エルトン・ジョン

2008年1月25日 (金)

Nobody Wins

アメリカ vs. ジョン・レノン ジョン・レノンは誰に殺される?<モーション・ピクチャー・サウンドトラック> 映画を観ました。

 「ピースベッド-アメリカvsジョン・レノン」です。

 この映画をレビューするには勇気が要りますね。ジョンは色々な側面を持っている人、衝撃的な暗殺で夭折してしまった人。それゆえに、多くの信奉者がいっぱいいる。僕なんか書く資格がないほうで、僕より詳しい方もいっぱいいらっしゃるでしょう。

 それから、この映画は音楽と政治がクロスオーバーしている映画。僕自身、趣味(最近そうでなくなってきているという噂もありますが)で音楽にのめり込み、仕事で政治にちょっと携わっている人間としてはジョンという人物に対して微妙な立場にならざるをえません。

 それでも何とか、思い出話を含めて、僕なりに面白おかしく論じてみようと思います。

 結論から言って、僕にとってのジョンとは、あくまでもミュージシャンであり、ロックンローラーであり、作詞家であり、作曲家であるのです。全てにおいて天才的に優秀な、です。

 克也サンがらみの昔話で、かつて、ZIP HOT 100の晩年期に、「ザ・クイズ」というコーナーがありました。一時間おきにキーワードを一つずつ発表し、三つ揃ったら答えを考えて電話で回答するというもの。記念すべき第一回目の正答者が私。たった一人しかいなかったので戦利品独り占め。グッチのサングラス、重宝しています。

オール・シングス・マスト・パス 〜ニュー・センチュリー・エディション〜  問題は、1時間目「ジョージ・ハリスン」2時間目「ポール・マッカートニー」3時間目「リンゴ・スター」というものでした。

 克也さんが「答えはビートルズではありません」と断っていたにも拘らず、共通点で、「ビートルズ」という誤答が多かったのですが、僕は順番に着目して、「齢の若い順」と答えました。これが正解だったのです。当時まだジョージも存命でした。

 ところが捻くれ者の僕は、もう一つ、オタッキーな答えを思いついていました。

 それは、「ビートルズ解散後ソロでアメリカのチャートで一位を獲得した順」というやつです。

ラム  ジョージが「マイ・スィート・ロード」で70年、ポールが「アンクル・アルバート~ハルゼー提督」で71年、リンゴが「思い出のフォトグラフ」で73年。ジョンは一番遅く74年の暮れ、親友エルトン・ジョンとやった「真夜中を突っ走れ “Whatever Gets You Through the Night”」というやつです。

 Some Time in New York City/Live Jam  個人的には、ジョンはやっぱりこの頃、7475年あたりが一番音楽家として成熟していて、70年代前半の、ラディカリズムを音楽を通して訴えようとしていた時期も一段落し、実によかった、と思っています。

 そしてその頃はちょうど、そのアメリカ合衆国との長かった戦いに一段落がついた時期にもあたります。合衆国永住権、グリーンカードを手にした頃。ジョン曰く「グリーンという割にはブルーだね」。

 それまでの戦い。 

 ジョンはヨーコに出会う以前から、反体制的な気質は十分にあった。でもやはりヨーコとの出会い、その思想に触れたことで、過激な愛、平和を説くようになった。

 克也さんは去年のニューヨーク取材で彼女に長いインタをしたばっかり。日記に、彼女の存在がビートルズ解散に拍車をかけたわけじゃない、彼女の登場のはるか前から人間関係がおかしくなる兆候は見えていたんだ、みたいなことを書いておられましたが。それは僕もそうだと思うのですが、別の意味から、ヨーコの存在はビートルズに変化をもたらしたと思っています。ビートルズとファンとの関係です。

 ビートルズがあれだけ世界的なブームを起こせたのは、音楽性は言うに及ばず、彼らのアイドルとしての「中性性」だと思うのです。四人とも、ストーンズなんかに比べれば遥かに大人しく、男らしくなく、可愛らしさがあった、かといって女性的でもなく男性の立場から曲を作っている。そんな、セックスを感じさせない雰囲気が、男性にも女性にも支持されて、それだけ多くのファンを獲得できた一因であったのではなかったかと思います。

 そこにヨーコが登場した。それまで、メンバーが誰と結婚していようとも付き合っていようとも、プライベートから来る生活臭は一切排除し、四人が完全な四角形を作っていた。その中にヨーコが入り込み、レコーディングの最中でもジョンとチュッチュするシーンを見せ付けられて、ファンは否でも応でもセックスの存在を意識させられた。そこからファンのビートルズ像は、そこを認めていくか、排除していくかに分かれていってしまったのではないかと思うのです。

 いずれにせよ、左翼運動家とも関係するようになり、自らも運動を起こし、ビートルズ解散直前、カナダの二箇所で、この映画の邦題にもなった有名な、公開ベッドインによる平和の訴え、など過激な示威行動を行い、映画にも証言者として登場し、ジョンの曲のタイトルにもなった、「ブラックパンサー党」の白人版である「ホワイトパンサー党」党首、逮捕された新左翼活動家ジョン・シンクレアの釈放を訴えるコンサートを開いたりした。

これに対して当時のニクソン政権は、クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングの「オハイオ」に歌われたケント大学での反体制学生運動弾圧事件のように、ヴェトナム反戦、反政府運動が頭痛の種だった。ジョンの行動が若者に及ぼす影響に恐れをなし、FBIは盗聴も含めたジョンの活動の監視を執拗に行い、ジョンの名前は新左翼行動家としてブラックリストに載り、100ページ以上もの行動記録書が作成された。

ジョンはパラノイア(僕のことじゃありませんよ)になり、「俺とヨーコに何かあったらそれは事故じゃない」とまで言うようになった。72年にアメリカ移民帰化局は、過去のイギリスでの大麻保持を理由にジョンとヨーコに国外撤去命令を出す。しかしこれにもジョンは屈せず、その大麻所持自体が不当逮捕だったとし、頑として立ち退かず徹底抗戦を構える。

ニクソン政権のヴェトナム政策、カンボジア侵攻への反対運動とも絡み、ジョンの運動も大きな支持を得るが、72年の大統領選挙で(この人も多分パラノイアだったんでしょう)ニクソンが再選されたことにより政権やFBIのジョンへの関心は緩み、合衆国最高裁もジョンの国外撤去の理由を不当と判断したため、ジョンは念願の「案外青い」グリーンカードを手にすることができた。。。

