ロッド・スチュアート

2007年9月28日 (金)

Boulevard of Broken Dreams

American Idiot

  グリーンデイだと思うでしょう? ところがどっこい。

 モバHo!導入でレギュラーで聴けるようになったもう一つの克也さん番組、DJ Koby’s Radio Showもネタにしていきましょう。

 922日にアーカイヴされたのは、トニー・ベネット。

 本年81歳。

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  去年80歳を記念して製作されたアルバム、「デュエッツ」でトニーと一緒に歌ったのは、 バーブラ・ストライザンドが一番、活動期間の長さ、音楽的ジャンルが近いとして、ほかはみんな畑違い。ベテランでは、エルトン・ジョン、ポール・マッカートニー、ジェームス・テイラー、 スティービー・ワンダービリー・ジョエル、エルヴィス・コステロ、スティング、ボノジョージ・マイケル90年代以降のスターでは、ディクシー・チックスK.D.ラング、ティム・マグロウ、セリーヌ・ディオン、マイケル・ブーブレ、ジョン・レジェンドなどなど。

 普通この手の企画なら、オケが最初にとられ、それが互いに顔を合わすことなく、別々のスタジオでヴォーカルを入れたものを編集で繋ぎ合わせる。80年代のポール・マッカートニーがスティービー・ワンダーやマイケル・ジャクソンとやったやつ、似たような企画だとフランク・シナトラの生前のデュエット・アルバムもそうやって作っていた。

 ところがトニーはこの製作では、デュエット相手がいるところなら、東海岸、西海岸、イギリス、ヨーロッパ、「追いかけます、お出かけならば、どこまでも」のザ・ベストテン生中継方針を貫いた。長年バックはこの人たちとしかやらないというラルフ・シャロン・トリオを引きつれ、アーティストのいる場所に押しかけて、オケを最初にとるやり方ではない、生演奏をバックに録音するという昔ながらのスタイルで作った。彼はコンサートでも、語りかけと歌を交える特徴がありますが、それがそのままCDで再現されている。”Stevie, wonderful”みたいなシャレを交えた掛け合いとか。デュエットパートナーに選ばれた若手たちは、こんな録音の仕方は初めて、と新鮮さに緊張したという。

 そう、彼は昔からスタイルを変えようとしない。

 そのスタイルは、一度は音楽業界から見放された。でも最近、なぜかまた求められ始めた。

 ペリー・コモのテレビショーからスターダムに登った彼。音楽の師匠はデューク・エリントンなど。すごい世代だ。

Tony_bennet_american_songbook  60年代には一年にアルバム3枚発売のペースを続け、ヒット曲も量産した。

 代表曲はなんといっても「想い出のサンフランシスコ」でしょう。

 ところが、ロックが全盛になり、音楽も多様化してきた70年代、彼のスタイルは時代遅れとなり、レコード契約も切られてしまう。

 この時期、私生活でも泥沼離婚を経験し、麻薬漬けになってしまった。この時期のことについて、彼は語りたがらない。

 それでも、子供にとってのよい父親として手本にならなければならないとの意識から、麻薬からは抜けられたという。

 そして90年代、スタイルは変わらないまま、再び脚光を浴びることになります。

 93年の、フレッド・アステアのカバー「ステッピン・アウト」ではプロモーションビデオに初挑戦し話題となり、アルバムもヒットし、若い世代のファンを開拓した。

 また少し時期はこれより後になりますが、ロッド・スチュアートの「アメリカン・ソング・ブック」三部作の成功など、その他もロックアーティストがトニーの世代の曲をカバーしたり、またマイケル・ブーブレやジョシュ・グローバンなど、トニーと同じジャズっぽい「クルーナー」を自称する若いアーティストが出てきたことも追い風になったのでしょう。

