イーグルス

2010年9月23日 (木)

Take It Easy~All I Wanna do

またまた続くライブリポート。

 ジャクソン・ブラウンとシェリル・クロウのダブルヘッドライナー。

 しかもあまり大きくない場所で。これは楽しみです。俺が一番得意なシンガーソングライター、ウェストコースト、Hot ACのジャンルで。

ジェイムス・テイラー・トリビュート・コンサート [DVD]

 この二人が正式に同じステージに上がって同じ曲で最初に共演したのは、僕の知る限り、2006年、ジェームス・テイラーへのトリビュート・コンサートでした。ジェームスの音楽活動開始何周年かをかねて、その前年のハリケーン・カトリーナでの被害救済のために意を一つにしたアーティスト団体 Music Caresのイベントでもありました。ディシー・チックス、ボニー・レィット、スティング、インディア・アリー、アリソン・クラウス、キース・アーバン、ブルース・スプリングスティーン、デヴィッド・クロスビー、キャロル・キングらが集合し、ジェームスの曲をそれぞれの解釈で演奏しました。ジャクソンとシェリルは「メキシコ」を演りました。ここに集まったアーティストたちの中で、ジャクソン、ジェームス、ボニー・レィット、ブルース・スプリングスティーン、デヴィッド・クロスビーが、1979年、原発反対のために集まったNo Nukesに参加した人たちと被っています。シェリルは2008年大統領選挙での民主党大会でもステージに上がったし、政治的なスタンスのうえでも二人は共通点があるのでしょう。シェリルはジェームスに、「あなたの音楽は私の人生を変えました」と言っていましたが、同じ世代のジャクソンに対しても同じようなリスペクトがあるのでしょう。

 最初はジャクソンでした。これは、小生にとっては、エー、ウソだろ、って感じでした。てっきりジャクソンのほうが後だと思っていました。でも考えてみたら、いくらベテラン、西海岸が最も西海岸らしかった頃の西海岸を背負って立っていた孤高の男にしてみても、ヒット曲の数ではすでにシェリルに抜かれていて、より今に近い分、シェリルのほうがお馴染み度も深いか。

 1年前、前回来日時にベストヒットにも出演、克也さんも直にインタ。それを横目で見ながら行きましょう。

Jackson_browne_setlist

 その1年前に登場した時、またそのときの新譜「時の征者」のジャケットのようなヒゲ面ではなくさっぱりしていました。

Time the Conqueror (Dig)

 いきなりその、「時の征者」の2曲から始まりました。「“Time is on my side”から始まるけれど、今の時代には僕は明らかに後れている。これは子供の頃の夢をイメージして作った曲だ」と言っていました。

Jackson Browne

 それ以降は70年代の、内省的な曲を書いていた時代の曲が5曲続きました。ジャクソンもギターから中央に持ってこられたキーボードへと移ります。72年のファースト・アルバムから、”Rock Me…””Fountains of Sorrow”, ”Late…”74年の名盤”Late for the Sky”から。このアルバムには、No Nukesで歌われた”Before the Deluge”,ニコレット・ラーソンの追悼コンサート(これもNo Nukesに参加したアーティストがかなり被っていました)で歌われた” For a Dancer”なんかも入っていました。

Late for Sky

ジャクソンは前々回の来日ツアーではギター一本バックなしで、事前セットリストなし、全て客席からのリクエストに答えるという形式のライヴをやっていたので、その時を憶えている人がいたのか、この辺りであれを演れこれを演れという声がやたらかかり、ジャクソンは「そんなにIf It Makes You Happyが聴きたいかい?」と笑いを取ったり。でもリクエストに答えてセットリストにない”Sky Blue and Black”の一節を短く挿入しました。

For Everyman

“These Days”, “Take It Easy”はセカンドアルバム”For Everyman”収録。”Take...”はジャクソンはファーストアルバムの以前にハコが出来ていて彼のデビューシングルになるはずだったがどうも当時の彼に似合わない垢抜けた曲で、曲のフィニッシュが巧く決まらず後回しにされた。それをグレン・フライに持っていったところ、グレンは「アリゾナ州ウィンズローはいい景色だな」以下の歌詞を加え、EEaasYYYと最後を伸ばすコーラスをフィニッシュにして曲を完成させて、先に彼の新しいバンドが取り上げてしまった。あとはご存知のとおり。

ここでステージが真っ暗になり、”Lives…”ベストヒットでビデオが流れた”For America”も収録された86年のアルバムのタイトル曲。インタでは「時間が経過するにつれて、周りの人間が変わっていくし、その人たちの音楽の好みも変化するし、自分の好みも変化する」と言っていました。80年代前半は、初めて”I love you””というフレーズの入った曲を書いたり、青春映画のサントラに”Somebody’s Baby”を入れてシングルヒットを出したりちょっと軟派になりかけましたが、この”Lives…"あたりから音楽性も変化させつつ政治性を前面に出し始めました。

Naked Ride Home

それから、2002年の Naked Ride Home からの“About My Imagination”、「時の征者」からの”Givin’ That Heart Away”と新らし目の曲が続きました。

孤独なランナー

そして、第一部の幕、ライヴアルバムだけど全部新曲だった78年「孤独のランナー」からの”Love Needs…”76年の名盤の表題曲”Pretender”、そしてその「孤独のランナー」で盛り上がってジャクソンのパート終了。

Pretender

こうしてみると、ヒット曲の数はそれなりにあるのに、彼自身のヒット曲は「孤独…」のみ、あとは全てアルバムカット。でもみんなが知っている曲でライヴが成立してしまう。やっぱり彼の音楽はキャリアを通じてヒットチャートとは別のところにあったんだなあ、と再確認できました。

あれ、でもいくらなんでも、あの曲を演ってないなあ。

バックのギターは、80年代以降の西海岸を支えていたマーク・ゴールデンバーグでした。

さて、20分の休憩を挟んでシェリル登場。

これはもう、彼女のベストアルバムを生で聴いている感じのヒット曲のオンパレードでした。

Sherryl_crow_setlist

もう1990年代もオールディーズなのかな。

告白すると、個人的には90年代前半の数年間、本職を得るための修行をしていて音楽に少し弱くなっている時期(ベストヒットも中断しちゃったし)があるのですが、彼女はその直後に出てきました。それでも”All I Wanna Doを聴いて、これは何だろう?と思ったものですが、今にして思えば、彼女が正統な西海岸の後継者だったんですね。 

印象に残ったのは彼女の器用さです。彼女は曲によってアコギ、エレキをころころ換えたりベースを演ったりしてました。

Sheryl Crow

ジャクソンもジョークで言っていた”If It Makes You Happy”でいきなり始まりました。セルフタイトルの二枚目で、ロックっぽい彼女を印象付けた。

Tuesday Night Music Club

デビューアルバムTuesday Night Music Clubからの“Can’t Cry Anymore”

2年前と比較的最近のアルバムDetourからの”Love is Free”

Detours

三枚目「グローブ・セッションズ」からの”My Favorite Mistake”

ベスト盤のための新録音、キャット・スティーヴンスのカバー、ロッド・スチュアートもヒットさせていた”The First Cut is the Deepest”

The Globe Sessions

ディズニーのアニメ映画「カーズ」に提供した”Real Gone”

同じく映画Bee Movieのサントラで録音したビートルズの”Here Comes the Sun”.