John Lennon/Plastic Ono Band 話は戻りますが、僕はどうも、解散直後の「ジョンの魂」あたりの、彼のラディカリズムをもろに音楽に投影しようとした一連の作品群、音楽の新たなあり方を模索した斬新な試みであったことはよくわかりますが、どうも音楽そのものとしては好きになれません。それに比べて、このアメリカとの戦いが一段落したあとのジョンの作品、「真夜中・・・」とか「夢の夢」とか、企画ものとしての「ロックンロール」アルバムなど、実に円熟していい音楽だったと思ってます。

Rock 'n' Roll

ところがそんなさなか、ジョンはショーンの育児に専念するための休業、主夫宣言をしてしまい、ファンをヤキモキさけます(俺もやりたいヨー)

Milk and Honey ヨーコとの関係も新たな段階を迎え、ショーンに言われた「パパってビートルズだったの?」のいとことで一念発起しミュージシャンとして復帰、80年、「ダブル・ファンタシー」を発表。評価が分かれた作品でしたが、僕は「ウーマン」「ビューティフル・ボーイ」ウォッチング・ザ・ホィールズ」だけで名盤だったと思っています。「ダブル・・・」はジョンとヨーコの曲が交互に収録されていましたが、ジョンの曲だけ抜き出してカセットテープに録音して聴いていました。当時、そうやっていた人、少なくないと思います。ラジオでアルフィーの坂崎幸之助さんが同じことをやっていると言っていてニヤっとした思い出があります。

ところが、発売直後、128日、あの悲劇が起こった。その時も実はFBIエージェントが遠巻きに見張っていたがあえて何もしなかった、というのは本当か?

ジョンはそういう結果になってしまい、その遥か以前にニクソン大統領は不名誉な辞任をした。この戦いは、誰が勝ったのだろう?

というわけで、映画の邦題は「ピースベッド」が前面に出てきてしまっていますが、原題の「ジョン・レノン対アメリカ合衆国」のほうがしっくり来ます。

映画は資料映像と関係者インタで淡々と続きます。ここで本職に戻っちゃいますが、音楽映画としてもさることながら、60年代後半から70年代のアメリカ社会を知る意味で広くお勧めしたい。ウォーターゲート事件に関係したニクソン政権からゴードン・リディ、ジョン・ディーン、それを暴こうとしたジャーナリストのカール・バーンスタイン、ウォルター・クロンカイト、72年民主党大統領候補ジョージ・マクガバンなんかが証言しているところをぜひ見てもらいたい。

といってももう上映期間はほとんどのところで終わってしまっているでしょう。すぐDVDで出るでしょうから是非。

というわけで、やっぱりいまだにヨーコさんの本質を理解できていないためか、あまり好きになれていないハリー教授のレビューでした。

The Fox Nobody Wins  ジョンの親友だったエルトン・ジョンがジョンに捧げた曲としては「エンプティ・ガーデン」が有名ですが、実はエルトンがジョンの死で最初にインスパイアされて作った曲は、81年「フォックス」というアルバムからのこの中ヒットだったのではないかと思うのです。ヨーロピアンディスコみたいな曲でした。

映画に登場したジョージ・マクガバン。選挙で戦ったニクソンよりも長生きしています。ビル・クリントンはこの人の選挙運動に参加したことで政治の世界に足を踏み入れました。そして今年は、その奥さんが・・・候補者選びの予備選挙ではかなり接戦を強いられていますが、もし以前の下馬評のとおりになったら・・・改めて「ジョン対アメリカ」の勝者は、誰だったのだろう?

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2007年9月28日 (金)

Boulevard of Broken Dreams

American Idiot

  グリーンデイだと思うでしょう? ところがどっこい。

 モバHo!導入でレギュラーで聴けるようになったもう一つの克也さん番組、DJ Koby’s Radio Showもネタにしていきましょう。

 922日にアーカイヴされたのは、トニー・ベネット。

 本年81歳。

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  去年80歳を記念して製作されたアルバム、「デュエッツ」でトニーと一緒に歌ったのは、 バーブラ・ストライザンドが一番、活動期間の長さ、音楽的ジャンルが近いとして、ほかはみんな畑違い。ベテランでは、エルトン・ジョン、ポール・マッカートニー、ジェームス・テイラー、 スティービー・ワンダービリー・ジョエル、エルヴィス・コステロ、スティング、ボノジョージ・マイケル90年代以降のスターでは、ディクシー・チックスK.D.ラング、ティム・マグロウ、セリーヌ・ディオン、マイケル・ブーブレ、ジョン・レジェンドなどなど。

 普通この手の企画なら、オケが最初にとられ、それが互いに顔を合わすことなく、別々のスタジオでヴォーカルを入れたものを編集で繋ぎ合わせる。80年代のポール・マッカートニーがスティービー・ワンダーやマイケル・ジャクソンとやったやつ、似たような企画だとフランク・シナトラの生前のデュエット・アルバムもそうやって作っていた。

 ところがトニーはこの製作では、デュエット相手がいるところなら、東海岸、西海岸、イギリス、ヨーロッパ、「追いかけます、お出かけならば、どこまでも」のザ・ベストテン生中継方針を貫いた。長年バックはこの人たちとしかやらないというラルフ・シャロン・トリオを引きつれ、アーティストのいる場所に押しかけて、オケを最初にとるやり方ではない、生演奏をバックに録音するという昔ながらのスタイルで作った。彼はコンサートでも、語りかけと歌を交える特徴がありますが、それがそのままCDで再現されている。”Stevie, wonderful”みたいなシャレを交えた掛け合いとか。デュエットパートナーに選ばれた若手たちは、こんな録音の仕方は初めて、と新鮮さに緊張したという。