 95年にトニーは「MTVアンプラグド」に出演しCDも発表、グラミーの最優秀アルバム賞も受賞し、ますます若い世代のファンを獲得しました。

 80歳を超えて発表した「デュエッツ」からも判るとおり、若い世代からのリスペクトも並々ならぬものがあります。

Tony_bennet_in_the_studio  そんな彼、現在はニューヨーク、クイーンズ地区の自分の育った地域を一望できる高層マンションで、40歳以上年下の恋人スーザン・クロウさんと、趣味の絵を描きつつ悠々自適のようです。まさに「グッド・ライフ」(彼の代表曲の一つです)なんでしょうね。

 そうそう、それで、Boulevard of Broken Dreamsとは、1950年のトニー・ベネットのデビューヒットなのです。もちろんグリーンデイのものとは同名異曲。でも歌詞には同じフレーズが数箇所あります。グリーンデイのやつは、このトニーの曲ではなく、それ以前、1930年代にそういうタイトルの映画だか小説だかがあってそこからインスパイアされたのだといっていますが、トニーのその曲も結局出所は同じ、ということなのでしょう。

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2007年4月12日 (木)

Wild World

Mr_big_bump_ahead 10日のベストヒットの最後のリクエストコーナーでかかったMr.Bigの「ワイルド・ワールド」。

 曲自体はカバーで、キャット・スティーヴンスというシンガーソングライターの、1971年のヒット曲がオリジナル。

 このキャット・スティーヴンスも数奇な運命を辿った人なので、今回はその人について書いてみます。

Cat_stevens_tea_for_a_tillerman  1947年ロンドン生まれ、父親はギリシャ人、母親はスウェーデン人、家でレストランを経営しており、キャットも早くから手伝わされていました。

 やはりビートルズの登場が衝撃で、家族からは絵描きになると思われていたキャットは、バンドを組んでめきめき頭角を現すようになる。

 兄の売込みで、大きなレコード会社との契約を取り付けデビューしました。まだティーンエイジャーで、クリフ・リチャートのようなアイドル的な扱いをされました。Sheryl_crow_the_very_best_of

Rod_stewrat_greatest_hits  それでも自分で曲を書き、「マシュー&サン」など、イギリスでヒット曲を連発するようになります。もともとシリアスな曲もかけて、3年前にシェリル・クロウが、77年にロッド・スチュアートが、67年にPF・スローンが録音してそれぞれヒットした “The First Cut is the Deepest”はこの頃の曲です。

 ところがアイドルとしての絶頂期に、結核で、あと数週間の余命、と診断されます。

 表舞台から一端完全に消えてしまいます。命は取り留めましたが、68年を前後した2年間、全くのブランクになってしまいます。

 更にところが、転んでもただでは起きない。死に直面したことが自分自身を見直す機会となり、更に内省的な曲を作るようになり、入院中に200曲も書き溜めました。

 戻ってきた彼からアイドルの面影は消え、ひげ、髪ぼうぼう、ギターを爪弾くシンガーソングライターに変身し、70年代前半のシンガーソングライターブームにも後押しされ、アメリカにも進出、世界的なヒットアルバム、ヒット曲を連発するようになります。

 この「ワイルド・ワールド」もその頃の一曲。

Cat_stevens_greatest_hits_2  他に、コーヒーのテレビCMのバックに流れていた、ピアノが美しい「涙にぬれた朝」”Morning Has Broken””Peace Train, “Oh Very Young” ”Another Saturday Night”などなど。

 

Carly_simon_no_secrets ポップス史上最大の謎の一つに、やはり同じ頃、シンガーソングライターブームの一翼を担っていたカーリー・サイモンの73年のナンバー1ヒット、「うつろな愛」”You’re So Vain”のモデルになっている男、おそらくはカーリーも付き合っていた男、これはいったい誰なのか、というのがあります。

 ミック・ジャガー、ジェームス・テイラー、クリス・クリストファーソン、ウォーレン・ビーティなどの名前が挙がりましたが、キャット・スティーヴンスも可能性の一人、と噂されました。