と、バラエティが富み且つ耳馴染みのある曲が続きます。

ファーストアルバムからの二番目のヒット、”Strong Enough”。そういえばこの曲のアコギやマンドリンを聴いて、ある程度この人の方向性がわかってきたように憶えています。

「みんな、ブラックベリー持ってる?そのうち、みんなの頭の中にチップが埋め込まれる時代が来るんじゃないかしら、と思って作った曲よ」とMCが入って”Good is Good”

いよいよ盛り上がってきて、「これはちょっと古いけどね」と言われて”All I Wanna Do”1994年ってそんなに古いか。あ、もう16年も前か。「これはディスコでもカントリーでもないわ。ここはLAよ」のせりふで始まる、LAはお決まりで「ナゴヤ」に置き換えられました。

“Soak Up the Sun,” “Everyday is a Winding Road”もうこのあたりになると注釈を付けようとするほうが馬鹿ですね。

ザ・ヴェリー・ベスト・オブ・シェリル・クロウ

最後”I Shall Believe”。ファーストアルバム最後に収められていた曲でシングル曲でもなくかつてはライヴでもあまり演奏されなかったものが、ベスト盤に選曲されていて意外だと思われましたが、ここにジャクソンに通じる彼女の政治性が見え隠れするのですね。平和を希求する曲。

ここでいったん引っ込み、再びシェリルのバンドが出てきて、「ジャクソン、出てきて!」と呼びました。メガネをかけてジャクソンも再登場。シェリルが「(ある意味で)ジャクソンの曲を一緒に演るわね」とMC。それでさっきの、まだ出てきてなかったあの曲が始まりました。”Doctor My Eyes”。ただしオリジナルとはかけ離れたロック食の強い現代的なアレンジでした。それが「ある意味で」だったんですね。

そして最後も二人でやった”Peace Love and Understanding”は、ニック・ロウ作、エルヴィス・コステロが取り上げた曲。シェリルは去年エルヴィスと共演して感銘を受けたようです。

という、私にはとてもうれしい一夜でした。

それにしても、ジェームス・テイラーよ。日本の一極集中に毒されていないか?なぜ東京、横浜でしかやらないのだ?せめて大阪には来い。君の弟リヴィングストンは名古屋くんだりまでやってきて、たった60人の前で歌ったんだぞ。

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2008年9月 5日 (金)

All Summer Long

Rock N Roll Jesus Little Deuce Coupe/All Summer Long

 ビーチボーイズにもこういうアルバムがありましたね。

もう9月、日付的には夏は終わった感じですが。

夏は長い休みもあって、開放的になれる、一番せいか、音楽を楽しめる季節かもしれません。その夏のBGM、それがその時期に一番ヒットしていてラジオでいっぱいかかっていたものか、きわめて個人的に好きだったものかにかかわらず、その夏のテーマ曲、BGMみたいなものがあるはずです。

僕にとっての08年の夏は、その名もずばり、この曲でした。キッドロックの久しぶりのニューシングル。夏を過ぎてもまだまだアメリカのチャート上位に食い込んでいそうです。

ひと夏のテーマを超えて、今年度アナミー賞最優秀楽曲を既に狙える位置にある!

826日のベストヒット、カウントダウンUSA7位に入っていたということで丸々かかりました。

実は小生、番組にこの曲のリクエストをしつこく出していたので、採用されたのだと思っています。克也さん、杉田さん、川岸さん、番場さん、ありがとうございました!

この曲は遊び心いっぱい、クラシックロックファンの心をくすぐります。

サビの部分ではレイナード・スキナード「スィートホーム・アラバマ」のイントロのギターのリフ、間奏のピアノソロのフレーズ、歌詞の一部も出てきたりします。

Second Helping

そして曲全体に流れるのはウォーレン・ジヴォンの78年の中ヒット「ロンドンの狼男」”Werewolves of London”のピアノのフレーズがサンプリングされています。Genius: The Best of Warren Zevon

レイナード・スキナードのことは書いたことがあるので、このウォーレン・ジヴォンという人に関する徒然を。あまり知られていない人でしょうから。

70年代後半のシンガーソングライター、ウエストコーストのブームの一翼を担った人。リンダ・ロンシュタット周辺の音楽版「カリフォルニア・マフィア」(この言い方には政治版がある)の一人といっていいでしょう。

ただし、イーグルスやリンダに代表される西海岸のさわやかなイメージとは異なり、彼の極、アルバムは暗く、皮肉に満ちていました。

曲に登場するのは麻薬中毒者、気の狂った兵士、大量殺人犯、強欲弁護士、そして狼男みたいな妖怪。

詞に描かれる皮肉な世界観、ちょっとやる気のなさそうな歌い方など、ランディ・ニューマンに近い感じでした。

それでも、才能は注目される。

リンダはヒット曲もカバーばかりで、アルバムカットでは西海岸の無名作曲家の曲を積極的に取り上げ、多くを世に送り出しました。J.D.サウザー、カーラ・ボノフ、アンドリュー・ゴールド、エリック・カズ、他諸々。ウォーレンもそんな中の一人でした。

60年代から無名グループで音楽活動を始め、ぜんぜん売れませんでしたが、そんな時代の彼の作品”He Quit Me, Man”が映画「真夜中のカウボーイ」のサウンドトラックに使われて少し注目されました。

Warren Zevon

その程度の中途半端な音楽活動に嫌気が差したのか、70年代初めにはスペインに移住していましたが、彼を埋もれさせておくのは惜しいと考えたのが、「カリフォルニア・マフィア」の総元締めジャクソン・ブラウン。彼をロサンゼルスに呼び戻し、アルバムのプロデュースを買って出ます。76年にセルフタイトルのアルバム Warren Zevon が作られました。

Heart Like a Wheel

このアルバムに収録された「風にさらわれた恋」”Hasten Down the Wind”をリンダが取り上げ、アルバムタイトルにもして、このアルバムからトップ10ヒットが2曲出てリンダもスターの仲間入りをし、ウォーレンにも俄然注目が集まるようになりました。そのアルバムには他にも「カルメリータ」「モハメッドのラジオ」というウォーレンの曲が収録されました。

The Very Best of Linda Ronstadt

その次の、リンダの最大ヒットアルバムとなる78年の”Simple Dreams”には「私はついてない」”Poor Poor Pitiful Me”というウォーレンの曲が収められ、三枚目のシングルカット曲に選ばれ、トップ40ヒットになりました。それとまったく同じ時期に、やはりジャクソン・ブラウンのプロデュースによるウォーレンの二枚目のアルバム”Excitable Boy”も発表され、その中から「ロンドンの狼男」がシングルカットされ、やはりトップ40に入りました。

Excitable Boy

映画「サタデーナイトフィーヴァー」の全盛期で、ウォーレンはアルバムのプロモーションのためのライヴの最中に、ジョン・トラヴォルタのダンスの真似をしてずっこけて骨折してそのあとのライヴのスケジュールがキャンセルになった、なんてあほなエピソードも残してしまいました。

でもウォーレンが商業的に成功したのはこれが最初で最後となってしまいました。その後、麻薬中毒になってしまい、作品を発表するペースも落ちてしまいますが、90年代末まで活動し、REMなどからリスペクトを受けレコーディングのバックにメンバーが参加するなどの交流がありました。

ウォーレン・ジヴォンでもう一つ思い出すのは、1991年の映画、ケヴィン・クライン、ダニー・グローヴァー、スティーヴ・マーティンなどが出演し、”Grand Canyon”邦題「わが街」。犯罪と荒廃にむしばまれた大都会ロサンゼルスに生きる6人の男女の生活が描かれ、最後に登場人物全員が導かれるようにグランドキャニオンに集まり、大自然の中での自分たちの存在の小ささを再認識する、そういった映画でした。

その中で主演のケヴィン・クライン演じるうだつの上がらない男が、交通渋滞に巻き込まれている最中に、カーラジオからウォーレンの”Lawyers, Guns and Money”「弁護士と銃と金」という曲が流れてきて、ケヴィンがハンドルを握りながら一緒に口ずさむ、というシーンが出てきます。

この曲はシングルヒットは全然していない、知る人ぞ知る程度のアルバムカット曲。それでも西海岸のロック局を聴いている人は普通の人でも歌えちゃうのだなあ、と思わせるシーンでした。

ウォーレン・ジヴォン、20038月、肺癌のため帰らぬ人となりました。享年56

まあとにかく、「ロンドンの狼男」と「スィートホーム・アラバマ」のフレーズがぴったりと合ってしまうことを発見したキッドロックのセンスに脱帽!

