ソウル・R&B

2010年3月 3日 (水)

Hang’em High

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「やつらを高く吊るせ」でお分かりの方はお分かりでしょうか。それにしても物騒ですねえ。

 ライブリポートです。基本的に古いアーティストのものが多いですが今回のは一番古いかもしれない。でも、一番新しいかもしれない。

 ブッカー・T・ジョーンズです。

 もうキャリアはかれこれ50年、影響を受けたアーティストは世界中に散らばっているでしょう。

 サザン(メンフィス)ソウルの中心だったスタックス・レーベルのそのまた中心だった人。素朴だけど力強いオルガン奏者。

 バックバンドだったMGsにはギターにスティーヴ・クロッパーがいたことでも知られている。スティーヴは映画「ブルース・ブラザース」の音楽を担当し、自らもブッカーと一緒に冷やかし出演している。

 でも、最近ではアウトキャスト“Hey Ya!”の独自の解釈でカバーを発表しているし、2007年にはグラミーの生涯功労賞(いわゆる殿堂入り)を、そしてこの間の2010年のグラミーでは新譜Potato Hallで最優秀R&Bインストロメンタルアルバム賞を受賞し、今なお精力的に活動中。

 その彼のライブ、例によってセットリストを強請りましたが、

Booker_t_setlist

 

これはセットリストというよりいつでも演奏できる準備万端曲リストといった感じで、順番、選曲とも全く違うものでした。

 バックが初めに出てきて“Hey Ya!”のフレーズを演り、それに乗ってブッカー登場。

 小さなライブステージ、ブッカーは向かって左端の木製オルガンに腰を据えます。

 上のリストの一曲目ではなく

 1“She Breaks”,2 “Warped Sister,” 3“Green Onions”の順で始まりました。

 GreenはMGsの代表曲の一つ。彼のオルガンのスタイルは変わっていません。ボロく見えるオルガンで、多少の和音を交えたシングルノートを淡々と奏でます。インストで、なおかつ彼みたいに独特のスタイルを持っている人の曲は説明しにくいですね。とにかく皆さん一度は耳にしたことある曲でしょうけれどね。

 ここでライブ主催会場からのサプライズ、今回のグラミー受賞を祝して彼の似顔絵がクリームで模られたケーキが披露されました。間近で見られた小生も含めてオーディエンスは大笑い、本人は照れ笑い。

 ここで彼はオルガンから立ち上がりステージ中央に移動しアコースティックギターを手にしました。ヒットしたのはオルガンインストばかりですが、彼はギターもやるし、歌もうまいんです。

 4曲目は”Born under a Bad Sign”。スタックスの代表的な男性シンガーの一人、アルバート・キングがオリジナル。クラプトンも大好きでクリームのカバーでもお馴染みかもしれません。作詞作曲はブッカーで、アルバートのバックもMGsがつとめました。

 リタ・クーリッジも無名時代にブッカーのプロディースの下でカバーしていて、ライブでも必ず取り上げます。そのリタが同時期、バックコーラスで参加していたStephen Stills “Love the One You’re with”。「愛する娘が遠くに行っちゃったなら、隣にいる娘とやっちゃいな」という、ヒッピー文化賛歌みたいな内容でも有名ですが、イントロと間奏ではいるかっこいいオルガンソロでも知られている。このオルガンを弾いていたのもブッカーなんですね。そういう西海岸系の人たちからもリスペクトを受けていますし、他にもいろいろなセッションに参加しています。

 5曲目”Ain’t No Sunshine”。故ビル・ウィザーズの71年のヒット曲、書いたのはビルですが、アルバム全体をプロデュースしていたのがブッカーで、バックはMGsでした。これもグラミーの最優秀R&B楽曲賞を受賞している。”I know, I know…”20回くらい繰り返すことで、同じフレーズが繰り返される最多回数ヒット曲、という珍記録も持っています。もう10年以上前になりますか、ジュリア・ロバーツ、ヒュー・グラントの「ノッティングヒルの恋人」でも、大スターのジュリアに会えないヒューが雨降る夜道をとぼとぼと歩く場面で効果的に使われていました。

 6曲目”Jamaica Song”はブッカー自身のギター、ヴォーカル曲として最も知られているもの。

 7曲目”Take Me to the River”。あのトーキングヘッズのデビュー曲としてつとに有名ですが、オリジナルはアル・グリーン。トーキングヘッズのデビューのときは、トーキングヘッズがアルの曲をカバーし、アルのアルバムにトーキングヘッズが曲を提供するというバーターをやったことで話題になりました。この曲はブッカーとは直接の関係はないようです。アルもメンフィスを中心に活動していましたが、スタックスではなく、もう一つの

流れを作っていたハイ・レーベルにいました。まあメンフィスソウル繋がりということで。

 8曲目、”Dock of the Bay”。出ました。オーティス・レディングの大ヒット。これはオーティスとスティーヴ・クロッパーの共作曲です。曲終わりはあの有名な口笛でオーディエンス全員参加。

 ここでまたオルガンに戻り、例のグラミー受賞アルバムの表題曲 Potato Hallが始まりました。やっぱりスタイルは変わっていない。彼のヒット曲の一つに”My Sweet Potato”というのがあり、それへの自らのアンサーソングといった感じです。3曲目の”Green Onions”には”Mo’ Onions”という曲があり、やはり南部の農作物への拘りがあるのでしょうか。Potatoには恋人の意味もありますけどね。

 ここから終わりまで11 “Soul Limbo”, 12 ”Hip Hug Her” ,13 “Hang’em High”, 14 “Time is Tight”と怒涛のごとく彼の代表曲が続きました。

 12は萩原健太さんがNHK-FMで長く続けた夜、夕方のオールディーズ番組のしゃべりのバックに使っていた曲。

 13 「やつらを高く吊るせ」とは同名のクリント・イーストウッド主演の西部劇のテーマ、マイナーコードが日本人好みでかっこいい。絶対聴いたことありますよ。「あ、あれだ!」って。

 いったんブッカーだけ引っ込みましたがバックは引っ込まず、ブッカーは再登場。オルガンではなく再びアコギを持ってステージ中央に来ます。

 アンコールは”Hold On I’m Coming”でした。Sam & Daveのあの曲。これもスタックスから出ていたレコードでした。曲を書いたアイザック・ヘイズもスタックス出身。バックもMGsでした。

 「この曲は『キヨシロ』に捧げる」と言って、曲の途中でも何度も「キヨシロ、キヨシロ」と叫んでいました。筑紫さんを追うように癌で逝ってしまった忌野清志郎、このサム&ディヴ、オーティス・レディング、そしてブッカーらスタックスのサザンソウルをこよなく愛していて、ブッカーとも親交があったようです。自分をリスペクトしてくれた彼に哀悼をこめて。

 ちなみに小生、忌野さんと誕生日が同じです。他にマーヴィン・ゲイ、レオン・ラッセルの誕生日でもあります。何か共通点はあるかな?

 終了後のサイン会、お疲れ、汗を拭き拭きながらもニコニコして応じてくれました。気のいいお爺ちゃんって感じ。あれ?克也さんよりもちょっとだけだけど若い。意外だなあ。

p.s. ベストヒットのスタッフの皆さん、ジェームス・イングラムはクィンシー・ジョーンズの『愛のコリーダ』(原題The Dude)アルバムの中の”Just Once”, “One-Hundred Ways他でリードヴォーカルをとっていますが表題曲「愛のコリーダ」には直接関わっていません。まあ、そんなことは百も承知でバックに流していたのかな。

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2010年2月 7日 (日)

Wake Up Everybody!

Essential Teddy Pendergrass

追悼記事です。

テディ・ペンダーグラス。113日逝去。享年59歳。直接の死因は結腸癌。

1年くらい前のアイザック・ヘイズの追悼記事のときに引き合いに出しましたが、その彼も逝ってしまいました。

バリトンの魅力、しかしアイザック・ヘイズと違って甘いセクシーさを持っていた。

1970年代のフィラデルフィア・サウンドの看板でもありました。彼自身もフィラデルフィアで生まれ育ちました。

それまではリードヴォーカルをころころ変えていたハロルド・メルヴィン&ブルーノーツのフロントマンの座を確保するとメキメキ頭角を現し、知名度も急上昇しました。グループ名に冠されたリーダーと最も人気のあるリードヴォーカルが違う、アメリカ版「内山田弘とクールファイブ」「敏いとうとハッピー&ブルー」状態になったわけです。

MFSBのストリングスを前面に出したサウンドにギャンブル&ハフの名コンビによるラブソング。それに男声コーラス。

ここまでだとO’Jaysとほとんど同じですが、ハロルド・・・が違っていたのはやはりテディの独特の低音セクシーを前面に出せたことでした。

Essential Harold Melvin & The Blue Notes

最初のヒットの73年の”If You Don’t Know Me By Now””89年にシンプリー・レッドがカバーしたことからも、今でもフィラデルフィア・ソウルを代表するラブソングになっています。

その後の70年代中期は、”The Love I Lost”, “Bad Luck”, ”Wake Up Everybody”など、バラードに加えて時流に乗ったディスコっぽいリズムでのヒット曲も量産します。モータウンのテルマ・ヒューストンが77年にNo.1ヒットにして、後にジョン・サマヴィルがブロンスキー・ビートの後に作ったコミュナーズというグループが86年にイギリスでヒットさせた”Don’t Leave Me This Way”はハロルド・・・がオリジナルです。

Best of

78年、テディはハロルド・メルヴィンとの意見対立がありグループから脱退します。ソロに転向後は完全にセクシーラブバラード路線中心になり、唯一のTop40は同年の”Close the Door”ですが、80年までにかけて”Turn Off the Lights”, ”Love T.K.O.”などR&Bチャートでのヒットを飛ばし名曲を後世に残します。特に”Love T.K.O.”2000年代に入ってもカバーの定番となり、70年代のソウルカバーの企画ものには必ず選曲されるようになっています。ホール&オーツも Our Kind of Soulで、モータウンに移籍して三枚連続してカバー企画アルバムを発表してグラミーも受賞したマイケル・マクドナルドも、「美女と野獣」