 5年位前、カーリーはその秘密を知る権利を、とんねるずのハンマープライスよろしくオークションに出しました。その際に、その男の名前のどこかにe が入っている、というヒントを出しました。ところが上の5人全員の名前には e が含まれているので、これは全く意味のないヒントでした。その数年後カーリーは同じようにヒントを小出しにして、更に名前に a と r が含まれている、と発表しました。これでキャットは候補者から落ちてしまったことになりますが。

 さて、いくらビッグアーティストになって、マディソン・スクエア・ガーデン満員の聴衆の前で歌えたとしても、一度死に直面した彼には、何かが足りない。

 そんな時に、二度目の死に直面します。所属していたA&Mレコードの会長ジェリー・モスをマリブの別荘に訪ねようとした際、海に落ちてしまう。波でどんどん沖に流され、薄らいでいく意識の中で、神様、私を救ってください、救ってくれたらあなたに仕えます、と祈った。そうしたら不思議、波の向きが変わり、逆に陸に流され、また九死に一生を得た。ところが、その時点ではその神とは何なのか、分かっていなかった。

Cat_stevens_budha_and_the_chocolate  仏教も含めて様々な宗教を勉強し、後期に「仏陀とチョコレート箱」というアルバムを作るが、これは宗教と現世的価値の間で揺れている彼自身を象徴していたそうだ。

 ここでまた兄が影響します。兄がエルサレムから持ち帰ったコーランに触れ、これこそ自分が求めていたものだ、と認識し、イスラム教に傾倒するようになった。

 宗教家として生きる決心をした彼は、音楽活動とは両立しないと考え、絶頂期にありながらある日突然引退を表明し、名前もユサフ・イスラムと変える。

 名声も私財も全て捨ててしまい、ロンドンに初めてのイスラム教に基づく学校を建てるなど、スターの過去はどこへやら、布教活動に専念した。

 そんな彼が再び脚光を浴びたのは、89年。サルマン・ラシュディの小説『悪魔の詩』がイスラム教の神を冒涜している、として、イランの最高指導者ホメイニ師が死刑を宣告して、日本も含めて(詳しく触れたくありません)世界中で事件が起こった。知名度のあるイスラム教徒ということでユサフ・イスラムもマスコミに取り上げられ、コーランに「神への冒涜は死に値する」といった一節があることをテレビで紹介した。そのまま引用しただけでこれには様々な解釈がありうる、と言いたかったそうだが、その引用部分だけが一人歩きし、ユサフ・イスラムもホメイニ師を擁護していると解釈され、アメリカでは、最近ではディクシー・チックスがそういう扱いを受けたように、キャット・スティーヴンス時代の曲がラジオで放送禁止、不買、ローラーでレコードが潰されたりした。

 それでも彼は、”Peace Train”を作って歌った平和主義者としての基本は変わっていなかったのでしょう。

 90年代の、イスラム教も深くかかわっていた旧ユーゴスラビアのボスニア・ヘルツェゴビナでの紛争に心を痛め、支援活動をする。ボスニアの外務大臣として和平に尽力し、医師でもあり紛争で傷を負った人々を無償で助けていたルビヤンキヒ氏と意気投合した。そのルビヤンキヒ氏が撃墜で亡くなってしまうと、氏が未完成のまま残した曲を完成させ録音し、サラエヴォで20年ぶりに大きなコンサートを開き、人前で歌った。この辺りから彼は、自分の宗教活動と音楽は決して矛盾するものではない、むしろ広める手段として有効なのだ、と考え方を変えたようです。

 2001年同時多発テロの直後、テロ行為を非難する声明を出しましたが。

 2004年、ドリー・パートンが”Peace Train”をカバーしたいというので、その録音に付き合うべくアメリカに行こうとしたが、入国を拒否されたそうです。危険人物リストに似たような名前のテロリストが載っていて、当局の勘違いだった、というのが表向きの理由だったらしいですが。

 そんな「荒れた世界」を生きた人でした。今、何を思っているでしょう。

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2006年12月22日 (金)