わが街 [DVD]

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2008年8月20日 (水)

Still The One

シャナイヤ・トゥエインではありません。

前回も書いたように、私が東京ローカルの小林克也番組を聴ける機会があと半年で奪われてしまうかもしれないので、できるだけラジオ番組からネタを拾っていきたいと思います。

816日(プレスリーの命日でマドンナの誕生日でしたねえ)オンエアのDJ KOBYの、アメリカ大統領選挙と音楽AKA音楽の民主党大会、特集。

私の本職の専門に近いこともあり、ちょっとフォローをしておきます。

音楽界は圧倒的に民主党支持が多い。

ザ・ヴェリー・ベスト・オブ・シェリル・クロウ

民主党大会に参加予定のアーティストとしてシェリル・クロウが挙げられていましたが、もう一人、絶対に党大会に参加する、マイナーな人を紹介したいと思います。

というか、この人は音楽活動は細々と続けている程度、ミュージシャンとしての参加という位置づけではないでしょう。

しかし、70年代には名を馳せた人です。

ジョン・ホール。

70年代にオーリンズというグループのリーダーとして活躍した人です。

Let There Be Music / Waking & Dreaming

代表的なヒット曲もいくつかあり、今でもよくコンピレに選曲される75年の”Dance with Me”とか。この曲はジャズ・ギターのアール・クルーのカバーでもおなじみだと思います。あと79年の”Love Takes Time”とか(これも、マライヤではありません)。ソングライターとしてもシールズ&クロフツなどに曲を提供していました。

DANCE WITH ME - The Best of Orleans

最大のヒットは、76年の”Still the One”でした(こう並べてみると、タイトルは平凡なものばかり)。

ホールはメリーランド州の生まれ。ニューヨークを中心に東海岸で活躍したグループですが、当時全盛だったウエストコースとロックの波に乗っていました。

そしてホールは、グループ活動と並行してソロ活動も精力的で、更にはその西海岸の連中との社会、政治運動にも熱心に参加します。

ハイライトは、79年、核兵器廃絶、原子力発電反対を訴えるためのNo Nukes。会場はマディソン・スクエア・ガーデンでしたが、中心はドゥービー・ブラザーズ、ジャクソン・ブラウン、ポコ、クロスビー・スティルズ&ナッシュ、ボニー・レイット、ニコレット・ラーソンなどの西海岸の人たち、これに、ブルース・スプリングスティーン、ジェームス・テイラー、カーリー・サイモン、トム・ペティその他大勢が加わり、ウッドストック以来の最大の音楽イベントと言われました。

これにホールはソロの「パワー」と「プルトニウムは永遠だ」という二曲を演奏して参加していました。

このように、ミュージシャンの全盛期から政治社会問題に強い関心を持っていた人でした。

そのさっきの最大のヒット曲”Still the One”が再び脚光を浴びたのは前回の2004年大統領選挙の時。ブッシュ大統領が再選へのキャンペーンソングとしてその曲を使おうとしたんです。

「君はいまだに信頼できる、たった一人のひと、

 君はいまだに僕を飽きずにいさせる、たった一人のひと。。。」

再選に向けてのスローガンとしてはぴったりの内容の歌詞だったわけで、ブッシュ陣営が使いたがったのもよくわかるのですが。

作者のホールはこれを許可せず、ブッシュ陣営もキャンペーンの途中でこの曲を使用リストから外しました。

そしてその次の議会選挙の06年、ホール自身がニューヨーク州第19選挙区から、対立党の民主党から立候補、見事当選を果たしました。

自ら政治家に転身して議員一期生、やはりエネルギーに関する問題で最も活躍したようです。

その政治が本職となった彼、音楽もそこそこ続けていると書きましたが、例えばジャクソン・ブラウンがニューヨークでライブをした際にはゲスト出演して何曲か一緒に演ったようです。

下院議員ジョン・ホールは、superdelegate 特別代議員、すなわち、党大会で大統領候補に投票するために予備選挙で選出された一般の代議員とは別に、連邦議員や州知事など、現職の政治家が大統領候補選出に特別票を投じられる、その立場で党大会に参加するはずです。

でも演奏はしないんでしょうね。シェリル・クロウが来るなら一緒にステージに上がる可能性無きにしも非ずですが。

今年はご存知のように民主党の予備選挙は稀に見る接戦、対立候補に敬意を表し、代議員獲得数で次点だったヒラリー・クリントンも大統領候補の投票対象として残されることが決まりました。

ホールは、同じニューヨーク選出、06年には再選を目指したヒラリー上院議員とキャンペーンで一緒になったこともよくあり、エネルギー問題での立場が同じであることからも、ヒラリーに票を入れるのではないでしょうか。

さて、目を転じて共和党側。

DJ Koby内でもあったように、かつて1984年にレーガン大統領はブルース・スプリングスティーンに “Born in the USA”の使用を断られたり、今年のマケインは “Johnny B. Goode”の使用をチャック・ベリーから断られたり、また「当選後はホワイトハウスではABBAの音楽を流したい」発言に対しても元メンバーたちが懸念を表明しているようです。更には、既に何度か出てきたジャクソン・ブラウンまでも、マケイン陣営が彼のヒット曲”Running on Empty”を使用するのを差し止めたそうです。

Running on Empty

踏んだり蹴ったり。

では、共和党側を断らない音楽とは何でしょう?

Ultimate Survivor

「ロッキー3」のテーマ、Survivor “Eye of the Tiger”.これは予備選以前では本命視されながらも早期撤退した前ニューヨーク市長ジュリアーニ氏も、そしてマケインも使っていました。これは断られていないんでしょうね。

あと、ディクシー・チックスの対極にいたトビー・キースも断らないんじゃないかな。

Osmondmania! Osmond Family Greatest Hits

それから、オズモンズ。

あの家はモルモン教徒一家なんですね。

共和党の予備選挙で善戦したロムニー前マサチューセッツ州知事がモルモン教徒だったように、モルモン教徒は保守的で共和党の地盤のイメージが強い。

04年大統領選挙の直前に、モルモン教の総本山のユタ州の大学に、ブッシュの天敵、マイケル・ムーアが講演に行くことになり、その日に至るまでの顛末、町民の反対運動、そのまた反対運動、の様子をドキュメンタリーした「マイケル・ムーアのアホでマヌケな大統領選」という映画がありました。DVDでぜひどうぞ。

かつては一夫多妻制をとっていて迫害を受けていたものの、清廉なイメージもある。婚前交渉も認められない。

「マリー・オズモンドのLPレコードをターンテーブルに乗せようとしたら、なかなか穴がはまらなくて。無理やりはめたら、血が滲み出てきた」なんて、卑猥で、笑っていいんだか悪いんだかわからないジョークも昔ありました。

オズモンズ、レーガン大統領の就任式では大活躍でした。マケインも使ってはいかが?ABBAあたりがお好きなら丁度いいのでは?

いや、マケインは共和党内でも中道やや左で党内の保守派とはうまく行っていないようだから、逆にオズモンズあたりには嫌われているのかな?

さて、11月にはどちらが勝つでしょう。

予想はしません。結果が出てからその理由を説明するのが学者の仕事ですから(と、狡い逃げをする)。

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2008年1月11日 (金)

Anammy Awards 2007

成人の日も終わり、調子が狂った年末年始も元通りになってきたころでしょうか?

 アメリカン・ミュージック・アウォードが一ヶ月前に開催され、各業界紙の年間チャートも年末に発表され、本家グラミー賞を一ヶ月後に控える現在、私阿南東也(あなみはるや)が勝手に個人的に好きだった音楽を独断と偏見で振り返る、権威も何もない「アナミー賞」の発表が今年もやってまいりました。

 この場をお借りして三回目。ZIP Hot 100の年間チャート時に読んでいただいていた時代は遠くなりにけり。

 克也さんは、DJ KOBYの昨年末の放送でアメリカのラジオのフォーマットについていろいろおっしゃってました。私も何度かここでも書いていますが、私のラジオ生活とはインターネットのストリーミングでアメリカのラジオを聴くのが中心です。今年は夏に危機的状況がありましたがその後いろいろ裏技サイトも出てきて何とか持ち直しているようです。

同じフォーマットでも局ごとに選曲に傾向があってラジオ局めぐりが本当に楽しいのですが、僕が聴いている割合は、HOT ACAAA 三割、アダルトヒッツ(708090年代)三割、AC二割、オールディーズ一割、アーバンAC一割、といった感じでしょうか。以下のノミネートもこの僕の傾向をモロに反映してしまうでしょう。

     最も気に入ったシングル曲

Hey There Delilah

1、 Plain White T’s “Hey There Delilah”

  去年はこの曲でした。やっぱり僕みたいにかなり前から音楽を聴いている人だと、この曲に何か感じるものがあるんじゃないでしょうか。素朴で、バックはアコギの2フィンガーピッキングでずっと流れる。このあたり僕なんかはポール・サイモンを思い出してしまいました。