のレジーナ・ベルもフィラデルフィア産のヒット曲のみをカバーしたReachin’ Outで取り上げています。

Our Kind of Soul Soul Speak

 このレジーナ・ベル、先日来日していて、ライブにも行ったのですが、その曲も演りませんでしたし、テディの死にも一言も触れませんでした。しんみりさせたくなかったんでしょうね。

Regina_belle_img

 

テディのライブでは、客席から女性のパンティが次々に投げ込まれたという。声だけで女性を○○せてしまう男。羨ましいなあ。彼に続いてフレディ・ジャクソンとかが同じ路線で出てきますし、更にはブライアン・マクナイトとかに影響が感じられますし、80年代以降、ブラコンとか、今ならアーバン・コンテンポラリーといわれるスィートなR&Bの基礎を築いたといえるでしょう。

 そんなテディですが、日本では奇妙な売れ方をします。日本ではそのソウルっぽい部分は全く受け入れない。ところが、79年から80年ころ、幼稚園児まで、テディは知らなくてもそのリズムで踊っていた。

懐かしい「ドリフのヒゲダンス」。「8時だョ!全員集合!」の名物コーナー、シムケンとカトちゃん茶ぺが、付け髭、シルクハットに黒スーツでゲストと一緒に曲芸をやる。そのバックに流れていたリズムが大受けし、インストでシングルになってオリコンでベスト10に入る唯一の記録を作る大ヒットになりました。

Teddy

これの元ネタが、実はテディの、”Love T.K.O.”も入っていた79年のアルバムTeddyの中の “Do Me”という曲だったのです。志村けんさんは、今はあまり聴いていないようですがこの頃は知る人ぞ知るソウルオタクで、テディのその曲のバックリズムを使ったところ思いがけずバカ受けして、それに便乗する形でテディのオリジナルもほんの少しですが話題になりました。あくまでもほんの少しでした。

ちなみに、志村さん本人がいっているのを聞いたことはありませんが、「全員集合」からのもう一曲のインストのスピンオフヒット「ドリフの早口言葉」の元ネタは、ウィルソン・ピケットの”Don’t Knock My Love”とバリー・ホワイトの”Satin Soul”を組み合わせたものであるはずです。

さて、順風満帆に見えたテディですが、82年に大きな交通事故を起こし、下半身不随になり、その後車椅子の生活を余儀なくされます。

当然コンサートはできなくなりますが、レコードは出し続け、アトランティックレコードに移籍しJoy など評価の高いアルバムを出します。事故後に出されたホィットニー・ヒューストンのデビューアルバムでも”Hold Me”をデュエットして、当時ストリップ劇場のバックの定番になっていたそうです。(なぜそんなことを知っている?)

残っている彼のウエブサイトを見ると、ディスコグラフィのページでは、ブルーノーツの時代からソロに至るまで彼のレコード、CDのジャケットが街頭に一枚ずつ飾られていて、それを彼のアバターがとぼとぼ歩きながら辿っています。やっぱり、歩きたかったんでしょうね。

更に癌に侵されていることが発覚し、2000年代はほとんど引退の状態で、今回のことを迎えました。

スィートソウルでの彼の偉大な業績を惜しみつつ、セクシーで甘い部分ではない彼の一面を紹介して死を悼みたいと思います。

先週のベストヒットでもマイケルの特集があり、克也さんはマイケルの「怒り」をよく強調されています。

美しく甘いソウルを作っていたフィラデルフィアの人たちも、実は「怒って」いたんだと思います。

77年に、テディ、O’Jaysスリー・ディグリーズ、ルー・ロウルズ、ビリー・ポール、その他フィラデルフィア・インターナショナル所属アーティストを総動員して、当然MFSBをバックに、当時(今でも)の都市部の黒人居住区の不衛生問題改善を訴えた”Let’s Clean Up the Ghetto”を出しています。有名アーティストが歌い繋ぐところなど、We Are the Worldの原型であったともいえます。

その We Are the World、ご存知の通り、四半世紀を過ぎて、この間のハイチでの大地震の被害救済のため、今のアーティストたちによって再録音されました。マイケルが残した母テープもバックに使われているという。(小生はこの手のチャリティはあまり好きではありませんが、それはこの際置いておきましょう)。

テディのブルーノーツ時代のヒット曲、”Wake Up Everybody”、そんな現在にも、マイケルの怒りにも通じるものがあります。その歌詞を紹介します。改めて合掌。

Wake up everybody no more sleepin in bed

みんな、目を覚ませ、ベッドで寝ている場合じゃない
No more backward thinkin time for thinkin ahead

過去を顧みている時じゃない、今こそ未来を見つめるんだ
The world has changed so very much
 from what it used to be

世界はかつての像から大きく変化した

so there is so much hatred war an' poverty

だからこそ憎悪と戦争と貧困が増えているんだ
Wake up all the teachers time to teach a new way

教師たちよ、目を覚ませ、今こそ新たな生き方を教える時だ
Maybe then they'll listen to whatcha have to say

きっとみんな、君たちの言うことに耳を貸すに違いない
Cause they're the ones who's coming up and the world is in their hands

なぜなら、彼らは未来を担う世代で、世界は彼らの手にゆだねられるからだ
when you teach the children teach em the very best you can.

子供たちを教育するときには、ベストを尽くしてやってくれよ。
Wake up all the doctors make the ol' people well

医師たちよ、目を覚ませ、老人たちに生きる希望を与えるんだ
They're the ones who suffer an' who catch all the hell

彼らこそあらゆる病の苦しみを受けなければならない人たちだから
But they don't have so very long before the Judgment Day

それでも、彼らの審判の日まで、それほど長くはない
So won'tcha make them happy before they pass away.

だから、彼らが本当に死を迎えるまで、幸福を与えてやってくれないか
Wake up all the builders time to build a new land

建築者たちよ、目を覚ませ、今こそ新たな土地を開拓するときだ
I know we can do it if we all lend a hand

われわれみんなも手を貸せば、きっとできるはずだ
The only thing we have to do is put it in our minds

いつも心がけていること、ただそれだけでいい。
Surely things will work out they do it every time.

いつもそうしてきたんだ、きっと巧くいくさ

The world won't get no better if we just let it be

ただ放っておいたままなら、世界はよくならない
The world won't get no better we gotta change it yeah, just you and me.
世界はよくならないから、我々が変えていかなければならないんだ、君と僕とで

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2010年1月15日 (金)

Try to Remember/ The Way We Were

あけましておめでとうございます。

まだ正月ボケが続いている方もいらっしゃるでしょう。少なくとも小生はそうです。

ですので、少し正月らしいトピックで書きます。普段のような、洋楽に関するトリビアな内容は僅かになってしまうかもしれません。しかしより大きな意味での音楽の歴史の話になる可能性あり。

去年、ファンフラに二度も出演させていただいた愚息、”Ricky”紀輝(のりき)クン9歳。

小生、縁あって仕事で名古屋にいますが、両親は関東にいます。

小生と愚息も、冬休みの後半、ラッシュにできるだけ引っかからないように帰省しました。イベント参加や、お年玉ねだりが主目的でしたが。

リッキー君は、もう一つ重大なミッションを帯びて上京しました。ミッションとは大袈裟で、洗練された言葉で言い換えるといわゆる「宿題」ですな。

それは、オジイチャンオバアチャンのお家に行くことがあったら、「昭和」の時代を感じられるものを何か見せてもらって、それについての話を聴いて、教室で発表してください、というものでした。

昭和といわれましても63年もの長きにわたるわけでして、かく言う小生自身も人生の半分は昭和を生きていた訳でして、いろいろないわけではないですが。オジイチャンオバアチャンから情報をもらいなさいということは、できたら昭和の前半の時代を彷彿とするものを見せてもらえ、という含みがあるのでしょう。

小生のお袋は克也さんとほぼ同年代、親父はチョイ上です。

ちなみにリッキー君は炬燵を経験したことがありません。小生が子供の頃に入っていたものも、家を改築したときに処分してしまったとのこと。残念。

話を聞いて親父やお袋が出してきてくれたもの、すり鉢、昭和30年代の羽子板、いろいろありましたが、やっぱり一番古い、SPレコード盤がいいだろう、ということになりました。マイケル・ジャクソンの一件以来洋楽にも興味を持ち始めたリッキー君にもインパクト大きかったようです。

SPレコードとは何か。オジイチャンのお話もさることながら、このサイトにおいてセミプロ音楽ライターを始めて6年目、その意地にかけて愚息のプレゼンのカンペを作ってやることにしました。

しかし、工学技術や歴史を小学校低学年に説明するのは逆に難しいですね。小生が本当はこう言いたいんだけれど高度すぎて(?)いえない部分は(   )の吹き出しでコメントします。

「みなさんは音楽を聴くとき、CDを使っていますよね」

 (CDの売上げは10年前と比較すると半減しており、ネット配信、USBスティックオンリーとか、今年はメディアの多様化が更に加速しそうですけどね)

「でも、僕たちのお父さんや、オジイチャンの昭和の時代には、レコードというものがあったそうです。

それも、オジイチャンの時代の昭和の前半は、レコードの一番古い形のSPレコードというものがあったそうです。

今のCDは、音楽をデジタル化した信号に変換し、それに光線を当てて読み取って音に直して聴くのですが。。。」

(これ自体十分難しいですね。どうしたらいいでしょう。やっと10進法に慣れたばかりの子供たちなのに、2進法とか、0と1の二つの数字の組み合わせで全ての音が無限に信号化されてるとか。。。ますます止めたほうがいい)

「レコードは、円盤に針を落として、円盤の外側から内側に向けて掘られた一本の細い溝に記録された摩擦音を針が辿って震えて、その音を大きくして聴いていたのだそうです。」

 (CDDVDの場合、光線は内側から外側に動いています。これは皆さん、知ってましたよね?)