Disco Strangler

またベストヒットネタに戻って。

Kiss_dynasty17日のタイムマシーン。1980年にKISSのドラムス、ピーター・クリスがバンドを脱退した日ということで、79年のヒット “I Was Made for Loving You” 邦題「ラビン・ユー・ベイビー」がかかりました。

キッスがディスコに挑戦。それが彼らの代表曲になっちゃって、今、日本のコマーシャルで子供たちがあのメイクアップをして替え歌を歌ってる。

考えてみればキッスというバンド、その次にヒットしたのが76年の「ベス」という曲で、そのピーターがリードを取った、というか一人で歌った、バックはストリングスとピアノのバラード。

メンバーでピアノを弾けるのは一人もいなかった。この曲をライブでやるときは他の三人は引っ込んで、ピーターもドラムから離れて一人で歌う。

ハードロック、といっても結構、ポップ性、コード進行やハーモニーを重視していたようなところもあったし。

それでも広く知られた代表曲が本筋からはなれた曲ばかりで、やや損をしていたのかもしれません。

この70年代の後半、確かdisco bandwagonという言葉がありました。

ポール・マッカートニー&マイケル・ジャクソン「セイ・セイ・セイ」のビデオを覚えている方は思い出していただければいいんですけど。

昔、ドサ周りの興行一座はワゴン車で移動していて、それがある村に賑やかにやって来たら、子供がわっと寄ってってきて、その車が移動するところ、みんな付いていって、過ぎ去った後はもぬけの殻になる。

それで、bandwagonとは、勢いに乗る、悪く言えば、便乗、を意味するようになったのですが。

この70年代末、ディスコブームに便乗して、それとはかけ離れているはずのアーティストがディスコに手を出して、いろいろな記録を残しています。キッスのみにあらず。ちょっと思い出してみましょう。

Joe_tex_aint_gonna_bump_no_moreDiana_ross_diana_ross_1ダイアナ・ロス “Love Hangover”

Joe Tex "Ain't Gonna Bump No More (With No Big Fat Woman)"

確かディスコブームの最初の頃はファンクとの境があいまいで、黒人音楽の一部と考えられていた節があり、アフロヘアーにスタイルが代表されていたのがそれを物語っている。それでもこういうR&Bのベテランがディスコに手を染めたのは大きな話題となった。

Thelma_houston_the_best_ofHarold_melvin_the_bluenotes_the_best_ofともに76年のヒット曲。ダイアナ・ロスのは、「マホガニーのテーマ」に続いて全米ナンバー1になった。ドナ・サマーを意識したかのようなイロッポイ内容、バラードからディスコビートになっていく。ベースラインは、ハロルド・メルヴィン&ブルーノーツ、後にテルマ・ヒューストンがカバーして翌77年全米1位になる”Don’t Leave Me This Way”のパクリ。

ジョー・テックスは、ラップの元祖かもしれない。途中からイスラム教に改宗するが、元々ゴスペルの味のあるR&Bも歌っていた。それがディスコに行っちゃった。82年逝去。

ローリング・ストーンズ「ミス・ユー」

Rolling_stones_some_girlsサタデー・ナイト・フィーヴァーからの曲がラジオを席巻していた78年夏、ストーンズがニューアルバム「女たち」を発表したが、そこから鳴り物入りで出てきたシングルがこれだった。ストーンズもディスコか、と、キッス同様、古いファンを引かせてしまった。でも全米一位になった。ミックの妻ビアンカのことを歌っていた。

バリー・マニロウ「コパカバーナ」

バーブラ・ストライサンド「メイン・イベントのテーマ(ファイト)」

同じく78年夏。こういうエンターテイナー系もディスコに走っちゃった。

Barry_manilow_even_nowBarbra_streissand_essential_270年代後半だけに限ればソロアーティストとしては最もレコードを売ったバリー・マニロウ。甘ったるいバラードの大ヒットを連発していた。タモリが一時期さだまさしを嫌っていたように、そういうのがだめな人たちからは徹底的に嫌われてもいた。「マニロウがラジオでかかったらブレーキ踏んでやる」なんてバンパースティッカーも流行った。