 そう、彼は昔からスタイルを変えようとしない。

 そのスタイルは、一度は音楽業界から見放された。でも最近、なぜかまた求められ始めた。

 ペリー・コモのテレビショーからスターダムに登った彼。音楽の師匠はデューク・エリントンなど。すごい世代だ。

Tony_bennet_american_songbook  60年代には一年にアルバム3枚発売のペースを続け、ヒット曲も量産した。

 代表曲はなんといっても「想い出のサンフランシスコ」でしょう。

 ところが、ロックが全盛になり、音楽も多様化してきた70年代、彼のスタイルは時代遅れとなり、レコード契約も切られてしまう。

 この時期、私生活でも泥沼離婚を経験し、麻薬漬けになってしまった。この時期のことについて、彼は語りたがらない。

 それでも、子供にとってのよい父親として手本にならなければならないとの意識から、麻薬からは抜けられたという。

 そして90年代、スタイルは変わらないまま、再び脚光を浴びることになります。

 93年の、フレッド・アステアのカバー「ステッピン・アウト」ではプロモーションビデオに初挑戦し話題となり、アルバムもヒットし、若い世代のファンを開拓した。

 また少し時期はこれより後になりますが、ロッド・スチュアートの「アメリカン・ソング・ブック」三部作の成功など、その他もロックアーティストがトニーの世代の曲をカバーしたり、またマイケル・ブーブレやジョシュ・グローバンなど、トニーと同じジャズっぽい「クルーナー」を自称する若いアーティストが出てきたことも追い風になったのでしょう。

 95年にトニーは「MTVアンプラグド」に出演しCDも発表、グラミーの最優秀アルバム賞も受賞し、ますます若い世代のファンを獲得しました。

 80歳を超えて発表した「デュエッツ」からも判るとおり、若い世代からのリスペクトも並々ならぬものがあります。

Tony_bennet_in_the_studio  そんな彼、現在はニューヨーク、クイーンズ地区の自分の育った地域を一望できる高層マンションで、40歳以上年下の恋人スーザン・クロウさんと、趣味の絵を描きつつ悠々自適のようです。まさに「グッド・ライフ」(彼の代表曲の一つです)なんでしょうね。

 そうそう、それで、Boulevard of Broken Dreamsとは、1950年のトニー・ベネットのデビューヒットなのです。もちろんグリーンデイのものとは同名異曲。でも歌詞には同じフレーズが数箇所あります。グリーンデイのやつは、このトニーの曲ではなく、それ以前、1930年代にそういうタイトルの映画だか小説だかがあってそこからインスパイアされたのだといっていますが、トニーのその曲も結局出所は同じ、ということなのでしょう。

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2007年8月30日 (木)

Goodbye Yellow Brick Road

夏は過ぎようとしていますが。 

人並みにお盆には帰省しました。ほんの45日だったけれど久しぶりの関東での長居だったので、普段は聴けない小林克也番組のいくつかを堪能してまいりました。

金曜の夕方に着いたので、ファンフラはエンディングのみでした。

土曜の朝の新番組ははじめて聴きました。

時間が短くなって音楽専門になって、かつその直前の番組がいかにもNHKの深夜早朝番組みたいな内容だったので、引き締まった感じがしましたし、選曲は90年代のJポップが中心で、聴取対象年齢を以前より下げたような印象を持ちました。リクエストはキッス「デトロイト・ロック・シティ」でしたが。キッスについてはいずれまたネタにしましょう。

「ビートルズから始まる」も久々に聴きましたが、「サージェント・ペパーズ・・・」の製作の裏側でポールがいかにワンマンに振舞っていたかという話がやたら残ってしまいました。

で、今回は、久々にラジオからとったネタを。テレビもちょっと絡んでいますが。

Goodbye Yellow Brick Road

819日の「ポップミュージックマスター」の訳詞コーナーで扱われたエルトン・ジョンのGoodbye Yellow Brick Road「黄昏のレンガ路」。

エルトンに関しては8月7日のベストヒットのタイムマシーンで、31年前の76年の夏の大ヒットだった、キキ・ディーとのデュエット「恋のデュエット」”Don’t Go Breakin’ my Heart”が最近の復活映像で、太ったエルトンと、年齢には逆らえないキキの登場で見ることもできました。これの原曲のプロモビデオでエルトンとキキが軽くチュ!をする場面があって、子供だった僕はその印象が強く、後にエルトンはモーホーであると分かってもなかなか信じられなかった思い出もあります。

Greatest Hits, Vol. 2

今でも活躍中のエルトンですが、この74年から77年あたりが全盛期だったといえます。

今みたいに地味な黒縁眼鏡ではなく、顔の半分以上ある大きさで、フレームに何色もの星がちりばめられたトンボ眼鏡で、ギンギラのラメの衣装を着ていたころ。

同名の、当時アナログLP二枚組で発表されたアルバム「黄昏のレンガ路」は、エルトンにとって、ビートルズにとっての「サージェント・ペパーズ・・・」、ビーチボーイズにとっての「ペットサウンズ」、スティービーにとっての「キー・オヴ・ライフ」にあたるような位置づけ、つまり長く活動し名盤をいっぱい出しているアーティストのディスコグラフィの中で最高傑作に位置付けられる。

訳された表題曲, yellow brick roadは「たそがれのレンガ道」ではなく、イギリスの上流階級を象徴するものだったのですね。

そう、イギリスは物凄い階級社会。貴族制度も残っているし、世襲永世貴族議員なんてのもいる。階層によって話す英語も微妙に違うし、ものの食べ方も違ってくる。

「あばよ、『社会の犬』が吼える金色のレンガ道、ペントハウスにはもう飽き飽き、

 僕の本当の人生は金色のレンガ道の彼方にあるってわかった。梟やヒキガエルが啼く林の中に戻っていく。。。」

バーニー・トーピンは、これはただ都会に出てきて幻滅した若者の歌だ、といっていますが、周囲では、それ以前のアルバムでかなりの成功を収めたエルトンとバーニーが、成功とは何だ?この生活の変化は自分たちが求めていたものなのか?と疑問を持ち始めたことの現われだ、このアルバムはそのような試行錯誤も含まれているからこそ名盤なのだ、と解釈されることが多いようです。

エルトンとバーニー、もともとはバート・バカラック、ハル・ディヴィッドみたいなソングライターコンビを目指して意気投合し、すごく相性(いろいろな意味で)がよくていい曲が次々できると革新しましたが、肝心のシンガーがいなかったので、ピアノがうまく声もそこそこ通ったエルトンが歌うことにしたそうです。