  デライラとは実在の女性で、今年のオリンピックに向けて強化選手にもなった陸上選手だという。ヴォーカル、ギターのティム・ヒガーソンは、当時コロンビア大学に通っていた彼女と共通の友人を通じて知り合った。彼女に何か感じるものがあり、君のために曲を作るよ、と約束してその場は分かれた。3年くらいたって偶然再会して、あのときの約束はどうなったの、と聞かれて、それで改めてそのときの想いを思い出して曲を作ったという。

 彼らの2005年のアルバムに入っていた曲ですが今年のアルバムでボーナストラックに入っていたので火が付きました。

The Black Parade

2、 My Chemical Romance “Welcome to the Black Parade”

これは中ヒットでしたが印象に残りましたね。クラシック調からだんだんハードになっていって、スケールの大きさを感じた曲でした。これも古い音楽ファンならクィーンの「伝説のチャンピオン」に通じるものを感じた人も少なくないのでは。ビデオも、気味悪さ半分、かっこよさ半分でよかった。

FutureSex/LoveSounds

3、 Justin Timberlake “What Goes Around…Comes Around”

R&Bから一曲、ジャスティンではちょっと違和感があるかもしれませんが、アメリカン・ミュージック・アウォードでもR&B男性アーティスト部門で大活躍したし、去年はヒット曲も多かったので。この曲のコーラスの高音部も、ちょっとフィラデルフィア・ソウルを思い出してしまいます。

☆最も気に入ったアルバム

Long Road Out of Eden

1Eagles “Long Road Out of Eden”

  ははは、やってしまいました。この人たちが出してきた以上、僕としてはここにきてしまいます。

 79年の「ロング・ラン」が最後のオリジナルアルバムとすると28年ぶり、CD2枚組。

なんか音としては「ホテル・カリフォルニア」以前、「オン・ザ・ボーダー」あたりのカントリー・ロックに戻ったみたい。シングル「ハウ・ロング」は”Already Gone”そっくりです。というか、この曲自体、実は彼らにとっては新曲ではなくて、70年代前半からライヴでやっていたレパートリーで、それを改めて録音したんですね。この曲でカントリーチャートに入り、記録を作りました。同一アーティストが最も長いブランクを経て復活した、というものです。イーグルスがこれ以前にカントリーチャートに入ったのは76年の”Lyin’ Eyes”「偽りの瞳」で、31年ぶりというわけです。曲を作ったのはJ.D.サウザー。イーグルスは、ジャクソン・ブラウンをはじめ、スティーヴ・ヤング、ジャック・テンプチンなど、西海岸で多くの新人作曲家を発掘しましたが、発掘される前のJ.D.の曲だったというわけです。

Daughtry

2Daughtry “Dautghtry”

 過去二年、ニッケルバック”All the Right Reasons”がここ辺りに入ってきていて、実は去年も彼らはそれで引っ張った。実に息が長い。でも今年は敢えて外してみました。その代わり、去年一年は、ニッケルバック・リスペクターというか、クローンというか、似たような傾向のロックが結構出ていたような気がする。ヒンダーしかり。そして極めつけはやっぱりドートリーでしょう。”Home”  “It’s Not Over”とヒット曲も多かった。彼らは、ニッケルバックに似ているといわれることは、誇りに思っているそうです。それだけ成功したグループだし、自分たちの目標であるからだ、と。

It Won't Be Soon Before Long

3,  Maroon 5 “It Won’t Be Soon Before Long”

  あまり難しく考えず、このあたりをよく聴いていたということですね。”Makes Me Wonder” ”Wake Up Call”なんかが好きだったし。

☆最も頭の中をグルグル回った曲

Rhianna “Umbrella”

リアンナちゃんはポン・デ・リプレイ以来、一年ごとにその夏のテーマ曲を作っているような気がします。「エラ・エラ・エー・エー・・・」というコーラスは、やっぱり頭の中に残ります。去年までも、頭の中をグルグル回った曲でノミネートされていましたが、今回はちょっと意味合いが違います。この曲あたりから、彼女はなんか実力派として大化けしそうな雰囲気を感じてきました。「スーパースターになった私だけど、まだあなたは私の心の中の人、私の傘の中に入って甘えていいのよ」なんて、本当に彼女にそういう存在がいるのだろうか。うらやましい。

     特別賞

「おしりかじり虫」

「最もくだらないと思った曲」賞は今回は該当なし(ZIP-FMを聴かなくなったせいか?)。そのかわり、「マツケンサンバ」以来、この部門が復活。

子供がいて、一緒にテレビを見ていると、こういうのにも詳しくなってきます。このキャラクター自体が、「ダメおやじ」の漫画に出てきた虫と似ていて盗作問題が持ち上がっているそうですが、この曲、リズムは Prince “When Doves Cry”にクリソツ、と思っているのは僕だけでしょうか。

     最も気に入ったビデオクリップ

The Best Damn Thing

1、 Avril Lavigne “Girlfriend”

  新婚の彼女が何役もこなして、曲の元気さが出ていてよかったですね。地味な女の子と派手な女の子のボーイフレンドの取り合いで、ちょっとしたストーリーもあった。

オール・ザ・ライト・リーズンズ

2Nickelback “Rock Star”

  ここら辺には出てきてもかまわないでしょうね。同じアルバムで3年間引っ張ったニッケルバック。

 僕がおそらく今までで一番好きな音楽ビデオは、Godley & Crème “Cry”なんでしょうけど、このロックスターのビデオがちょっとそのコンセプトをちょっと引きずっていたということで。セレブが矢継ぎ早に出てきて口パクで歌う。そういえば”If Everyone Cares”のビデオも、マイケル・ジャクソン”Man in the Mirror”から頂いているような気がしました。

2008年、今年はどんな曲にめぐり合えるのでしょうか。

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2007年12月26日 (水)

Same Old Lang Syne

クリスマス特番おつかれさまでした。

子供の相手もしなければならなかったし(選曲もNHK的に普通だと思ってしまったので)全ては聴けませんでした。すみません。

克也さんが番組内でおっしゃっていた、「世界が宗教だなんだで争っている現在、日本の、盆も正月もクリスマスもバレンタインも一緒に盛り上がる無宗教性、よく言えば縁起物ならなんでも受け入れる度量の大きさ、悪く言えばいい加減さは、今の世界に新しいモデルとしてもっと発信してもいいんじゃないか」という発言、あれは私の、911同時多発テロのあった2001年のクリスマスの時期の番組への投稿ネタですね。あの時のZIP HOT 100のオープニングトークでは、街のクリスマスの盛り上がりに、日本には元来関係ないお祭りのはず、騒ぎすぎ、みたいなことをおっしゃって(私も実はその部分には賛成なのですが)、それへの反論として書いた覚えがありますから、小生の考え方に同調してくださったのですね。光栄です。

前回、亡くなってしまったアイク・ターナーに関する徒然を綴り、そうしている瞬間にもまた惜しまれるアーティストの訃報が届いた、と書きましたが、やはりその人に関して一言申し上げて、本年最後のお勤めとさせていただきましょう。

ダン・フォーゲルバーグ。1216日逝去。享年51歳。若すぎる。

1956年イリノイ州ピオリア生まれ。

ちなみに話は全く外れますが、このピオリアという町だか村だか、何もないところなんですけど、なぜか最もアメリカらしい平均的な町の代表格として会話に用いられることがあります。

1973年、ウォーターゲート疑惑の真っ最中。ニクソン大統領は大統領執務室での会話を全て録音しており、それが大陪審の命令により、ニクソンが大統領特権で拒否した部分を除いて部分的に公開されました。その中でニクソンがこのピオリアという町の名前をやたら出していました。私がこういう発言をしたり、こういう政策を発表したらピオリアの人たちはどう思うだろうか、云々。

当時、A新聞ワシントン特派員だった筑紫哲也さん。いったいこの町に何があるんだろうと思って地図を広げて探してみたら、シカゴの近くにある何の変哲もなさそうな町。意外な感じもしたが、それでもニクソンがそれだけ言うのだからきっと何かあるに違いないと思い、ある日思い立って行ってみたら、やっぱり小麦畑しかないなんてことのないところだった。

結局のところ、大家族、農業、信仰心の深さなど古き良き時代の典型的なアメリカのライフスタイルを残していて、最も平均的でつまらない場所、しかし政治的には面積は広く人口も多く無視はできない中西部という地域を、何かのきっかけでこのピオリアという町がアメリカ英語で代表するようになったのではないか、ということでした。