「コパカバーナ」も現在、数年前プロ野球チームを買い取り、最近は携帯電話に参入していろいろ問題を起こしているあそこのCMに使われているのでお馴染みでしょう。

曲の内容はストーリーがあって、ハバナのクラブの踊り子とバーテンダーの悲恋物語になっているんですけど。これのダンスヴァージョンは完全な16ビートにアレンジされていた。これでグラミーの最優秀男性ヴォーカルを受賞した。

バーブラも、あの高い声でのスタンダードのようなバラードが有名で、映画がらみですがディスコに手を染めて、トップ10ヒットになった。この翌年にはドナ・サマーとので湯えっと、16ビートの “No More Tears” で一位にもなる。

ロッド・スチュアート「アイム・セクシー」

Rod_stewart_blondes_have_more_fun79年頭。ロッドも16ビートに行ってナンバー1になった。さびの部分は、ブラジルのタージマハールそっくりだというので盗作問題にもなった。

ロッドはストーンズフォロワーで、さっきの「ミス・ユー」を聴いて、自分もディスコをやりたいと考え、この曲を思いついたという。

元々彼は音楽のスタイルを柔軟に変える人なので、それほど不思議なことではないのかもしれないが。でも時期を考えると・・・商売商売。

ポール・マッカートニー&ウィングス “Goodnight Tonight”

Paul_mccartney_all_the_best79年夏、ポールまでやっちゃった。

一応、歌い方とか、ベースラインとか、ポール節になってたんだけど。彼までやる必要があったのかな。ディスコでかかったときは、踊る人の好き嫌いがはっきり分かれたという。トップ10ヒット、ミリオンセラーになったが、ウィングス名義としては最後のスタジオ録音になった。

エルトン・ジョン “Victim of Love”

Elton_john_victim_of_loveこれは知られていないかもしれない。なんとエルトンもディスコをやっていたのだ。

今まで挙げたものは、それぞれのアーティストのスタイルからかけ離れているという意味で、異色、汚点の曲ばかりだったかもしれないが、エルトンの場合は売り上げ的にも見事にコケた、正真正銘の「汚点」である。

80年中ごろのリリース。77年あたりからスランプといわれていた。作詞の相棒バーニー・トーピンと一時期はなれていたことも原因だが、70年代の全盛期をともにしたプロデューサーのガス・ダッジョンと分かれたのも大きかった。いろいろな試行錯誤が続き、ここではなんとドナ・サマーを手がけたピート・ベロッティを迎えて、レコードA,B面ノンストップのディスコアルバムを出してきた。

エルトンは後に、このときはやらなければならなかったことだ、と語っているが、ディスコブームが消えようとしている時、なぜやったのか理解に苦しむ。彼のキャリアの中で最も売れなかったアルバムになった。

シカゴ “Must Have Been Crazy”

Chicago_13_1同じ時期にシカゴもやっていた。シカゴも、オリジナルメンバーのギタリスト、テリー・キャスがピルトル暴発事故でなくなって以来スランプで、試行錯誤を繰り返していた時期だった。シカゴ13のアルバムより、ディスコが唯一音楽に貢献したことは録音技術を向上させたことだ、と言って、自分たちでも挑戦した。トップ40にも入らず最悪の結果になる。彼らの復活はビル・チャンプリンが加入しデヴィッド・フォスターをプロデューサーに迎える、シカゴ1681年まで待たされることになる。

Eagles_long_runタイトルのDisco Stranglerはイーグルスの最後のスタジオ録音アルバム「ロングラン」の中の曲。タイトルを見たときは、え!?イーグルスもディスコ?なんて思ったけれど、ビートはちょっと意識したところはありますが、ちょっとツェッペリン風の、ディスコの虚栄を歌った曲。

考えてみれば、ブームの中心にいたビージーズも、本当にディスコと呼べるものを作っていたのは彼らの長いキャリアの中ではほんの3,4年の間だった。他のアーティストとは違って一曲のみではなかったけれど、彼らにとっても、便乗だったのかもしれない。

ディスコブームそのものが虚栄でバブルだったのでしょう。

メリークリスマス!