偶然始めたシンガーが、70年代最大のアーティストに化けてしまった。

まず、シンガーソングライターがブームだったアメリカから火がつきました。このブームに乗ったイギリス人はエルトンとキャット・スティーヴンスくらいだった。逆にイギリスはTレックスとかデヴィッド・ボウイとかグラムロックが全盛で、イギリスに売り込むために、さっきも出てきたようなギンギラギンのトンボメガネや衣装を着け、このアルバムにも収録されている “Saturday Nights Are Alright for Fighting”(「土曜の夜は僕の生きがい」凄く誤解を招く邦題だったと思いますが、知れ渡ってしまいました)なんか、ロックっぽい曲もやるようになった。

エルトンとバーニーは、私生活ではどうあれ、曲作りではいわゆる共同作業はせず、完全分業のよう。バーニーが一方的に詞を持ってきてそれにエルトンが曲をつける。エルトンいわく「でも歌詞の内容についてインタビューで訊かれるのは僕だけ。”Take Me to the Pilot”『パイロットに連れて行って』なんて、いまだに意味がわかんないまま歌ってる」。

Nigel_olson_classics それでも名盤「黄昏のレンガ路」は、エルトンとスタッフ、バンドメンバーが十日以上一つ屋根の下で家族のように昼夜を共にして作った。バンドのメンバーには、紆余曲折はありましたが今でも一緒にやっている、ギターのデイヴィー・ジョンストン、ソロシンガーとしてもヒット曲もあるドラムのナイジェル・オルソンなんかがいました。

アルバム全体として流れを聴くのが一番いいですが、他にも珠玉の名曲がいっぱい入っています。

ビルボード1位に輝いた「ベニ―とジェッツ」。これはもともとの録音ではピアノだけの単調なリズムだけの曲だったのを、プロデューサーのガス・ダッジョンのアイディアで、大観衆の歓声口笛をダミーで挿入して擬似ライヴにしてしまったのが大成功。この曲は、非黒人アーティストの曲としてはプレスリー以来はじめてのソウルチャートでの1位をも記録し、エルトンはこの曲で白人アーティストが、ジャンルを融合させた新しいマーケットを開発する可能性を示した、といわれました。

Elton_john_candle_in_the_wind 御存知”Candle in the Wind”「風の中の灯のように」。原曲はマリリン・モンローに捧げた内容、しかし歌詞を換えてダイアナ妃への追悼歌として「ホワイト・クリスマス」を抜いて世界で最も売れたレコードの記録を塗り替えました。

ところがこの原曲は当時、「ベニーとジェッツ」のB面で、お馴染みのピアノ弾き語りヴァージョンとは程遠い、ギターのストロークが効いたミディアムテンポの曲でした。

しかしエルトンにはこれをピアノだけでやるアイディアはかなり早くからあったようです。

さっきの77年の「恋のデュエット」(これは二人の気分転換だったのか、エルトンとバーニーは偽名で作詞作曲をクレジットしていました)の後の70年代後半、エルトンはスランプの時期に入ります。長年のプロデューサーだったガスや、バーニーとも別れて仕事をするようになりました。エルトンは後に「あの時期バーニーはアリス・クーパーのアルバムを手伝っていて仕方なかったんだ。仲違いしたわけじゃなかったよ」なんて言っていましたが、実は仕事のパートナー以上の「特殊な関係」だった二人、何かあったと考えるのが普通でしょうね。A Single Man

  America_america そのスランプの真ん中、78年に「シングルマン」という全然売れなかったアルバムを発表、アメリカ(グループの名前です)の「名前のない馬」の名演でも知られるパーカッショニストのレイ・クーパーと二人だけというシンプルな編成で、「シングルマン・プラス・レイ・クーパー」と銘打った世界ツアーを敢行します。このあたり、エルトンの「特殊な関係」のパートナーが替わった、と見るべきでしょうか。

このツアーで、当時は冷戦真っ只中で西側のアーティストが行くこと自体珍しかった、ソ連でのライヴが実現しました。

Elton_john_to_russia_with_elton その模様を収めたDVDが最近発売になりました。

それを観ると、そのシンプルな編成のためもあるでしょうが、”Candle in the Wind”が後によく知られるようになるピアノ弾き語りヴァージョンの原型のような形で聴けます。

小学校の高学年時、道徳だかなんだかの時間に先生から「尊敬する人は誰?」と訊かれて「エルトン・ジョンです」と胸を張って答えた。しかし先生も他の級友の誰も知らなくて、「誰?それ?」と白い目をされた、そんな屈折した少年時代を送って、今こんな文章を書いている私が居ます。

その少年時代のヒーロー、太ってもまだ最前線、今年も東京だけだけど日本に来てくれる。どうしようかな?

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2007年3月22日 (木)

A Theme from Non-Existent TV Series 

克也さんの数あるラジオ番組が聴けない。

 でも、ナマではないいくつかの番組にはウェブサイトがあり、選曲が確認できるようになっています。

 「ビートルズから始まる」にはないからここでやってくれているのかな?

Joey_scarbury_americas_greatest_hero  克也さんが言う、ラジオを聴きながらの想像、以上の想像力が必要だけれど。まあいい時代になったものです。

 「お願いDJ」の選曲で、ジョーィ・スキャベリー「アメリカン・ヒーローのテーマ」がかかったようなので、その思い出。

 

原題は Greatest American Heroというテレビドラマシリーズ。

 平凡な高校教師が、宇宙人から超能力スーツを、正義をなすために使え、と貸与される。スーパーマンみたいなマントつきだけど、色は反対に真っ赤、胸には感じの「中」を思わせるマーク。

 しかし、取扱説明書をなくしてしまう。

 Greatest_american_hero_dvd これで大騒ぎ。空は飛べるんだけど平行が保てない、着地もうまくできない。怪力は出せるんだけど加減がわからず余計なものも壊してしまう。姿も消せるんだけど部分的に現れてしまったり。

 そんなドタバタで失敗を繰り返しながらもさまざまな事件を解決していく。秘密を共有しているFBI捜査官との世代対立、女性弁護士との恋、生徒とのふれあいもあり学園ドラマとしての要素もあった。