「レコードの一番もとの形を発明したのは、みんなも知ってる発明王のエジソンで、1877年のことだそうです。」

 (この時エジソンが作ったのは円盤ではなく筒が回転して針が下から上に降りてくるもので、声を辛うじて聞き取れる程度のものだったそうです。偶然にも、エジソンと電話の発明の特許を争ったアレグザンダー・グラハム・ベルもほぼ同時期に同じものを作っていたのですが、二人ともそれ以上の改良を考えなかったそうです。それが発明家の発明家たる所以なのかもしれませんね。プロトタイプは作るけどあとは野となれ山となれですぐ別のものに興味を移す。。。)

「これが、オジイチャンが残していてくれていたSPレコードです。」

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 「『鳩ポッポ』が『ポッポ鳩』って書いてあったりします。オジイチャンの若い頃は、日本語の横書きは右から左に書いていたそうです。」

SPレコードは、一分間に78回転して、それで3分間くらいもって一曲だったそうです。溝を辿って音を拾う針は鉄でできていて、一回使ったらそれでもう使えなくなり、一回ごとに交換していたそうです。」

「昭和が始まった頃(1920年代ですな)、アメリカという国ではジャズという音楽が大流行して(子供たちはジャズといわれてもピンと来ないし、アメリカといわれても日本より大きな国があるんだなあ、くらいの認識しかまだないでしょう)レコードが広まったそうです。」

SPレコードは片面しか録音できず、割れやすい硬いプラスチックで作られていたので、1940年代にアメリカと日本が戦争をしていた頃(今ではこの歴史事実すら知らないで大学に入学してくるやつらがゴマンといますから、早くから教えておいたほうがいいと思います)、素材は弾力性があって割れにくい塩化ビニールに変わり(ちょっと難しいかなあ)、両方の面に録音できるようになり、直径は30センチになって一分間に33回転になり、片面に40分も録音できた、何曲も連続して聴けるようになりました。これをLPレコードといいました。一曲だけを聴くためのものは直径17センチと小さくなり、一分間45回転になりました。これをEPレコードといって、中心の穴が大きかったのでドーナツ盤というあだ名がつきました。音を拾う針も宝石(こういう言い方のほうがわかるでしょう)が使われるようになり、一番硬いダイアモンドを使って作った針なら延べ(この概念もまだ習っていないでしょうが)で300時間くらい聴くことができました。」(これらの規格を作って普及させたのはアメリカのコロンビアとRCAです)

「ビートルズや、マイケル・ジャクソンも最初はそうやってレコードを作って売っていました。」(小学生もこの二つなら全員辛うじて知っているようです)

「これが、1981年に最初に述べたCDが売られるようになり、今にいたります」

(世界で最初にCDを商品化したのは新しいもの好きの大滝詠一師匠の A Long Vacationでした。来年は20周年を迎えるわけですな)

以上、「   」の部分をリッキー君が写真を見せながら巧く発表してくれればいいな、と思っているのですが(親バカ丸出し)。

以下は小生の個人的な回想。

小生は、物は壊れるまで使い切らなければ気がすまないセコい性格もさることながら、LPレコードを最盛期で1000枚近く持っていたこともあり、しかもマイナーで希少なものが中心でしたから、それらが全てCD化されるとは到底考えられず、最後までCDに抵抗し、アナログレコードにしがみ付いていた口でした。最初のCDを買ったのは1989年だったと記憶しています。それまでアナログではどうしても見つからなかった曲がCDになっていたからでした。その曲についてはいずれ稿を改めて。

それ以降は雪崩の如く、ン千枚のCDを集めてしまいましたが、今はCDを買う以外に音楽を入手して貯めておく手段は多様化し、CDを何枚持っているかなど何の自慢にもならない時代になってしまいました。冒頭に書いたCD売上げの半減減少も無縁ではないでしょう。

技術の発展、普及にかかる時間はどんどん圧縮される傾向にあります。小生はDVDもン千枚ためてしまって、次世代DVDもクソ食らえと思っていたのですが、ひょっとしたら本年の暮れまでには、時流に負けてブルーレイシステムを入手しているかもしれない、そんな予感さえする2010年正月でした。

ザ・ベスト・オブ・グラディス・ナイト&ピップス

Try to Remember/ The Way We Were

グラディス・ナイト&ピップスが、1975年、その前年に大ヒットしたバーブラ・ストライザンドの『追憶』のテーマにせりふを加えてかばさせたヒット。世の中の動きや技術発展が速くなっていても、その基礎は先人の発想と努力の賜物であって、それを有り難がって使っていた時代があったことを忘れてはいけない。小学校からの勉強も、その認識が根底になければ。知ることは喜びで、無駄なものは何もないのです。

♪いつだって、。忘れない、エジソンは、偉い人、そんなの常識~、タッタタラリラ~♪

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2009年12月16日 (水)

GET READY!

Gold

 あんまり間をおかずに行きましょう。

またまたライブリポートで、今回も懐かしや、テンプテーションズ。

正確に言うと、テンプテーションズ・レビュー。

以前にも、ジェファーソン・スターシップとか、アース・ウィンド&ファイアとか、エイジアとか、長くやってると人間関係がいろいろ複雑になり、バンドに出たり入ったりで、もともとは同じバンドだったものが枝分かれして南北朝時代みたいに本流と傍流が並存しているグループについて取り上げたことがありました。

実はこのテンプテーションズもそうなっているんですね。

本家テンプテーションズと、今回観たテンプテーションズ・レビューが並存している。

1960年代、フォートップス、スピナーズらと並んでモータウンの男性コーラスグループの柱と言われ、その中でも最もヒット曲が多く、そのフォートップスやスピナーズが70年代になってモータウンを見捨てて移籍して行ったしまった中、テンプスのみモータウンへの操を守り続けた。

しかしその分、メンバー交代も多かった。曲のキーによってリードヴォーカルも代えることができ、それでエゴのぶつかり合いもかなりあったという。

そんな中で、メンバーはどんどんソロになって、それなりにヒット曲を出していくようになる。

でも、オリジナルメンバーで主要だった人たちは今、殆ど鬼籍に入ってしまった。

エディ・ケンドリックス。

デヴィッド・ラフィン。

ポール・ウィリアムス。

メルヴィン・フランクリン。

1961年の結成以来、現在までテンプテーションズの看板を守り続けているのはオーティス・ウィリアムスのみ。

ところがこのオーティス、そんなテンプスの中で唯一、リードヴォーカルが取れないメンバーだった。

それで今の本家テンプテーションズは、オーティス以外90年代以降に入った人たちばかりでやっている。

Psychedelic Shack / All Directions

これに対して、テンプテーションズの名前を法的に使用できないからテンプテーションズ・レビューとしてやっている方を率いているのはデニス・エドワーズ。”Ball of Confusion” “Papa Was a Rolling Stone”などの大ヒットでリードヴォーカルをとり、70年代になってファンキーになった時期のテンプスを支えた人。

それに加えて、オリジナルメンバーのポールの遺児、ポール・ウィリアムス、ジュニアが入っていました。その意味で音楽的にもメンバーの血の流れの上でも、こっちのレビューのほうがよほど正統性を主張できるのではないか。

Look What the Lord Has Done

それはさておき、70年代を中心としつつも60年代から80年代まで30年間のテンプスの歴史を一瞥できるステージを見せてくれました。

Temps_setlist

 82年の、今は亡きリック・ジェームスの呼びかけで再結成し、彼のプロデュースを仰いだファンキーな”Standing…”から始まりました。

Live at the Apollo

 そして60年代に戻ったメドレー、”Get Ready”から。85年にホール&オーツがアポロ・シアターでのライブでエディ・ケンドリックスとデヴィッド・ラフィンをゲストに呼んでこの曲をカバーしてヒットして、それと同じことを同年の、世界数箇所で同時に行われ世界中に中継されたUSA for Africaをうけての「ライブ・エイド」で同じことをやったの、憶えている人、どれくらいいるでしょうか。

 このメドレーの中で、”Papa was a Rolling Stone”が早くも出てきてしまいました。代表曲をもう出しちゃっていいのかな。って感じ。

20th Century Masters: Millennium Collection

 その次に意外でしたが”Rainy Night in Georgia”はトニー・ジョー・ホワイト作、ブルック・ベントンという、50年代から活躍していたサザン・ソウルの人が70年に大ヒットさせた渋い渋い曲。以前はクラシックしか聴いていなかった若山玄蔵さんがいわゆる洋楽にハマったのはこの曲からだ、と言っていました。テンプスとしてレコーディングしたことはないようですが、ステージがアダルトな雰囲気になっていくのにうまい選曲でした。

 次の”Cloud 9”メドレーの中に、バラードのナンバー1ヒット”Just My Imagination”も出てきました。

 70年代のR&Bそのもので、みんな一曲の時間が半端じゃなく長い。その間にメンバーも客席に降りてきて、聴衆にマイクを向けてハミングをリピートさせたりしました。かく言う小生も、最前列正面に坐っていたので、マイクを向けられました。一番音を外さずに,他のお客さんから拍手をもらったのは小生じゃなかったかな。カラオケでもオンチじゃないほうですから。

 “The Way You Do…”60年代モータウン時代の代表曲、リタ・クーリッジもカバーし、上に書いたホール&オーツとのジョイントでもメドレーで使われた曲。

Essential Collection

 やはり67年の”Wish It Would Rain”に続いて、最後に全員が立たされて踊らされたのは、85年の”Treat Her Like a Lady”.アース・ウィンド&ファイアのアル・マッケィがプロデュースした80年代のテンプスのファンキーな最高傑作。ところがこの85年当時、デニスはテンプスから抜けていたんです。ソロとしてサイダ・ギャレットとのデュエットで”Don’t Look Any Further”という曲をヒットさせていました。そうなんです。後にマイケル・ジャクソンと”I Just Can’t Stop Lovin’ You”をデュエットでナンバー1にして、90年代にはブランニューへヴィーズに加入する、あの女性です。彼女を世に送り出したのはデニスだったんですね。

 その”Treat Her..の間奏がずっと続いて一旦引っ込み、また出てきた。上に挙げた、既に亡くなってしまったテンプスのメンバーの名前を読み上げ、一人ずつ合掌する。そして最後はやっぱり“My Girl”

 終了後のサイン会も、小生が歌ったのを憶えていて褒めてくれました。いい人たちだった。

 Get Ready.気が付いたら、2000年代の最初の10年も終わろうとしています。次の10年代への準備はできていますか?

 もし、年内に次の原稿ができなかったら・・・ハッピー・クリスマス!

Temps_autographs

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2009年11月20日 (金)

Listen to the Music!