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2006年6月 8日 (木)

Atlantic Crossing

おお、久々に物騒ではない清清しいタイトルだ。

64日のベストヒットUSAのタイムマシーンのコーナーではナック「マイ・シャローナ」、ブロンディ「コール・ミー」が立て続けに流れました。Knack_get_the_knack

ナックは、79年夏、克也さんの「ポップタウンエキスプレス」という月金帯番組(本人も忘れてるかもしれない)でほとんど毎日かかってた思い出があります。


Blondie_paralell_lines

ブロンディは、二回前にも書いたように、新たにトッド・ラングレンを迎えた新生カーズと一緒に全米ツアー中。


この二組を繋げるのは、番組の中でもおっしゃっていた、マイク・チャップマンという男。Exile_greatest_hits_Nick_guilder_city_nights

先般の拙稿に対して克也さんがコメントを下さっていた通り、プロデューサーとして78年にエグザイル”Kiss You All Over”、ニック・ギルダー”Hot Child in the City”と立て続けにナンバー1ヒットを出し、79年もナックや、ブロンディの「恋の水平線」というアルバムをプロデュースして、その後も時代のリズムを作っていった人。

http://radiobaka-archive.cocolog-nifty.com/bakabaka/2006/02/happy_together.html

カタカナ表記だと、同じ時代の大事件、ジョン殺害犯と一字違いになってしまい、損してるんじゃないかなあと思ってました。Sweet_the_best_ofSuzi_quatro_back_to_the_driveSmokie_the_best_of

オーストラリア生まれの彼は70年代にイギリスで仕事を始め、Sweet, Mud,あとスージー・クワトロなんていうグラムロックの生き残り、あとソフトなところではSmokieなんていうグループを手がける。そういえばこのスモーキーのリードシンガー、クリス・ノーマンとスージー・クワトロという異色の組み合わせのデュエットヒット曲で “Stumbling In”というのがあったけど、こうして考えてみるとこの二人を会わせたのはマイク・チャップマンだったんだなあ。

このような、プロデューサーなどの裏方さんにこだわってみることも、音楽パラノイアの醍醐味であるわけですが。

今回もう一人話題にしたい裏方さんは、Tom Dowd

彼に関して、伝記映画「トム・ダウド-「いとしのレイラ」をミックスした男」を観てきたばかりですので、リポートしたいと思います。

東京圏在住の、小生の親戚筋に当たる音楽パラノイアの諸兄姉におかれましては、何を寝ボケた事を言ってる?そんな映画もう4月にやってとっくに終わってるぞ!とおっしゃるかもしれませんが。それが地方都市の悲しさでして。名古屋では今、しかも一週間だけやっているんです。近隣ではまったく上映されない更に不便な場所もあるかもしれません。遅くとも観られる。幸せです。

このトム・ダウドという人の名前は、僕がレコードを最初に買い出した頃から名前をよく観ていて憶えていて、その後音楽には待っていくうちにますますいろいろなところで名前に出くわし、すごい人だとは思っていましたが、この映画を観て、想定していた以上にすごい人だったのだなあ、と感慨を新たにしました。

異聞でしたが、1925年、音楽一家生まれの彼は、大学で物理学を専攻し、なんと、原子爆弾を最初に研究開発した「マンハッタン計画」に下っ端の研究者として参加していたという。

1940年代から機械と音楽の知識を生かし録音業に携わるようになり、全ての楽器の演奏をマイク一つで一発録りするのが当たり前だった時代に、一つ一つの楽器の前に別にマイクを立てて、8トラック多重録音の走りを始めたのは彼だという。Otis_redding_the_very_best_ofAretha_franklin_the_best_of