 主役のスーパー教師はウィリアム・カット演じるラルフ・ヒンクリーでした。声は富山敬さんでした。アメリカでシリーズの放送が始まる直前の813月、レーガン大統領の暗殺未遂事件が起きて、その犯人がジョン・ヒンクリーという青年でした。ファミリーネームの偶然の一致が問題となり、すでに取り終えて変更がきかない数話の後、急遽、ラルフ・ハンリーと名前を変えましたが、また十数話後にヒンクリーに戻した、なんて話もありました。学生役だったマイケル・パレがこれをきっかけにスターになりました。

 日本では今の汐留局系列ネットで、第一シーズンは日曜10時半から、第二シーズンは土曜の午後に放送されていました。

 毎週、すごく楽しみでした。

 アメリカに行ったとき、再放送をやっていて感激したのを憶えています。

 ところが今は、DVDは売ってるわ、CSでも放送されてるわ、簡単に見られる。

 いい時代になったものです。

Mike_post_inventions_from_the_blue_line  このころ、テレビドラマ音楽ならこの人、マイク・ポストという人がいました。

 75年ごろの、ジェームス・ガーナー主演、日本でもやっていて、声は名古屋章さんだった、「ロックフォードの事件メモ」のテーマに始まり、この81年ころは、「マグナムP.I.」

とか、「ヒル・ストリート・ブルース」「特攻野郎Aチーム」など、ブームだったの犯罪捜査ものの音楽を全部手がけていました。

 元々カントリーのプロデュースもやっていた人で、ケニー・ロジャースがいたファースト・エディションのプロデュースで出てきた人。ドリー・パートンの「9時から5時まで」も彼でした。

 ジョーィ・スキャベリーは、そんなマイク・ポストの、ヴォーカルが必要な場合に使うお抱えスタジオシンガーだったんですね。それがテレビそのものが大ヒットして、曲も大ヒットした。

Starsky_hutch_dvd

 他にも、テレビからはいっぱいヒットが生まれています。

 憶えている70年代からすると、緊急医療チーム「SWATのテーマ」。




David_soul_the_best_of  「刑事スタスキー&ハッチ」のハッチ刑事、ケン・ハッチンソン役のデヴィッド・ソウルが放ったナンバー1ヒット、”Don’t Give Up on Us”「安らぎの季節」




Glenn_frey_the_best_of  80年代に入ったら、最近映画でリメイクされた「マイアミ・ヴァイス」が大ブームになり、そこからヤン・ハマーのメインタイトルや、グレン・フライ”You Belong to the City”などの大ヒットが出ました。




Rick_springfield_the_best_of

Jack_wagner_all_i_need      ものすごいロングランだった General Hospitalからは、リック・スプリングフィールドやジャック・ワグナーなどのヒットメーカーが登場しました。

 マイケル・J・フォックスの「ファミリー・タイズ」からは、ビリー・ヴェラ&ビーターズ”At This Moment”86年にナンバー1になりました。これは 日本では81年の、赤坂局がやっていた東京音楽祭の受賞曲だったけれども世界的にはまったくヒットせず埋もれていたものが、ドラマによって発掘されたのでした。

 こういうのすべてが、最近のドラマブームにつながってきているのですね。

 「アリー・MY ・ラブ」「ビバリーヒルズ青春白書」あたりに始まり、「ER」「ホワイトハウス」「デスペレートな妻たち」。「24」あたりにはまっている方、私も含めて多いのでは。

 こういうの全て、CSではバンバン流れているし、DVDもすぐに借りられて、時間を選ばずに鑑賞できる。

 いい時代になったものです。

Elton_john_blue_moves  タイトル「架空のテレビ番組テーマ」は実はエルトン・ジョンの76年のアルバム「蒼い肖像」の中のインストの曲です。エルトンがマイク・ポストを意識してか、いかにも典型的なテレビ番組のテーマというのをパロディで作ったもの。笑えます。機会あれば御一聴あれ。

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2006年12月22日 (金)

Disco Strangler

またベストヒットネタに戻って。

Kiss_dynasty17日のタイムマシーン。1980年にKISSのドラムス、ピーター・クリスがバンドを脱退した日ということで、79年のヒット “I Was Made for Loving You” 邦題「ラビン・ユー・ベイビー」がかかりました。

キッスがディスコに挑戦。それが彼らの代表曲になっちゃって、今、日本のコマーシャルで子供たちがあのメイクアップをして替え歌を歌ってる。

考えてみればキッスというバンド、その次にヒットしたのが76年の「ベス」という曲で、そのピーターがリードを取った、というか一人で歌った、バックはストリングスとピアノのバラード。

メンバーでピアノを弾けるのは一人もいなかった。この曲をライブでやるときは他の三人は引っ込んで、ピーターもドラムから離れて一人で歌う。

ハードロック、といっても結構、ポップ性、コード進行やハーモニーを重視していたようなところもあったし。

それでも広く知られた代表曲が本筋からはなれた曲ばかりで、やや損をしていたのかもしれません。

この70年代の後半、確かdisco bandwagonという言葉がありました。

ポール・マッカートニー&マイケル・ジャクソン「セイ・セイ・セイ」のビデオを覚えている方は思い出していただければいいんですけど。

昔、ドサ周りの興行一座はワゴン車で移動していて、それがある村に賑やかにやって来たら、子供がわっと寄ってってきて、その車が移動するところ、みんな付いていって、過ぎ去った後はもぬけの殻になる。

それで、bandwagonとは、勢いに乗る、悪く言えば、便乗、を意味するようになったのですが。

この70年代末、ディスコブームに便乗して、それとはかけ離れているはずのアーティストがディスコに手を出して、いろいろな記録を残しています。キッスのみにあらず。ちょっと思い出してみましょう。

Joe_tex_aint_gonna_bump_no_moreDiana_ross_diana_ross_1ダイアナ・ロス “Love Hangover”

Joe Tex "Ain't Gonna Bump No More (With No Big Fat Woman)"

確かディスコブームの最初の頃はファンクとの境があいまいで、黒人音楽の一部と考えられていた節があり、アフロヘアーにスタイルが代表されていたのがそれを物語っている。それでもこういうR&Bのベテランがディスコに手を染めたのは大きな話題となった。