オールレディ・フリー

  なんか最近は、前の原稿から間を開けてしまっては、その言い訳から始まってばっかりのような気がします。

 今回は、本業でかなり長いものを書く仕事がたまっておりまして。9月に病気にさえかからなければその仕事も余裕を持ってできたんですけれど。その病気の麻痺もまだ残ってますし… それでもそんな中、このサイトのお仕事も忘れてはいません。不良大学教授のハリー先生は本領発揮。

 ちょっと遅れましたがライブリポートをちゃんとやります。

 デレク・トラックス・バンドとドゥービー・ブラザーズのダブルヘッドライナー。

 もちろん、お目当ては後者なのですが。

 前座扱いではない、ちゃんと肩を並べていたデレクに関してもちゃんとリポートしますね。

「デレク・トラックス、1979年の68日、フロリダ州ジャクソンヴィル生まれ。
At Fillmore East

叔父はオールマン・ブラザーズ・バンドの結成時からのドラマー、ブッチ・トラックス。家ではいつもオールマンズのアルバムや、そのリーダーだったデュアン・オールマンが大きく貢献していたデレク&ザ・ドミノスの『レイラ』などがかかっていた。

Layla and Other Assorted Love Songs
もうおわかりのとおり、デレクという名前はクラプトンが70年代初頭に率いていた、その伝説的なグループからいただいたもの。」

実は小生、彼を一度、観ていたんですね。これもクラプトン絡み。3年前に観たクラプトンの、ヒット曲をあまり演らずデレク&ドミノスでのレパートリーなんかを中心に選曲していた日本縦断ツアー。クラプトンはその時、自分も含めてトリプルリードギターの構成でしたが、残った二人のうちの一人に、金髪の長髪で、若いのにすげー巧いやつがいるなと思って観ていたのがいたのですが、それがこのデレク・トラックスだったんですね。

なるほど、クラプトンが彼の腕を見込んだ上だというのも当然でしょうが、デレク&ドミノスつながり、サザンロックつながりだったのか、と今にして改めて納得。

「デレクはギターを、彼自身の言葉を借りれば、「身長がギターより小さかったころに」弾きはじめた。もちろん手も小さかったので、スライド・バーを使うようになったのは、そのハンディを克服するためでもあったらしい。
 やがて彼は、スライドでもレギュラー・プレイでもオープンEチューニングで弾きこなすというスタイルを確立した。愛器はギブソンSGとフェンダーのヴィンテージ・アンプ。エフェクター類には基本的に頼らない。
 スライド・バーは、デュアンが使っていたのと同じガラス製の薬ビン。ピックは使わない。そのきわめて個性的なフォーマットで、デレクは表情豊かなギターを弾きこなしている。」
 彼の曲はラジオで流れるようなタイプのものではなく、評価は高くともヒットがあるわけではないので、実は小生、彼のCDは聴いたことがなく、セットリストもいただけなかったので、詳細なリポートはできないのですが。

エフェクターを使わないというのには驚きでした。アンプだけであれだけいろいろな効果音を出しているのかと思うと驚異です。

世代のせいもあるでしょうが、サザンロックの匂いはあまり感じられませんでした。むしろインストもの中心、スライドギターと、エフェクターを使っているとしか思えない音色で、高中正義に近いものを感じました。

ドゥービーから、サックスのマーク・ルッソがずっと、ゲストでドラムスのエド・トスが一曲参加しました。

ジェフ・ベックとかデュアン・エディーとか、昔はギターだけで独り立ちしていたミュージシャンのスタイルがあったものですが、最近は見かけませんね。その伝統を一人になっても守っていくような、そんな気概を感じました。

さて、20分程度の休憩の後、お目当てのドゥービー。

3年前は夏フェスで来日して、去年はシカゴとダブルヘッドライナーでアメリカを縦断しました。そのシカゴはこの夏また、一番気の合うアース、ウィンド&ファイアとまわり、ドゥービーはレイナード・スキナード、38スペシャルらサザンロックの連中とツアーしたようです。デレクもその流れかな。

もうオリジナルメンバーはトム・ジョンストンとパット・シモンズしかいません。でもこの二人がいればそれで満足、って感じ。

あと古いメンバーだったら、「ミニット・バイ・ミニット」から参加したジョン・マクフィー。この人はギターが一番巧い上にいろんな楽器がこなせてしまう器用な人。音の要になっていました。あと、このバンドの特徴であるダブル・ドラムスの一端をかなり初期から担い続けてきたマイク・ホザック。

あとは、82年にいったん解散したあと、生き残りの相当部分が矢沢永吉のバックを勤めたりしましたがその時一緒に演ったキーボードのガイ・アリソンとか。

70年代中期からいたけれど残念ながら2005年に急逝してしまったキース・クヌードセンの後釜で入ったヴァーティカル・ホライズンのエド・トスとか、新しい人たちばかりですね。

ドゥービーのほうはセットリストをゲットしました。しかしこれはステージ上に貼り付けてあったもので、ステージに向かって一番左側にいたベースギターのスカイラーク(本名ではないでしょう。当然)が散々踏んづけたあとのもの。ローディーさんに頼み込んで剥がしてもらったものですからビニールテープの痕もくっきり、ビリビリだったのですが、小生が可能な限りの修復を施しました。なんてったってドゥービーのメモラビリアですから宝物です。

Doobie_set_list

みんな省略されて書かれているのでちょっと詳しく。

Stampede

1 Take Me in Your Arms (Rock Me) もともとホーランド-ドジャー-ホーランドのモータウンのソングライターチームが作って、60年代にアイズレー・ブラザースなんかが中ヒットさせたR&Bナンバーですけど、ドゥービーがアルバム「スタンピード」で75年に取り上げて有名になった。ライブでも景気づけの一発目として定着しています。

Toulouse Street

2 Jesus is Just Alright

72年彼らの人気を決定付けた「トゥールズ・ストリート」から。克也さんがZIP HOT 100を始めたばかりの95年にはDCトークというクリスチャン・ロックバンドがカバーしていました。ドゥービーのライブでは、ギターの音が上がるときに、ギターの3人プラスベースの一人の四人が並んでギターのヘッドを持ち上げるのがお決まりのパフォーマンスになってます。

Brotherhood

3              これはもともと一単語のタイトルですから省略なし。彼らは82年に一度解散しますが、89年に、トム・ジョンストンを迎えたオリジナルに近い編成で再結成(トムが78年からがグループを離れたのは健康上の理由となっていますが本当なんでしょうかねえ?ソロアルバムは出していましたし)。初期のロックっぽい音で戻ってきてくれて古いファンを涙させましたが、その際結成二枚目のアルバム “Brotherhood”からのヒット曲。91年。

4              Rockin’ Down the Highway

また名盤「トゥールズ・ストリート」から。この4曲あたりまでが景気づけで、ほとんどノンストップで演奏されました。

5              Double Dealing Four Flusher

「スタンピード」から。これはシングルヒットではないのですが、彼らは初期からライブとレコードは別物、と考えていた節があり、例えばこの曲は初期のライブで中盤のいいところで演奏されることがすごく多かったし、それは再結成後も受け継がれているということですね。

6              一語タイトルにつき省略なし。これも“Brotherhood”から。デレクがゲストで参加しました。

7              これは新曲です。タイトルは「・・・シャトウ」ともっと長かったかもしれませんがメモをなくしてしまいました。来年、新譜が出るそうです。「新しいCD,いや、最近はいろいろ形式があるからなんていえばいいのかねえ」とパット独特のオトボケMCで始まりました。やっぱり70年代初期の、そして再結成後のドゥービーの音だと感じました。

ワン・ステップ・クローサー-#紙ジャケSHM-CD#

8              One Step Closer

 80年の同じタイトルのアルバムから。実は、小生が今回の選曲で一番驚いたのはこれです。再結成後のライブでは、マイケル・マクドナルドがトムに取って代わって音作りの中心となりR&Bプラスオシャレロック色が強くなった、78年の「ミニット・バイ・ミニット」そしてこの「ワン・ステップ・クローサー」からの選曲は、当然歌う人がいないし、音の雰囲気も違うので極力避けられていたのですが、サービスの意味もあってやったのでしょう。この曲はパットとマイケルの共作曲でもあり、権利もあるのでやりやすかったこともあるでしょう。しかし面白いことに、レコードではマイケルがリードヴォーカルをとっていた部分をパットが歌い、パットがリードヴォーカルをとっていた部分をスカイラークが歌っていました。

ドゥービー・ストリート-#紙ジャケSHM-CD#

9              Takin’ It to the Streets

76年の同名アルバムから。これもマイケルの曲で、それ以降のドゥービーの音が、シンセサイザー中心になっていく変化のさきがけとなるヒット曲ですが、これはトムが休養前に正式メンバーとして参加した最後のアルバムでもあるので、必ず演奏されます。マイケルとも関係が悪いわけではないですし。イヴェントがあるときにはよく共演しています。この曲ではキーボードのガイ・アリソンと、ヴォーカルでは再びスカイラークが大活躍しました。

10          Don’t Start Me Talkin’

  「トゥールズ・ストリート」から。これもヒット曲でなくてもライブで重要な位置を占め続けていた曲。そろそろオーラスの雰囲気。

11          Little Bitty Pretty One

 これなど、彼らがライブとレコードは別物だと考えている証拠みたいな曲です。これは彼らはレコード録音していません。でもライブではやります。オールディーズの、ドゥーワップとバブルガムをあわせたみたいな曲なんです。オリジナルはフランキー・ライモン&ティーンエイジャーズ、声変わり前のマイケル・ジャクソンも録音していました。きっと誰もが一度は聴いたことのある曲です。そんな子供っぽい曲で最後を盛り上げます。

What Were Once Vices Are Now Habits

12          曲名省略なし。74年の”What Were Once Vices are Now Habits”(「昔は悪癖だと思ってたものからもう抜けられない」が直訳で、もっと短い邦題があったような気がするけど失念しました)。彼らにとって最初のナンバー1ヒット。だけど元々はB面扱いだったものに火がついた。バイオリンが印象的なゆったりとした曲。ジョン・マクフィーは起用でそのバイオリンも綺麗に弾いてしまいます。サビの歌詞に”Mississippi moon won’t you keep on shinin’ on me”があって、このミシシッピの部分をそのコンサートの場所で言い換えるのがまたお決まりですが、当然 “Nagoya moon won’t you・・・で拍手喝采でした。