アトランティックレコードを中心に活動し、レイ・チャールズ、MJQ,ジョン・コルトレーンといったジャズの大物の録音のエンジニアリングに始まり、50年代から60年代にかけてはコースターズ、ドリフターズ、ベン・E・キング、オーティス・レディング、アレサ・フランクリンといったアトランティックソウルの名盤の録音にほとんど係わることになる。Cream_the_very_best_of

ロックにも係わり始めた。彼は技術屋だけではなく、あらゆる音楽に精通していて、ある曲のほんの人フレーズを聞かせただけで全て言い当てられたという。クラプトンとの親交も始まり、クリーム “Sunshine of Your Love”のドラムスはアフリカのリズムを取り入れようと提案したのはトムだった。Allman_brothers_band_at_the_fillmore_eas

Mから始まる地名に縁のある彼は、マンハッタン、マイアミから70年代にはサザンロックのメッカだったジョージア州メイコンにも移り、オールマン・ブラザース・バンドなどとも仕事をする。当時ブルースやサザンロックに傾倒していたクラプトンを、レコーディング場所が一緒だったからとデュアン・オールマンに引き合わせたのもトムだった。彼がいなければ、デレク&ドミノスのあの布陣もなかったんだ。Derek_the_dominos_layla

僕はこの映画の日本タイトルは、「いとしのレイラ」は日本でよく知られていてアイキャッチャーになるからつけられたのであって、トムにとって「レイラ」は最高の仕事ではない、もっと他にある、と思っていましたが、映画を観て、予想以上に大きな仕事だったのだなと思いました。録音からほぼ30年経って、当時の音源からミックスダウンを実演するのがこの映画のハイライトになっています。天才ギタリスト二人がツインでリード、リズムギターごちゃ混ぜに絡み合い、これにドラムス、ピアノも絡むあの多様なトラックを一つにまとめるのは、やっぱりトムの技術と勘あったればこそ可能だったのでした。Lynard_skynard_essential

やはりトムがプロデュースしたレイナード・スキナード「フリーバード」の最後の、テンポが速くなってギター、ピアノソロになっていく部分もモデルになったのは「レイラ」でした。



Rod_stewart_atlantic_crossing_1Chicago_13

その後もミート・ローフ、ファイアフォール、シカゴなども手がけます。ロッド・スチュアートの70年代後半の最も乗っていた時期の一連の作品も担当し、その中に75年の、「セイリング」を含むAtlantic Crossingがあります。大西洋横断、という意味ですが、アトランティックレコードとともに歩んできたトムを一言で表すにもぴったりのタイトルです。

最近のものでは、やはり同日のベストヒットUSAにも登場したPrimal Screamもやっていました。2002年に他界してしまいましたが、最後まで、最新の録音技術をも貪欲に吸収した現役であり続けました。

この映画一本観るだけで、ロック、ソウル、そして録音技術の歴史に相当精通できます。まだこれから封切られる地域の方々にも、それからDVDになることがあったら、お勧め。

マイク、トムを含め、僕たちに名盤を届けてくれる全ての裏方さんたちに乾杯!

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2006年5月18日 (木)

My Way

514日はフランク・シナトラの命日ということで。

もう8年になりますか。

Paul_anka_five_decadesベストヒットUSAでは、かわりにポール・アンカ「ダイアナ」が流れました。シナトラの代表曲「マイ・ウェイ」の作者であるつながりがありますが、シナトラに適当なVがなかったのか、あまりにも番組のイメージから離れすぎていたのか。



Paul_anka_rock_swings_ ポール・アンカの一番新しい録音は、ヴァン・へーレン「ジャンプ」、ニルヴァナ「スメルズ・ライク・ティーンスピリット」なんかを、ビッグバンドをバックにカバーした「ロック・スウィングス」ですが。



Rod_stewart_greatest_american_songbook ロッド・スチュアートの「グレイト・アメリカン・ソングブック」のシリーズ、これは古い曲をそのままカバーしたものですが、そういう原点回帰の企画が流行っています。