Thelma_houston_the_best_ofHarold_melvin_the_bluenotes_the_best_ofともに76年のヒット曲。ダイアナ・ロスのは、「マホガニーのテーマ」に続いて全米ナンバー1になった。ドナ・サマーを意識したかのようなイロッポイ内容、バラードからディスコビートになっていく。ベースラインは、ハロルド・メルヴィン&ブルーノーツ、後にテルマ・ヒューストンがカバーして翌77年全米1位になる”Don’t Leave Me This Way”のパクリ。

ジョー・テックスは、ラップの元祖かもしれない。途中からイスラム教に改宗するが、元々ゴスペルの味のあるR&Bも歌っていた。それがディスコに行っちゃった。82年逝去。

ローリング・ストーンズ「ミス・ユー」

Rolling_stones_some_girlsサタデー・ナイト・フィーヴァーからの曲がラジオを席巻していた78年夏、ストーンズがニューアルバム「女たち」を発表したが、そこから鳴り物入りで出てきたシングルがこれだった。ストーンズもディスコか、と、キッス同様、古いファンを引かせてしまった。でも全米一位になった。ミックの妻ビアンカのことを歌っていた。

バリー・マニロウ「コパカバーナ」

バーブラ・ストライサンド「メイン・イベントのテーマ(ファイト)」

同じく78年夏。こういうエンターテイナー系もディスコに走っちゃった。

Barry_manilow_even_nowBarbra_streissand_essential_270年代後半だけに限ればソロアーティストとしては最もレコードを売ったバリー・マニロウ。甘ったるいバラードの大ヒットを連発していた。タモリが一時期さだまさしを嫌っていたように、そういうのがだめな人たちからは徹底的に嫌われてもいた。「マニロウがラジオでかかったらブレーキ踏んでやる」なんてバンパースティッカーも流行った。

「コパカバーナ」も現在、数年前プロ野球チームを買い取り、最近は携帯電話に参入していろいろ問題を起こしているあそこのCMに使われているのでお馴染みでしょう。

曲の内容はストーリーがあって、ハバナのクラブの踊り子とバーテンダーの悲恋物語になっているんですけど。これのダンスヴァージョンは完全な16ビートにアレンジされていた。これでグラミーの最優秀男性ヴォーカルを受賞した。

バーブラも、あの高い声でのスタンダードのようなバラードが有名で、映画がらみですがディスコに手を染めて、トップ10ヒットになった。この翌年にはドナ・サマーとので湯えっと、16ビートの “No More Tears” で一位にもなる。

ロッド・スチュアート「アイム・セクシー」

Rod_stewart_blondes_have_more_fun79年頭。ロッドも16ビートに行ってナンバー1になった。さびの部分は、ブラジルのタージマハールそっくりだというので盗作問題にもなった。

ロッドはストーンズフォロワーで、さっきの「ミス・ユー」を聴いて、自分もディスコをやりたいと考え、この曲を思いついたという。

元々彼は音楽のスタイルを柔軟に変える人なので、それほど不思議なことではないのかもしれないが。でも時期を考えると・・・商売商売。

ポール・マッカートニー&ウィングス “Goodnight Tonight”

Paul_mccartney_all_the_best79年夏、ポールまでやっちゃった。

一応、歌い方とか、ベースラインとか、ポール節になってたんだけど。彼までやる必要があったのかな。ディスコでかかったときは、踊る人の好き嫌いがはっきり分かれたという。トップ10ヒット、ミリオンセラーになったが、ウィングス名義としては最後のスタジオ録音になった。

エルトン・ジョン “Victim of Love”

Elton_john_victim_of_loveこれは知られていないかもしれない。なんとエルトンもディスコをやっていたのだ。

今まで挙げたものは、それぞれのアーティストのスタイルからかけ離れているという意味で、異色、汚点の曲ばかりだったかもしれないが、エルトンの場合は売り上げ的にも見事にコケた、正真正銘の「汚点」である。

80年中ごろのリリース。77年あたりからスランプといわれていた。作詞の相棒バーニー・トーピンと一時期はなれていたことも原因だが、70年代の全盛期をともにしたプロデューサーのガス・ダッジョンと分かれたのも大きかった。いろいろな試行錯誤が続き、ここではなんとドナ・サマーを手がけたピート・ベロッティを迎えて、レコードA,B面ノンストップのディスコアルバムを出してきた。

エルトンは後に、このときはやらなければならなかったことだ、と語っているが、ディスコブームが消えようとしている時、なぜやったのか理解に苦しむ。彼のキャリアの中で最も売れなかったアルバムになった。

シカゴ “Must Have Been Crazy”

Chicago_13_1同じ時期にシカゴもやっていた。シカゴも、オリジナルメンバーのギタリスト、テリー・キャスがピルトル暴発事故でなくなって以来スランプで、試行錯誤を繰り返していた時期だった。シカゴ13のアルバムより、ディスコが唯一音楽に貢献したことは録音技術を向上させたことだ、と言って、自分たちでも挑戦した。トップ40にも入らず最悪の結果になる。彼らの復活はビル・チャンプリンが加入しデヴィッド・フォスターをプロデューサーに迎える、シカゴ1681年まで待たされることになる。

Eagles_long_runタイトルのDisco Stranglerはイーグルスの最後のスタジオ録音アルバム「ロングラン」の中の曲。タイトルを見たときは、え!?イーグルスもディスコ?なんて思ったけれど、ビートはちょっと意識したところはありますが、ちょっとツェッペリン風の、ディスコの虚栄を歌った曲。

考えてみれば、ブームの中心にいたビージーズも、本当にディスコと呼べるものを作っていたのは彼らの長いキャリアの中ではほんの3,4年の間だった。他のアーティストとは違って一曲のみではなかったけれど、彼らにとっても、便乗だったのかもしれない。

ディスコブームそのものが虚栄でバブルだったのでしょう。

メリークリスマス!