キャプテン・アンド・ミー#紙ジャケSHM-CD#

13          Long Train Runnin’

    73年、“Captain & Me”彼らの代表的アルバムの一つなんですけどここでやっと初めて出てきました。これはおなじみの曲でしょう。リミックスも何度もされていますし。

 小生はアメリカにいたとき、この曲と全く同じ経験をしました。コロラド川をラフティングで下っていたとき川沿いの線路に貨物列車がのそっとガタゴトやってきて、その長さにびっくりしました。本当に長い、何両編成だったか、500メートルくらいあったかなあ、しかも何台かの車両に Illinois Central と書いてあったのには、感動しました。

 ここでいったん引っ込んで、アンコール。ここのところアンコールのパターンは決まっているようです。

14          China Grove

続いて“Captain & Me”から。これもアメリカの道を車で走りながらラジオでかかってきたら、なんとぴったりだろう、と思わせる曲ですね。トム・ジョンストンは、おら、お前ら、盛り上がれ、とマジで怒ったような顔をしてステージを縦横無尽に行ったり来たりします。

15          曲名省略なし。またまた続いて“Captain & Me”から。そして最後はやっぱり

16          Listen to the Music

   デビューアルバム「トゥールズ・ストリート」の第一曲目にしてすでに彼らの代表曲となってしまった。

 演奏がぴたっと止まり、ドラムと手拍子だけで “Wow wow, listen to the music, all the time”の、観客を交えて大合唱。おお盛り上がりの末、余韻を残しつつ終了。

 いやあ、音楽って本当にいいですね。みなさん、もっと音楽を聴きましょう。

  折り紙菊ちゃんさん、東京でのコンサートはいかがでしたか?

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2009年7月 7日 (火)

Show You the Way to Go

Off the Wall スリラー#紙ジャケット仕様#

マイケル・ジャクソンですか…

 そりゃ突然なことだったのでびっくりはしましたが、正直申しましてそれほどの衝撃は受けていないですね。

 いろいろな理由が考えられます。

 僕は、ベテランアーティストが歳をとってからどんな風になっているか、かなり前から色々想像していて、それがけっこう当たっていたりするんです。

 記録に残しているわけでもないし、誰かに話した憶えもあまりないから証拠がないのですが。

 例えば、ポール・マッカートニーは、寡作になるけれど、振っ切れて、ウィングス時代は極力避けていたビートルズ時代の曲をライヴでやるようになるだろう、とか。エルトン・ジョンは昔からスタイルをほとんど変えなかったので、流行に関係なくそれを貫いていくだろう、ロッド・スチュアートは臨機応変に自分のスタイルを変えてきて、自分のかっこよさを知っている人だから、歳に応じて渋みを増してくるだろう、マドンナは自分のトータルな美を磨くことを怠らず、年齢を感じさせないスタイルでイメージは不変だろう(由美かおるか?)、とか。

 ところが、歳をとったマイケル・ジャクソンの姿は、全く想像できなかったんです。

 より正確に言うと、想像はしていましたが、その想像が「空白」だったのです。

 すなわちマイケルはいずれにしろ、50前後で引退宣言をするだろう、あるいは明確な宣言はしなくても表舞台には極力出で来なくなり、新譜も発表せず、事実上の引退をしてしまうだろう、と。

 彼の体調も大きな理由です。彼がどんどん白くなっていったのは、彼がそういう手術を受けたのではなく、メラニン色素が極端に減少していく病気だったんですね。ライオンとかでも稀に真っ白なのが生まれますが、日光に当たることができず、他の病気も併発して短命の場合が多い。彼の場合も、正式な死因の発表はまだですが、遺書を残していたことから想像するに、はっきり自分の死期を認識していて、体はぼろぼろになっていたのでしょう。

 それ以上に彼は、10歳いくかいかないかで頂点を極めてしまい、それ以降40年間、彼のやることそのものが時代を作り続けていた。その彼が時代を作れなくなってしまったとき、どうなるのか。

 急逝、というのはその一つの答えだったのかもしれません。

 ジェームス・ディーンが事故死したときのことは、僕は当然ながら全く知らないのですが、どれくらいの人が、それ以降の彼がどのような映画を作っていったか、を想像していたでしょうか?

 人が死ぬことによいことは何もありません。しかし、結果は受け入れなくてはいけない。

 それがマイケルほどの時代の寵児、いや時代の創造者だった場合、その役割を終えたら疾風のごとく姿を消すというのは、日本史でも世界史でも珍しくない話で。

 そんなジェームス・ディーンやリンカーン、織田信長(人間五十年、下天の内を較ぶれば…)みたいな要素を感じてしまって、納得している部分があるというのが正直なところです。

 やはり私は、捻くれ者ですね。それに尽きると思います。

 ブログなどで彼の死を悼んでいる人たちのかなりが、僕より少し上の世代で、「ベストヒットUSA世代」を自認しているみたいで、克也さんの名前をお借りしている私のサイトにもアクセスが増えました。

 でも小生本人は、その世代だとは思っていないのです。

 その世代を名乗る人たちは大体小生より23上の人たちなのですが、それより若くても洋楽を聴き始めたのが早く、小学校45年の道徳の時間に「尊敬する人は?」と先生に聞かれて「エルトン・ジョン」と答えていた生意気なガキンチョだった小生は、そりゃベストヒットは(今でも)大好きな番組で希少な洋楽情報番組として楽しんでいたのですが、それに世代を投影するまでにはいきません(克也さん、ゴメンナサイm(_ _)m、でもだからこそ克也さんは小生にここで書かせて下さっているんですよね、そう思っています)。

Bad Dangerous

そういう小生にとってのマイケル・ジャクソンとは、Off the Wall, Thriller, Bad, Dangerousなどソロは全部持っていますし、ビデオクリップ集もあり、それなりに楽しみましたが、入れ込んだ、というほどではなかったのです。捻くれ者としてはどうしても一番売れているものには冷めて見てしまう悪い癖がありまして。

僕が一番好きだったマイケルは、クインシー・ジョーンズやジョン・ランディスに出会う前のマイケル、つまりジャクソン・ファイヴ末期、ジャクソンズの一人としての彼なんです。

Playlist: The Very Best of the Jacksons

10歳になるかならないかでデビューから4曲連続でナンバー1を飛ばして、それはモータウン全盛期末期のバブルガムミュージック大量生産体制の最後の踏襲者としてのものだった。その後、共演したスティービー・ワンダーあたりに入れ知恵されたか、モータウン路線に反発するようになり、兄弟独特のコーラスワークを生み出したりして、その二つの路線の妥協として、ディスコなどにも影響されたジャクソン・ファイヴ名義最後のナンバー1ヒット「ダンシング・マシーン」が出たのが74年。

その後モータウンと完全に決別し、モータウンの重役の娘を嫁にもらっていた長兄ジャーメインはその腐れ縁で残留を余儀なくされ、残りの兄弟たちはエピックレコードに移籍して、名前もジャクソンズに変えた。

僕はこの75年から78年ころのジャクソンズ、というかマイケル、が一番好きなんです。

The Jacksons

76年に移籍第一弾で発表したセルフタイトルアルバムは、名盤です。フィラデルフィア・サウンドを支えていたギャンブル&ハフのコンビと組んで製作、ストリングスを生かしたフィラデルフィアソウルと彼らのコーラスワークを融合させた美しい極が並び、”Enjoy Yourself””Show You the Way to Go”など、大ヒットとは行かなくてもそこそこ受け入れられファンの記憶に残るヒット曲も生まれました。その2年後の2枚目Destinyでは、まだ誰の影響も受けていない、彼ら独自のディスコ・ダンスミュージックの解釈を展開して”Shake Your Body”なんて、他にはあまり例のないリズムでのヒットを生み出した。

Destiny

ところが79年、以前からのマイケル人気に目を付けたエピックは、クインシー・ジョーンズとマイケルを組ませてソロアルバム、Off the Wall を作らせて、これが記録的ヒットになってしまう。

Triumph

そこから、皆さんご存知の歴史が始まってしまいます。しかしその裏では…

ジャクソンズとしてはどうしてもマイケル色をさらに強める必要に駆られてしまい、80年に出したアルバムTriumphは、彼らのセルフプロデュースのはずながらOff The Wallの二番煎じみたいな音になってしまったし、Thrillerの歴史的ヒットの後の85年に出たVictoryでは、ミック・ジャガーとジャクソンズの共演”State of Shock”が大ヒットしてしまう。しかしこれはどう聴いても、ジャクソンズとミック・ジャガーというよりは、マイケルが個人的にポール・マッカートニーと共演して”Girl is Mine” “Say Say Say”と連続大ヒットを飛ばしたこととパラレルに見えてしまう。

Victory Pipes of Peace

その後の兄弟は、マイケル、ジャネットのバカ売れもあり、空中分解状態になってしまう。

でもそれが一段落した後にジャクソンズとして久しぶりに出した89年の 2300 Jackson Street は、実に肩の力が抜けていていい作品でした。やっぱり自分たちが血の繋がった家族なんだ、ということを再確認したような。ぜんぜん売れませんでしたが。

2300 Jackson Street

まあそんなわけで、マイケルほど世界中に知られていれば人それぞれのいろいろな解釈が可能な訳で、一捻くれ者として見たマイケル論でしたが、もし彼がクインシーやジョン・ランディスと組まされることがなかったら、ジャクソンズはもっと音楽的に成熟したすばらしい音楽を作ってそれなりの成功を収め、マイケルも急逝することもなかった、と考えるのは私だけでしょうか。

オバマ大統領も声明を出したとおり、私生活ではいろいろありましたが、10歳からわれわれとは上の世界に行っちゃっていた人でしたから、仕方のないことでしょう。

いずれにせよ、我々に「進むべき道を示して」くれ続けて、疾風のように去っていった時代の申し子の急逝には、改めて合掌。

克也さんの新番組、全国ネットでよかったです。

克也さんが日記で書かれているとおり、アメリカのラジオ業界はいろいろ動いていますね。次回はその話題になるでしょう。

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2009年4月24日 (金)

Time Machine-1984

Then & Now Rock 'n Soul, Pt. 1

  往年のベストヒットUSAのタイムマシーンのコーナー冒頭の、克也さんの雄たけびみたいですね。

 知らない若い方々のために念のために言っておきますと、80年代のベストヒットのタイムマシーンは、今みたいに、何年前の今日は何があった、ができなくて、ある年のある一曲を紹介していたんです。

 それ以前の曲の映像がなかなかなかった時代でしたからね。当時契約していたアメリカのテレビ番組SOLID GOLDの映像を流したり。克也さんもスタッフの皆さんも資料映像探しにはずいぶん苦労されたみたいです。「ボストン」が蔵の奥から見つかったときには抱き合って泣いて喜んだとか。。。

 さて、でも上のタイトルは、いつものように曲やアルバムのタイトルにもなっていますから、その種明かしは後でします。お楽しみに。

 今のベストヒットをご覧の方々にはお分かりのとおり、421日の放送ではタイムマシーンスペシャルで、25年前の1984年に戻りました。小生は大学の音楽研究サークルでバリバリやっていた時期でした。

 当たり前のことですが、ある特定の二つの時期をピックアップして比較してみて、似ている部分もあれば違う部分もあります。小生はまず番組を見て、84年と今とはかなり似ているのではないか、と感じました。その似ている部分とは?