筑紫さんも早くもっと元気になって完全復帰してくださいね。

閑話休題。

その最も平均的にアメリカ的な町で生まれたダンは、一言で言えば、男性版ジョニ・ミッチェル、とでも言ったらいいようなアーティストに成長しました。

彼は先ず画家を目指し、イリノイ大学に行っても絵画を専攻します。ミュージシャンになった後もアルバムの表ジャケ、裏ジャケ、中ジャケのどこかには彼自身が描いた絵を見ることができた。これもジョニそっくり。

しかし同時に、ギターを中心に、ピアノも、ヴォーカルも出来るマルチプレイヤーとしても才能を発揮し、大学時代から音楽活動を始めます。しかも叙情的で内政的な詩を多く書く。

ホーム・フリー(紙ジャケット仕様)

72年のデビューアルバム「ホームフリー」は、ローリングストーン誌のレビューで「まるで一人でクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング(CSN&Y)をやっているようだ」と絶賛されました。

それはまだ彼が10代の頃に書いた曲の数々だったはず、ところが、例えばそのデビューアルバムの最後の収録曲「リバー」など、「僕の人生は心の痛みで流れる涙の川」なんてリフレインが続く、まるでこれから死んでしまうような、既にベテランの域に達していたような音作りでした。

Souvenirs

74年の二枚目のアルバム「アメリカの思い出」はまだイーグルスに加わる前のジョー・ウォルシュがプロデュース、ドン・ヘンリーやグレン・フライ、アメリカのジェリー・べックリー、そしてそのCSN&Yのグラハム・ナッシュなど有名どころがゲスト参加するようになり、「パート・オヴ・ザ・プラン」という最初のヒットも出て、西海岸サウンドを担うシンガーソングライターの一人として認められました。

ツイン・サンズ・オブ・ディファレント・マザーズ

78年には、ジャズフルート奏者のティム・ワイズバーグとの競演で、収録曲がほとんどインストロメンタルで、ウエストコーストロックとジャズの融合を目指した斬新なアルバムを発表します。タイトルがTwin Sons of Different Mothers(異母双生児)だって。ちなみにこの二人はその20年後にその続編のアルバムを発表しますが、その時のタイトルはNo Resemblance Whatsoever(顔は全く似ていない)で、笑ってしまいました。結構、二人とも馬面で似ていたのですが。更にちなみにやっぱりこの二人、名前からしてユダヤ系つながりだったんでしょうね。

Phoenix

日本で何かのテレビCMに使われた「ロンガー」、79年の「フェニックス」というアルバムから、そして81年の二枚組「イノセント・エイジ」あたりから大ヒットを連発するようになり、地位を不動のものとします。

イノセント・エイジ

「一歩間違えればさだまさし」と言った人がいるとかいないとか。アコースティックギターを基調とする、フォークロックが中心、それでも美しさの中に時に力強さも感じさせる、最後までスタイルを買えずに貫いた人でした。ライフスタイルも都会を嫌い、普段はコロラドの田舎にずっと引っ込んでいた人でした。環境保全や、原住民(インディアンですね)の文化の保護に関しても活動していました。

それでも、84年、「ランゲージ・オヴ・ラヴ」という曲で初めてビデオクリップを作って、ベストヒットで流れたときにはびっくりしました。彼はそういうことはやらないと思ってた。時代には勝てなかったのでしょう。

Windows and Walls

15年前にライヴを記録したDVDの中のインタで、「20年後も僕は変わっていないと思う。音楽と自然を愛せたことに感謝したい」と言っていた彼、その20年後を見ずに逝ってしまいましたが、その言葉通りの人生でした。

Live - Greetings From the West

Same Old Lang Syne「懐かしき恋人の歌」。そのイノセント・エイジから、彼にとっては「ロンガー」に次ぐ大ヒットでした。クリスマスイブに偶然昔の恋人と再会した、今は成功したミュージシャンの歌。おそらく彼の実体験でしょう。曲の最後に、トム・スコットのサックスソロで「蛍の光」のメロディが流れます。年末に発売されましたが単なるクリスマスソングの枠を超えたヒットになりました。「蛍の光」は Auld Lang Syne, 今の英語に直すとold long agoということで、そして、いつもながらの、という same old…を引っ掛けたタイトルになっています。

また、「蛍の光」の時期です。

克也さんご自身と並んでこのコーナーの最古参、この場を借りてこの言葉を言えるのが三回目。奇跡的に思えます。今年は自分も体調を崩して(ネタにも困って)穴を開けることもありましたが、お許しのいただける限りがんばりたいと思います。

「皆様、よいお年を!」

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2007年9月21日 (金)

Going to a Go-Go

モバHO!を導入してから毎週日曜朝聴けるようになった「ポップ・ミュージック・マスター」。

 たった4曲だけど、いい曲がかかりますね。特に4曲目のリクエストは皆さん結構わがままに渋い曲を出していますね。

 916日にかかったJohnny Rivers “Swayin’ to the Music”

Johnny_rivers_slim_slo_slider  77年の今頃のヒットで、歌詞の一番のバックにコオロギか何か、虫が啼いている効果音が入っていて、季節的にもぴったり。虫の鳴き声に風流を感じるのは日本特有の文化で、世界の大多数の人はノイズとしか捉えない、なんて話もありますけど、必ずしもそうではないことが分かります。

 克也さんは彼の登場の頃の話、ウィスキー・ア・ゴー・ゴーの話をしていて、やっぱりジョニー・リヴァースといえばそのイメージが強いんですけれど、かかったこの曲は彼としては晩年期の、最後のヒット曲ともいえる時期のものですね。

 彼のキャリアは長い。

 彼は強運の持ち主なのか、節目節目に大物の助けを借りることが多い。

 1958年に、ディランと同じようにニュー・ヨークにわたって音楽活動を開始した彼。川が多いルイジアナ出身の彼に「リヴァース」という芸名を与えたのは、「ロックンロール」という言葉の発明者であるとされるアラン・フリードだという説もある。ジョニーとロック自体、義兄弟の関係?

 ニュー・ヨークで失敗してナッシュヴィルに渡って、そこでのデビューを支援したのはハンク・ウィリアムスの未亡人だった。

 そこでも泣かず飛ばず、ロサンゼルスに本拠地を移して、彼の曲が知人を通してリック・ネルソンに取り上げられ、まず作曲家として売れ始める(リック・ネルソンについては、ちょっとですけどこちらを)。でも彼はそれ以降、ほとんどカバー曲のヒットで有名になります。

 ロサンゼルスのイタリアンパーティで、出るはずだったバンドのヴォーカルが何かの理由で出演できなくなり、客席に偶々いたリヴァースが壇上に上がり、役を奪い取ってしまい、評判が広まります。

Johnny_rivers_at_the_whisky_a_go_go  そんな彼の演奏を、ジャン&ディーンのマネージャーだったルー・アドラーが観て感激し、オープンが予定されているライブハウス、ウィスキー・ア・ゴー・ゴーでライヴを録音してレコード化する案を提案します。

 64年、サンセット大通りにできたこのディスコ兼ライブハウスは、その後、南カリフォルニアから出てくる、バーズ、バッファロー・スプリングフィールド、ドアーズ、ヴァン・モリソンなんかを売り出す伝説の聖地になります。66年にスモーキー・ロビンソン&ミラクルズがヒットさせ、82年にローリング・ストーンズがライヴ盤からシングルカットした”Going to A-Go-Go”もここでうまれた「ゴーゴーダンス」のことを歌っているんですね。その伝説の場所を最初に有名にしたのがリヴァースということになります。Rolling_stones_still_life_2

Smokey_robinson_the_miracles_ultima

Johnny_rivers_a_touch_of_gold  彼の最初のシングルヒットは”Poor Side of Town”という綺麗な曲で、これはクレジットはリヴァースとアドラーの共作ということになっていますが、実は本当の作曲者は当時アドラーの下で見習いをしていたジミー・ウェッブだったというのが定説になっています。それ以降のリヴァースは、ちゃんとウェッブをクレジットした上で彼の曲を好んで多く取り上げ、グラミーの最優秀楽曲賞に輝いた「恋はフェニックス」は実はグレン・キャンベルの前にリヴァースがオリジナルでレコーディングしていて、ヒットしたグレンのものはそれにそっくりでした(ジミー・ウェッブについてはこちらを)。

 James_taylor_sweet_baby_james 他にも、ジェームス・テイラーの”Fire and Rain”を最初に気に入って録音したのもリヴァースだった。ということは、アメリカの70年代前半のシンガーソングライターブームの火付け役だったのも彼?