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2006年10月27日 (金)

Bo Diddley is Jesus

U2_rattle_and_hum1022日ベストヒット、タイムマシンで、“Rattle and Hum”「魂の叫び」のアルバムがイギリスのチャートで一位になった日ということでかかった、同名ドキュメンタリー映画からのU2「ディザイア」。


Kt_tunstall_eye_to_the_telescopeまだまだ記憶に鮮明の今年のヒット曲。今アメリカでは日本、イギリスと逆の順序で“Suddenly I See”が上がってきていますが、アメリカでの顔見世大ヒットとなったKT・タンストールの “Black Horse and the Cherry Tree”。僕もお気に入り、個人的に大プッシュ。

George_michael_faithワム!再結成を表明したジョージ・マイケル。去年の自伝映画での再会がきっかけになったのかな。今のところのソロの最大のヒット、85年の“Faith”

Neil_sedaka_laughter_in_the_rain_the_bes60年代のスターだったニール・セダカが長い停滞時期を経て75年に「雨に微笑を」で大復活しましたが、それに続く同年の全米ナンバー1ヒットの “Bad Blood”。エルトン・ジョンとのコラボでした。



Ace_frehley78年暮れ、KISSのメンバー四人全員がいっせいにソロアルバムを発表し、ジャケットも、一人一人の顔のアップで同じ、という企画がありました。その中で、メンバーの中では最も目立たない存在だったリードギターのエース・フレーリーがシングルで最大のヒットを出しました。イギリスのハローというグループのカバー、“New York Groove”

だんだんマイナーになってきてますか?

Eric_clapton_461_ocean_boulevard来日が待ち遠しいクラプトン。オリジナルはブルースのジョン・オーティスでしたが、“461 Ocean Boulevard”のアルバムの中で“I Shot the Sheriff” と一緒にカバーした “Willie and the Hand Jive”。ベストアルバムにも収められました。



Bruce_springsteen_born_to_runブルース・スプリングスティーンの75年の出世作、「明日なき暴走」“Born to Run”からのアルバムカット、“She’s the One”



Guns_n_roses_appetite_for_destructionGuns N’Roses、“Appetite for Destruction”の中からシングルにはならなかったけど人気のある“ Mr. Brownstone”

Kenny_loggins_yesterday_today_tommorrow__2最後は意外なところで、というか一番関連性が低いからなのですが、ケニー・ロギンスのご存知「フットルース」。同名サントラからの84年ナンバー1ヒット。




脈絡なく曲が並んだようですが、実は以上の曲は重要な共通点を持っています。

さて、なんでしょう?

これらの曲、リズムが同じ部分があるんです。

並んだ曲の数からわかるように、ロックで最もよく使われるリズムの一つです。

ジャ・・ジャ・・ジャ・・・ジャンジャン~

字じゃ分からないなあ。音符で表すにも変換ができなくて限界があるんだけど、♪を16分音符、/16分休符と考えて、♪/////////X/、みたいになるはずです。どれでも曲を思い浮かべるのが一番。二曲思い浮かべたら、ああ、似てるな、と思っていただければ。

このリズムはボー・ディドリー・シャッフルと呼ばれます。

Bo_didley_his_bestもちろん人の名前。ボー・ディドリーはロックの生みの親、ブルースからロックを分離した最初の世代といわれる人。

南部ミシシッピの出身。プレスリーと同時期に活躍した人で、55年には黒人として初めてエド・サリヴァン・ショーに出演しました。

彼自身の曲で有名なヒット曲があるわけではありませんが、とにかくそのスタイルで多くのアーティストからリスペクトされている。

86年にロックの殿堂入り。

Who_magic_busThe Whoも“Magic Bus”というシャッフルを使っている曲があるし、ライヴでボー・ディドリーのカバーを必ずといっていいほどやっている。

U2の「魂の叫び」も、成功した彼らの音楽的ルーツを探るドキュメンタリーであり、ボブ・ディランやBB・キングらと一緒にやっていた。そこに「ディザイア」が納めらえているのも、彼らのボーに対するリスペクトの現れでしょう。「ディザイア」は、荒いギターのストロークにハーモニカをかぶせる形で、ボー・ディドリーを忠実に再現していたといえます。

KT・タンストールも、この間のベストヒット出演で、あの曲はボー・ディドリーに捧げる意味もあった、と言ってました。

90年代、南部からのオルタナ系で活躍していた Jesus and Mary Chain にも“Bo Diddley is Jesus”というトリビュートソングがある。

同世代がどんどん他界していく中で、78歳の彼は存命です。去年はハリケーン・カトリーナの被害救済ライブにも登場した。真っ赤な派手な服、ハットにに大きなメガネ、相変わらずの風貌でした。

最近は曾孫にも囲まれ、信心に生きているようです。彼自身が神に近づいた?

彼ほど、一つのスタイルが後続のアーティストたちに影響している例はないでしょう。

この次はどんな曲が出てくるか。


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2005年12月 8日 (木)

Jesusland

ちょっと時期をずらしちゃって恐縮ですが。 

前々回のベストヒットUSA 2005 Star of the Week でのベン・フォールズの特集。

彼のニューアルバムは Songs for Silvermanで、ニューシングルとして流されたビデオはJesusland

B0007wf1xc01_sclzzzzzzz_  インタビューで、彼が、今まで出最高の出来映えのビデオ、といっていたように、アメリカの田舎の田園風景を、一人で車に乗って眺めているように流れていく感じで、この曲に限ってはあまり攻撃的でない彼の滑らかなピアノとよく合っていました。

 この「ジーザスランド」とは何か、を、解説、というか知ったかぶりをしますと。

 一年前の大統領選挙の結果でできた言葉なんですね。ブッシュ大統領の再選が決まった直後から、ネットを駆け巡った冗談から発しています。

 ここのところのアメリカは、二極化現象がはっきり見えてきて、イラク戦争に賛成か反対か、ブッシュ大統領を好きか嫌いかなどで世論がはっきり二分され、これがライフスタイルや地理的分布にも見られるとされています。つまり、田舎に行けば行くほどブッシュ大統領と共和党への支持が強くなり、逆に都会に行けば行くほど反対候補のケリー候補に票を入れた民主党への支持が強くなる、と。田舎には白人の中流以上で家族をしっかり持った保守的な人が多く、都会には労働階級、独り身で多様な価値観をもつ人が多く暮らしている。

 これが地理にも結びついていて、ブッシュが勝った州はアメリカの真ん中側、南部、山岳部、高原部というように一つの纏まりになっています。そしてそこに住んでいるブッシュを支持した人たちは信心深い人たちが多い。ブッシュの共和党の中にはキリスト教保守派と呼ばれる、宗教で結ばれながらそのネットワークを利用して政治活動を拡大していく団体があり、選挙運動で暗躍、というか大貢献をしていました。そこで、ブッシュに投票したアメリカ中心部の信心深い地域を「ジーザスランド」と呼んだわけです。