 克也さんは、「このアーティストは知っているけれど曲は知らなかったよー、ってのが多くありませんでしたか?」とおっしゃっていましたが、それはなぜでしょう?

 その謎をとく鍵は以下のクイズで。

 その1984420日付けチャートに入っていた以下の曲にはある共通点があります。それは何でしょう?

 19位 Pretenders “Show Me”

 17位 Yes     “Leave It”

 16位 Hall & Oates “Adult Education”

 14位 John Cougar Mellencamp “Authority Song”

 12位 Kool & the Gang “Tonight”

 9位 Denniece Williams "Let's Hear It for the Boy”

 7位 Culture Club “Miss Me Blind”

 2位 Lionel Richie  “Hello”

20曲中8曲ですが、さて共通点とは?

Colour by Numbers

 答。これらは全て、そのアーティスト(一部サントラ)のアルバムからの2枚目以下のシングルカット曲、つまりアルバムのリーディングヒット曲ではない曲、なんですね。

 ついでにもう一問。では以下の曲の共通点とは?

14位 John Cougar Mellencamp “Authority Song”

 13位 Go-Go’s “Head Over Heals

 12位 Kool & the Gang “Tonight”

 11位 Steve Perry “Oh Sherry”

 9位 Denniece Williams "Let's Hear It for the Boy”

 7位 Culture Club “Miss Me Blind”

 6位 Cars “You Might Think”

 5位 Rick Springfield “Love Somebody”

 4位 Kenny Loggins “Footloose”

 2位 Lionel Richie  “Hello”

今度は20曲中半分、これは一枚目のシングルカットも含めて、3曲以上トップ20に入るシングルヒットを出すアルバムからの曲です。

Can't Slow Down Heartbeat City

 これらのことから何がわかるか。

 この当時は、一枚のアルバムからシングルヒットが何枚も出てくる、曲のばら売り時代だったんですね。

 その理由は簡単で、ビデオ、MTVの最盛期だったからです。

  オンエアされた”You Might Think”のビデオ、今見ても凝ってますし、アワードを獲るのも当然ですね。あと”Leave It”のビデオはあのゴドレイ&クレームの作品です。

 この日のチャートにはたまたま入っていませんでしたが、ヒューイ・ルイス&ニュースもアルバム「スポーツ」から4曲のヒットを出していた全盛期だったのですが、やはりこの時期の近辺に克也さんがサンフランシスコに赴いての取材インタで、「70年代のコンセプトアルバムみたいな時代を懐かしく思わないかい?」という質問に「曲のばら売りはみんなビデオのせいなんだ。一曲毎に作るから」と答えていました。そのとおりの時代だったんですね。

 84年はほかにもシンディ・ローパー、ティナ・ターナー、マドンナなんかが一枚のアルバムから4曲以上シングルをヒットさせていた時代でした。

 この部分は、今現在の時代に似ていると思うのです。

 ニッケルバック、ドートリーなんかが、一枚のCDから何曲もヒット曲を出し、一枚で数年もたせていたりします。

 しかし、84年と今が異なるのは、メディア(媒体、手段、という意味)が違うという点ですね。

 現在のばら売り現象の原因も明らか。今はデジタル・ダウンロードの時代だからです。

アメリカのアマゾンのサイトを見れば、特定のCDのページに、収録曲全曲が曲別に、一曲いくら、で売っています。日本からは買えませんが。日本には日本の中で皆さんご存知の別の手段があるでしょう。また、そろそろCDではなくUSBスティックのみで売り出すアーティストも出てくるという。

 84年は、CDはそこそこ出ていましたが、まだ塩化ビニールの時代でした。LPレコードは、針が内側になればなるほど溝の感覚が細くなり音質が悪くなるので、AB面の最後の曲は多少手を抜く、みたいな不文律があったそうですが(山下達郎氏弁)、今は新しいアルバム製作にはその度毎にグレイテストヒッツアルバムを作るんだ、みたいな意気込みが必要な時代になっているんだと思います。

 さて、もう一つクイズ。これは答に主観が入りすぎているので怒られるかもしれませんが、以下の曲、というよりアーティストの共通点とは?

17位 Yes     “Leave It”

 16位 Hall & Oates “Adult Education”

 12位 Kool & the Gang “Tonight”

11位 Steve Perry “Oh Sherry”

9位 Denniece Williams "Let's Hear It for the Boy”

 4位 Kenny Loggins “Footloose”

 2位 Lionel Richie  “Hello”

 1位 Phil Collins “Against All Odds”

フットルース But Seriously

 答、これらのアーティストは、本来は別に音楽のルーツを持っていて、少なくともデビュー時はスタイルが全く違っていたのが、この84年は商業路線に走ってポップになって軽くなったり、バラードに手を染めたり、サントラに走っていった人たちだといえます。他にもこの時期のシカゴなんかがその代表選手ではなかったでしょうか。まあ、売れて何ぼの世界ですし、時流に合わせることができるのも才能の一つですしね。それに何よりもリスナーとして楽しませてもらえましたし。どうこう言う気はありませんが(既に言っているか)

 そういう時代だったんですね。そんなことにいろいろ思いを巡らせることができた特集でした。またやってください。

 そうそう、それで、タイトルの説明。

Grand Funk

 Time Machineとは、今のベストヒットのタイムマシーンのコーナーで、克也さんが登場するバックにかかっているギターのカッティング。あれはグランド・ファンク・レイルロードのTime Machineという曲なんですね。そういうのを知っている克也さんかスタッフのどなたか、流石だと思います。

 ちなみに、番組創成期からずっと使われ続けているスター・オヴ・ザ・ウィークのタイトルバックにかかる、ファンファーレみたいなのは、マイケル・ジョンソンという、これまたフィリピン人や前長野県知事さんが好きそうな(前回の記事を読んでください)シンガーの“YouYou, You”という曲のイントロです。”You Can Call Me Blue”というアルバムに収録されています。

1984

 あと、1984。これはまさにこの年の元日に発売になったヴァン・ヘイレンのアルバムのタイトルで、同名の曲も収録されていました。「ジャンプ」が入っているやつです。

 考えてみれば、1984年とは、ジョージ・オーウエルによる未来小説の舞台で、ヴァン・ヘイレンのそのアルバムもそれを意識したものでした。ビッグ・ブラザーという独裁者に監視される世界を想像したオーウエルと、実際に1984年を迎えてどこまで現実になっているか、などという検証がいろいろなマスメディアでされていました。その84年も、プリンスが歌った1999年も、歴史になってしまいましたね。

 そうそう、前回の記事で思い出せなかった、草彅剛、瀬戸朝香のテレビドラマのタイトルですが、あの記事を読んで下さっている希少な方々のお一人から、「成田離婚」であるとの御教示を受けました。ありがとうございました。お詫びして訂正いたします。草彅さん、いろいろありましたが、これもノーコメントで。まあ、もし自分を偽った姿で仕事をなさっているのだとしたら、ストレス溜まりますよね。

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2008年11月11日 (火)

Chocolate CIty

貧乏人暇なしとはよく言ったもので、いろいろ忙しく一ヶ月近くご無沙汰してしまいました(別に、暇ができたからこれを書いている、というわけではありません。これも大事なお仕事だと思っております)。

 克也さんの日記に既に取られてしまいましたが、歴史的な出来事があったわけで。

 この前までしつこく宣伝していたテレビ番組からもお分かりのように、私は本業ではその筋では中途半端に知られている奴でして。

 その歴史的な日というのも、開票進行時、アメリカでの4日夜、日本時間で5日午前10時あたりから、地元の領事館に詰めていてくれとの要請があり、関係者と共に速報に見入っておりました。

 その中に、領事館がわざわざ遠方から招いたという、福井県小浜市の市長とか市議会議員とか、「勝手にオバマ候補を応援する会」という人たちが来ていました。

 その人たちを含めて、いろいろ知ったかぶりをしていました。今度当選するであろう大統領は、名前があなたたちの町のローマ字表記に偶然一致している以上に、初めて母音で終わる名前を持つアメリカ大統領になる、と。

 ケネディとかマッキンリーはYで、これは子音扱いですね。第5代のモンローは子音と組み合わさらない二重母音です。

 あとの39人の大統領は全員文句なく子音で終わっている。

 つまり今までの大統領は、アングロサクソンと若干のアイリッシュが独占していた。白人マイノリティで、例えばイタリア系だったらFrankie Valli, みたいに必ず母音で終わりますが、今度の「黒人」大統領はそういう白人マイノリティ、褐色人種を飛び越えて、その今までアメリカの人種構成の主流派が独占していた聖域に足を踏み入れるのだ、と。

2000年代の大統領選挙人団分布は明らかに共和党にアドバンテージがあった(人口が増えている南部地域の共和党への傾斜が強い、田舎に行けば行くほど共和党が強く、山岳、高原諸州の人口過疎州では配当選挙人一人に対しての人口比が少ない、等等)ので、オバマ候補は全米で5%のリードなら接線に持ち込まれる、当選には10%以上のリードが必要、と考えていましたが、昨今の金融危機に後押し(?)されて、その10%以上のリードの状態で投票日を迎えましたので、これは確実だろう、と予想できていました。