 リクエストでかかった”Swayin’ to the Music”の前に、75年にヒットしたのは” Help Me Rhonda”、いわずと知れたビーチ・ボーイズのカバー曲ですが、ここでは当時、廃人同様で隠遁生活を送っていて、本家ビーチ・ボーイズのレコーディングにすら参加しようとしなかったブライアン・ウィルソンがバックボーカルで参加していたことが話題になりました。

Funky_kings_funky_kingsGlenn_frey_the_best_of             

 “Swayin’ to the Music”も、70年代半ば、西海岸でジミに活躍していた多くのバンドの一つ、ファンキー・キングスの曲を彼風に取り上げたものでした。ちなみにそこには、イーグルスの”Peaceful Easy Feeling”その他、グレン・フライのソロの曲をほとんど共作しているジャック・テンプチンがいました。

 そんなジョニー・リヴァース、現在、髪の毛は真っ白になりましたが、いい感じで年齢を重ねていて、今でもライヴをこなしているようです。

 それにしても、「ポップ・ミュージック・マスター」のウェブサイトにリクエストメッセージが掲載されていますけど、リクエストした愛知県のプロフェッサー・ハリーさんって、やっぱり「あの人」なんでしょうねえ。名古屋の克也さん番組でのリクエスト採用数の記録を誇る彼も、克也さんが去ってしまったし、克也さんにリクエストが読まれたのはなんと5年ぶりみたいです。さぞ喜んでいることでしょう。うっしっし。

 (克也さん、ありがとうございます!!!)

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2007年3月22日 (木)

A Theme from Non-Existent TV Series 

克也さんの数あるラジオ番組が聴けない。

 でも、ナマではないいくつかの番組にはウェブサイトがあり、選曲が確認できるようになっています。

 「ビートルズから始まる」にはないからここでやってくれているのかな?

Joey_scarbury_americas_greatest_hero  克也さんが言う、ラジオを聴きながらの想像、以上の想像力が必要だけれど。まあいい時代になったものです。

 「お願いDJ」の選曲で、ジョーィ・スキャベリー「アメリカン・ヒーローのテーマ」がかかったようなので、その思い出。

 

原題は Greatest American Heroというテレビドラマシリーズ。

 平凡な高校教師が、宇宙人から超能力スーツを、正義をなすために使え、と貸与される。スーパーマンみたいなマントつきだけど、色は反対に真っ赤、胸には感じの「中」を思わせるマーク。

 しかし、取扱説明書をなくしてしまう。

 Greatest_american_hero_dvd これで大騒ぎ。空は飛べるんだけど平行が保てない、着地もうまくできない。怪力は出せるんだけど加減がわからず余計なものも壊してしまう。姿も消せるんだけど部分的に現れてしまったり。

 そんなドタバタで失敗を繰り返しながらもさまざまな事件を解決していく。秘密を共有しているFBI捜査官との世代対立、女性弁護士との恋、生徒とのふれあいもあり学園ドラマとしての要素もあった。

 主役のスーパー教師はウィリアム・カット演じるラルフ・ヒンクリーでした。声は富山敬さんでした。アメリカでシリーズの放送が始まる直前の813月、レーガン大統領の暗殺未遂事件が起きて、その犯人がジョン・ヒンクリーという青年でした。ファミリーネームの偶然の一致が問題となり、すでに取り終えて変更がきかない数話の後、急遽、ラルフ・ハンリーと名前を変えましたが、また十数話後にヒンクリーに戻した、なんて話もありました。学生役だったマイケル・パレがこれをきっかけにスターになりました。

 日本では今の汐留局系列ネットで、第一シーズンは日曜10時半から、第二シーズンは土曜の午後に放送されていました。

 毎週、すごく楽しみでした。

 アメリカに行ったとき、再放送をやっていて感激したのを憶えています。

 ところが今は、DVDは売ってるわ、CSでも放送されてるわ、簡単に見られる。

 いい時代になったものです。

Mike_post_inventions_from_the_blue_line  このころ、テレビドラマ音楽ならこの人、マイク・ポストという人がいました。

 75年ごろの、ジェームス・ガーナー主演、日本でもやっていて、声は名古屋章さんだった、「ロックフォードの事件メモ」のテーマに始まり、この81年ころは、「マグナムP.I.」

とか、「ヒル・ストリート・ブルース」「特攻野郎Aチーム」など、ブームだったの犯罪捜査ものの音楽を全部手がけていました。

 元々カントリーのプロデュースもやっていた人で、ケニー・ロジャースがいたファースト・エディションのプロデュースで出てきた人。ドリー・パートンの「9時から5時まで」も彼でした。

 ジョーィ・スキャベリーは、そんなマイク・ポストの、ヴォーカルが必要な場合に使うお抱えスタジオシンガーだったんですね。それがテレビそのものが大ヒットして、曲も大ヒットした。

Starsky_hutch_dvd

 他にも、テレビからはいっぱいヒットが生まれています。

 憶えている70年代からすると、緊急医療チーム「SWATのテーマ」。




David_soul_the_best_of  「刑事スタスキー&ハッチ」のハッチ刑事、ケン・ハッチンソン役のデヴィッド・ソウルが放ったナンバー1ヒット、”Don’t Give Up on Us”「安らぎの季節」




Glenn_frey_the_best_of  80年代に入ったら、最近映画でリメイクされた「マイアミ・ヴァイス」が大ブームになり、そこからヤン・ハマーのメインタイトルや、グレン・フライ”You Belong to the City”などの大ヒットが出ました。




Rick_springfield_the_best_of

Jack_wagner_all_i_need      ものすごいロングランだった General Hospitalからは、リック・スプリングフィールドやジャック・ワグナーなどのヒットメーカーが登場しました。

 マイケル・J・フォックスの「ファミリー・タイズ」からは、ビリー・ヴェラ&ビーターズ”At This Moment”86年にナンバー1になりました。これは 日本では81年の、赤坂局がやっていた東京音楽祭の受賞曲だったけれども世界的にはまったくヒットせず埋もれていたものが、ドラマによって発掘されたのでした。

 こういうのすべてが、最近のドラマブームにつながってきているのですね。

 「アリー・MY ・ラブ」「ビバリーヒルズ青春白書」あたりに始まり、「ER」「ホワイトハウス」「デスペレートな妻たち」。「24」あたりにはまっている方、私も含めて多いのでは。

 こういうの全て、CSではバンバン流れているし、DVDもすぐに借りられて、時間を選ばずに鑑賞できる。

 いい時代になったものです。

Elton_john_blue_moves  タイトル「架空のテレビ番組テーマ」は実はエルトン・ジョンの76年のアルバム「蒼い肖像」の中のインストの曲です。エルトンがマイク・ポストを意識してか、いかにも典型的なテレビ番組のテーマというのをパロディで作ったもの。笑えます。機会あれば御一聴あれ。

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2006年12月28日 (木)

Funky New Year

クリスマスがやっと終わりまして。

年々始まりが早くなっているような気がするのですが。これは日本だけの話ではなくて。

アメリカのアダルト・コンテンポラリー・フォーマットのラジオ局を聴いてますと、11月初頭からクリスマスソング一色になってしまいます。普段ならカウントダウンをやっているケーシー・ケーサムの番組もクリスマス一色になって、今週の第何位、のかわりに聖書のエピソードを読んだりする。

 そんな局も、それぞれの現地時間の1226日午前0時をもって24時間クリスマスソング垂れ流しをぴたっとやめ、元のフォーマットに戻ります(年内いっぱいまで一時間に23曲クリスマスソングを流し続ける局もあります。こういうところが日本と違っていいところで好きだ)。

James_brown_papas_got_a_brand_new_bag ところが、僕がたまたま聴いていた局は、その26日午前0時になった瞬間、JB”Papa’s Got a Brand-New Bag”をかけ始めました。ACフォーマットらしからぬ、おおよそかかりそうもない曲。