Jesusland  他方、ケリー候補が勝ったもう半分のアメリカは「ジーザスランド」を囲むように位置する両側で、人口が多い大都市を抱えている、ニューヨークら東北部、カリフォルニアら太平洋岸、あとデトロイト、シカゴなどがある中西部の北側で、これらは全部カナダと地続きにできるので、The United States of Canada「カナダ合衆国」と名付けられました。ブッシュを支持したジーザスランドは見捨ててカナダに逃げ込んで別の新しい合衆国を作ってしまえ、というわけです。

 選挙直後から、この「カナダ合衆国」と「ジーザスランド」を色分けした地図がネットを駆け巡りました。現在「ジーザスランド」に関してはウェブサイトが開設され、その地図も見られますし、ブッシュや宗教指導者の発言を集めています(www.jesusland.com)。

 だからベン・フォールズのビデオでは「遠くなるビル街を見て、丘の上の大邸宅に近づく」田舎が表現されており、マット・ルーカスが演じる、奇跡の水を宣伝販売する胡散臭いテレビ伝道師が登場していたわけです。

 そんな二極化するアメリカで、更に分裂を促す問題となったのが、同性間結婚。2年前に合衆国最高裁判所が同性結婚を容認する判決を出して以来、同性愛者の立場を擁護するリベラルな人たちはその方向を歓迎し、逆に宗教の価値を重んじる人たちは大反対しています。 

 

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 そんなアメリカを差し置いてイギリスでは、今週、同性間でも(結婚、ではなくシヴィル・パートナーシップといって区別していますが)異性間結婚と同様の財産相続権を付与するなど、同性パートナーシップの社会的地位を認める法律が施行されました。これを受けてジョージ・マイケルやエルトン・ジョンが長年の男性パートナーと事実婚生活に入ると公表したことは御存知の通り。「ジーザスランド」では最も忌み嫌われる傾向でしょう。

B000000idj01_sclzzzzzzz_  ベン・フォールズのインタビューでも、ちょっとした皮肉屋の彼の側面が垣間見られて面白かったです。「ミュージシャンとして初めて火星旅行をしたいし、72歳でヘビー級チャンピオンになりたい」などという発言、わけがわからない分笑えます。

 そういえば、なぜトリオだったのにベン・フォールズ・ファイヴだったのでしょう。諸説ありますが。解散してしまった今では迷宮入りの謎です。

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2005年10月 5日 (水)

No.18 with a Bullet

Im_koba_ans  ZIP Hot 100の「今日は何の日?」のコーナーで、「つぶれてしまったキャッシュボックスという音楽業界誌・・・」という一言がありましたが、克也さんはそれを言うとき、何か胸に去来するものはないのでしょうか?克也さんはほぼ十年間、毎週そこに電話をかけていて、伝説的な番組を作っていたのですから。

 そこで今回は、僕の個人的な克也さんとの「馴れ初め」を思い出してみようと思います。B00000g3wy01_sclzzzzzzz_      

B000001dvr01_sclzzzzzzz__1  そもそも僕のラジオ好きは9歳の頃から始まりました。きっかけは親がラジオを買うはずだったのが違う型のものが届いてしまい、それでも返品が面倒だったから子供に使わせよう、みたいなちょっとした偶然からでした。野球中継なんかから聞き始めたんですけど、ダイアルを適当に回していたら、当時、新聞に唯一載っていなかった810khzという周波数から不思議な音楽と不思議な音の言葉が流れてきて、衝撃を受けたのが、その後の人生を決めちゃったようなところがあります。75年頃で、ディスコの流行り始めの時期で、カーペンターズ、エルトン・ジョン、イーグルス、ジョン・デンバーなんかの全盛期でした。B000002gvs01_sclzzzzzzz_       

B0009i7o1601_sclzzzzzzz__1  その当時から克也さんはいろいろやってましたから、克也さんの声を本当にはじめて聞いたのはいつかは正確には分かりません。カマサミ・コングが国外で弱い電波で聴いて、自分もDJになると決意し名前も頂いたという、伝説の「オールナイト・ニッポン」も聴いたことはありません。だいぶ後で知ったことですが、ラジオ関東(現RFラジオ日本)の、湯川れい子さんの「全米トップ40」のオープニングのナレーションをやっていたのが克也さんだったらしいので、それが最初ではないかなと思います。カッコいい英語で、アメリカ人がやっているんだって思ってました。同じ時期にやはりラジオ関東で、月金の帯で深夜1230分頃から15分の長さで「スネークマンショー」をやっていました。ウルフマンジャックはもう聴いていたのでそれの亜流かなと思って夜更かしして聴いたことがあります。これも克也さんが関わっていることは知りませんでした。

 そして僕が克也さんの存在をはっきり認識したのは、その伝説の番組「ナガオカ・ワールドミュージック」でした。FM東京(現TOKYO FM)日曜深夜12時から、キャッシュボックス誌の編集部に直接電話をかけ、誌面で発表されるより一週間早いチャートを、シングル、アルバムのトップ20、初登場や上昇曲の発表と、30分番組ながら濃い内容で、音楽情報番組としてはこれを超えたものはいまだに出て来ていないのではないでしょうか。

 後になって、中学生の頃にはやっと同じ趣味の友達ができました。その彼とこの番組の真似をして、電話で、片方が、順位、アーティスト、曲名を順々に言って、もう一方が、mm-hmm, uh-huh, yeahと矢継ぎ早に相槌を入れていく「小林克也ごっこ」という異常な遊びを開発していました。

B000002kn101_sclzzzzzzz_  克也さんの御尊顔を初めて拝見したのは、雑誌FMfanの、DJお宅訪問、みたいな、自宅のレコードライブラリーとオーディオセットを紹介する記事だったと思います。克也さんはお薦めの一枚として Cheech & Chongを挙げてました。



B0000032n601_sclzzzzzzz_  今回のタイトルは、Pete Wingfieldという一発屋アーティストの75年のマイナーなヒット曲。それでもトップ20に入っています。「18位、上昇印付き」ということですが、ちょうどこのキャッシュボックス誌の上昇期待印が「弾丸」で、ビルボード誌は「星」でした。日本では「赤丸急上昇」といってましたが、オリコンがそうだったのでしょうか?

 

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