 日本時間正午の時点で、オバマ候補がオハイオ州とニューメキシコ州を獲得したとの速報が流れ、ここでまた知ったかぶりが始まりました。これでジンクス上オバマが勝利した、と。これまで、共和党の大統領でオハイオ州を獲得せずに当選した例は一度もありません。またニューメキシコは州になって以来、二度の例外を除いて必ず最終勝者が獲得している州なんです(個人的に私は「コウモリ州」と名付けています)。それらでマケインは負けました。

 午後一時、西海岸諸州で投票が締め切られた時間、開票を待たずにCNNNBCCBSABC一斉にオバマ勝利一報を打ちました。出口調査でこれらの州はオバマ獲得が確実で、最大票田のカリフォルニアの結果で決まり、ということでした。

 そうそう、選挙前後、このコラムのバックナンバーの「小林克也のRADIOBAKA・期限切れ遺失物移管所」ですが、この間もベストヒットにゲストに出ていたベン・フォールズの一枚前のJesuslandについて書いたページにアクセスが急増しました。4年前の選挙でできたアメリカの地理的分裂を揶揄した「カナダ合衆国」と「ジーザスランド」に関する説明が、的を射ていて分かり易い、とある有名コラムニストのページにリンクされたらしいんですね。

 そこに書いてある、アメリカの分裂が解消されたわけではない、と考えています。2004年にケリー候補が勝った州は全てオバマが獲得しています。その「ジーザスランド」の中から、オハイオ、ヴァージニア、フロリダ、コロラドなどいくつかの大きな州を、金融危機や現ブッシュ大統領の支持率急落が追い風となり微妙な差で獲得できたという点が勝因だったと思われます。

 さて、その中途半端専門家が語ったコメント、地元の方々は、まだ処分なさっていなったら中日新聞6日朝刊36面をご覧になっていただきたいのですが、TVドラマなら「24」、映画なら「ディープ・インパクト」のモーガン・フリーマン演じた黒人大統領がいて、オバマの登場の地均しの役割を果たしていたといえるでしょう。

 では、音楽で黒人大統領の登場を最も早く予測してたのは誰の何という曲でしょうか?

Chocolate City

 僕の知る限り、パーラメントの”Chocolate City”です。ジョージ・クリントン(この人の名前も考えてみれば因縁がありますね。前々大統領と同姓である以前に、第三代副大統領と全く同名です)率いるP-Funkの一団。克也さん曰くヒップホップ登場以前に最もヒップホップだった人たち。70年代以来、ファンクの音楽とスタイルにものすごく影響した人たちですが、その曲自体は1975年、R&Bチャート24位、ポップチャート96位というマイナーなヒット曲。しかし、今聴いてみてもあらゆる意味で先進性を感じさせます。75年の時点でリズムボックスオンリーで、しかもラップの魁みたいな、ジョージ・クリントンの語り(?)のみで曲が進行します。Chocolate City、つまり黒人が牛耳る都市が、どんどん増殖している。首都のワシントンも黒人人口比が非常に高い。

We've got New York, we've got Gary, Somebody told me we got L.A.And we're working on Atlanta But you're the capital, CC

俺たちはNYもギャリー(インディアナ州)も占領した。ある筋によればロサンゼルスも手中にした。今はアトランタに着手しているところだ。ところが、今度は合衆国首都だぜ!
They still call it the White House But that's a temporary condition, too

 奴らはまだ「ホワイト」ハウスなんて呼んでいるけどそれも一時的状況に過ぎないぜ!

And don't be surprised if Ali is in the White House
Reverend Ike, Secretary of the Treasure
Richard Pryor, Minister of Education
Stevie Wonder, Secretary of FINE arts
And Miss Aretha Franklin, the First Lady

モハメッド・アリがホワイトハウスの主人になっていても驚く必要はないぜ

アイク牧師(70年代に活躍したテレビ伝道師)が財務長官、リチャード・プライヤ(コメディアン)が教育長官、スティービー・ワンダーが芸術長官、そしてアレサ・フランクリンがファーストレディーだ!

この曲の構図はあくまで白人に対する黒人、です。

初めての黒人大統領のオバマ。しかし彼は奴隷の先祖の血を継いでいる訳ではなく、父親はムスリム、義父はインドネシア人、母親はカンサス生まれの白人。単純な肌の色の問題ではなく、アメリカそのものの多様性を象徴するような存在です。アメリカの低俗なネットの書き込みを見ると、やはり、黒人だということで差別的な表現が多く見られますが、その分断されていたアメリカを、多様性を認めた上で再統合する役割を期待したい。いずれにせよ、歴史の大きな転換点を感じさせられる今日この頃です。

そんなこんなで忙しいと言いながら、ライヴリポートネタもたまっていますので、ぼちぼち小出しにしていきたいと思います。

筑紫さん、あなたは、あなたが好きだったあの国の歴史的な転換点をちゃんと見届けてから、旅立たれたのでしょうか?

たった一度、國弘先生との席でご一緒させていただいて、カツ丼を注文しましたが、貧乏学生だった小生、「実は、金が足りないんです」というと「しょうがねえな、俺が出してやるよ」といって払って下さった筑紫さん。そのときも、楽しそうにワシントン特派員時代の思い出話をしてくださった筑紫さん。いつか、お返しができればと思っていたのですが、やはりできませんでした。申し訳ない気持ちでいっぱいです。そのときのことはずっと忘れませんし、あなたが書いたこと、言ったことから多くのことを学びました。ありがとうございました。お疲れ様でした。安らかに。

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2008年9月22日 (月)

Soul Man

追悼記事です。また巨星の訃報が入ってきました。

 アイザック・ヘイズ。810日逝去。享年65歳。

 66歳の誕生日の10日前でした。

  癖があって、特に日本の洋楽ファンの間なんかでは、好き嫌いが分かれる存在だったのではないでしょうか。

 子供が初めて聴いたら、びっくりして吐き気を催す。かくいう私も、生意気にも小学校中学年頃からの洋楽リスナー暦を誇るのですが、最初に聴いたとき、何だこりゃ、と思ったような記憶があります。

The Essential Teddy Pendergrass

 とにかく声が低い。しかも低いといっても、いまこのサイトのベストヒットUSAコーナーのタイムマシンで上のほうに上がっているテディ・ペンダーグラスのような甘さはない。暑苦しい、地をのた打ち回るような泥臭さ。一曲の長さが半端じゃない。10分くらい、エンディングを引っ張った、うめき声に近いようなリフレインが延々と続く。

 子供には分かりようのないタイプの音楽ですが、大人たちには特殊効果をもたらします。

Ultimate Isaac Hayes: Can You Dig It?

 克也さんもよく放送のネタに使っていた有名なエピソードでしたが。

 アイザックの楽屋に若い黒人夫婦のファンが訪ねてきて、「あんたのレコードが俺たち夫婦にどんなプレゼントをしてくれたか知ってるかい?見てくれよ」と、連れてきた小さな4人の子供たちを紹介した。

 大人の男女をその気にさせる魔力があったのですね。

 そんな話は抜きにしてもサザンソウルの歴史を語る上ではずせない功績を残しました。

 テネシー生まれ、幼少期にサザンソウルのメッカ、同州メンフィスに住んで、二十歳前からキーボードプレーヤーとしてプロの活動開始。オーティス・レディングなんかのバックを務めて頭角を現し始めます。そのメンフィス、サザンソウルのメッカとなったスタックス・レコードの作曲家、プロデューサーとして、中心人物に成長します。

The Very Best of Sam & Dave

 23歳の時の65年、サム&デイヴのヒット曲 “Soul Man”を作曲します。

 これは映画『ブルース・ブラザーズ』の中で、そのブルース・ブラザーズを名乗ったジョン・ベルーシ、ダン・エイクロイドがカバーしてリバイバルヒットさせたことでもお馴染み。

 オリジナルのサム&デイヴは、明石屋さんまの「恋の空騒ぎ」のエンディングテーマ、説教部屋のシーンのバックで使われていたことでも有名。ここ数年全然観ていないんですけどまだ使っているんですかね。

Black Moses

 ソロアーティストとしてのピークは69年から71年。69年から一年ごとに”Hot Buttered Soul”, “Movement”, “Black Moses”と代表作を発表し、これらのアルバムタイトルはそれぞれ彼のトレードマークとなります。75年に彼は独立レーベルを立ち上げますが、それをHot Butter Recordsと名づけました。これもかなり意味深英語ですけどね。

Hot Buttered Soul

 Movementとは、それ以降の彼のバックバンドの名前になります。

 そしてBlack Mosesとは彼自身のことを指すようになってしまいます。自ら「黒いモーゼ」を名乗ったのですね。

 更に71年、映画「シャフト(黒いジャガー)」の音楽を手がけて、そのテーマ曲で全米ナンバーワンを獲得、アカデミー賞でも最優秀楽曲賞を受賞、彼の代表曲となりました。彼の他の曲とは逆で、イントロは映画のオープニングロールにあわせて流すのを意図されたため長いですが、エンディングはスパッとカッコよく切る。

 映画は、黒人青年を殺した容疑がかかった白人青年を逮捕したジョン・シャフト刑事、しかしその白人青年は不動産業界の大物の息子だったため色々手が回って保釈されて逃げ回る。組織にも圧力がかかって捜査が打ち切られそうになるのに正義の怒りを燃やし、組織を離れて一匹狼で捜査を続けて社会正義を問う、そんな内容でした。

シャフト [DVD]

 この映画は最近、といってもオリジナルの30年後の2001年、サミュエル・ジャクソン主演、音楽の世界でもおなじみのヴァネッサ・ウィリアムズ、バスタ・ライムスなんかが共演してリメイクされましたので憶えている方も多いでしょう。71年のオリジナルは完全にブラックパワー対白人主流派、の図式で作られていましたが、2001年のやつは、更に複雑化した多民族社会の人種関係、経済格差など新たな視点を加えて、それぞれの時代を反映した作品になっていました。

 しかし変わらなかったのは、このアイザック・ヘイズによるテーマ曲。「シャフト」という映画をこの曲なしで作るのは裏切り行為に当たるとでも考えられたのでしょう。リメイク版でもテーマはオリジナルのままでした。

 そんなアイザック・ヘイズ、活躍の場所は音楽だけに留まりませんでした。ほんの少しですが、俳優としてもキャリアを積んでいました。

 僕は偶然、彼をドラマで見たことがあります。多分テレ東でお昼の12時からやっていた「ロックフォードの事件メモ」の再放送。75年くらいの作品でしょう。オープニングのゲストの名前で、アイザック・ヘイズ、と出てきたので、あれっ、と思って観ていたら、やっぱりあの彼でした。無実の罪で拘留されて、獄中から無罪を訴える黒人の容疑者、みたいな役だったと記憶しています。

 スキンヘッド、サングラスがトレードマークで、怖いイメージのある彼ですが、他にも自分をアニメのキャラにしてしまう企画に熱心に取り組んだり、慈善事業をやったり、地元メンフィスのプロバスケットボールチームの共同オーナーになったり、そんな一面も持っていました。

 1990年代にも数枚アルバムを製作し、ライブも精力的にやっていましたが、20061月に脳梗塞を起こして、今年8月、意識が戻らないまま帰らぬ人となってしまいました。

 色々なことをやったとしても、やはり彼は”Soul Man”でした。

 その楽屋に来た4人の子供以外にも、アイザック・チルドレンは想像以上にいっぱいいるのかもしれません。伝説は、彼らによって継がれていくのかもしれません。

 合掌。

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2008年7月16日 (水)

When Will I See You Again?