Joan_jett_b_the_blackhearts_i_love_rockn 実はシナトラも似たようなレコードを出したことがあります。85年くらいに、当時のヒット曲、ジョーン・ジェットの「アイ・ラヴ・ロックンロール」なんかをメドレーにしてスィングジャズ風にアレンジして、マイナーヒットになりました。

 といっても、実はこれはシナトラ自身のレコードではなく、数多い彼の物まねをするコメディアンの一人が企画したノベルティ・レコードでした(レコードの名義を全く憶えていません。検索してもわかりませんでした。御存知ならば御教示ください)。

 このレコードで、偽シナトラが歌いだす前に、マイクがオンになっているのを気付いていないという設定で、ひそひそ話が漏れる場面があります。「ジョーン・ジェットって何だよ?ジェット機の親戚か?」

 今のブッシュ大統領が、マイクがオフになっていると思ってうっかり、assholeと口走ってしまったように。

Frank_sinatra_my_way シナトラは最高のエンターテイナーでしたが、同時に暗いイメージも常に付きまとっていて、またそれを敢えてあまり隠そうとしなかったことが彼の特徴だったといえるのではないでしょうか。

 暴力沙汰事件、暴言事件の数知れず。新聞記者を名指しして、寄生虫、売春婦、と罵ったり。ジョーン・ジェットのは、いかにも言いそうなことでしたが、まだ軽い。

 そしてなんと言っても、シナトラといえばマフィアとの関係。小説「ゴッドファザー」の中で、主人公のマフィアの保護下にあったイタリア系の歌手が登場しますが、これのモデルは明らかにシナトラでした。

ジアンカーナという有名なボスがいて、他のボスの議会公聴会証言でその地下組織の存在が白日にさらされ、ジアンカーナの行動は目立ちすぎて地下組織を更に危うくすると危惧した他のボスたちがジアンカーナ抹殺を仕掛けたとき、彼はラスヴェガスのシナトラの別荘に逃げ込んで匿われました。

マフィアとの関係を詰問するためにシナトラ自身が議会公聴会に招聘された例も数知れず。

更に同時に彼は権力慾もあからさまで、彼は最高のエンターテイナーとして、時の最高権力者の親友でありたいと常に願っていた人でもありました。

いわゆる「シナトラ一家」の一人にケネディ大統領の義弟にあたる、俳優ピーター・ローフォードがいて、それを伝手にケネディに接近し、選挙の応援は言わずもがな、大統領就任式の前日に史上空前のディナーショーを開いて選挙運動資金の赤字を補填した。

(ピーターの息子、つまりケネディ大統領の甥、クリストファー・ローフォードも俳優になっていて、そのケネディが主人公の「13 Days」、他にハリソン・フォードの「What Lies Beneath」なんかに出演しています。 13ディズ、ノベライズ文庫本の解説は私が書いてます。よろしく)。

 シナトラはケネディ大統領の初めての西海岸での休養の折、自分の別荘に招く計画を立て準備万端整っていたが、ケネディはドタキャンをした。司法長官としてマフィア摘発の先頭に立っていた弟ロバート・ケネディがストップをかけたのだ。

 その後、シナトラはニクソン大統領にも接近し、ウォーターゲート事件で大統領が国民から総スカンをくらってもなおニクソンを支持し続けますが、それでもニクソンはマフィアとの関係を嫌ってシナトラを疎んじ、むしろ「シナトラ一家」のサミー・デーヴィスJrと仲良くなります。更に晩年は、レーガン大統領にも近づこうとします。

 古臭い話が続いてしまいましたが。

「マイ・ウェイ」は、

時には柄に合わないこともやり、後悔もある

だが、試練を受け止め、全力を尽くして、自分なりのやり方で人生を生きた

という、彼の人生そのもの。自己陶酔と自己弁護が入っているから。

日本でもワンマンショーなどでは最も歌われる歌です。

克也さんも、数年前の「花咲コバヤシ」の企画で中村雅俊さんとデュエットで歌われました。

克也さんはどのような感慨で歌ったのでしょう?

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