 それでもその局は、JB をかける瞬間を手薬煉引いて待っていたのでしょう。

 そう、JBがクリスマスに帰らぬ人になってしまった。

 記事にしたビリー・プレストンに、ジェラルド・ルバート、ポール・モーリア、今年もいろいろな方が鬼籍にお入りになりましたが、最後の最後に大物が来てしまいました。

 確かカーティス・メイフィールドが亡くなったのも1226日でした。年の暮れは何かあるのでしょうか。

 ファンクの王様としてヒット曲は多いし、バックバンドもJB’sとして独立してレコードを出して、ブーツィー・コリンズとか、PFunkにつながる人たちを育てたり、音楽での功績も大きな人だけど、人間的にはちょっとどうだったのかな、という人。

 暴力や麻薬で逮捕、服役歴少なからず。

 ベストヒットにゲスト出演したときも押しの強さに唖然としました。自らを、 Godfather of Soul, Soul Brother No.1とあだ名されたと言い切り、プレスリーはKing of Rock’n’Rollだったからちゃんと住み分けができていて重複がなかったんだ、とか。ちなみにこのときの模様、YouTubeに貼り付けられています。こちら

 僕もナマで見たことがあります。といっても金を払ってではなく無料イベントで。これも確か数年前のクリスマスの時期、新宿のタワーレコードのインストアライヴでした。狭い会場にギュウギュウに熱心なファンが集まりすごい密度の盛り上がりでした。

 そんな彼もミュージシャンになる前はマーティン・ルーサー・キング牧師の弟子で、非暴力の黒人権利回復運動を熱心にやっていたという。

Rocky_iv_soundtrack そして彼、ヒットチャートでもひとつの(珍?)記録を作ることになりました。それは、ナンバー1ヒットを持たずに史上最もレコードを売ったアーティスト、というものです。他にも、”I Feel Good” “Sex Machine”知られた曲はいっぱいあるのですが1位を取った曲はひとつもない。84年に「ロッキー4」のサントラに起用されて復活した”Living in America”がはじめていくかなあと思いましたが4位止まりでした。1位がないというのもそれはそれで、アウトローの彼らしくていいのかもしれない。

 年の瀬のさびしい時期、また巨星を失いました。合掌。

 あ、JBって、ジェームス・ブラウンですからね。念のため。

Eagles_very_best_of タイトルにしたFunky New Year, なんとJBもクリスマスアルバムを出しているんですけれど、これはそれとは関係なく、イーグルスの「二人だけのクリスマス」のB面だった曲です。 Have yourself a Funky New Year!!!

この場をお借りして二度目の年越しのご挨拶ができるのが奇跡的な感じがします。

 皆様、よいお年を!

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2006年12月22日 (金)

Disco Strangler

またベストヒットネタに戻って。

Kiss_dynasty17日のタイムマシーン。1980年にKISSのドラムス、ピーター・クリスがバンドを脱退した日ということで、79年のヒット “I Was Made for Loving You” 邦題「ラビン・ユー・ベイビー」がかかりました。

キッスがディスコに挑戦。それが彼らの代表曲になっちゃって、今、日本のコマーシャルで子供たちがあのメイクアップをして替え歌を歌ってる。

考えてみればキッスというバンド、その次にヒットしたのが76年の「ベス」という曲で、そのピーターがリードを取った、というか一人で歌った、バックはストリングスとピアノのバラード。

メンバーでピアノを弾けるのは一人もいなかった。この曲をライブでやるときは他の三人は引っ込んで、ピーターもドラムから離れて一人で歌う。

ハードロック、といっても結構、ポップ性、コード進行やハーモニーを重視していたようなところもあったし。

それでも広く知られた代表曲が本筋からはなれた曲ばかりで、やや損をしていたのかもしれません。

この70年代の後半、確かdisco bandwagonという言葉がありました。

ポール・マッカートニー&マイケル・ジャクソン「セイ・セイ・セイ」のビデオを覚えている方は思い出していただければいいんですけど。

昔、ドサ周りの興行一座はワゴン車で移動していて、それがある村に賑やかにやって来たら、子供がわっと寄ってってきて、その車が移動するところ、みんな付いていって、過ぎ去った後はもぬけの殻になる。

それで、bandwagonとは、勢いに乗る、悪く言えば、便乗、を意味するようになったのですが。

この70年代末、ディスコブームに便乗して、それとはかけ離れているはずのアーティストがディスコに手を出して、いろいろな記録を残しています。キッスのみにあらず。ちょっと思い出してみましょう。

Joe_tex_aint_gonna_bump_no_moreDiana_ross_diana_ross_1ダイアナ・ロス “Love Hangover”

Joe Tex "Ain't Gonna Bump No More (With No Big Fat Woman)"

確かディスコブームの最初の頃はファンクとの境があいまいで、黒人音楽の一部と考えられていた節があり、アフロヘアーにスタイルが代表されていたのがそれを物語っている。それでもこういうR&Bのベテランがディスコに手を染めたのは大きな話題となった。

Thelma_houston_the_best_ofHarold_melvin_the_bluenotes_the_best_ofともに76年のヒット曲。ダイアナ・ロスのは、「マホガニーのテーマ」に続いて全米ナンバー1になった。ドナ・サマーを意識したかのようなイロッポイ内容、バラードからディスコビートになっていく。ベースラインは、ハロルド・メルヴィン&ブルーノーツ、後にテルマ・ヒューストンがカバーして翌77年全米1位になる”Don’t Leave Me This Way”のパクリ。

ジョー・テックスは、ラップの元祖かもしれない。途中からイスラム教に改宗するが、元々ゴスペルの味のあるR&Bも歌っていた。それがディスコに行っちゃった。82年逝去。

ローリング・ストーンズ「ミス・ユー」

Rolling_stones_some_girlsサタデー・ナイト・フィーヴァーからの曲がラジオを席巻していた78年夏、ストーンズがニューアルバム「女たち」を発表したが、そこから鳴り物入りで出てきたシングルがこれだった。ストーンズもディスコか、と、キッス同様、古いファンを引かせてしまった。でも全米一位になった。ミックの妻ビアンカのことを歌っていた。

バリー・マニロウ「コパカバーナ」

バーブラ・ストライサンド「メイン・イベントのテーマ(ファイト)」

同じく78年夏。こういうエンターテイナー系もディスコに走っちゃった。

Barry_manilow_even_nowBarbra_streissand_essential_270年代後半だけに限ればソロアーティストとしては最もレコードを売ったバリー・マニロウ。甘ったるいバラードの大ヒットを連発していた。タモリが一時期さだまさしを嫌っていたように、そういうのがだめな人たちからは徹底的に嫌われてもいた。「マニロウがラジオでかかったらブレーキ踏んでやる」なんてバンパースティッカーも流行った。

「コパカバーナ」も現在、数年前プロ野球チームを買い取り、最近は携帯電話に参入していろいろ問題を起こしているあそこのCMに使われているのでお馴染みでしょう。

曲の内容はストーリーがあって、ハバナのクラブの踊り子とバーテンダーの悲恋物語になっているんですけど。これのダンスヴァージョンは完全な16ビートにアレンジされていた。これでグラミーの最優秀男性ヴォーカルを受賞した。

バーブラも、あの高い声でのスタンダードのようなバラードが有名で、映画がらみですがディスコに手を染めて、トップ10ヒットになった。この翌年にはドナ・サマーとので湯えっと、16ビートの “No More Tears” で一位にもなる。

ロッド・スチュアート「アイム・セクシー」

Rod_stewart_blondes_have_more_fun79年頭。ロッドも16ビートに行ってナンバー1になった。さびの部分は、ブラジルのタージマハールそっくりだというので盗作問題にもなった。

ロッドはストーンズフォロワーで、さっきの「ミス・ユー」を聴いて、自分もディスコをやりたいと考え、この曲を思いついたという。

元々彼は音楽のスタイルを柔軟に変える人なので、それほど不思議なことではないのかもしれないが。でも時期を考えると・・・商売商売。

ポール・マッカートニー&ウィングス “Goodnight Tonight”

Paul_mccartney_all_the_best79年夏、ポールまでやっちゃった。

一応、歌い方とか、ベースラインとか、ポール節になってたんだけど。彼までやる必要があったのかな。ディスコでかかったときは、踊る人の好き嫌いがはっきり分かれたという。トップ10ヒット、ミリオンセラーになったが、ウィングス名義としては最後のスタジオ録音になった。