ライブリポートに戻ります。

今回はスリー・ディグリーズ。

うわあ、我ながら古いー。

ひょっとしたら、私の母親よりほんのちょっと若いくらいかもしれない。

そんなオバサン三人組。

1970年代に一世を風靡したフィラデルフィア・ソウルの看板、当時は「三人娘」。

モータウンにとってのスプリームスに匹敵する存在だったといえます。

克也さんもフィリー・サウンドには色々と思い入れをお持ちのようで。

少し前になりますが、5月のDJ KOBYでその薀蓄を語られていますから、それをチラチラと眺めつつみていきましょう。

例によって食事つきの小さなライヴハウスです。

現在のメンバーは、(ステージで並んでいた順、左から)ヴァレリー・ホリディ、ヘレン・スコット、シンシア・ギャリソンの三人。1963年結成時からのオリジナルメンバーは一人もいません。最古参は67年からのヘレンですが、66年から76年に中抜けして、丁度最盛期を逃しています。最盛期から現在までその座を守り続けているのは67年加入のヴァレリーのみ。シンシアは新加入です。

フィラデルフィアの作品を中心としながらも、モータウン、ディスコの定番も取り入れて、70年代のソウル、ディスコをみんなで懐かしむパーティ、そんな感じでした。年齢を20歳サバを読むような、胸の開いたドレスで三人の登場。

1、 I Love Music

克也さんが仰っていたとおり、ファンには言わずもがなですが、70年代のフィラデルフィア・ソウルにはケネス・ギャンブル&レオン・ハフというコンビのキーパーソンがいました。ニューヨークで量産されるソウルに疑問を持ちフィラデルフィアにやってきてフィラデルフィア・インターナショナル・レコードを立ち上げ経営し、自らもプロデューサー、作者となり、傘下アーティストに歌わせてヒット曲を量産する。

The Essential O'Jays

 スリー・ディグリーズは女性の看板ですが、その男性版の代表格がO’JAYsではなかったでしょうか。もともとオハイオ州出身(O’JayとはオハイオのDJ,そう名乗っていた有名なDJがいてそこから名前を頂いたらしい)、エドワード・ルバート(「カサノヴァ」のヒットがあるジェラルド・ルバート、やはりR&Bシンガーだったショーン・ルバートのお父さん。この二人の子供に先立たれている)を中心に結成され、フィラデルフィアに移って大成功した。これはオージェイズの全盛からやや後期の76年のヒット曲で、フィラデルフィア・ソウルそのものの全盛期にはコーラス、ストリングスが美しいバラードが多かったギャンブル&ハフ作品でしたが、70年代後半になるとディスコを相当意識するようになり、この曲もディスコブームに乗って大ヒットしました。それを女性コーラスの看板スリー・ディグリーズが。。。今にして思えばこのショーの全体像を象徴していたような幕開けでした。

2、 Take Good Care of Myself

3、 Woman in Love

この二曲あたりは、後に出てくる「天使のささやき」「荒野のならず者」に次いで、ファンにはよく知られている彼女らのレパートリーです。

4、 Marvin Gaye Medley

Your Precious Love~Sexual Healing~What’s Going On?~Mercy Mercy Me~

Let’s Get It On

ここでモータウンというか、マーヴィン・ゲイへのリスペクトを表したパートで、60年代のタミ・テレルとのデュエットの名曲、70年代の代表曲、非業の死の直前の「セクシャル…」まで。

The Marvin Gaye Collection

それが終わったら、バンドメンバーの紹介、そして、聴衆に向って「独身の女の人いる?だったらドラムのXXがお嫁さん募集中よ。独身の男の人いる?だったらシンシアがお婿さん募集中よ。独身でも既婚でも、男はみんな『エッチ!(日本語で)』」とMCがあって

5、 Dirty Ol’ Man

そう、「荒野のならず者」という邦題で日本のディスコで大ヒットした曲で、確かに西部劇を連想させる壮大さはあるのですが、内容は全然関係ありません。直訳すれば、「このスケベジジイ!」ですね。彼女らを日本で有名にした73年のヒット。

6、 「にがい涙」

  克也さんも仰っていましたが。

  後でも書くことになると思いますが、スリー・ディグリーズはアメリカで人気が落ちたあとも日本では高い人気を保ち、日本のファン向けに日本語で録音もしちゃって、シングルでちょっとヒットした演歌みたいな曲もあるんです。筒美京平さん作曲。  

7、 Philly Medley

  The Love I Lost~Ain't No Stoppin’ Us Now~If You Don’t Know Me By Now~ Together

   小生が勝手にPhilly メドレーと名付けましたが、中にHarold Melvin & the Bluenotesのヒット曲が二つ入っています。フィリー・サウンドの男性側のもう一翼を担った人たち。”The Love I Lost”74年の、そしてシンプリー・レッドのカバーでもお馴染みの”If You Don’t Know Me…”73年の、ともにギャンブル&ハフのペンによる。

    間に挟まった”Ain’t No…”79年の McFadden & Whiteheadのディスコヒット。マクファデン&ホワイトヘッドは、ギャンブル&ハフに次いでフィリー・サウンドを担ったソングライターコンビでした。ギャンブル&ハフが美しい軽めのナンバーが中心だったのに対し、このマクファデン&ホワイトヘッドは骨太、やや暗め、社会的なメッセージもこめた、モータウンのノーマン・ホィットフィールドあたりに影響を受けたような曲を書いています。オージェイズ”Backstabbers「裏切り者のテーマ」、ハロルド・メルヴィン&ブルーノーツ”Wake Up Everybody”など。この “Ain’t No…”も本当はハロルド・メルヴィン&ブルーノーツに演らせるつもりで書いたけれど、渋いバリトンヴォーカルのテディ・ペンダーグラスが辞めちゃったから(ハロルド…は、アメリカ版「内山田洋とクールファイヴ」「敏いとうとハッピー&ブルー」だったんです(笑)。グループ名に冠されているリーダーが最も有名なメンバーでも、リードヴォーカルでもなかった)、曲の良さが出ないので自分たちで歌った、という。

The Best of Harold Melvin and the Bluenotes Ain't No Stoppin' Us Now: Best of the Pie Years Greatest Hits

   Togetherは、まだフィラデルフィア・インターナショナルを立ち上げる前の67年、ギャンブル&ハフがイントルーダーズに提供した曲。82年にブラウン・アイド・ソウル(ラテン系アメリカ人が演るR&B)のティエラというグループがカバーして再ヒットしました。この曲、大好きなんです。意外なところで突然聴けて嬉しかった。

8        Disco Inferno

そろそろ佳境に入りダンスパーティの様相を呈し、聴衆に立ち上がれと促します。曲はサタデーナイトフィーヴァーのサントラにも入っていて大ヒットした。ディスコの定番。映画「タワーリング・インフェルノ」にインスパイアされた、ディスコを火事の高層ビルに例えた曲。オリジナルを演っていたのはトランプス。彼らもフィラデルフィアのグループだったのですが、結局彼ららしくないこのディスコナンバーが代表曲となってしまいました。

The Best of the Trammps

9        Love Train~TSOP

ギャンブル&ハフにとっても、オージェイズにとっても代表作の一つでしょう。73年のナンバー1ヒット。電車で世界中の町、国を繋いで愛を広める。

そして、フィリー・サウンドといえば、ダリル・ホールも参加したかったけど適わなかった、これら多くのヒット曲全てのバックを勤めたオーケストラがあり、彼ら自身もMFSB(Mother Fucker Son of a Bitch? Mothers Fathers Sisters Brothers? 笑)と名乗ってインスト・レコードを何枚か出しています。そしてこのTSOP, The Sound of Philadelphia が、当時のソウル専門テレビ番組「ソウルトレイン」のテーマにも使われ、ナンバー1ヒットになりました。スリー・ディグリーズも曲終わりのコーラスで参加していました。TSOPのリフを延々と続け、彼女たちはいったん舞台裏に引っ込み、また出てきます。

Love Is the Message: The Best of MFSB

10    When Will I See You Again

そしてアンコールは、彼女たちの代表曲「天使のささやき」。コーラスが綺麗な曲です。日本では、70年代から80年代にかけて赤坂局が毎年やっていた「東京音楽祭」の、第74年度最優秀楽曲賞を受賞し、彼女らの日本での人気を不動のものにし、その後アメリカ、世界各地で火が付いた、という曲です。美しい天使のコーラスは健在?

この曲でまた引っ込んで、また出てきて、アンコール2曲目でやったのはなんと

11    Boogie Wonderland

  アース、ウィンド&ファイアのあの曲でした。もう30年たてばなんでも一緒なのか?

この曲はレコードでは、やはり女性三人組のエモーションズがフィーチャーされていて重要な部分を歌っていたので、スリー・ディグリーズとしても歌いやすかったのでしょう。無理やり総立ちにさせて躍らせて、ディスコパーティーは終わりました。

ベスト・オブ・エモーションズ

「今度はいつ会えるの?」って、また秋に来日するみたいです。いかがですか。

Three_degrees

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