいくつかあり、今でもよくコンピレに選曲される75年の”Dance with Me”とか。この曲はジャズ・ギターのアール・クルーのカバーでもおなじみだと思います。あと79年の”Love Takes Time”とか(これも、マライヤではありません)。ソングライターとしてもシールズ&クロフツなどに曲を提供していました。

DANCE WITH ME - The Best of Orleans

最大のヒットは、76年の”Still the One”でした(こう並べてみると、タイトルは平凡なものばかり)。

ホールはメリーランド州の生まれ。ニューヨークを中心に東海岸で活躍したグループですが、当時全盛だったウエストコースとロックの波に乗っていました。

そしてホールは、グループ活動と並行してソロ活動も精力的で、更にはその西海岸の連中との社会、政治運動にも熱心に参加します。

ハイライトは、79年、核兵器廃絶、原子力発電反対を訴えるためのNo Nukes。会場はマディソン・スクエア・ガーデンでしたが、中心はドゥービー・ブラザーズ、ジャクソン・ブラウン、ポコ、クロスビー・スティルズ&ナッシュ、ボニー・レイット、ニコレット・ラーソンなどの西海岸の人たち、これに、ブルース・スプリングスティーン、ジェームス・テイラー、カーリー・サイモン、トム・ペティその他大勢が加わり、ウッドストック以来の最大の音楽イベントと言われました。

これにホールはソロの「パワー」と「プルトニウムは永遠だ」という二曲を演奏して参加していました。

このように、ミュージシャンの全盛期から政治社会問題に強い関心を持っていた人でした。

そのさっきの最大のヒット曲”Still the One”が再び脚光を浴びたのは前回の2004年大統領選挙の時。ブッシュ大統領が再選へのキャンペーンソングとしてその曲を使おうとしたんです。

「君はいまだに信頼できる、たった一人のひと、

 君はいまだに僕を飽きずにいさせる、たった一人のひと。。。」

再選に向けてのスローガンとしてはぴったりの内容の歌詞だったわけで、ブッシュ陣営が使いたがったのもよくわかるのですが。

作者のホールはこれを許可せず、ブッシュ陣営もキャンペーンの途中でこの曲を使用リストから外しました。

そしてその次の議会選挙の06年、ホール自身がニューヨーク州第19選挙区から、対立党の民主党から立候補、見事当選を果たしました。

自ら政治家に転身して議員一期生、やはりエネルギーに関する問題で最も活躍したようです。

その政治が本職となった彼、音楽もそこそこ続けていると書きましたが、例えばジャクソン・ブラウンがニューヨークでライブをした際にはゲスト出演して何曲か一緒に演ったようです。

下院議員ジョン・ホールは、superdelegate 特別代議員、すなわち、党大会で大統領候補に投票するために予備選挙で選出された一般の代議員とは別に、連邦議員や州知事など、現職の政治家が大統領候補選出に特別票を投じられる、その立場で党大会に参加するはずです。

でも演奏はしないんでしょうね。シェリル・クロウが来るなら一緒にステージに上がる可能性無きにしも非ずですが。

今年はご存知のように民主党の予備選挙は稀に見る接戦、対立候補に敬意を表し、代議員獲得数で次点だったヒラリー・クリントンも大統領候補の投票対象として残されることが決まりました。

ホールは、同じニューヨーク選出、06年には再選を目指したヒラリー上院議員とキャンペーンで一緒になったこともよくあり、エネルギー問題での立場が同じであることからも、ヒラリーに票を入れるのではないでしょうか。

さて、目を転じて共和党側。

DJ Koby内でもあったように、かつて1984年にレーガン大統領はブルース・スプリングスティーンに “Born in the USA”の使用を断られたり、今年のマケインは “Johnny B. Goode”の使用をチャック・ベリーから断られたり、また「当選後はホワイトハウスではABBAの音楽を流したい」発言に対しても元メンバーたちが懸念を表明しているようです。更には、既に何度か出てきたジャクソン・ブラウンまでも、マケイン陣営が彼のヒット曲”Running on Empty”を使用するのを差し止めたそうです。

Running on Empty

踏んだり蹴ったり。

では、共和党側を断らない音楽とは何でしょう?

Ultimate Survivor

「ロッキー3」のテーマ、Survivor “Eye of the Tiger”.これは予備選以前では本命視されながらも早期撤退した前ニューヨーク市長ジュリアーニ氏も、そしてマケインも使っていました。これは断られていないんでしょうね。

あと、ディクシー・チックスの対極にいたトビー・キースも断らないんじゃないかな。

Osmondmania! Osmond Family Greatest Hits

それから、オズモンズ。

あの家はモルモン教徒一家なんですね。

共和党の予備選挙で善戦したロムニー前マサチューセッツ州知事がモルモン教徒だったように、モルモン教徒は保守的で共和党の地盤のイメージが強い。

04年大統領選挙の直前に、モルモン教の総本山のユタ州の大学に、ブッシュの天敵、マイケル・ムーアが講演に行くことになり、その日に至るまでの顛末、町民の反対運動、そのまた反対運動、の様子をドキュメンタリーした「マイケル・ムーアのアホでマヌケな大統領選」という映画がありました。DVDでぜひどうぞ。

かつては一夫多妻制をとっていて迫害を受けていたものの、清廉なイメージもある。婚前交渉も認められない。

「マリー・オズモンドのLPレコードをターンテーブルに乗せようとしたら、なかなか穴がはまらなくて。無理やりはめたら、血が滲み出てきた」なんて、卑猥で、笑っていいんだか悪いんだかわからないジョークも昔ありました。

オズモンズ、レーガン大統領の就任式では大活躍でした。マケインも使ってはいかが?ABBAあたりがお好きなら丁度いいのでは?

いや、マケインは共和党内でも中道やや左で党内の保守派とはうまく行っていないようだから、逆にオズモンズあたりには嫌われているのかな?

さて、11月にはどちらが勝つでしょう。

予想はしません。結果が出てからその理由を説明するのが学者の仕事ですから(と、狡い逃げをする)。

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