エルトン・ジョン “Victim of Love”

Elton_john_victim_of_loveこれは知られていないかもしれない。なんとエルトンもディスコをやっていたのだ。

今まで挙げたものは、それぞれのアーティストのスタイルからかけ離れているという意味で、異色、汚点の曲ばかりだったかもしれないが、エルトンの場合は売り上げ的にも見事にコケた、正真正銘の「汚点」である。

80年中ごろのリリース。77年あたりからスランプといわれていた。作詞の相棒バーニー・トーピンと一時期はなれていたことも原因だが、70年代の全盛期をともにしたプロデューサーのガス・ダッジョンと分かれたのも大きかった。いろいろな試行錯誤が続き、ここではなんとドナ・サマーを手がけたピート・ベロッティを迎えて、レコードA,B面ノンストップのディスコアルバムを出してきた。

エルトンは後に、このときはやらなければならなかったことだ、と語っているが、ディスコブームが消えようとしている時、なぜやったのか理解に苦しむ。彼のキャリアの中で最も売れなかったアルバムになった。

シカゴ “Must Have Been Crazy”

Chicago_13_1同じ時期にシカゴもやっていた。シカゴも、オリジナルメンバーのギタリスト、テリー・キャスがピルトル暴発事故でなくなって以来スランプで、試行錯誤を繰り返していた時期だった。シカゴ13のアルバムより、ディスコが唯一音楽に貢献したことは録音技術を向上させたことだ、と言って、自分たちでも挑戦した。トップ40にも入らず最悪の結果になる。彼らの復活はビル・チャンプリンが加入しデヴィッド・フォスターをプロデューサーに迎える、シカゴ1681年まで待たされることになる。

Eagles_long_runタイトルのDisco Stranglerはイーグルスの最後のスタジオ録音アルバム「ロングラン」の中の曲。タイトルを見たときは、え!?イーグルスもディスコ?なんて思ったけれど、ビートはちょっと意識したところはありますが、ちょっとツェッペリン風の、ディスコの虚栄を歌った曲。

考えてみれば、ブームの中心にいたビージーズも、本当にディスコと呼べるものを作っていたのは彼らの長いキャリアの中ではほんの3,4年の間だった。他のアーティストとは違って一曲のみではなかったけれど、彼らにとっても、便乗だったのかもしれない。

ディスコブームそのものが虚栄でバブルだったのでしょう。

メリークリスマス!

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2006年8月31日 (木)

Bang Your Head!

また映画の話をします。

今回は今公開中の「メタル・ヘッドバンガーズ・ジャーニー」。

取材ドキュメンタリー映画です。

幼少の頃からメタル一筋、メタルの道を究めたかったけれど大学にはそんな研究科目はない、仕方がないから人類学を専攻して学者になった(なんか俺に似てるな)カナダ人のサム・ダン氏。自分はこんなにメタルにはまっていて、同じような若者もいっぱいいるのに、他方なぜメタルは多くの人々に嫌われ続けるのか、というテーマを探求するべく、世界中のメタル聖地に赴き、多くのアーティストにインタビュー取材を敢行する。

ダン氏のメタルへの造詣と思い入れの深さでできている映画ですが、人類学者としての分析、整理手法を生かした構成になっています。「起源」「ファンの主張」「宗教と悪魔崇拝」「暴力」「自殺」「性と性意識」などのサブタイトルを付された10以上の細かいチャプターに分けられており、論文を読んでいるみたいで、同業者としてニヤっとしました。

ある映画を観ながら他の映画を思い出して比較してしまうのは悪い癖で。メタルやロックにまつわるファンと旧世代の人たちの感覚の違いはよくテーマになり、最近では熱血先生の「スクール・オブ・ロック」とか、キッスがライヴにやってくる街の若者たちの青春の一夜を描いた「デトロイト・ロック・シティ」など。

でもこの「ヘッドバンガーズ」をみていて一番思い出していたのは、音楽映画ではない、マイケル・ムーアの一連の映画。特に「ボーリング・フォー・コロンバイン」。

発案者自らが取材、脚本、監督、ナレーションと、形態、手法が全く同じであることは言うまでもありません。ダン氏の取材はムーアと違って全てアポありだったみたいですが。

「コロンバイン」でも、高校での銃乱射事件を起こした生徒はマリリン・マンソンのファンで、音楽の内容の暴力性が若者を暴力に駆り立てるとの批判があり、リーバーマン上院議員ら政界からも攻撃の矢面に立たされ、ムーアもマリリン・マンソンにインタビューするシーンがありました。

Twisted_sister_big_hits_and_nasty_cuts_1メタルの歌詞の暴力性と実際の暴力との関係は「ヘッドバンガーズ」でもテーマになっていて、やはり同じように政治の世界で取り上げられるシーンが出てきます。80年代にできた「父兄音楽情報源センター(Parents Music Resource Center=PMRC)」という組織。後に副大統領夫人となるティッパー・ゴアが座長で、議会でも公聴会を開き、トゥイステッド・シスターのディー・スナイダーを証言者として召喚して糾弾した。ここでも、アーティストと批判者の議論は全く平行線を辿ってしまう。

それから、「ヘッドバンガーズ」でもダン氏は”polarized”「極化された、二分化された」という言葉をよく使っていましたが、ムーアが描き出したアメリカ社会も政治的、文化的な二分化、極化現象が特徴だったのであり、メタルの文化は極端に好き嫌いが分かれ、その傾向を最初から持っていた、ということで、共通性が見出せます。Iron_maidan_essential

そのように、メタル文化を「科学」した映画で、それは社会全体を映し出す鏡であるかもしれないと暗示しています。バックに流れる音楽も例によってギンギンで(でも想像したほどではなかった。音楽を聴かせることそのものが目的ではないから)、進行も手際よくあきさせません。眠っていられません。Black_sabbath_greatest_hits_

メタルの起源のアイアン・メイデンのブルース・ディキンソン、ブラック・サバスのトニ・アイオミ、アリス・クーパーに始まり、現在に至る代表的なアーティストを網羅したインタビューも売りでしょう。ロニー・ジェィムス・ディオが自宅でインタビューを受けていましたが、調度品で綺麗に飾られており、アウトローのイメージのあるメタルロッカーもこんないい生活をしているのか、と意外でした。Alice_cooper_the_best_of

取材が全世界に広がっており、特に僕みたいに一アメリカ、二イギリスで聴いている人間にとっては、ヨーロッパの事情が紹介されていたのは興味深かった。アメリカのメタルの主張やパフォーマンスは弱まる傾向にあるのに、ノルウェーのブラックメタルはますます反宗教色、暴力性を露にしており、連続教会焼き討ち事件や殺人事件を起こしており、良きにつけ悪しきにつけブラックメタルは国民が広く認知するにいたっている。

僕にも、どこかスポンサーがついてくれて、音楽取材をさせてくれないかなあ。Dio_the_very_beast_of

メタル文化は自己完結的であるからこそ、周囲からの強い嫌悪を受けても生き延びられるとの結論が見えたようですが、なぜ二分化、極化といわれるほど好き嫌いがはっきりしてしまうのかに関しては最終的な結論は見えていなかったような気がします。メタルヘッドバンガーの旅はまだ続く。Quiet_riot_greatest_hits

Bang Your Headは、映画には出てきませんでしたがクワイエット・ライオットのヒット曲。レッド・ツエッペリンの初期のライブで、ステージ近くにいたファンが頭を打ち付けるような動きでノッていたのが広まり、ヘッドバンガーズとはメタルファンを指すようになった、とのことです。

Eagles_hotel_californiaそれから関係ないネタを。827日のベストヒットUSAのリクエストコーナーで、イーグルス「ホテル・カリフォルニア」がかかりましたので。あの名曲の有名な12弦ギターのイントロ、コード進行は、BmF#7AEGDEm7F#7(第7フレットにカポタストでEmの形をキー)ですが、この進行の調を変えて、二拍ずつ縮めると、ピンクレディ「ウオンテッド~指名手配」の、「わたしの胸の鍵を~壊して逃げていった~あいつはどこにいるのか~盗んだ心返せ」のあの歌い出しの部分になります。ギターやる方はお試しあれ。

このことに果たしてどれくらいの人が気付いているんでしょう。イーグルスの録音は76年、ヒットは77年、ピンクレディは77年。

うまくやりましたね、都倉さん。

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